戒厳令の君(三)
翌日の放課後。騎道は、生徒会室に呼び出された。
転入してまだ二週間ちょっと。呼び出されるような事を何かしただろうかと、いぶかしみながら、教室を出てそれぞれの目的へ向かう人波を通り過ぎた。
にぎやかに足を運ぶのは、クラブ活動に向かう生徒たちだった。秋に行われる各種大会を前に、どのクラブも気合は十分らしかった。
辣腕と名の高い生徒会長、秋津静磨のひそかな狙いもそこにあった。歴代二位の得票数に応える為にも、この画策はできれば適えたいものだった。
「先週の金曜日だったね。残念なことだったと思うが、君はこうして無事だったのだから、不幸中に幸いだな」
「ええ。ご心配をおかけして。秋津会長にはわざわざ現場にまで来ていただけて、心強かったです」
騎道に椅子を勧めて、秋津自身もパイプ椅子を引き寄せて掛けた。
生徒会室といっても、小さな会議室といったスペースでしかない。この生徒会室や職員室、学園長室などのある棟は、旧校舎であるためモダンな造りのままだった。
大正時代の建築である。地元名士がこぞって子息を入学させたという歴史があるのだから、その当時としては一流の設計であったに違いない。現代でも、見劣りはない。
その一室に、大きな会議用のテーブルを据え、学生たちが額に汗をして激論を戦わせる図というものは、時代さえ超越した不変の姿と、見る者を感じ入らせるのではないか。
秋津静磨も、彼らの中に同じ肩を並べ、執務をこなし、誰彼と無く言葉を交わす。自然に、彼の発する言葉は、相手をゆったりとした雰囲気に引き込む力をもっていた。
「君の居た関山荘の部屋は、例の六月に起きた事件の被害者のものだったらしいね?」
まず秋津が切り出したのは、先週のアパートの火事のことだった。騎道もその家事で焼け出された者の一人だった。
「確か、久瀬光輝という青年で。知り合いなのかい?」
久瀬光輝の名に、騎道の胸は針を刺されたような痛みを感じる。
中堅都市にしては静かだったこの街で、凶悪な殺人事件が起された。四月と、六月の二度に渡る、無差別な殺人事件。被害者の一人が、久瀬光輝という23歳の青年だった。
「ええ。理由を話して大家さんから借りたんです。
あんな事件の後だから、借り手も付かなかったらしくて」
少し騎道は眉を寄せた。
「こんなことを聞かせたら光輝は怒るだろうけど、兄みたいな人でした。すごく、僕は嫌われていたけど」
騎道の沈んだ気持ちを察してか、秋津は視線を逸らした。
「あの辺りは物騒なことが起きるんだな……」
「そうですね。特に、あの部屋は……。
引っ越しの荷物がやっと全部届いたばかりなのに。きれいさっぱり、燃えちゃうんですからね」
「何か必要なものがあるなら、言って構わないよ。君は本学園の生徒なんだから、助力は惜しまないよ」
「すみません。でも、下宿先も決まりましたから」
なら良かったと、秋津は頷いた。
「火元は君の部屋の真下だったそうだね。火の回りも早くて、爆発も起きたんだろ? よく無事だったな」
「ええ。この通り、僕は体が軽いですからね。
空き部屋で、大家さんが物置にしていた部屋だったんです。しまわれていたガスボンベに引火したらしくて、ドーンと。僕の部屋なんかまともに吹き上げられて、さすがに手ひどく壁に叩きつけられましたけどね」
納得がいかないというように、秋津は、視線を落とした騎道を見つめた。
「それだけじゃないと、僕は聞いたよ?
床は吹き飛ぶ、炎は燃え盛る。そんな中から一度逃げ出したのに、君はまた炎の中に飛び込んでいった。
隣の部屋に住む、逃げ遅れた男の子を助けにね」
騎道は眩しそうに、窓を背に座る秋津に顔を向けた。
「すごい情報網なんですね」
「大スクープになる美談だな。一躍、君はヒーローになっただろうに。なぜ、隠すんだ?
危険から逃げ出す瞬発力と、顧みず人命を救おうとする勇気。昨日の天才技の特大ホームランと、駿足。
四つ並べたら君はスーパースターだよ。僕以上にね」
騎道の沈黙は、秋津には雄弁と取れた。本当に素直なんだなと、表情を変えずに口を閉じる騎道の変化を待った。
「困ります。……期待してもらっても。瞬間湯沸かし器なんですから」
「そこでだ」
秋津はさっと立ち上がって、入り口に向かった。生徒会の役員らしき三年生が、彼にアイスコーヒーの缶を手渡して出ていった。
冷たいコーヒーを机に二本並べた。
「稜明学園生徒会長として、この時期君を見過ごすわけにはいかないんだ。わかってくれるかな、騎道君」
世間話をする顔立ちから、企みを隠しきれない、秋津会長にしては少し悪乗りのし過ぎた表情に変わった。
手痛く突っ込まれた騎道としては、それに習って切り返したいところだった。
「こんなにたくさん、トロフィーや賞状、楯なんか、一体誰が取ってきたんですか? すごいんですね」
壁ぎわのスチール棚のことだった。
立ち上がり、騎道は、そのうちの一つを指した。一番上の、丁寧に楯とトロフィーが飾られた棚だった。その真ん中に誇らしく据えられている一枚のポートレート。
まだ汗の光る黒馬のたずなを押さえ、緋色の乗馬服に身を包み、片手を上げる秋津静磨。胸に輝くメダルよりも強く、彼の誇りに満ちた笑みは写真の中に焼きついていた。
「この棚のものは、秋津静磨としてか刻印されてない……」
漏らす言葉に、秋津は何の感動もなく、騎道の仕草を見つめていた。
「そこにあるのは去年の成果だよ。今までの分は、置ききれなくて別に移してある。見せられないのが残念だが」
「馬術部の部長も兼任なさっているとは聞いていましたが。どうして、クレー射撃であなたの優勝楯まであるんです?」
「正式なクラブは学園にはないよ。エア・ライフルは僕の趣味なんだ」
家柄だな、と騎道は首をすくめた。秋津の家も、藤井、三橋に並ぶ地元名士であった。特に秋津家と藤井家は、古くから折り合いが悪かった。学園にまでその小競り合いが持ち込まれた過去もあって、昼休みの会見は無為な争いを避けるためには効果的であった。秋津静磨が辣腕と呼ばれる所以である。
これだけの秋津のキャリアなら、国体に選抜されてもおかしくないだろう。そして、静かに貴族的な面持ちで、新しい楯に再び自分の名前を刻み兼ねない。
「どうかな? 君も、そこに自分の名前を並べる気になるだろう?」
もう一度、騎道は秋津をはぐらかした。
「随分、熱心なんですね。馬術部」
内心呆れかけ、秋津は首を振って話しを合わせてやることにした。
「それほどでもないよ。ただの趣味でしかないからね」
「でも、顔付き違ってますよ。普段のあなたと」
「それは、どんなふうに?」
騎道は振り返って、少し瞳を輝かせた。手を伸ばし、写真の中の秋津を指した。
「生き生きしています。こんな時間以外は、綺麗なポートレートのように不自然で堅苦しい。生気が無いですよ」
「君が初めてだな。そんなことを言ってくれたのは。
本当に切れ者なんだな」
「そこまで言ってくれるってことは、図星でした?」
調子に乗って、首を傾け秋津を伺う。対して敵は軽く片手を上げた。
「ああ。降参する。みんなには悪いが、僕にとっての学園生活は、ただの通過点でしかないから」
少しだけ退屈といった表情を、図らずも彼は見せていた。
「おとなしくそこそこやり過ごして、上にあがる、ですか?
うまくやってますね。最初にそれを秋津会長に伝授してもらってから、ここにくればよかった」
秋津は即座に頭を振った。えっ、と尋ねる表情の騎道に、諭すように続けた。
「君に隠し事は無理だよ。素直で真面目すぎるんだ。
君は、すぐに顔に出る。
もっとうまく生きたいのなら、もっと自分を捨てなきゃいけない。それができるかい?}
残酷なレクチャーに、騎道は声を落とした。
「頼まれても無理だと思います。自分で、何度もそれを実行したつもりでしたけど、全部うまくいかなかった。
全ての人に、嫌われて憎まれても、僕は無理かもしれない。自分以外の人間になるなんて」
秋津静磨は、大きく微笑んでみせた。
「もしも、たった一人になったと感じるような時がきたら、僕の所に来るといい。そんな君が、僕は好きだと思うからね」
机の缶コーヒーを取り上げ、騎道に放り投げた。
引き返しながら受け止め、ニコリと笑った。
「秋津会長、弟さんが一年生にいらっしゃるんですって?
だからかな、兄貴らしくて頼もしい人ですね」
「そのせいかもしれないが。面倒の見甲斐のある弟だよ」
秋津くらいのポーカーフェイスは何を言っても皮肉には聞こえないが、これはそう微かに響いた。
「僕、今まで同じ年代の友達って出来なくて。いつも年上とばかり居たから、正直なところ今は戸惑ってる状態なんですよ。秋津会長と居ると、気が楽だな。我がまま言って甘えられそうで」
どこまでが本心なのか疑いたくなるような台詞だが、秋津は純粋に本音だと読んだ。机に肘を付いて、深く掛けて足を組む騎道の姿は、のんびりとこの会見を楽しむ風であったのだ。
「君も、僕の弟だったら、もっと面白いだろうにな」
「嫌だな。ただの冗談ですよ。僕は願い下げですからね。
兄貴の頼みだなんてことを楯に、あちこちの大会に引っ張りまわされるのは」
「忘れずに考えていてくれたのか?
君の親友の三橋君も、強力な助っ人の一人なんだよ。飛鷹彩子君もね。
三橋君は、テニス部で県大会を突破してもらう。一体どうやって練習しているのかは教えてくれないが、彼の腕は一流なんだよ。
飛鷹君もスプリンターとしての期待は大きいし。
妙なことに、所属していない人間の方が能力が優れているというのが稜学の伝統らしくて」
と、秋津は視線を騎道に戻した。プルトップを開けて、口を付ける騎道。
「僕は、僕自身でいるために、お断りします。
このままで満足です。お力になれなくて残念ですが」
「わかった。だが、諦めたわけじゃない。考えておいてくれ、君の秘めた力の為にもね」
「……僕、ほんとに体弱いんですけど……?」
何も聞こえないと、秋津も喉を潤した。
やっぱり健康診断書という切り札がないとダメなのかな?
本気で心配になった騎道であった。
「とても不思議だったんだが。なぜ、申し入れを断ったんだい?」
「そんなことに、興味をお持ちになる方だとは思っていませんでしたけど」
あっさりと、騎道の指摘に答えた。
「僕だって男だよ。気を引かれるさ。あれだけ美しい人に想われて、悲しませる理由が何であるかね」
騎道も、気安さからか腹を割った。
「僕は、誰かの身代わりです」
「不思議なことを言い出すな」
「本当です。イエスと言わなくてよかったと思ってます」
「わからないな、どういう事なんだ?」
「わからなくたって、かまわないでしょう? 秋津会長に降りかかる問題ではありませんし。第一、家同士がロミオとジュリエットなんですから」
おとぼけナイトの本性だった。
「女性を侮辱するようなことは、たとえ仇敵に対してであっても許せないな」
「フェミニストなんですね」
「君だってそうなんだろう?」
畳み込まれて、再び言葉を失いかけた。
「誤解されないように言い直します。
一つは、僕にはどんなに美しい人でも断らなければならない理由があって、二つ目には、最近知ったことですが、あの方にも僕である必然はなかった。という所です」
開け放した窓から風がそよいでくる。風に開いてしまった白いカーテンを、秋津は手を伸ばして引き閉じた。
「……たぶん、本当の想い人への当て付けです。可哀相な人だと思います。正直すぎる僕よりも、その相手の男の方が、ひどい人間だとは思いませんか?」
気の無い風に、頷いた。
「そうだな……」
逆に、騎道の言葉は熱を帯びる。
「察するところ、藤井さんの想いに応えてあげてもいないんだ。気付こうともしていないはずで。僕に、深い憂いを隠した優しい眼で告げてくれたから。
あれは僕に、その人を思い浮かべていたんだと思います」
「そんなに情熱的な人だとは思わなかったよ……。
いつも涼しげな顔立ちで、背筋を伸ばしているから」
停まってしまった風の行方を探すように、秋津は視線を窓に遊ばせた。
「女性はみんなそうですよ。若くても年を取っていても。
誰も、沢山の顔を隠してる。時々それを見せて、僕らを驚かすんです」
「……経験のある口振りだな。恐れ入るよ」
くすりと笑い顔。騎道も、唇を引いて肩を寄せた。
「一人だけ、どうしても勝てない人がそうだから……。悟っちゃうんです」
「それが、君の積年の想い人かい?」
「知っていたんですか? 意地が悪いな。それなのに、理由はなんだって聞くんだから」
慌てて憤慨した騎道に、秋津はおもしろそうに笑った。初めて真剣に頬を赤くしているのだから、無理はない。
「姫君が教えてくれたよ。潔い、自分に誠実な人だとね。
その読みが本当か、確かめてみただけだよ。彼女が読んだ通り、君は誠実な堅物だな。たった一人、遠くに居る女性の為に、すべての可能性を捨てられるというんだから」
「あなたにはもう何も答えたくありません。策士なんだから」
秋津は、トンと空の缶を机に乗せた。まるで裁判の評決のような仕草だった。
「ならば、黙って聞き給え。君は、別に想う人がいると決め付けているが、少し雲行きが違うようだよ」
「何を言い出すのかと思ったら」
呆れて、騎道も音を立てて、子供みたいな御返しをした。
「百歩譲ってそうとしても、彼女の心はかなり君に傾いているよ」
「どうしてそんな無責任なことを!」
騎道がどう声を荒くしようが、兄貴は悠然と構えていた。
「あざみ姫に頼まれたからさ。口説いてほしいとね」
「! ……。敵同士だったんじゃないんですか?」
「家同士はそうでも、この点は家名に関係はないからね。
逆に、君にでも熱中して、つまらない小競り合いが回避されるなら、願ったりだし」
「……見損ないました。悪徳策士っ」
意地になって睨みつける、黒縁眼鏡の向こうの瞳。とうとう腹を押さえて秋津は笑い出していた。
「冗談だよ、素直だね。
別に頼まれたわけじゃないが、彼女にも幸せになる権利がある。悪くはないと思うよ」
「…………。本気で嫌いになりましたっ。
あなただって、あの事、ご存知なのでしょう?}
騎道はなお憤慨した。『あの事』を知る、数少ないうちの一人は、それでも語った。
「人対人の問題だよ。形なんて、心の二の次以下だよ」
「そんなにお心が広いんでしたら、秋津会長にお譲りします。お二人が並ぶと、まるで季節外れの雛飾りのようですから」
熾烈な応酬に陥ってきたな、とひどく感じるが、騎道にもこの嫌味のキャッチボールは止められない。
そこに救いが、戸口に姿を見せた。
「学園長代行。何か御用ですか?」
すばやく姿勢を正して秋津は立ち上がった。
「長居をしました。僕はこれで」
騎道も弾かれたように、席を立った。
「さほど急ぐ用件ではないよ」
失笑気味に、低い声の主は続ける。
「退屈過ぎて」
その意味は、秋津にはよくわかる。この二学期から、病気入院中の学園長に代わって、学園長兼理事長代行に就任したばかりだった。父親である凄雀氏が不在の間は、学園長の右腕であった教頭が、全て業務を取り仕切っていたのだ。
今さら息子であるとはいえ、実務の経験もない、この街には暫く不在というブランクのある名前だけの代行では、任される執務は決まりきったものでしかない。
長身で美丈夫、32歳という年齢では、追いやられたような学園長室の椅子は居心地がいいはずがなかった。
失礼します、とだけ告げ、騎道は姿を消した。
「学園祭のことだが。せっかく腕利きの君と、暇を持て余して何か起したいと願っている私が顔を揃えたんだ。
例年通りにする気はないだろうね?」
「一体、どういうことなんでしょうか?」
そら来た。内心、秋津は予感していた。冷淡な顔立ちを崩さない青年が、落とし込まれた境遇をただぼんやりと過ごせるわけがないと。実際、すでに気に入りの絵を、学園長室に取り付けさせるという行動も起していたくらいだ。
「予算も規模も拡大させて、例年にないものを。
今から計画修正するには、十月末の日程には間に合わない。日程の変更も必要だな」
「そんなことの為にわざわざお出でに? 呼んで頂ければ良かったのに」
凄雀は眉尻を微かに上げて、秋津を見下ろした。
「あの騎道とどんな話しをするのかと、気が向いたんだ。派手な取り合わせだからな」
秋津は心外とばかりに首を振った。
「クラブの助っ人や集団行動に駆りだすつもりなら、あまり期待しない方がいい。あいつは普通じゃないからな」
その言葉の意味を、凄雀は冷ややかな表情で覆い隠した。
「そういえば、学園長代行は騎道の後見人でしたね……」
そう水を向けても、答えは返らないだろうことは、秋津も悟っていた。
「当たり前じゃない!
あんな、あざみ姫の目の前で宣言されたら、ご本人は鷹揚な方だからともかく、周りの側近が黙っちゃいないの!
騎道君に、三橋君、彩子。あなたたち普通じゃない生徒は、何も考えていないのねっ!」
耳が痛い。園子にガンガンまくし立てられても、彩子には反論する言葉もなかった。
迂闊だった。こんな形で一番弱い人間を突いてくるとは思わなかった。
「……ごめん。でも、どうしよう……」
「あたしに謝っても仕方ないわね。とにかく、彩子は知らぬ存ぜぬを通すことね」
「そんなこと出来ない。……私も、悪かった、から……」
佐倉千秋の気持ちを思うと、動揺せずにはいられない。騎道若伴が現状を一部打開した特大ホームランの二日後、そのツケが佐倉千秋に回された。
白楼会からの退会令状。一方的な、理由も告げられないまま。食堂での、騎道の『佐倉さんの為に』という言葉が、あざみ姫の信奉者たちに波紋を投げていたのだ。
「だったら、また椎野と大喧嘩するの? 悪いけど、あたしは関わらないわよ」
彩子は頷くしかなかった。
「いやな感じね……。礼状を出したのは、あざみ様じゃなく幹部でしょうけど。
騎道君絡みでっていう真相を知っているのは、今のところそんなに多くはないのよ。うちも記事にする気はないわ。
でも噂は広まるわよ。早いうちになんとかしてあげないと、佐倉千秋。あの子、気が弱そうだから、学園には居られなくなるかもね……」
さすがの彩子も頭を抱えたくなった。あの、廊下で佐倉が逃げ出した時。彩子が引き止めなかったなら。
「おせっかいはやめた方がいいって言っておいたのに、どうしてなの? 彩子らしくないよ」
ガンガンと、自分の頭を叩く。
「よしなさいって、彩子っ」
「ちょっと、ほっとけなかったのよっ」
彩子自身に苛立っていた。
「……あの子、一途なの。あたしの一人おいて左の席なのね。
騎道の背中を眺めてる、時々ね。切ないような、嬉しいような、凍りついた目で。
大ボケ騎道のどこがいいのかなんて、あたしにはわかんないけど。あの子の気持ちは良くわかったの」
「切ないような凍りついた目っていうのは、彩子と同じね」
園子は全てを飲み込んで溜め息をついた。
「そりゃ、ほっとけないわ。彩子と似てるんだもの」
誰かに、想いを募らせるのは、誰だって同じ。手を貸せるなら、手助けしたくなるのも、そんな感情をもったことのある人間なら当然のことだった。
「彩子って、大ボケ。騎道君のことなんて言えないわね」
まだ夏そのままの陽射しが照りつける。稜明学園の昼休み。名残りの雲の切れ端を眺めながら、木陰の芝で昼寝と洒落るのも悪くはない日々が、ここ数日続いていた。
田崎が向かう柊の下には、他称『眠りの芝の美少年』、または『戒厳令の君』が安眠を貪る刻限だった。
「おや田崎君、趣旨変え? 今度は何、へー、九星気学?
さすがだな。オカルト研究同好会、次期部長候補。
やっと乗り換える気になったのは褒めてやりたいが、あざみ姫とは大きく出たな。ま、ヤケだけは起すなよ」
「うるさいぞっ。誰が乗り換えるか。俺は千秋さん一筋だっ」
神経質になっている田崎には、口数の多い悪友はこの場合、余計者。すでにヤケを起しているので、今の会話が『戒厳令の君』に届こうが知ったことではない。
「あれ、知らないの? あざみ姫は、五行思想の使い手ならお側に置いてもOKよっ、て話し。だからこの本で勉強するつもりになったんじゃないの?」
手にした分厚い本を指した。『新説九星気学 白楼講』という背文字の部分は、幅五センチはゆうにある。
「聞いた覚えはあるような……」
「お前の所の元同好会長、それで必死になったけど、玉砕したんじゃなかった? しつこいから嫌われてさ」
悪友のおしゃべりは耳を素通りする。一年生にしてはやたら身長の高い田崎は、見た目は大人気に取られるが、まだまだ心は中学生の延長だった。
目的の位置まできて立ち止まった。むっと、片手で本を持ち上げる。
「教えてやろうか? この本を選んだのは、厚くて角が尖ってて、重たいからなだけ、なんだよ」
田崎にしては、陰険な光をもつ目を細くした。ニッと笑って、相手の背筋を寒くさせるが早いか、本を投げた。
朱色の装丁の一冊は、弧を描いて低い植え込みの中に消えた。田崎の狙い通り、『戒厳令の君』こと騎道若伴が眠りこけている指定席に。




