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胸に咲く花

作者: ひーらぎ

 怖い話をしてほしい?

 いきなりそんなことを言われてもなあ。

 血なまぐさい場にずっと身を置いとるから、耳に入ってくる幽霊話には事欠かんのだがな。

 あまり面白いと思えんから、すぐに忘れてしまうのだよ。

 だいたいあの手のは、皆似たような筋に似たような終わり方だろう? 領主の城の片隅に死んだはずの兵が血まみれで立っとっただの、弄ばれて捨てられた酒場の女が憑り殺しにきただの。よくもまあと思うくらい始まり方も行き着く先も同じだ。

 ん? 別に似ていない? 俺が馬鹿なだけだと?

 ふははははは、そうかもしれんな。でもやっぱり少しは似ていると思うぞ。



 ――そうだ。

 怖いというと少し違うが、ひとつ話をしてやろう。俺の昔なじみの話だ。

 言っておくが幽霊は出て来んぞ。

 小難しい理屈では割り切れん、ただそれだけの話だ。



 そいつと初めて会ったのは、確か、十八か九の頃だったかな。物覚えが悪いのでおぼろげだが、確か二十歳は超えとらんかったと思う。

 当時の俺は奴隷をやっとった。戦争用の歩兵奴隷だ。戦のときは戦場に出、平時は鉱山で銀を掘らされる、そういう身の上だ。

 そいつも俺と同じように、奴隷として売られてきた奴でな。

 世辞にも色男ではなかったが気の良い奴だったよ。年が近かったのもあってすぐつるむようになった。

 といっても今さっき言った通りの身の上だ。見張りの目を盗んで少し話をしたり、石を並べて昔見よう見まねで覚えたチェスの真似事をしたり、晩飯の黒パンを賭けて腕相撲勝負をしたり、そんな程度だったがな。

 持久力なら俺の方があったが、腕力なら奴の方が強くてな。賭けはいつも奴の勝ちだった。俺はしょっちゅう負けて半べそをかいとったものだ。

 奴はそんな俺を見て苦笑いして、勝ち取ったはずの黒パンを返してくれるのが常だった。



 ただ……

 良い奴ではあったのだが、少し変わったところがあってな。

 周りの連中には避けられとった。

 たまに、ほんのたまに、先を見通すようなことを口にすることがあったのでな。

 それも確信に満ちた口調で。



 一度、ひどく寒い冬の夜に、六十を過ぎた爺様が体を壊したことがあった。

 ざっと五日ばかり夜中じゅう咳をしていたので俺がずっと背中を撫でさすってやっていたのだが、耳に障るので寝ようとしている奴隷仲間たちは嫌な顔をする。だが文句を言われた所で己の意思では止まらんのだからどうしようもない。

 そんなわけですっかり困り果てていたら、

『そう邪険にしてやるなよお前ら』

 と、奴が言った。

『たぶん、今夜が最後だから』

 そいつの言葉は本当だった。爺様の咳はその晩が最後になった。次の朝覗きこんだら寝藁の上で事切れとったのだ。

 そうそう、こんなこともあった。

 奴隷仲間が見張り番に殴る蹴るされて息も絶え絶えになっていてな。たまらず行って庇おうとしたところで、奴に肩を掴んで止められたのだ。

『放っといていい。お前がわざわざ出てくことなんざない』

 そんな奴だと思わなかったと噛みついたら、そいつは眉間に皺を寄せてこう言った。

『ああいう奴には、すぐ天罰が下る』

 そいつの言葉はまた本当になった。

 外道の見張り番はその次の日、崩れた教会の壁に押し潰されて死んだ。



 まあ、だが、俺は気にしとらんかったよ。

 周りの奴らはあれこれ言ったが、いちいち耳を貸すつもりはなかった。だってそうだろう。一言二言口にしてそれがたまたま本当になっただけのことで、やれ忌み子だの呪われているのと騒ぐなど理解できんわ。

 ――そんなこんなでしばらく一緒に過ごして、何ヶ月か経った頃だったか。

 そいつが俺の身の上を聞いてきたのだよ。

『ファル』

 奴は俺の名前を呼んだ。

『お前は生まれつきの奴隷とは思えない。見た目も、それから頭の中身も』

『何か事情があるんだろう。そしてそれを隠しているんだろう』

『よかったら話しちゃくれないか。少しでも力になれることがあれば手伝いたいんだ』

 そう言った。

 俺は内心ぎくりとした。そいつの言ったことは全て当たっていたからだ。

 俺はもともと奴隷身分の出ではない。

 父はこの国の王、母は同じく第二王妃だ。

 第一王子である兄の母親……俺にとっては義母にあたる女の策略で、無実の罪を着せられて奴隷に堕とされたのだ。

 ファルという名も仮の名にすぎない。本名はファロマという。

 だがそのことは誰にも話したことがなかった。話したところで信じてもらえはしないと思っていた。

 このときももちろん話すかどうか迷ったさ。

 だがそいつが本当に良い奴なのは分かっとったし、何より心から俺を気遣って言ってくれとるのが伝わったので、迷った末結局は洗いざらい話してしまった。



 そいつは一瞬信じられんという顔をした。だが冗談と笑うことも馬鹿にするなと怒ることもしなかった。

 突飛な話だとは思わんのかと聞くと、

『思うが、お前が嘘をつくのに比べりゃそこまで突飛でもない』

 つらかったろう、とそいつは言ってくれた。

 このことは誰にも言わないと、だが何かあったら絶対に力になると約束もしてくれた。

 もう堰を切ったように涙が溢れてきてなあ。恥も外聞もなく泣きじゃくってしまったよ。

 俺がようやく落ち着いてきた頃、そいつは俺の背中を叩いて、つらいことを聞いちまって悪かったな、と言った。

『詫びと言っちゃなんだが、俺もこれまで誰にもしたことのない話をしてやるよ』

『お前はお前の秘密を俺にくれたんだ。俺も俺の秘密をお前にやらんと対等じゃない』

 そう言って、今度はそいつ自身のことを話し始めた。

『俺には、人の胸に花が咲いているのが見えるんだ』



 ああっこらこらこらこらこらこら話の途中で席を立つな出て行くな!

 そいつが本当にそう言ったのだから仕方ないだろうが!

 ええい分かった面白くなければ出て行って構わん、だがせめてもう少しだけ続きを聞いていけ!



 そいつに言わせると、人間の胸には一人の例外もなく花が咲いているらしい。

 活き活きとしたきれいな花のこともあれば、しおれかけの死に体の花のこともある。そいつには生まれたときからそれがずっと見えていて、ある程度でかくなるまで当然他の連中にも見えているものと信じて疑わなかったそうだ。他の奴には見えんと知ったときには死ぬほど驚いたらしい。

 といっても、自分のだけは見えないそうだが。

『これは十になる頃になってようやく分かったことなんだが』

 糞がつくほど真面目な顔でそいつは言った。

『花の大きさや活きのよさは、その花を生やしている奴の人生によって左右されるらしい』

 人生? と俺が聞き返すと、

『説明するのが難しいんだが……生まれたての赤ん坊なら、まだほんの芽だ』

『そいつが育てば育つほど花も育っていく』

『どんどん大きくなっていって、つぼみがついて、花が咲く』

『逆に死期が近づくとしおれ始めて、最後には枯れる』

 俺はそこでようやく合点がいった。

 爺様の咳があの晩で最後になるのがわかったのも、外道の見張り番に天罰が下ると言い切ったのも、きっとその花のせいなのだと。奴の目に映った二人の花は、きっとしおれて死にかけていたのだ。

『信じてくれるか?』

 少し怯えたように聞いてきたそいつに、俺は迷わず頷いた。



 とまあこんな具合で、前より一層親しくなったのはよかったのだが……

 それから何週間も経たんうちに、そいつが別の街に売られることが決まってしまった。

 他の奴隷たちが遠巻きにしていたように、主人やら何やらの上の連中も『何やらこいつは他の奴と違うぞ』と思っとったらしいな。さっさと他のところにやってしまおうと考えたわけだ。

 どうしたって、どうもできなかろう。その頃の俺はただの奴隷だ。

 それに三つ四つの子供ではないのだぞ。一人前の男ならどこに売られようと、人並みの幸運に恵まれさえすれば何とかやっていけるだろう。

 ――別れがつらくなかったといえば嘘になるがな。



 奴が売られる前の晩、俺はずっと気になっていたことを奴に尋ねてみた。

 お前は人の胸に咲く花を見るという。なら俺の胸にはどんな花が咲いているのか、とな。

 正直かなり意を決して聞いたつもりだったのだが、奴の答えはあっさりしていたよ。

『お前のはまだ咲いちゃいない』

 はあ? と思わず声を上げてしまったよ。

『そんな顔をするなよ。お前の花はまだ蕾だ。そうだな、形からすると百合かな』

『よく育っちゃいるぞ、葉も茎も青々としてて立派なもんだ』

『そのうち大輪の花が咲くだろう』

 俺が悔しがっとるのを見てそいつは苦笑いしながら、

『そう腐るな。あんまり早いうちに咲かせるのも考え物なんだぜ』

『花っていうのは咲いたら枯れる』

『つぼみが開いて満開になって、そうしたら後は枯れていくだけだ』

『早咲きの花は枯れるのも早いからな』

 そう言われればそんなものかと納得できた。

 何十、何百の花が咲いては枯れるのを、そいつはずっと見てきたのだろうから。



 最後の別れ際に奴は俺に言ったよ。自分のことを絶対に忘れないでくれと。

 言われなくても忘れたりなどしないと言うと、そういう意味で言ったんじゃないと答えた。

『お前が俺を必要とするとき、俺は必ずお前のところに駆けつける』

『俺がそのときどこにいようと関係なくだ』

『そのことを絶対に忘れないでいてくれ』

 そいつが右手を差し出してきたので、俺はそれを強く握り返した。



 別れ別れになったそいつとまた顔を合わせたのは、二十三の年のことだった。

 ああ、そうだ。俺が全奴隷の解放をかかげて、祖国相手に反乱を起こしてからのことだ。

 幾つか都市を陥として名前が売れてくると、仲間に入れてくれと逃亡奴隷が押し寄せてくるようになってな。今は数が増えすぎてとてもできんが、あの頃の俺は入軍希望者と直接話した上で引き入れるかどうか決めることにしとったので、分刻みであっちに行きこっちに行きやたら忙しい日々を送っとった。

 ――再会したとき? それは無論驚いたとも。

『必ず駆けつけると言ったろう?』

 目を見開く俺を見てそいつは笑ったよ。

 いや、そんな目で見んでくれ。ここは少し言い訳させてくれ。

 確かにあのときはそう言われたし俺もそれは覚えていたが……予想外にも程があるだろう、まさか主人の元を逃げ出してまで来てくれるなど!

 逃げ出して捕まった奴隷は、たいがいが拷問にかけられて叩き殺される。奴はその危険を冒してでも、俺に昔誓ったことを守ってくれたということになる。

 ええい! 何をニヤニヤ笑っとる!

 泣いてなどおらんわ! とっとと話の続きにいくぞ!



 友人についてこんな言い方をするのは未だに妙な感覚だが、そいつは本当によく働いてくれたよ。

 目下から見れば頼りがいがあり、目上から見れば指示をよく理解して期待に応えてくれる出来た奴だったのでな。手柄に応じて徐々に昇進させて、最後には百人長まで任せていた。

 ……そうそう。昔は言動が元で何かと避けられとったそいつだがな。離れていた何年かの間に、俺以外の連中にも普通に好かれるようになっていた。

 隠し方を学んだんだ、とそいつは後で言っとった。

 俺に色々あったように、奴にも色々あったのだろうよ。



 ん? おお。反乱軍の一員としては上官と部下だったが、それ以外の所では普通に友人やっとったぞ。何度差し向かいで飲んだか分からん。

 そいつはひたすら飲んで騒ぎたてる奴ではなかった。正体を失わん程度にほどよく飲んで、日頃考えていることをぽつぽつと話す、大体はそんなふうだった。

 だが、たまに大量の酒瓶を持ち込んで、自棄になったかのように無茶な飲み方をすることがあってな。

 俺はあえて止めんことにしていた。そういうときは時間が許す限り傍にいて、ひたすら酒を煽るあいつを見守っていようと決めていた。

 なぜ止めなかった、だと? 体に毒に決まっているだろうと?

 うむ、まあ、そうだな。

 だが飲んで飲んで飲み続けて、目を血の筋で真っ赤にして、そのくせ目の下の皮は隈で真っ黒で……そんな顔を泣き笑いの形に歪めてこう言われると、止めるに止められなくなってしまうのだよ。

『なあ、ファル。また助けられなかったよ』

『枯れていくのをただ見ているしかできなかった』

 止められんだろう?

 ――止められんよなあ。



 まあそんな調子でしばらく一緒にやったよ。

 楽しいことより苦しいことの方が遥かに多い時間だったが、耐えてこれたのはあいつのおかげもあった気がする。

 だが何年か経った頃、そいつが俺を見る目が少し変わってきた。

 いや、態度が変わったとかそういうわけではない。ただ、こちらを一瞬見るときに、何かに悩んでいるような苦しそうな顔を見せるようになった。何か言おうと口を開きかけてやめることも多くなった。



 嫌な予感がしてきた、と? 奇遇だなあの頃の俺もそう思っていた。

 再会してから滅多に話題にすることはなかったが、あの胸に咲く花の話は、忘れたいと思ってそうそう忘れられるものではない。それにその辺を抜きにしても、親しい友人が態度を変えた理由はやはり気になるものだろう?

 部屋で飲んでいたときに我慢できなくなって何があったと尋ねたら、そいつはまた悩むように黙り込んだ。そしてしばらく考えてから、そうだなと答えた。

『どの道、いずれ話さなければと思ってはいたんだ』

『どうせ話すなら早いほうがいい』

 だがそいつが理由を話しはじめようとしたとき、部屋のドアが叩かれた。

 工兵部隊の隊長だった。

 その晩はちょうど大雨でな。記録的というほどでもないが、近くの河が一気に増水する程度にはひどい天気だった。万一降り続いて堤防が切れてはと懸念して、工兵隊長が補強の許可を求めてきたわけだ。

 すぐ行くと答えてから、どうやら今夜は聞けなさそうだと伝えると、構わねぇさと答えて奴は腰を上げた。

『明日でも明後日でも、体の空いたときに聞いてくれりゃあいい』

 酒瓶を手にして出て行く後ろ姿に、俺は最後に問いかけた。

 ――それは花の話か? と。

 奴は振り向いて少しだけ笑って、そうだ、と答えたよ。



 堤防以外にも何箇所か補強せねばならん箇所があったので、結局その晩は大雨への対応で丸々潰れた。幸いにも夜明け頃には止んでくれたので胸を撫でおろしたがな。

 当たり前だが、晩が徹夜になったからといって次の日休めるわけではない。

 そいつの話を聞ける時間ができたのは日暮れ時のことだった。



 部屋で聞こうかとも思ったのだが、大雨の翌日だったせいか夕焼けが綺麗でな。どうせなら良い景色を眺めながら話したいと思って、呼び出すのは外の眺めのよい場所にした。

 周りを急斜面に囲まれとるのだが、西側だけうまい具合にぽっかりと何もなくてな。晴れた日の黄昏時にのんびり時間を過ごすにはうってつけの所なのだ。

 同じように夕焼けを見たい奴は多かったらしい。ごったがえすとはいかんまでも、その一帯にはそれなりに人がいた。もっと人気のない所のほうがよかったかと聞くと、奴はこれでいいと首を横に振った。

『大概の奴は自分のことで手一杯だ。俺たちの話なんて聞いてる余裕はないだろうさ』

 そうだな、と俺が笑うと奴も笑った。

 空が真っ赤だった。



 いくら綺麗でも長時間は眺めていられん。特に俺は目がこの通り真っ青なので、日の光は人よりずっと眩しく見える。

 奴は瞳は茶色だったが色自体はそれなりに薄かったから、俺と同じようにやはりきつかったのだろうな。ほどなく顔をそらして軽くすがめた。

『たぶんお前の想像してる通り、お前の胸の花のことなんだが……』

 と、そいつはそこで目を見開いた。

 視線の先には何十人かの人間がいた。大人もいたし子供もいた。話したりじゃれ合ったりしながら俺たちと同じく夕焼けを見ていた。

 東側、つまりは夕焼けとは反対側だ。ここは特に急な斜面のすぐ下でな。昔あった落石の名残だと思うが、大きな岩がごろごろと転がっていた。これを放っておく手はないと考えた誰かがいたらしく、座って景色を眺めるのにちょうどいい塩梅に切り削られて整えられていた。

 あとで工兵隊長に聞いたのだが、前の大雨の晩に奴はここも補強することを考えていたそうだ。

 だが結局は候補から外した。堤防をはじめもっと優先すべき所が何箇所もあって手が回らなかったし、何より記録によれば俺たちが居座りはじめる少し前に補強工事をしたばかりで、なら今回は不要と判断したのだ。

 ――工兵隊長の奴、悔やんでも悔やみきれんと顔を覆っていたな。



『……枯れる』

 その東側にいる連中を前に、奴は呆然と呟いた。

 俺は一瞬何のことだかわからなかった。

『枯れる。枯れる! みんな枯れる!』

 狂ったようにそいつは叫びだした。

『枯れる! みんな死んじまう! お前ら逃げろ、そこにいると死ぬぞ! 早く!』

 何だ。何を言っている。こいつは一体何の話をしている。

 そこまで考えてやっと分かった。

 こいつの目には見えているのだ。斜面下にいる連中の胸の花が。

 どれもこれも同じように枯れ果てているのが。

『逃げろ! 枯れ……』

 どうっと、不吉な音が耳に響いた。

 斜面の土砂が崩れる音だった。

 土というより、せき止められていた濁った水が解放されてほとばしり出るのに似ていた。

 土砂は東側の連中を一息に飲み込んだ。

 身動きする暇も声を上げる間もありはせん。

 一人残らず下敷きだ。



 細かいことを考えるより先に頭に浮かんだのは、とにかく助けなければということだった。

 この辺のことは、実を言うとあまりよく覚えていない。

 呆然としとる周りの連中に、医者と工兵隊を呼んで来い、と叫んだ覚えはある。

 奴に肩を掴まれて、よせ、とか危ない、とかお前まで枯れるぞ、とか言われたような気もするのだが……たぶん振り払って強引に行ったのだろうな。

 そこで一度ぷつっと記憶が途切れて、土の中に埋もれた子供を掘り出そうとしとる場面に繋がるのだ。



 子供には土砂から顔の一部だけ出して埋もれていた。かろうじて地表に出とる口に手をかざしてみるとまだ少し息があった。早く助け出して手当てをさせればきっと生き延びられると思った。

 工具は工兵隊の到着まで待つしかない、それまで使えるのは素手だけだ。じきに爪が剥がれて、指の先まで妙な形に潰れてきた。それでもなかなか掘り進まない。もどかしいどころの話ではなかった。

『よせ、ファル、無駄だ!』

 土と砂利をまた指でかきわけようとしたところで、追ってきた奴に後ろから腕を掴まれた。

『避難しろ、ここにいるとお前まで……』

 いやだ、と叫んだのか駄目だ、と喚いたのか覚えていない。

 止めて引きずり戻そうとするそいつを振りほどいて、俺はまた掘る作業を始めた。

『ファル!』

 奴が悲鳴じみた声を上げた。



 今思えば、このときの俺の行動は実に無謀だった。

 一度斜面が崩れて落ちてきたということは、連鎖的にまた崩れてくるおそれがあるということだ。

 だがあのときの俺にそんなことは頭になかった。

 動揺していたのだろうな。戦場でもない平和な光景が突然崩れたことに。それによって目の前の人間がなすすべもなく死んでいくことに。

 言い訳にもならんが。



 子供の頭がようやく全部地表に出た。まだ生きてはいたが呼吸はどんどん弱まっていた。

『戻れ、可哀想だがその子は諦めろ!』

 奴がひときわ強く俺の肩を掴んだ。

『ファル! 駄目だ、これ以上は! 頼む……!』

 訴える声を俺はまた無視した。頭が出たなら次は肩と、潰れた指の先でまた土を掘りはじめた。

 掘りはじめようとして、できなかった。

 太い腕で羽交い絞めにされて、それ以上動けなくなってしまった。

 言っただろう。腕相撲はいつも奴の勝ちだったと。力は奴の方が強かったと。



 逃れようともがく俺を、奴は渾身の力でぶん投げた。

 さっきまで俺たちがいた西側に向かって。

 俺はまともに吹っ飛ばされて、地面に思いきり叩きつけられた。



 ちょうどそのときだった。

 崩れたばかりの斜面が、ドッ……と不吉な音を立てた。

 崩壊して不安定になった地形から、何かが転がり落ちてくる音だった。

 「何か」が何かはすぐに分かった。

 岩だ。それも巨大な。

 凄まじい勢いで転がるその岩は、斜面の半ばで土中から突き出た別の岩に当たって、何かの冗談のように高く跳んだ。



 その次の瞬間見た光景を、俺は死ぬまで忘れんと思う。

 岩は恐ろしいほど正確に降った。つい何秒か前まで俺がいた場所に。

 俺が助け出そうとしていたあの子供と、たった今俺をぶん投げた奴の真上に。

 ぐしゃり、と嫌な音がやけに大きく響いた。



 上がった悲鳴は俺のだったのか。

 それとも声すら上げられずに、ただ他の連中が叫ぶのを聞いていたのか。



 土から頭だけ出していた子供は、すっかり岩の下敷きになっていた。 

 あまり想像はしたくないが……たぶん潰れていたのだろうな。俺もあの場に残っていたら同じように潰れていたはずだ。

 奴もやっぱり潰れていた。ただし下敷きは下半身だけで、どういうわけか上半身は無事だった。

 ああそうだ。まだ生きていたのだよ。

 虫の息ではあったが少なくとも即死はまぬがれていた。

 神がせめてもの慈悲にお手を添えてくださったのか……いや、多分悪魔だろうな。

 即死のほうが遥かに楽ではあったろうから。



『だから……言っただろ』

 苦しい息の下で、だがそいつは唇の端で微笑んだ。

 見慣れた笑みだった。まだお互いに戦奴だった頃、腕相撲の賭けで負けて半べそをかく俺によく見せていた顔だった。

 しょうがない奴だなお前はとでも言いたげな。

『でもまあ……間に合ってよかった。お前が無事でよかった』

 何がいいものか。

 普段だったらそう言い返していた。だがこのときの俺はひたすら泣きじゃくっていて、そんな余裕は欠片もなかった。

『そう泣くな』

『枯れるときってのは、な、誰にでも来るんだ』

『俺は今がそのときなんだろうさ……』

 何と返したろうか、あのときの俺は。

 ああそうだ、「死ぬな」だ。馬鹿の一つ覚えで死ぬな死ぬなと繰り返した。

 すまんとも言ったかもしれん。俺のせいだとも言ったかもしれん。

 取り乱す俺とは逆に奴は落ち着いたものだった。俺を宥めるようにまた少し笑うと、ふと打って変わって表情を沈ませた。

『ファル。さっきの……話の、続き、だが』

 しゃべるな、と俺は言った。息をするだけでもきつい状態のはずだった。

 じき工兵隊が来る、医者も来る、この岩をどけて処置してもらえる、だからそれまでしゃべるな無理をするな。

 だが奴は俺をあっさり無視して、言いかけた言葉をそのまま続けた。

『お前の胸の花は……今、満開だ』

 黙れ。しゃべるな。よけいな体力を使うな。

『やっぱり、百合だったよ。真っ白な、大輪の、きれいな……百合だ』

『これまで見た中でもいっとう見事な花だ』

『今が、満開だ』

 そんなことは今関係ないだろう。

『だから、ファル。気をつけろ』

 ごぷっと、奴の口から血があふれた。

『気を、つけ……』

 それっきり奴は動かなくなって、そして二度と動くことはなかった。



 と、まあ、俺の話はこんなところだな。

 昔語りのような話し方をしてしまったが、実は土砂崩れのあたりはつい最近の出来事だ。まだ半年とは経っとらんよ。

 あの日のことは今でもたまに夢に見てうなされる。たぶん向こう数十年、いやきっと一生見続けるのだろう。それでいいと思っているしそうでなければいかんとも思っている。奴を死なせてしまったのは俺の過ちなのでな。

 む、怖い話を所望されたのに、気づいたら俺の思い出話になってしまったぞ。

 まあ、つまりはだ。俺の親友は他人の胸に花が見える、少し変わった男だったということだ。

 他のところは普通の人間と変わらんかったがな。



 ――そういえば。

 あ、いや、大したことではない。

 今になって少し気になることがあってな。



 奴は俺の花が満開だと言った。白くて大きなきれいな百合だと言った。

 ならなぜ奴は気をつけろなどと言ったのだろう。

 枯れかけならともかく満開なら、何も心配することはないではないか?



 まあ……良いか。

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