人喰い鬼と焼きビーフン
――これをサエカが?
――うん。がんばってみた。どう? おいしい?
――まあまあ。ちょっと味が薄いかな。
――まったくもう。そういう時は、素直に「おいしい」って言えばいいの!
――ああ。今度からそうする。
――サエカ! サエカッ! おおおお!
――ちっ。薄味だな。こんな女、不味くて喰いきれねぇや。
打ち捨てられた亡骸を目前にして、タケルは慟哭した。
喰われる様を傍観するしかなかった、無力。
左肩から脇腹までを失い横たわった、恋人。
命を奪い、その命までもを放棄した、横暴。
伝えるべき言葉を伝えていなかった、愚昧。
何が悲しいのか。何が悔しいのか。彼にはもうわからなかった。
だから彼は、道を見失った。
<人喰い鬼と焼きビーフン>
1
鬼は雑食で、熊でも鮫でもキャベツでもコオロギでも人間でも口にする。
彼は年に一度、差し出された村人を一人だけ、喰う。対価として、普段は周辺の害虫・害獣・雑草を喰う。
結果、鬼は村に豊穣と安定をもたらすことになる。
村と鬼の間で、そういう契約が成されているのだ。
この村では年間一人が確実に死ぬ。
だが鬼の来ない隣村では、年間十数人が狼や熊の餌食となっている。イナゴの大群により不作となった年もある。
大局的に見れば、人喰い鬼が棲みついたこの村は平和と言える。
もちろん、近しい者が喰われない限り、だ。
2
「焼きビーフンいらんかねー。東国名物・焼きビーフンだよー。おいしいよー」
公園にて、老婆が台車付きの屋台を広げ、客引きをしている。声を張り上げるその様子は、見ている方が心配になってしまうほどだ。
「焼きビーフンいらんかねー。東国名物・焼きビーフンだよー。おいしいよー」
村人たちは遠目に屋台を見つめるだけで、誰もビーフンを買おうとはしなかった。
――ヤキビーフンだって? なんだろうね。買ってみようか。
――やめとこうよ、なんだか怪しいし。
東国との交流が希薄なこの村の人々は、『東国名物』と言われても好奇心より不可解さの方が勝ってしまう。
ゆえに、客足は皆無だった。
しかしそれでも老婆は諦めず、翌日も翌々日も、公園でビーフンの屋台を広げた。
3
一週間が過ぎた頃。
四十代半ばほどの男性が、老婆の屋台を訪れた。
「婆さん。そのヤキビーフンってのは、うまいのかい」
その声を聞いた途端、老婆の顔が少女のように輝いた。
「ああ、おいしいとも。なんせ、あたしがちっちゃな頃から母さんが作ってくれた、思い出の味なんだから!」
「そうか。なら、ひとつ頼む」
「はいよ! 腕によりをかけて焼くからねぇ」
鉄板の上で、ビーフンが魚のように跳ね回る。
ピーマンやネギやキャベツから漏れ出た水分が、ジウジウと音を立てる。
「これに鶏がらと、塩コショウと、すだちをかけるのがコツさ」
柑橘系の爽やかな、それでいて甘すぎない香りが加わり、鼻腔をくすぐる。
男は、無意識に唾を呑みこんでいた。
「婆さん、これはきっとうまいんだろうな。もうわかるぜ。間違いなくうまいものだ」
「だからそう言ったじゃないか。屋台ってのはね、台所とは違うんだ。目で。耳で。鼻で。口で。そして最後に胸で、おいしさを感じさせなきゃならんのさ」
老婆の熱弁に、男はただただ頷いた。
「はい、お待ち」
やがて、ビーフンの盛られた皿と、割り箸が差し出された。
男は割り箸をしげしげと見つめると、突然かじりついた。
「あらあら、それは食べ物じゃないよ!」
「いや、喰えるが。うまくはないな」
モグモグと割り箸を咀嚼しながら、男が答える。
「そうか。この村の人たちは箸を知らないんだね」
「ハシ? それも東国の食い物なのか」
「ええと、ほら、こうやってビーフンを挟んで食べるための道具なんだけど……いきなり使うのは難しいか。しまったねぇ、フォークでも用意しておくんだった」
老婆が独り言を言っているうちに、男は手づかみでビーフンを食べ始める。
「ああ、なんて行儀の悪い。それに、熱いでしょうに」
「気にするな。俺はいつも手づかみだ」
言う通り、熱さを意に介した様子もない。
「ところで、どう? おいしいかい?」
「ああ。うまい」
会話をするのも面倒だと言わんばかりに、彼はモグモグとビーフンを食べ続けた。
それを老婆は、満足そうに見つめていた。
「俺、こういう塩味の効いた細長いものが大好きなんだ」
「そりゃよかった」
「本当にうまかった。もっと早くヤキビーフンに出会えていれば、俺は……」
「ありがとう。あら、ここにはビーフンみたいな料理はないのかい」
すると男は、少し困ったような表情を浮かべた。
「あると言えばあるが……料理、ではないね」
「へえ? よかったら教えておくれよ。この村のおいしいものも、あたしは知りたいんだ。まだ何にも知らないことだらけでね」
数秒の沈黙の後、男は真面目な顔をして答えた。
「血管」
「いやだよあんた、悪い冗談」
4
それから毎日、男は屋台に顔を出すようになった。老婆も当初と変わらず、毎日屋台を出した。雨の日も、風の日も。
客は、いつも一人だけだった。
それどころか、以前は遠目に見ていた数名の村人たちも、ぱったりと公園に姿を現さなくなった。
公園の外にはいるのに、屋台を開く時間になると、いつも誰も通らない。
そんな中、二人は少しずつ雑談をするようになった。
老婆はミンシェという名前で、男はゴルバという名前だとわかった。
だが、そうとわかった以降も、ミンシェはゴルバを『あんた』と呼び、ゴルバはミンシェを『婆さん』と呼んだ。
ゴルバはミンシェに、この村のことを色々教えた。
だが、人喰い鬼のことだけは教えなかった。教えられなかった。
5
季節が過ぎ、冬がやってきた。
「焼きビーフンいらんかねー。東国名物・焼きビーフンだよー。おいしいよー」
ミンシェは今日も、屋台の前に立っている。
ゴルバは今日も、屋台の前を訪れる。
「婆さん、雪が降ってるじゃないか。今日ぐらい休めよ。風邪引くぞ」
「あらやだ。あんた、あたしのこと心配してくれてるのかい?」
「……別にそんなつもりはないが」
思わず目を逸らすゴルバ。
(俺が、心配? 人間を? へっ、それこそ悪い冗談だ)
ミンシェは優しく微笑む。
「ありがとうねぇ。でも、あたしも儲かってないからね。毎日がんばらなきゃなんだよ。あんたが友達でも連れてきてくれたらねぇ」
その言葉が、ゴルバの胸に突き刺さる。
(もしかして、俺がここに来ているせいで……? けど、俺は婆さんの焼きビーフンが……)
直後、ミンシェはハッと気づいたように言い直した。
「あっ、やだやだ。せっかくいつも来てくれてるのに、そんなこと言っちゃあ罰が当たるね! さ、今日もおいしいよ!」
毅然と笑顔を作るミンシェの姿に、ゴルバの胸がちくりと痛んだ。
6
長い冬は続く。
公園には屋台が一台。
ミンシェとゴルバ。
いつもの風景。
ただし、この日は少し違った。
「一杯、いいですか」
不意に発せられた声のする方へ、ミンシェもゴルバも向き直った。
そこには細身の、若い青年が佇んでいた。
しばらく時が止まったようにしていたが、やがてミンシェは愛想良く笑った。
「ああ! どうぞどうぞ、ゆっくりしていきなさいな!」
「どうも」
そう言うと青年はゴルバの隣に座った。
新しい客が来た――!
ミンシェは当然のこと、ゴルバも不思議と安堵を憶えていた。
「いやあ、見ての通り小さい店だけど、味は保証するからね! 味わっておくれ」
青年は目前で焼かれるビーフンを、頬杖をつきながら眺めている。
「へぇ、これがビーフンか。食べるのは初めてだなぁ。何でできてるんでしたっけ」
「これはね、米で作るんだよ」
折込済みというように深く頷くと、青年は肩にかけた鞄から一本の酒瓶を取り出した。
「偶然ですね。実はこれも、米から作るお酒でして。もしよかったらどうです?」
「あら、いいの? じゃあ、これを焼き上げてから頂こうかしら」
「ほら、お客さんも一杯」
急に話を振られて、戸惑い気味にゴルバは答えた。
「あ、ああ。もらおう」
そう言って、急いで水を飲み干してからコップを向けた。
「あらおいしい。お酒なんて呑むの、久しぶりだわ。最近買う余裕がなくって」
早速酔いが回ったのか、ミンシェの顔が赤みがかってゆく。
青年はそれに、爽やかな微笑を返す。
「ははは。またそんな。大丈夫ですよ。明日からはきっともっとお客さんが来るはずです」
「そうだね。こうして坊やも来てくれたんだし、幸先は良いね」
「そうですよ。気を強く持ってください」
談笑する二人を尻目に、ゴルバは青ざめた顔をして俯いている。
「やだよあんた、そんなにお酒弱かったのね」
「んん……そうだな……実は、コイツには弱いんだ……」
ゴルバは押し殺した声でつぶやく。
「ところで坊やは、どうしてウチに来てくれたんだい? 実は、なかなか客足が芳しくなくて困ってたところなんだよ」
「ああ、それはですね――」
言いながら青年は、俯いたままのゴルバの肩に手を回した。
「古い――友人なんですよ。彼の」
「あら!」
ミンシェは口の前で軽く手を合わせた。
対してゴルバは、ハッとして青年の方にゆっくり視線だけを向けた。
「あんた、やるじゃないか。本当に友達を連れてきてくれたんだねぇ。ありがとう」
「そうなんですよ。彼がいなければ、ぼくはここに来てないですから」
そう言って青年は、腰をかがめてゴルバの顔を覗き込んだ。そして、彼だけに見えるように、暗い笑みを浮かべる。
「小僧、お前――」
「黙れ」
青年は人差し指を口のところで立て、小さな声で囁いた。
そんな二人の様子には気づくこともなく、ミンシェは空を見上げて言った。
「――ああ。うれしいねぇ」
そして彼女は、ゆっくりと仰向けに崩れ落ちた。
7
「婆さんっ」
かすれた声を振り絞り、ゴルバはミンシェの方へヨタヨタと歩いていく。
青年は意外そうな表情で、口を開けている。
ミンシェは目を閉じたまま、ゴルバにささやく。
「あんたのことを笑えないよ。あたしも久々で、酔いが回ったみたいだ。歳だわね」
「バカヤロウ。婆さんのは風邪だ。顔真っ赤だぞ」
「そうかい。気づかなかった。自分の顔は見えないじゃないか」
ゴルバは歯を食いしばりながら、ミンシェの髪を優しくなでる。
「だから言ったじゃねぇか。風邪ひくぞって」
「それでもあんたがおいしそうに食べに来てくれるから、がんばっちゃったわけさ」
「……」
「ねぇ、あんた。そこの坊やも」
自分が呼ばれるとは思わず、青年も小走りにミンシェの方へ寄った。
「作り手はね。『おいしい』って言われたら、それだけで、全部、ぜーんぶ、報われちゃうんだよ」
「……」
「……」
青年もゴルバも、黙って話の続きを待った。
「本当においしく作れたのか不安なんだけど、でもやっぱり『おいしい』って言って欲しくて、ずっと、ずーっと、がんばっちゃうんだよ」
その言葉で、青年の記憶が呼び起こされた。
いつか、幸せだった頃に聞いた、あの言葉。
サエカのあの言葉。
――うん。がんばってみた。どう? おいしい?
「そんな、バカヤロウなの」
そうして、笑って、ミンシェは終わった。
「婆さん! 婆さんっ! おおおお!」
ゴルバは慟哭した。
「それはっ……」
青年――タケルは、背後からゴルバを蹴り倒した。
叫ぶ。
「それは俺が言った! 俺が叫んだ! あの時、鬼よ、お前がサエカを喰った時に!」
サエカ。
サエカ。
サエカ!
サエカを殺されて以来、タケルは脳裏で彼女の名前を何度も呼んだ。
誇張ではなく、数万回は呼んだ。
だが改めて口に出してみると、もう止まらない。
鬼に復讐を誓い、数年間押し殺してきた感情が、濁流となって溢れ出す。
「お前はサエカを喰った! それは受け容れよう。失った苦しみを抱いているのは俺だけじゃない。そう思って、どうにか受け容れられる振りはできるようになった」
激昂しながら、倒れたゴルバの顔を踏みにじる。
「だがお前はサエカを『不味い』と言い、打ち捨てた! だったら何だったんだ! サエカは!? お前は!? 俺は!? 何だったと言うんだっ!」
「サエカ……あの時の女か」
味の薄い女がいた。そのことはゴルバ自身も覚えていた。名前など知らなかったが。
「それをお前は、こんな、こんな料理を『うまい』と言い、通い詰めていたと。サエカが? この一皿に劣ると? なあ、劣るってわけか! こんな安物に!」
感極まったタケルは、手をつけていない自分のビーフンの皿を掴み、投げ捨てようと振りかぶった。
「食ってみりゃあいい。それを捨てたら……俺と同じだ」
倒れ、踏みつけられたまま、ゴルバは強い声で言い切る。
気圧されたタケルは動きを止める。
そしてゆっくりとゴルバの顔から足を放す。
皿を屋台に置き直し、箸を持ち、ビーフンをすする。
「こんな安物に――!」
――まったくもう。そういう時は、素直に「おいしい」って言えばいいの!
――ああ。今度からそうする。
――ああ。今度からそうする。
――ああ。今度からそうする。
『今度』が訪れることはなかった。今までは。
今が、『今度』だった。
タケルの頬に、ほろほろと涙が伝う。
「そうだ、あんたの姿を見て思い出した」
そう言ってゴルバは、うつ伏せだった体をごろりと回し、ミンシェと同じように仰向けになった。
「おぉい……婆さん、聞こえるかぁ……今日は伝えたいことがあったんだけどなぁ……」
当然、返事など来るはずもない。が、構わず続ける。
「ハシ、使えるようになったんだ」
そうして、笑って、ゴルバも終わった。
「……おいしい」
サエカ。聞こえるかい。
遅くなったけど。
本当に遅くなったけど。
俺、ようやく素直に言えるようになったんだ。
お前の作ったクリームシチュー、おいしかった。
憑き物が落ちたようだ。
タケルは涙を拭いて、ミンシェとゴルバの亡骸を並べた。
そして二人の間に、酒瓶を置く。
ラベルには、『鬼殺し』と書いてあった。
8
「ごっそーさん。うまかったよ」
「はい! ありがとうございます!」
何が悲しいのか。何が悔しいのか。彼にはもうわからなかった。
けれど彼は、道を再び見出した。
「焼きビーフンいらんかねー。東国名物・焼きビーフンだよー。おいしいよー」
そうして、笑って、タケルは始まった。