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戒厳令の君(二)


「……帰りました?」

「帰ってもらったわよ。教師が生徒に嘘をつくなんて、サイテーなことさせてくれる患者ね、君は」

 本心申し訳なく、騎道若伴はすみませんと小声で答えた。

「……あざみ姫も、本気みたいだな……」

 ベッド脇に椅子を引き寄せて、成り行きを見守っていた三橋は、ぽつりと漏らした。

「マジな顔で、おちょくりを掛けないでくれ。三橋。

 ……わかってるくせに」

 騎道はベッドから再び体を起した。最悪、あざみ姫が乗り込んできた場合に備えて、狸寝入りの形だけは整えておいたのだ。

「気持ちは嬉しいけど、僕にはその気は全くないよ。考えただけでも…つ……」

 とっさに、三橋は腰を浮かした。

「……悪い。大丈夫……。少しくらんだだけ……」

「寝てろ、寝てろ。無理すんな」

 顔をしかめ眉間を押さえた騎道を、三橋は保健医である水野の顔色を伺いながら見守った。

 水野は騎道の手を避けさせ、顔色を確かめた。

「ん、本当にくらんだだけね。

 騎道君。あなた、前校の健康診断書まだ届いてないんだから、そうそう倒れてほしくないわね。保健医としては」

 はい、と騎道は、殊勝に叱責を受け止めた。

「さっき診せてもらったけど、脈拍、心拍数、共にそう悪くはないし、身体だって無駄なお肉が無さ過ぎるくらいしっかりしてるじゃない?」

「ヤラシー、センセって! 脱がしたの? ヤダァ、脱がしちゃったんだー」

 裏声を発し、口元を握り拳で覆ってのポーズを付けた、三橋。

「…………。

 それが私のお仕事なの。お・仕・事。

 ガキの裸ひとつで理性なくすほど、飢えていないわよ」

 平然と答える女教師と、言葉の綾に責任しているベッドの一生徒は、ひどく対照的な図となった。

「結婚しても辞めたくなくなるわけですね、センセ」

「フン。労働者の苦労は、大人になればわかるわよ」

 さすがの水野女史も、三橋のよく回る口は持て余し気味だった。

「大人になればって、先生。その発言、健全極まりない青少年向きじゃありませんてば。照れるなぁ」

 騎道は一人、呆然と見守るしかなかった。

「とにかく。何かあるといけないから暫くここで休んでいなさい。三橋くん、付き添っててくれるんでしょ?

 私、食事してくるから」

 平然と、騎道の額の熱をみて白衣の裾を翻して水野教師は出ていった。容姿に似合わない豪快な人だった。

 三橋は立ち上がって、窓の白いカーテンを開けた。賑やかな校庭のざわめきが、微かに届く。

「また、号外打たれるかな?」

「だろうな。青木はお前に入れ込んでるから」

 騎道は首を振って、少し長めの前髪をかきあげた。ちょっと疲れたといった表情を、三橋は横目で眺めた。

「騒がれるのって、苦手で……」

 それだけ、騎道は言い訳して笑った。

 表情を変えずに、三橋はうなずいた。気持ちもわかるようで、わからないようで。三橋自身、騎道には認めたくない部分があるので、態度が中途半端になってしまう。

 大袈裟に騒がれるのは、そいつ自身にも責任がある。騎道の場合は……。三橋はそこで別の考えも引き出す。

 仮面を被っていたいのなら、それも各人の自由だ、と。

 変な所で鈍感な奴。と、溜め息をつきたくなるのだ。付き合ってみてわかったが、ぼーっととぼけているのがほとんどだが、誰にでもすぐ気を遣っている。あまりに自然で気付きにくいが、敏感な人間だと三橋は感じた。

 その上で、騎道なりに現状に悩みを抱いている。それを打破するのは誰でもなく、自分だということに、騎道自身気付いていないことが、三橋には歯がゆい。しかし、そう言い切って、踏み込めない。二週間の友情は、そこまでしていいものか。じりじりと焼ける真夏の感情の中、お互いを探っていた。不安定。少し、苛つく。

「リレー、どうだった?」

「勿論、トップだぜ。おまえ、見てなかった?」

「アンカーの岡寺のゴール寸前で、目の前白くなったから」

「岡寺がいい泳ぎしてさ。やれば出来るんだよな、あいつ」

 水泳の授業は最後に、毎回メンバーを変えてリレーを行う。三橋の名のあるチームは常にトップタイムと、見学中にのぞいた記録にあった。

 今日ばかりは、それを諦めてもいい顔ぶれだった。だが、水泳の苦手な岡寺を、言葉で三橋は駆り立ててしまったのだ。引きこまれるように、メンバーの誰もが本気になった。

 天性の将軍。三橋は、人の闘争心に火を付けて、当然のように希望を成し遂げる存在だった。

 周辺では、泣く子も黙るという財閥、三橋一門期待の御曹司だった。期待そのままに知力体力万能。どれも天性のもので、汗の一つも見せない。

 旧貴族であった祖父が決めた、翔之信という名前が本人は気に入らず。古臭い名前、という理由で翔としか名乗らなくなっていた。それが、彼の人好きする、曇りの無い性格の中で一点だけコンプレックスを与えていた。

 転入そうそう、三橋は名前の件に関して騎道に同意を求めた。三橋は、若伴という名前も相当古臭いと決め付けて、同情しあった。

 そんな、同類相憐れむの一方的な好意で、何も知らない転入生の面倒を見てもらう間柄になっていた。

 昼休みの草野球を、いつの間にかクラス対抗昼のイベントに仕立て上げたのも三橋だった。放送部に裏工作をして校内実況を流ざせ、興味をあおったり。自身もチームキャプテンとして首位攻防に凌ぎを削り、将士としての手腕を発揮。そのくせ試合以外となると人間関係は割りと冷めて、メンバーを縛るような素振りはまったくなかった。

 人気はあった、人望もある。だが、騎道は知らない。騎道が来るまでは、特別に親しい友達は、三橋の周りに表れなかった。三橋本人が、求めようとしなかった。

 彼は、騎道に引き込まれた最初の人間と言えた。

 三橋は、騎道の膝に重みのあるチェックの包みを乗せた。

「食えば?

 お前は腹が減っていたわけ。わかるぜ。まともな人間なら、四時限目の終わり頃には倒れたくもなるよな」

 騎道に言葉はない。上げた目は、困惑の色を映していた。

「今日は、特別なんだぜっ」

 にっこにこと、鼻歌まじりで包みを解いてゆく。

 お弁当箱と揃いの塗り風の箸を、騎道は握らされた。

「おっ。うまそう。卵焼き頂戴?」

 返事をする間もなく、非のうちどころのない弁当の一角が消えた。大体、おかしい。騎道は首を傾げた。

 三橋が弁当をもってきたのを、騎道は初めて見る。この主食の量の少なさは、育ち盛り向きではない。第一、三橋財閥の御曹司の弁当にしてはファミリーな内容すぎる。

 ということを連想しているうちに、箸を取り上げられ、グッサリと卵焼きを突き刺してくれて、また握らされた。

 昼時の食べ物の引力は、思考を破綻させる。

「いただきます」

 感謝して、一口戴く。

「うまいなー。なっ? たまには手料理も悪くないだろ?」

 感動で、騎道は声が出ない。

「お前さ、こんなに痩せてて。アパートに一人暮らしなんだろ? まともなもん食ってんの?」

「これは、体質なの」

「すぐブッ倒れるのも?」

 ずけずけと物を言う。騎道には、おちょくりなのかマジなのか読み切れず、答えられない。

「別に、意味はないけど。こうしょっちゅうじゃ、お前の親友に同情するな、と思って」

「悪かった。心配かけて」

 遠まわしな友情だ。三橋は胸を張って、にかかっ、と高笑った。

「いーえ、どういたしましてっ。

 ほらほら、同級生。どんどん食べたまえっ。

 これが男の友情の味だぞ」

 決め付ける。三橋の態度はどうみても、友情のバーゲンセールだ。

「これ、お前ん家の弁当じゃないだろ?」

 無闇と三橋はハイだ。こんなに軽くなるのは飛鷹彩子を目の前にした時くらいだと、騎道は経験で知っている。

「彩子さんの?」

「騎道君って、勘が鋭すぎるわっ!」

 わからずにいられるかっ。が、騎道の疲労感を覚えた本音。男三橋、飛鷹彩子には特別の感情をもっていた。

 それも、日々、お茶らけに託したオープンな告白行為を繰り返すという大胆さ。確実に玉砕している姿を、親友騎道も目の当たりに付き合わされているのだから。

「三橋の目の高いのは認めるよ。彩子さん、素っ気無い振りしてるけど、本当は優しさの裏返しみたいだから。

 でも、本気で女の子、振り向かせたいんなら、もっと真面目なやり方に変えた方がいいと思うな」

 ふられてもふられても、諦めない根性は認めるけど、通じない相手というのも見極めないとさ。今のままじゃ、三橋に分はないぜ、とまでは、騎道は言い出せなかった。

 そこまで言っては、三橋にとっては身も蓋もないのだ。

 明るくて理知的でさっぱりとして性格の彩子が、一面、一筋縄ではいかないことも、騎道は知っていた。

 先週、学園祭委員を投票で決めた。飛鷹彩子が大差で当選。二位が、一年からの犬猿の仲だという椎野という女生徒だったから凄かった。

 椎野のインボーだの、方や自分の行状を振り返ってから言いなさいと、自業自得と跳ね返すし。熾烈な舌戦に、騎道は三橋の苦難を悟らずにはいられなかった。

「バラすよ。あの投票結果、扇動したの三橋だって」

 ゲッと、三橋の顔色を変えた。

 三橋の動揺をよそに、ドアが丁寧にノックされた。

「はい。どうぞ?」

 ドアが開くと、そこには三橋お待ち兼ねの飛鷹彩子。その背後に、もう一人女生徒が立っていた。

「三橋翔之信! やぁっぱりっ」

「彩子ちゃん。フルネーム呼ばれるのはすごくうれしい。

 でも、この次は翔までで止めてくんない?」

 きりっと、女の子にしては太い眉を吊り上げて、目をきつく絞っている。印象的な鋭さのある視線と、天然のウェーブをもった髪の、ふとした拍子にかわいくもなる行動派美人タイプの女生徒だ。

「いったいどーゆーつもりよっ。これは」

 指は騎道の方を指していた。

「埋め合わせは、十分にさせてもらいますよ」

 ドラマの敏腕青年実業家よろしく、澄ましてポーズを付けた。クサイのが似合う奴なのだ、三橋という男は。

「彩子ちゃんの僕への愛のお陰で、こいつとの腐れ縁が保てたんだ。あいがとよー、彩子」

 いつもの調子にへらへらと翻る。

「へーえ。愛があると、目もくらんだりもするの。ほーお」

「わかってくれよ彩子ちゃん。こいつ孤児じゃん、家族の愛とか家庭ってものに、すっごく飢えているの。

 今だって卵焼き一口に、口きけなくなるくらい純情でさっ。あんまり哀れで笑えちゃうよっ、ハハハっ」

 ダシにされているというのは騎道も覚悟の上だったが、ここまで豪快に笑い飛ばされては友情も疑いたくなる。

「よし、今日は俺が奢るぜ。だから一緒に御飯食べよっ?」

「そういうことだったの」

「そっ」

 無邪気に一人だけ浮き上がって、三橋は大きく頷いた。

「だったら、後ろの子と食べなさいな。

 あんたが自分で席間違えてくれて、助かったわ。誰が三橋なんかと御飯できるか」

 断言されて、恋心にボケた頭を三橋は立て直そうとした。

 彩子の背後で、入り口に身体半分隠してこちらを伺っている女生徒。ようやく騎道は、彼女が同じクラスの佐倉という生徒であることに思い当たった。

 真っ赤な顔をした佐倉は、二人漫才の方でなく、騎道だけに視線を寄せていた。

 騎道が、怯えたような潤んだ目と出会った瞬間、佐倉は、

「私……、あの、もういいんです!」

「あ! 千秋っ!

 ぼけっとしてないで、早く連れ戻しなさいっ」

 凄味満点の叱責は、恋に弱りきってる三橋には千の刃に等しいと見た。

「彩子ちゃん? 何?」

 うるうるっ。これが体育系の将士としては泣く子も黙りそうな強面、三橋翔とは思えない。

「まだわかんないの! 責任取んなさいよっ、騎道君!

 そのお弁当は、佐倉千秋。あの子の物なの」

「いーっ?」

 ほとほと、三橋のボケには呆れたという体で息をついたが、すぐにジリと詰め寄ると、

「椎野に吊るし上げられたくなかったら、はやく連れ戻しなさい」

「はいはいはーいっ!」

 最速の駆け足で追い、ようやく三橋は引き止めた。生徒たちの姿もまばらな食堂に、四人は場所を変えた。

 三橋冷や汗を浮かべていて、本心自分の大きすぎる過ちを後悔していた。騎道も同罪で、気が重い。

 本当に彼女、佐倉千秋を悲しませる気はなかったのだ。

「なあ、彩子。なんで、あの二人いっしょに食べているんだ?」

 迷惑そうに、三橋は低い声で尋ねた。

 昼休みも遅い時間に入っていた。優雅に向かい合って食後のお茶を取っている二人組が気になるのだ。

 騎道は完全にそちらを無視していた。三橋翔は、もともと気にするような男でもない。飛鷹彩子にしてもしかり。

 それには内心、騎道は胸を撫で下ろしていた。騎道が心穏やかでないのは、佐倉千秋のことだった。

『戒厳令の君』と行動を共にしている。それだけでよけいな憶測を招きかねない。食堂に残る生徒のほとんどから、好奇の視線を佐倉は集めてしまった。

 鋭利な棘に、騎道の視界の隅で彼女は肩を強張らせた。

 食堂の奥に席を取る二人。貴公子然とした、周辺校でも辣腕で響く当学園の秋津静磨生徒会長と、学園随一の名華あざみ姫の、超然とした美の一対であった。

「ご会食の儀よ。二週間に一度、非公式な会談が行われるの。共に学園のトップだから、意見の相違があってはまずいとの、会長のご提案ですって」

 三橋は家柄的に支配者層の人間だが、権威には敏感だ。毛嫌いしているとも言う。

「気にしないことね」

「気にするほど大層な相手じゃないがな」

 さりげない言葉は、彩子の心配りだった。それに気付いたのか佐倉は顔を上げて、彩子を少しだけ見た。

「で、どうなの? さっきから黙々と箸を動かしているだけみたいだけど」

 真正面から彩子の大きな瞳に、騎道は覗き込まれた。

 わざと三橋と向かい合うのを避けて、彩子は騎道の前に、佐倉は三橋の前に席を取っていた。

「最高。言葉も出ない。佐倉さんの家の家庭的な暖かさが伝わるよ。暖かくって、明るいご家族だね」

 佐倉は、またうつむいた。自分が視線を投げると必ずそうすることに、騎道は気がついていた。

「毎日だったら、幸せ?」

「うん」

 彩子は拍子抜けして頭を押さえる。さすがに迂闊だったと、騎道は顔を赤くした。

「ですってよ、千秋」

「あの……、よければ、私、持ってきますけど……」

 精一杯の勇気、決意、といったものが閃いた。

「やっさしぃ、佐倉」

 すかさず、お茶らけの声が飛ぶ。

「三橋っ。掻き回さないでっ」

「ほんとっ?」

 真剣に乗り出した騎道。初めて、佐倉は目を見開いて、笑って受け止めた。

「やっぱり。僕って家庭に飢えていたんだ。はははっ」

 照れ笑いもフォローにはならない。後ろから三橋に、グリグリされる。

「うちは大所帯だからお弁当の数も多いんです。大したものもできないんですけど」

「へえ。佐倉ってさ、末っ子?」

 尋ねる三橋に、向き直って佐倉は答えた。

「いつもそう聞かれます。これでも長女なんですよ」

「私、一人っ子か、末っ子だと思ってた」 

 彩子の言葉に、フフッと佐倉は笑った。

「一人っ子は、鈴ちゃんの方です」

「スズチャン?」

 三橋と飛鷹は同時に聞き返した。

「椎野鈴子です。お父様が外交官で、お母様が弁護士だから、お夕飯はほとんど家で一緒に食べるんです。小さい頃から、そう。本当は寂しがりやなんですよ」

 イメージが逆転しそうな発言だった。誰もいない家、夕闇の迫る部屋で、一人寂しさをもてあましている姿なんて。

「だから、仲がいいんだ」

「はい」

 しんみり彩子が漏らした言葉に、噛み締めるように微笑んで佐倉は答えた。

 食堂には、静かに軽めのクラッシックが流れていた。遠くから、興奮状態のアナウンスが続いているのが聞こえた。三橋の仕掛けた草野球の中継だ。

 この時間の騎道は、木陰で昼寝をしている。進呈された渾名が『眠りの芝の美少年』。騎道には心外な話だが。

 一度、三橋からの草野球への誘いを断っていた。無理強いはしない男だったから、話しはそれで終わっていた。

「明日っから楽しみだな。騎道」

 三橋の手が、ポンと肩を叩く。

「うん。生きる力が湧いてくるって感じだな」

 プッと、吹き出された後は、騎道だけを取り残し、笑いの渦が辺りに巻き起こった。

「お前ってやっぱり、おとぼけナイトっ、くくくっ」

「言うな、それ以上。絶交するぞっ」

 佐倉が笑った。それだけで、騎道は嬉しいのだが。

「何も返せるものがないんだけど……」

「なら、何か返す気はあるのか?」

「?」

「翔! 来てくれよ! 次で最終回、後がないんだよっ!」

 グラウンドからの伝令だった。

 四対三。意地で追い返したのに、相手エースピッチャーのツーランホーマーで逆転、一点差。最終回、五回の裏の二―Bの攻撃が始まるという。

「おう! すぐ行く。お前ら頑張ったな。あと一人だけ塁に出しとけ。後は引き受ける。いいな!」

 飛び込んで来た時には情けなかった表情が、三橋の自信に裏打ちされて輝いて出ていった。

「いいメンバーね。必死なんだから」

「そうだよ。ああいう奴ら、俺は最高に好きだぜ。そのせいだろうけど。なんか俺、お前のこと気に食わないぜ、騎道」

 三橋の勝負への執着の裏返し、卑怯に見える人間への怒りが、冷ややかな言葉にはあった。

「お前見てると腹が立つぜ。

 何ごとも中の中。当たらず障らず、息を潜めきって。一体、いつまでそれをやってるつもりなんだ。お前には意志ってものが無いのかよ?」

 騎道は一瞬動きを止めた。また、静かに弁当をしまい始めた。

「お前はいつだってニコニコしているよ。俺みたいにヘロヘロもしている。すっとぼけてたりもする。その上、弱いものには絶対的に優しい。強く出れない。それが一番の弱みだよな。そっくりだよ。俺とお前は。

 似すぎて吐き気がする。だってのに、決定的に違う所が一つだけある。それが気に食わないね。

 何だかわかるか? わかってるのか、お前」

 手が騎道の胸倉に伸びた。

「三橋翔君。場所をわきまえたまえ」

「口を挟むな」

 三橋の一喝に、秋津会長はおもしろそうに笑った。

 だが指摘通り、三橋は余った手で騎道の肩を小突いた。

「弱い奴とは戦えないんだよ。本気でやりあえないんだ。

 自分を殺して。ずっと、お前は殺しっぱなしだ。本気でぶつかろうとしない。

 全力を出さなくたってお前ならそこそこいけるんだろ?

 周りの人間を煙りに巻いて、自分だけ囲いの外で透かして眺めて。俺はそういう奴が心底嫌いだね。

 俺はさ、弱い人間に力を振りかざす気はない。ただ、どんな奴でも、本気で向かってる姿を見てみたいって思う。そんな時は、どんなに不様でも本当の姿を見せる。

 死に物狂いで泳いだ岡寺や、今の佐倉みたいに。

 見直したぜ。気弱なだけかと思って、往生したけど。はっきり物が言えるじゃないか」

「……友達ですから……」

 誰も知らない椎野の一面もあることを、知らせたい思いがそうさせた。ささやかだが、彼女には大きな勇気だった。

「何をさせたいんだ、三橋」

 この言葉を言わせるためだけに、三橋はこの場所を好機と利用した。他の生徒たちの視線、噂の藤井香瑠。偶然にも、騎道には逃げ出せない佐倉という弱みも揃った。

 騎道がどう出てくるかは賭けだった。相変わらず騎道が平静を装うのなら、それまでだ。煮え切らない友情など、三橋は切り捨てるつもりだった。

「わかってたんなら最後まで言わせるなよな。性格が悪いのまでそっくりなんだから」

「本当は双子なんじゃないの? あなた達」

「願い下げ。絶対に違います」

「こっちだって!」

 傷つけられたっていう顔を、本気で三橋は浮かべた。

「今日の佐倉への借りは、ホームラン一本で返してもらう。

 いいな、佐倉」

「まちなさいよ。彼……」

「バットを握って、構えて、ボールを見て、一振りするだけだ。多少身体が悪くたって、出来ないことじゃない。

 目は悪いが、ぴったり似合いの眼鏡を掛けていることだし。今回、出来なくてもこの次、無理なら、その次」

「いいよ。佐倉さんが望むなら」

 彼女は、願うように首を振った。

「訂正だ、佐倉の為なら」

「そうしよう」

 騎道は立ち上がりながら、辺りにも聞こえるようにはっきりと答えた。

 三橋の思惑通り、食堂に残る全員の目と耳は彼らに集中していた。

 生徒たちがざわめいて、冷やかしの指笛も飛んだ。

 今、囲いの外に逃れたら、真実の友情も無くす時だった。それは、他人に無視されているよりも辛いことだ。

 三橋は気付いていた。騎道が制裁を受けていたのは、女子からだけではないことを。

 同性であるが為に注がれる、藤井香瑠に焦がれる男たちからの陰湿なやっかみ。消えない意味のある視線。いつか騎道が醜態をみせる時を心待ちにしている、彼らの底に潜む払拭しようのない暗い意識。

 騎道がそれに耐えられないわけではなかった。ただ、この学園での数日間。押さえていたものが身動ぎしはじめていて、騎道自身戸惑っていたことは事実だった。




 騎道と三橋は、そのまま食堂の窓から外に飛び出した。

 グラウンドに向かうと、案の定、三橋の指示通り完璧なお膳立てが揃っていた。

「……派手、だな……」

 ここまできても、騎道は後悔を呟く。

「お前には、これぐらいでもまだ足りないぜ」

 三橋翔、観客を待たせて、騎道のネクタイを緩めてやる。

「言っておくけど、僕はもっと地味だよ。三橋の、足元にも及ばない自信はある」

「往生際が悪いぜ、騎道。

 お前、あそこのサードランナー見捨てられるか? 制服半分泥だらけにして、サードまで走ったんだぜ。あれじゃ、帰ったらお袋さんにどやされるだろうなぁ」

「逃げ出すとは言ってないよ……」

 騎道の瞳はまだ何かを迷っていた。佐倉の為に、打つ。その気持ちは変わらない。問題は、三橋が言外に要求していることだ。

「期待してるぜ、こいつらみんな」

 校舎の窓に鈴生りの観客。グラウンド脇に詰め掛けた生徒たち。騎道の姿に、好き勝手な噂を吐き続ける人々。

 彼の惨めな姿を待つ視線もそこにはある。

「……期待されても。僕は、誰かのためにするわけじゃないから……」

 三橋は、バッターボックスに歩き出す背中に向かって声を上げた。

「O・K。その意気だぜ、マイ・フレンド」

 友情。一番裏切りたくないもの。なぜかしら、一番望んでいるものを察知してしまう、奇妙なつながり。

 騎道は、ひどく乾いていた。おとなしく控え目に、全てをやり過ごす日常に。自分自身に。

 プールサイドで倒れてしまったのも、原因はそこにある。渇望していた。自由に、思い切り翼を伸ばす行為に。

 バットを受け取りながら、一人笑っていた。馬鹿馬鹿しいことを続けてきたのかもしれないと。自分には、自分自身をコントロール出来るほどの自制心なんか、初めからなかったんだと。

 期待され、あおられる程度で尻尾を出すくらいなら。そんな不完全な仮面なら、たった一人の友情の為に、

「すごく間抜けた人間だな……、僕って」

 静かな学園生活と引き替えにしても仕方ない。これが自分の運命なんだか、唇を引いて騎道は顔を上げた。

 身体半分土埃に塗れたサードランナーが、こちらを見つめていた。

 どんな人間でも、事実を突き付けて諦めさせたくない。どんなに絶望的でも、放り出せない。三橋の読み通り、騎道もそっくり同じ考えだった。

 二死三塁。代打を告げる放送部員。おのおの勝手な反応を示す校舎内やグラウンド脇の観客。否定的な感情が湧き上がる。

 ピッチャー東条は、男にしては細身の騎道に、マウンドで苦笑して見せた。

 バッターボックスに入る。バットを構える。ボールを見る。あとは、一振りするだけ。簡単も出来ないもない。

 第一球、真っ直ぐのスピードボール。現役でもないのに、速いし球威もありそうな音が、キャッチャーミットの中に籠もった。

 現役復帰も可能なピッチャー。敵は手強い相手だ。

「ちょっと。タイム」

 ボックスを離れた。

 水を打ったように、観客は静まり返っていた。他の二箇所の試合は、完全に無視された状態だ。

「沖田、その帽子貸して」

 真上正面からの太陽が眩しい。それが眼鏡だとよけい視界が滲む。真夏の陽射しだ。

 黒地の野球帽を騎道は受け取った。ネクストバッターボックスで待つ三橋は、腕を組んで軽口を叩いた。

「無理だったら、デッドボールだぜ。絶対に俺に回せよ。

 今日は勝つからな」

「……わかった」

 更に三橋は、人込みの中を顎で示した。その先に、佐倉千秋の不安げな顔。あざみ姫の一団も、その隣には秋津会長も興味深そうに見下ろしていた。

 言葉を掛けるわけにはいかない。衆人監視の中でそんな真似をしたら、傷つくのは佐倉の方だ。だが、手を握り締めて不安げな姿は、騎道の目には痛々しく映る。




「大丈夫よ」

 騎道は佐倉の姿を心配そうに見上げている。彩子は、代わりに佐倉の肩を引き寄せた。

「……でも、彩子さん。騎道さん、私のせいで」

 騎道一人で、大観衆を背負ってしまっていた。観衆の後ろめたい期待も、応援する感情もすべて。

「それは、違うと思うな。

 きっかけはそうかもしれないけど。あいつはやっと、本気で何かをする気になったみたいだもの」

「え?」

 抱いていた不自然な迷いを振り切ろうとしているように、彩子には感じられた。

「身体の弱いらしい彼が、どこまでできるかわかんないけど。最悪でも、千秋の為に、デッドボールで後の三橋に譲るんじゃない?」

 意地の悪い冗談に、佐倉は涙ぐんだ。

「そんな言い方、ひどいです……」

「だって、それくらいやりかねないくらい、本気みたいだもの。信じてないの?」

 佐倉は大きく息をついて、肩を下ろした。

「……信じてます」

 自分の感情に素直な女の子。こんな子に育てば良かったのにと、彩子は密かに溜め息をついた。




 野球帽を目深に被って、騎道は引き返す。

 言葉は意味がない。ただ示すだけでいい。

 再開。

 構える。

 簡単なことだ。ボールを捕らえて、ヒットなら軽く流してやる。フライなら打ち上げる。それでも一点は返せる、同点引き分けだ。ホームランなら、球威を利用し一振りするだけ。来た。

 白球。バットの手応えは十分。

 ぐんぐん、青い晴れた空に吸い込まれていった。

 バッターは、つばを目深に下ろしてベースをゆっくりと周回し始めた。

 大歓声が彼の背中を包む。アナウンスの絶叫じみた声も。それに混じって、はっきりと、

「騎道! 走れっ!」

 ! いくら草野球だからって、それはない。

 打球は伸びて、特大ホーマーのはずだった。なのに、楽々とランニングキャッチされていいた。

 向こうで試合中のセンターに……。

 騎道、脱兎の如く走る。バックホーム態勢に入ったボールよりも速くホームに帰らなければ、約束のホームランは成立しない。

 二度目の歓声が上がった。

 鮮やかなランニングホームラン。呆然と見送るキャッチャー。ボテボテと返球は審判の脇を抜けた。

「なんでお前そんなに足が速いんだよっ。

 サギだっ。たかが草野球だぜっ!」

 そのたかがに、自分だって真剣に激怒していることを棚に上げて、キャッチャーは口角泡を飛ばしている。

「たかがも何も、これが僕の実力ですから」

 舌を出して答える騎道。呻き声とともに、ミットはグラウンドに叩きつけられた。

 試合終了。

「やるじゃないの、騎道君?」

「三橋ほど、僕は、タフでも面倒見もよくないよ」

「おや? タフでも面倒見もよくない範囲内で、他にも何かしてくれるって? 期待させてもらうぜ、騎道」

 騎道は、言い過ぎたと口ごもった。野球帽を背後の人込みに放って返して、騎道は足を早める。観客たちの歓声の中、二年B組のナインは教室に凱旋である。

 この後の、ヒーローインタビューの代わりに全校放送された敗戦投手の弁が、多くの男子生徒の言葉を代弁していた。

「完敗ですよ。最高のピッチングだったのに、ほんの二球で読まれた。あいつただ者じゃないですよ。

 あそこまで力の差を見せつけられると、賞賛するしかないですね。

 またやり合いたい奴だな。今度は、負けませんよ。

 ……ほんと、あんな男だとは思わなかった。いい奴じゃないですか? そう思いません?」

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