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戒厳令の君(一)



 二学期に入ったからといって、ハイ、ここから涼しい秋ですよ。とは、いかないもの。

 開け放った窓で、白い日除けのカーテンが風に膨らむ。窓の外はまだ真夏の陽射し。太陽は天頂で微笑む真昼時であった。

「駿河君とは、まだ冷戦状態なの?」

「喧嘩を吹っかけてきたのはむこうなの。縁を切るつもりみたいだったから、受けて立ったまでよ」

「……賀嶋(かじま)君からの連絡は?」

「いままで通りよ……」

 女子生徒たちが引き払った被服室は、北向きのせいか風通しがよくて心地よい。縫製用の広い机の並ぶ、気持ちよく広い部屋。クラスは違うが、仲のいい二人はポツンと居座っていた。

「ほんっとに、ないの? 電話も? 手紙も?」

 身を乗り出して畳み込むのは茶色のカチューシャをした少女。方や、追及の的になっている、全体にゆるい自然なウェーブの髪の女生徒は、低く落とした声で抵抗した。

「……マジで聞くの止めて」

「どういうつもりなの? 向こうで金髪の恋人が出来たとか? あのどっから切り崩しても硬派日本男児に?」

 どうも当事者でない方が、彩子よりも激昂していた。

「それならそれでもいいけど、こっちは」

「そんなセリフ、誰も信用しないわよ、彩子」

 友達付き合いの長さが有無を言わせない断定系にさせる。飛鷹(ひだか)彩子(さいこ)が意地を張っているのは、明白そのものだ。

「本気よ。

 章浩(あきひろ)がそうしたいんならそうする。もう無理だもの」

 変に肩を落とすでもなく、彩子はさらりと本音を吐く。丸一年の、アメリカに留学した賀嶋章浩からの完全な音信不通が、少しずつ彩子の心を風化させたのかもしれない。

 お互い幼馴染で、恋人の一歩手前。肉親のようにわかり合って近かった二人。喧嘩別れのあげくの音信不通程度で他人に戻るなど、周囲の誰一人考えてもいないのに。

 親友青木(あおき)園子(そのこ)は、事態が思っていたよりも悪化していたことをようやく思い知らされた。彩子の彩子らしからぬ落ち着き払った態度にも、戸惑いを感じた。

 もっと彼女は感情的な人間だった。正義感が強くて、曲がったこと、姑息なことが嫌い。お節介で、面倒見がいい。男っぽくてさばさばとして、女の子らしくないと言われるとぴりぴり怒る。賀嶋章浩がその大方の発言者だった。

「みんなで耶崎(やざき)中に通ってた頃に、誰だって戻れないものなのよ。駿河だって、章浩だって、みんな」

「それは……。そうだけど。それでもいいの?」

 聞かないふりをして、うんと伸びをする。

「園子だって変わったじゃない? あんなおとぼけナイトにミーハーするようじゃ」

「彩子の石頭っ。

 同じクラスにいながら、なんで彩子にはわかんないのよっ。何度だって言うわよ? あの騎道(きどう)若伴(わかとも)は、十年に一度の逸材なの? スター・オブ・スターなのっ。

 そのあたりのミーちゃんハーちゃん小雀どもと、あたしを一緒にしないでくれる?」

 激怒、だ。彩子は両耳を押さえて立ち上がった。

「あー。耳にタコが出来るっ」

 バタバタと手早く教科書やノートを重ね集める。

「園子。一人でここで演説ぶってていいわよ。あたしお腹すいたから。先、食堂行くわ」

「彩子っ。賀嶋君を諦めるつもりなら、その男ボケを直しておいた方がいいわよ」

 騎道のこととなると語気が荒くなる。

「騎道君に『キャー、格好イイー』ぐらいの感情を持てなかったら、彩子の未来に男は見当たらないでしょうよ」

 そこまで言われては、立ち向かってしまう。

「見た目で選ばない主義なの」

「ごめん、言い方が悪かった。確かに、口が悪い、男子より喧嘩は強い。その彩子がミーハーする姿なんて想像できないわ。せめて、その偏見くらいはなんとかしたら?」

「偏見? だったら、園子の過剰反応はどう説明するの?」

 フフンと、余裕で笑ってみせる。

「マス・メディアの愛よ。大衆の代弁者としての、情熱ね」

「………。そこまで言う?」

 彩子の絶句に、さらに調子を取り戻す。

「最高にいい素材よ。うちのデイリー・フォーカスにとってはね。十人並以上の美少年だし、話題はあるし。ミステリアスだし。

 ほら、やっぱり調べたらうちの学園、転入生って認めてないのよ。例の、このあいだ来た学園長代行。学園長の息子さんの、特例措置ですって。何かありそうよね。

 身寄りもないってわりには、育ちはよさそうだし、結構上品だし」

 逃げだそうとする彩子を引き戻した。

「何より、大衆が知りたがっているんだもの。資本主義経済の原則通り、寄らば大樹の影」

「そうやって一般大衆をあおって、発行部数を上げてるんじゃない。悪徳編集長」

「何とでもお言い」

『打倒! 新聞部!』に燃える青木園子。敵対する事情を知らないわけではない彩子としては、この程度の釘しか差せなかった。

  稜明(りょうめい)学園内で、一週間に一回のペースで発行される学内紙は二種類。生徒会広報も兼任の新聞部発行『稜明雑記』。

 生徒会をバックに論説の王道を行く新聞部。対して、写真中心の、二年D組発行『デイリー・フォーカス』。商業誌顔負けの、しかし、学生の領分を越えないあぶないショットが売りである。

 青木園子が編集責任で突き進む『D・F』は、噂好きの小雀たちにいい話題を提供しつづけて、新聞部を凌ぎかねない勢いだった。

 二学期以降の、部数増刊の立役者が騎道。二年B組出席番号四十二番騎道若伴、ただ一人。

 二学期始業2日目に、学園に現れるあたりのズレ具合からして、耳目を集める少年だった。

「園子は少し騒ぎ過ぎよ?

 一々、派手な話題を提供している向こうも悪いけど。あおるだけあおってる側にも、非はあるんじゃないの?

 少しは話題にされてる人間の迷惑も考えなさいよ?」

 穏やかな学園生活を望む生徒には、記事で叩かれるのは惨さ百倍のはずだ。なのに騎道本人は何処吹く風と、へろへろ構えているものだから収まる気配はなかった。

「わかんないな。同じクラスに居て、なんで騎道君の良さが彩子には見えないの?」

 本気で園子は眉を寄せた。

「彼は、普通じゃないのよ……。他の男子とは全然別格。見た目が綺麗ってだけじゃないの。

 光ってる。でも本人は、それを隠そうとしているみたいね。だからあんなすっとぼけた態度で誤魔化して。

 ジャーナリストとしては、暴きたくなるのよね」

 何かを隠そうとしている。彩子には考えも及ばない。

「どっちにせよ、本人がそうしたいなら、させておいてあければいいじゃない?」

「それは違うよ、彩子。

 不自然だと思わない? 心から別の生き方を望んでるなら、もっとうまくやってるはずよ。

 彼に興味を引かれた人間はみんな感じてるわよ。見え見えなんだもの。情けなくて可哀想で、腹が立つ。

 輝いてる人間は、もっと輝いてみせて、他の人間の為になるべきよ」

 この発想が、可笑しい。本心は暖かいのだ。

「人道的ね」

「そ。人道主義を守るために、非人道的な手段を取るの。

 彼を慌てふためかせて、もっとボロを出させるの。うちの生徒はノリだけはいいからね。あおれば簡単。

 でも、みんなの方が待ってるような気がするな。彼の、本当の姿。あたしも引き込まれたようなものだから」

 大衆は敏感。誰がどういう役目をもっているのか、すぐに察知する。その中で、騎道にスポットが当てられた。

「そしたら、何か変わるような気がするな……」

 しみじみと、憧れる瞳を窓の外に投げた。

「……わかんないけど、それも騎道の運命かもね」

 可哀相な奴。と、彩子の口の中で呟いた。それは、園子の指す、人以上の輝きを持ってしまった人間に、同時に与えられた悩みの種子なのかもしれなかった。

「スターの宿命なのよ」

 園子はそう言い放ち、大きく笑い飛ばした。

 二人は食堂でまた落ち合うことにして、それぞれの教室に足を向けた。問題は騎道のことではなく、健康すぎる空腹なのだ。




「え?

 騎道若伴が、水泳の授業中に倒れた?」

 飛鷹彩子が、二年B組の教室に戻るとこれである。この手のニュースの広まり方は、驚く程速やかなのだ。

 間違いなく昼休み中で、この話は全校に広まるということは、彩子にも察しはついた。青木園子が嬉々とする姿が目に浮かぶというもの。

「でもなんで? 彼、体が弱いとかで、医者に運動止められてたんでしょ? 見学者じゃなかったの?」

「だから、見学してて、倒れたんですって。

 終了のチャイム2分前に」

 一々やる事が派手な奴。本人にそのつもりはないが、そうなってしまう行動パターンが大器の片鱗というわけだ。

「保健室に担ぎ込まれたんだって」

「なら、心配ないね。救急車も来てないみたいだし」

「彩子、冷たいー」

 え? と、彩子は顔を上げた。情報の提供者は、教室にたむろする女子生徒6、7人。その彼女たちのほとんどが、一斉に「冷たいー」と非難の声を上げた。

 この反応は、園子以上の信奉者としか思えない。

 彩子にとって、騎道はただのクラスメイトだ。それも大学受験準備のスタートライン、二年の二学期に堂々と編入してくるような、いい根性の奴という。

 稜明学園は、全国レベルで比較しても高い方である。周辺では屈指の名門校で、普通に入学するのでさえ誰もが覚えがある通り難しい。それを、特別措置されるくらいの能力をもって、あっさりと転入生してくれた。

 騎道若伴が現れてほぼ二週間。当学園でこの名を知らない生徒はいないほど、知名度は高かった。

「……みなさん、気が、あるわけ?」

 なんで騎道ごときで、誰も彼もに非難されなきゃならないのか? 彩子の心中は穏やかを越えていた。

「あ、ある訳ないじゃない……。あざみ様の想い人。ねぇ?」

 ワタワタと否定する少女たち。お互いの顔を見合わせ、探るように言葉を濁す。ただ一人の名を上げて。

 無理もない。彩子にも、気持ちはわかる。

 クラスの女子の半数は、騎道に意味のある視線を送っているのだ。それはもう痛々しいくらい後ろめたいという感じで、他の人間には悟られないよう必死で隠している。

 実際、人目を集めるにたる容姿を、当人はもっていた。

 素直で端正色白な顔立ちに、なぜか似合う、余裕を感じさせる豊かな表情。要は、やや子供っぽいのだ。

 女々しいものに落ちない優雅な身のこなし。その所作動作を異性に対してだけ、さり気なく自然に使っている。

 やや身長は高め、比して痩身ぎみ。その非の打ち所のない奴を、決定打で打ち崩していたものが一つだけあった。

 これは本人以外の全てが認める所。常に放さない黒縁の眼鏡だった。

 誰があんなものを勧めたのかは知らないが、間の抜けた大き目のそれは、もう一つ底なしにとぼけているキャラクターとあいまって、ほとんどお笑いに仕立てていた。

 だが、眼鏡さえ除けば、見た目だけは並べる者はそういないだろうことは歴然とした事実だった。

 毎日、上級生も下級生も、無関心なフリをしながら視線と耳で騎道を追っている。ただし、たった一人の為に、気を使って誰も公然と騎道に近づけない。話しかけることも、アプローチすることも諦めていた。

「誰か付き添ってないの?」

 おサイフを出して中を確かめる。今日は侘しいがB定食で堪えようと、彩子は諦めた。今朝はバタついて、お弁当が作れなかったのだ。

「見舞ってやるって、お弁当もって、さっき三橋くんが出てったわよ」

「仲いいわよね、あの二人」

「変わったコンビだと思ってたけど、やっぱり何か、似てると思わない?」

「似てきただけじゃないの? 何してるってわけでもないのに、一緒に居るじゃない?」

「三橋くん、ああみえてもけっこう面倒見のいい方だよね」

 興味のないふりしながら、結構好き勝手なことを言ってあの二人組の話しで盛り上がる、ミーちゃんハーちゃん小雀さんたちである。

「三橋って、お弁当なんかもってきてた? 二人とも、いつも食堂でB定食じゃなかった?」

 彩子は素朴な疑問を漏らした。

 お茶らけ上手で人気者の三橋が、何かと面倒をみるせいもあるが、騎道はすんなりとクラスに溶け込んでいた。

「そういえば、そうよね?」

「……なんてったって、戒厳令の君だものね」

 さっきの話題を蒸し返している奴が居る。

 諦めたはずの子たちが、甘ったるい遠い目をして肩を落とす。あらぬ噂の的になる騎道にも哀れを感じるけれど、想いのやり場のない女の子たちの方がもっと可哀想だと、彩子は眺める。あざみ姫は罪なことをなさる方だった。

『戒厳令の君』、『おとぼけナイト』他、騎道には渾名が多い。日に日に増えるのは、悪名高い二年D組の学内新聞紙、デイリー・フォーカスの大見出しが原因である。

 彩子は内心で、すっとぼけナイトと呼んでいる。

 あの中庸を信条にしたような消極的な日常と、肝心な所をフワリとぼかした態度。引きのこの二つと全く繋がらない明朗快活美少年風の外面と、それに水を差す似合わない黒縁眼鏡という釈然としないアンバランスさに、ついつい内心でこき下ろしてしまうのだ。

「……あざみ様には勝てないわ」

 漏らす言葉は溜め息交じり。

 藤井(ふじい)香瑠(かおる)は学園随一の名花。男女共に慕われる、憧れの君である。

 彼女の周囲には、何人かの知性教養共にえり抜きの親衛の少女が取り巻き、静やかで高貴な一団を形成していた。

 時代錯誤的に見えるが、この学園の人間はすべて承知していた。

 稜明学園は歴史伝統の確かさと気風によって、周囲一帯に住む名士、有力者たちの子息が多く入学している。

 歴史の旧い地元最上位家として三つの家系があるが、藤井香瑠はその内、旧公爵藤井家の三姉妹の次女だった。

 地元名士として学園に多大な寄付金を送っていた繋がりもあって、入学することは決まり事になっていた。

 遡れば、室町時代の公家まで至るとかの由緒正しさを、今も守り通しているのだという。彼女に表れる美は現代の少女たちの中には無いもので、生半可な付け焼刃のものではないのだ。

 女性上位の風潮を持つ藤井家の仕来りで、姉妹それぞれに花紋が与えられていた。香瑠はあざみの紋。それをもって、彼女はあざみ姫と呼ばれていた。

 とはいえ、あざみ姫はただの美の化身ではなく、大きな権威でもあった。

 彼女が三年間会長として君臨してきた白楼会(はくろうかい)が、その象徴である。女生徒だけの自治会で、名目上は希望会員のみで構成されていることになっていた。実際は、ほとんどの女生徒は入会していたし、他校の女生徒もかなり多く参加している不可思議な集団でもあった。

 自動的に、大半の女生徒が彼女の支配下に入るため、白楼会は女子のみの生徒会とも噂され、表向きの生徒会も一目置く存在である。その本質は会長であるあざみ姫の、類い稀な美しさと気品のもつカリスマ性によって、強固に保たれているというミーハー教団的集団であった。

 活動内容はボランティアや習い事等の、家庭的で文化的な色合いをもつ女生徒ならではのものだった。

 レズ気の欠如した彩子には、『よくわからない』人々で、そうしたいとも思わないので、所属する気にもなれない。

 何より、あそこまでの精神に暴力的な集団に入ることが彼女には苦手だった。

 しかし普通の生徒にとって、彼女は、不興を買ったなら快適な学園生活は望めない、という存在なのである。

 騎道と親しく口をききたいが、相手はあざみ姫の想い人。姫君の逆鱗に触れたなら灰色の学園生活が待っている。それよりも何よりも、地上に降りた女神のごときあざみ姫には嫌われたくない。などという自虐的な葛藤に、女生徒たちが浸っていることは、彩子には読めていた。

 校内BGMのボリュームが下がり、アナウンスが響いた。

『本日の試合は、メイングラウンドは三―E対二―B。Aグラウンドは……』

「三―Eとだって。今日は負けそうね」

「くやしいけど、E組とは六戦連敗。勝ち星無しじゃあね」

「E組のピッチャーって、元野球部のエースなんだって」

「中学の頃の話じゃない」

「でも、かっこいーじゃない。東条君って」

「そーでしょー? 応援しちゃお」

 コロコロコロコロ、小雀の話題の変化は激しい。

 彩子は付き合いきれなく、教室を出ようとした。たぶん雀さんたちの噂話しは、止まることを知らない。

「彩子っ! 丁度よかった。早く来てっ」

 食堂で会うはずだった園子が飛び込んできた。

「何よ?」

「いいから、早くっ」

 しっかりと腕を取られた。ぐんぐん、歩き出す。

「何? どこに行くのよ?」

「保健室」

「ちょっと何それ? 理由を言ってよ」

 彩子には察しがつく。案の定、すがる園子。

「一緒に来てよぉ、お願いっ。

 彩子、同じクラスなんだから言い訳つくでしょ?」

「冗談。誰が騎道の見舞いになんか」

 甘ったるいお願い声に、もみ手までする。

「部屋の中まで入らなくてもいいからっ?」

 誘いの流し目で伺う。

「? どーいうことよ」

「張り込みよ、張り込み。

 騎道君、倒れたっ。ご心配になったあざみ様は、お見舞いにお出でになるっ。そこを、確認したいわけ。行こっ!」

 彩子にすがりつく友情。でも振りほどくっ。

「そんなの一人で行きなさい、一人でっ。あたしを巻き込まないでっ」

「だってー、あざみ様には睨まれたくないしぃ、スクープは惜しいものぉ」

「よーするに、見舞いに通りかかっただけ、とあざみ様に言い訳しろってこと? 嘘でも言いたくないっ」

「冷たいこと言わないでよぉ。彩子が一緒に行ってくれなきゃ、泣いちゃうぅー」

「だったら、お泣きっ」

 呻いて張り付く園子、蹴散らそうとする彩子。怪獣ショーのような騒ぎが、廊下で繰り広げられる。

「青木さん、飛鷹さん。

 廊下で、そんなに大きな声を出すのはいけないわ」

 たしなめる柔らかい言葉使いに、二人は同時に振り返った。聞き違えようのない、天上の高貴な貴人を連想させる声の持ち主は。

「あざみ様……。ヤダ……」

 三人の取り巻きを従えた女生徒は、明らかに一人際立っていた。当てられる優雅な視線に、彩子でさえも動揺を感じた。

「……すみません。以後、気をつけます」

 かしこまる園子に彩子も同調した。せざるを得ない光があるのだ。あざみ様と、渾名される少女には。

 何ものにも囚われない、自由闊達が信条の彩子だが、あざみ姫、最上級生藤井香瑠は別格だった。

 あざみ姫、あざみ様と呼ばれ、当然のごとくその名を受け入れられる、高嶺の花の方。

 絹糸のきらめきが滑り落ちる、漆黒の長い髪の持ち主。

 その前ではもの皆石と化す、とも形容される気品と美しさを、ただ一身に受ける人。日本的な押さえた美が結晶となって人間の姿になったような、非現実的な美なのである。

 身の程知らずに言い寄る男達は数知れず。

 誰一人として、想い叶わず。あざみ姫のお気持ち一つで彼の方のみならず、白楼会女生徒を敵に回して、灰色の学園生活に突き落とされたしつこい男も何人か生まれていた。

 同じ男でありながら、あざみ姫から求められて、即、拒絶できる人間もこの世には居た。

 名を、騎道若伴。

 人にはそれぞれ好き嫌いがあるものだが、あざみ姫の美は罷り間違っても、嫌える種類のものでは決してなかった。

 彩子も目の前にすれば、この通り我をなくする。

 それを騎道は、彼女からの申し出を一言で断ったのだ。

「つきあえません」と。

 その後一週間、この事件はD・F紙に号外を飛ばさせ、学園内に噂の渦を巻き起こし続けた。全女生徒にとってあざみ姫は、今や悲劇のヒロインと祭られていた。

 彩子でさえ、いとも簡単に言い放った奴の心理を、理解したいとは思えない。

 あざみ姫の何たるかも知らず。ただの、おバカだ。

 その上、おバカがフッたという事実に、あざみ姫の信奉者が自主的に『声を掛けない、手を出さない、関わらない』の超一級制裁措置、三ナイ戒厳令を敷いたのだ。

『戒厳令の君』の渾名の由来がこれだった。

 お達し通り、大半の女生徒が騎道を無視している。あざみ姫のお取り巻き連中に睨まれるのが怖くて、自分の気持ちをも無視していた。この陰湿さも、女の本性である。

 その当人は、戒厳令下に全く動じていなかった。前より女の子たちに騒がれずにすむようになって、かえって生き生きしていたのだ。女心を理解できない、本当のおとぼけ野郎だった。

「あざみ様、お時間が……」

 側近の声に姫君はうなずき、一団は動き出した。

 静かに、彼女たちが廊下を曲がるのを待った。その奥には保健室がある。腕を取られたまま、園子の執念に沈黙を守る彩子はずるずると引きずられた。

 小走りの小柄な女生徒が正面から向かってきて、彩子と肩がぶつかる。とっさに彩子は、その少女を引き止めた。

「佐倉さん? どうかしたの?」

 立ち止まり怯えたような目を、佐倉は上げた。

「いえ……」

「ちょっと待って。あなたも、来て?」

 彩子がそっと指したのは、保健室の方向だった。園子は新たな救援者に、期待する視線を向けた。

 すぐに顔を曇らせ、そっと彩子の耳元に囁いた。

「どういうつもりよ? この子、椎野の大親友じゃない」

「スクープの為なら、たとえ敵でも『手を握る』?」

「当然」

 スクープの為の大原則の前に、傍観を決めた。

 佐倉の大親友である椎野は、女子で二年生でありながら新聞部部長という切れ者。園子にとっての仇敵であり、なぜか一方的に彩子とは犬猿の仲だった。

 佐倉は首を振った。

「違います、……私。あの……、三橋さん、間違えて私のお弁当もっていっちゃったみたいで、それで……」

 意味深に彩子が尋ねたのには理由があった。顔を真っ赤にして否定しては、素直にうなずいているようなものだ。

 小柄で、女の子らしい女の子。佐倉(さくら)千秋(ちあき)は何ごとにも控え目で、おとなしい引きオンリーの平凡の少女だった。

 見た目は十分にかわいいのに、臆病な性格で損をしている。彩子のクラスでは珍しい部類の子。二―Bは彩子を筆頭に、教師集団を嘆かせる個性派揃いの集団だった。

「三橋、来てるの?」

「ええ、部屋に入るの見ましたから……」

『見舞ってやると、お弁当をもって出ていった』と、さっき話しに聞いた。とすると、故意に佐倉のお弁当を奪取したことになる。

「あのすちゃらか小僧。また悪戯っ気おこしてっ」

 彩子に次ぐ個性派としては、三橋(みつはし)翔之信(しょうのしん)がいた。財閥三橋家の御曹司で、その育ち故か突拍子もない行動パターンの持ち主。大方その方向は、お茶らけお笑い、集団的レクリエーションに向きっぱなしの、爽やか青少年印だった。

 それが、よりにもよって空気のように存在感のない、平和この上ない、佐倉千秋を巻き込んだとは。常にお茶らけ攻撃の的にされている彩子としては、見過ごせない。

「じゃ、一緒に行きましょ?」

「でも……」

 佐倉も、あざみ姫は怖い。彼女も白楼会の構成会員であった。それなのに、一人でここまで来た。

 彩子に言わせれば、あれだけくっついていながら何故に似た所が一つもないんだ? と理解できないほど、正反対の人格者・椎野は午前中は休みだ。

 彩子は常々、椎野の過保護がむざむざ佐倉の自主性を閉ざしていると、少しばかり反感を抱いていた。

「お弁当、取り返そうよ」

 気弱で守られ役の佐倉が一人で行動している。それを励まさずにはいられなかった。何が佐倉にそうさせたのかは、彩子は薄々気付いていたのだから。

「……すみません……」

 申し訳なさそうに佐倉は答えた。そう言いながらも、視線は彩子とあざみ姫の集団を見比べていた。

「話しが決まれば、堂々とする事。後ろめたい顔は無し!」

 園子は現金である。

 あざみ姫本人ではなく、取り巻きの一人が保健室のドアを叩いた。姫君は少し離れて見守っている。

 あざみ姫の表情が、いつもより陰っているように見えるのは気のせいではないだろう。

「ええ、大したことないわよ。軽い暑気あたりね。

 せっかくだけど、騎道君、まだ眠っているのよ」

 保健の水野先生が応対にあらわれた。まだ若く、はっきりとした口調が、逆に艶っぽくもある女性だった。

「そうですか。わかりました。お大事にとお伝え下さい」

 あざみ姫も気が済んだのか、表情を和らげた。また側近に急かされて、一団は立ち去っていった。

 それだけである。この程度では物足りないのか、園子は不満そうな声を上げた。

「なんか、つまんないわぁ」

「まだ諦めていないのがわかったんだから、いいでしょ?」

「そんなのは当然なの。天下のあざみ姫が、一度断られたくらいで引き下がるものですか。

 ずっと想い続けるっていうのが、一番絵になるじゃない。

 大衆はあざみ様の味方なのよ。断固、引き下がってほしくはないわね」

 結局は売り上げの為、あおるだけあおる。というのが本音だった。

「ね、彩子。同じクラスなんだから、騎道君に、なんであざみ姫をふったのか、聞き出してよぉ? 頼みますっ」

「お断り。あたし興味ないから」

「もう。あんたってば、あんたってば。やっぱり変人っ。

 そんな友達をもつなんて、不幸だわっ」

 噂通り、あざみ姫は諦めてはいなかった。D・Fの号外には、裏づけされたと大袈裟に記事が載るだろう。それで、あと何人の女子生徒が深い溜め息を付くだろうか。

 それなのに。と、人ごとながら考え込んでしまう。

 どんな気持ちだろう。あのあざみ姫も、心を寄せている男。きっぱりと、周りに流されずに自分の意志を通して、あらぬ制裁を受けても、今もって潔い男。年齢に不釣合いなくらいフェミニストな行動を取るのに、女の子の気持ちを例のとぼけた態度で振り切って生きている男。

 男が好きなのかもしれない。キモチワルイゾっ。

 そんな奴を、右斜め後ろの席から見つめているというのは、どんなきもちがするのだろうか。

 彩子は気付いていた。

『佐倉千秋は、授業中にぼんやりと背中を見つめてしまうほど、騎道に好意を持っています』

 佐倉も知っているんだろう。これは立派な片想いで、あのあざみ姫でさえ適わなかった願いで、おとなしすぎる自分には、あざみ姫のように伝える勇気もない恋で、他の女生徒の手前隠すことしかできない感情だと。

「園子。先にご飯食べててよ。行ってくるから」

「お弁当ね。彩子、お節介もほどほどにね」

 親友の忠告である。肩入れしすぎて椎野に噛み付かれないように、という意味だ。

わかっている。椎野とのトラブルは熾烈で、彩子も出来るだけ避けてきた。

 けれど、なぜかほおってはおけないのだ。

 彩子には佐倉の気持ちがよくわかる。自分自身も、似たような立場に居るから。手を差し出さずにはいられない。

「よし。行こう」






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