直と庄一
日本海軍航空隊に若くした散った2人の撃墜王がいた
二人は伝説のバディだった
第一章 凍てつく土と、飢えた知性
活字は、腹を満たさない。
直はそれを知っていた。知っていながら、夜ごと石油ランプの下に頁を広げた。石川啄木。東北の貧困と詩心を道連れに死んだ男の、みすぼらしくも美しい嘆き。
はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
父は警察官だった。家は食えた。だからこそ、直には周囲の貧しさが余計に見えた。隣家の子が弁当を持ってこない日。友人の父が出稼ぎに消えて戻らない冬。宮城・角田の土は、啄木の詩とおなじ匂いがした。湿って、暗くて、それでも何かを待っている匂い。
直は詩が好きだった。
それが、恥だと気づくまでは。
庄一の手は、同い年の少年の手ではなかった。
新潟・古志。豪雪地帯の農家の六男。生まれた瞬間から、この家には彼の分の飯がないことを、誰も口にしなかったが全員が知っていた。
口減らし。
庄一はその言葉を辞書で引いたことがない。辞書など家になかったし、引かなくてもわかった。冬の朝、馬の世話をしながら、湯気の立つ糞を素手で片づけながら、自分の腹が鳴っても馬に先に食わせながら——体が全部、教えてくれた。
俺がいると、米が減る。
俺がいなければ、兄たちが食える。
それだけのことだった。庄一にとって、それは絶望ではなかった。ただの、算数だった。
直が初めて人を殴ったのは、十四の秋だった。
相手は上級生だった。名前は覚えていない。覚える必要がなかった。そいつは直の家の近くに住む農家の息子で、父親が酒に溺れ、母親が夜に出かけるような家の子だった。直はそいつを哀れだと思っていた。少なくとも、殴る前までは。
事の発端は些細だった。そいつが直の弟を校門の外で待ち伏せ、靴を泥に投げ込んだ。理由など最初からなかった。ただ弱いものを踏みにじることで、自分の惨めさを一時忘れたかっただけだ。
直は止めに入った。言葉で。
やめろ。お前がすることじゃない。
上級生は笑った。詩を読む警察官の息子が何を言う、という顔で笑った。
言葉は、届かなかった。
次の瞬間、直の右拳は相手の頬骨を捉えていた。一発。二発。地面に崩れた相手の襟を掴んで、もう一発。血が出るまで、止まれなかった。
後で父に叱られた。警察官の息子が暴力を振るうとはなにごとか、と。直は黙って聞いた。反論しなかった。
ただ一つのことだけを、胸の奥で確かめていた。
言葉では、守れない。
啄木は詩を書いた。東北の貧困を、魂の嘆きを、あれほど美しく書いた。それで何が変わったか。啄木の家族は救われたか。妻は。子は。
直は石油ランプの下で詩集を閉じた。
長い時間、表紙を見つめた。
それから、押し入れの奥にしまった。
庄一が軍を志したのは、算盤のせいだった。
ある冬の夜、母が台所で帳簿をつけていた。庄一は眠れなくて、そっと覗いた。数字の列。米の収量。税。借金の利子。六人の息子の食い扶持。
母の指が、算盤の珠を弾くたびに止まった。
また弾いた。また止まった。
庄一は見ていた。母が何度計算し直しても、答えが変わらないことを、子供なりに理解した。数字は嘘をつかない。どう並べ替えても、この家には米が足りない。
翌朝、庄一は兄に聞いた。軍に入ったら、家に金を送れるか、と。
兄は驚いた顔をした。お前まだ子供だろう、と言いかけて、やめた。
送れる。
それだけ言った。
庄一はその夜から、飯を一口ずつ減らし始めた。胃を小さくする練習だった。軍に入るには体が要る。体を作るには飯が要る。しかし飯を食えば米が減る。ならば今のうちに慣れておけばいい——十二歳の庄一の論理は、そういうものだった。
誰にも言わなかった。言う必要がなかった。
俺の体は、一番高く売れる道具だ。
それが庄一の、最初の覚悟だった。
宮城と新潟。二つの土地で、二人の少年が同じ冬を越えた。
一人は言葉を押し入れにしまい、一人は腹を減らす練習をした。
まだ互いの名前も知らぬまま、二人はそれぞれの仕方で、同じ時代の重さを引き受けていた。
第二章 邂逅、あるいは魂の洗濯
松山基地の空気は、潮と油の匂いがした。
直が初めて庄一を見たのは、格納庫の脇だった。夕暮れ時。整備兵たちが引き上げた後の静けさの中で、一人の男が飛行服を桶の水で洗っていた。
泥だらけだった。土埃と排気と、おそらくは血の混じった、くすんだ色の染み。それを男は黙々と、農作業でもするような手つきで擦っていた。急ぎもせず、嫌がりもせず、ただ丁寧に。
直は足を止めた。
なんだ、あの男は。
飛行服は消耗品だった。撃墜されれば燃える。明日には新しいものが支給される。洗う意味など、合理的には存在しない。なのにその男は、まるで母親が子供の着物を洗うような顔で、桶の水を換えていた。
「もったいないだろ」
直は気づいたら声をかけていた。
男が顔を上げた。日焼けした、大きな顔。目が丸くて、少し間が抜けている。
「何がですか」
「その手間が」
男はきょとんとした顔で直を見た。それからまた飛行服に目を戻して言った。
「汚いまま着るのは、もっともったいない気がして」
直は返す言葉がなかった。
その男の名が杉田庄一だと知ったのは、翌日のことだった。
庄一は菅野直という男が最初から気に入った。
理由はうまく言えなかった。強いのはわかった。目が違う。あの種の目をした人間を、庄一は一度だけ見たことがあった。吹雪の中で死んだ馬の目——ではなく、その馬を最後まで小屋に引き入れようとした兄の目だ。何かを諦めた人間の、静かな燃え方。
ただ、菅野さんは少し変わっていると思った。
夜、兵舎の隅で何かを読んでいる。近づいてみると、薄い本だった。
「何読んでんですか」
菅野は本を伏せた。一拍置いて、答えた。
「……詩だ」
「詩」
庄一は復唱した。詩というものを読んだことがなかった。読む暇がなかったし、読んで腹が膨れるとも思えなかった。
「景気いいですか、そういうの」
菅野の表情が、かすかに動いた。笑いとも困惑ともつかない、奇妙な顔だった。
「……景気は悪い」
「そうですか」
庄一はそれ以上聞かなかった。腹が減っていたので、干し飯を取り出して食べ始めた。菅野がこちらを見ていたが、気にしなかった。
景気の悪い詩を読む人間が、なぜあんな目をしているのか。
庄一には、よくわからなかった。
二人が初めて共に飛んだ日、庄一は悟った。
菅野直という人間は、空では別の生き物になる。
地上では鋭く、どこか投げやりで、人を遠ざけるような気配を纏っていた男が、操縦桿を握った瞬間に変わった。無駄がなくなる。迷いがなくなる。まるで言葉を全て捨てた代わりに、機体そのものが彼の言葉になるような——
庄一は一番機の後ろで、その軌跡を目で追った。
守らなければ、と思った。
任務だから、ではなかった。そういう感情でもなかった。ただ、あの飛び方をする人間を、地面に落としてはいけないという、農夫が種を守るような、素朴な確信だった。
夜、直は兵舎の外に出た。月が出ていた。
庄一が後ろにいた。気配で分かった。振り返らなかった。
「菅野さん」
「なんだ」
「啄木って、家族に仕送りしましたか」
直は少し黙った。
「していない。借金を作って死んだ」
「そうですか」庄一は特に驚かなかった。「じゃあ俺には向いてないな、詩は」
直はその言葉を聞いて、初めて笑った。声を出さず、ただ口の端が動いた。
向いていない。そうだ。庄一には向いていない。詩も、絶望も、美しい嘆きも、何もかもが向いていない。この男は米と金と家族の屋根のことしか考えていない。
それが、直にはひどく眩しかった。
押し入れにしまった詩集のことを、直は思った。
葬ったつもりだった。
けれど庄一の隣に立つと、葬れていないことが、なぜかそれほど恥ずかしくなかった。
第三章 蒼穹の労働
空は、職場だった。
直にとって、それは最初からそうだった。感傷も、高揚も、必要なかった。眼下に広がる海の青さに見惚れる暇があれば、敵機の位置を計算する。雲の形を詩に喩える代わりに、太陽の角度から奇襲の死角を読む。
空は、言葉を必要としない場所だった。
それだけで、十分だった。
庄一は飛びながら、よく家のことを考えた。
不謹慎だとは思わなかった。考えることと、操縦することは、庄一の中では別の引き出しに入っていた。体が機体を動かす間、頭は新潟の母の顔を思い浮かべていた。今月の仕送りは届いたか。兄の田んぼは雪解け後の水はけが悪いと言っていたが、あの低いところの畦は直ったか。
敵機が来る。
庄一は引き出しを閉めた。体だけになった。
翼を傾け、速度を落とし、一番機の死角に入り込もうとする影を弾く。菅野さんには見えていない角度だ。だから俺が見る。それだけのことだった。
敵機が離脱する。
庄一はまた引き出しを開けた。畦の続きを考えた。
ある夜、二人は撃墜数の話をした。
「今月で十二だ」と直が言った。事務的な口調だった。
「十二」庄一は指を折った。「屋根、直りますね」
直が顔を上げた。「何の話だ」
「うちの実家の屋根です。吹き替えに職人を頼むと、米が何俵かかるか、ずっと計算してて」庄一は少し考えた。「菅野さんのうちは、何に使いますか」
直は答えなかった。しばらく黙っていた。
「……弟の学費だ」
「そうですか」庄一は満足そうに頷いた。「じゃあお互い、よく働きましたね、今月」
直は返事をしなかった。
ただ、窓の外の暗い空を見ながら、思った。
俺たちは何を戦っているのか、と問われたことがある。源田司令に、ではなく、自分自身に。国のため、という答えは嘘ではないが、全部でもない。
庄一の言葉が、答えに近かった。
よく働きましたね、今月。
それだけのことだった。それだけのことが、直には、ひどく正確に思えた。
源田司令は、二人のことをよく見ていた。
菅野は猛将だった。敵に向かう時の凄みは、他の追随を許さない。しかし源田が気になるのは、杉田庄一の隣に立つ菅野の顔だった。
別の顔になる。
怒気が抜ける。肩が、わずかに下がる。まるで長い間握り続けていた刃を、鞘に収めたような——そんな一瞬が、確かにある。
杉田は何も特別なことをしていない。飯を食い、機体を磨き、飛行服を洗い、寝る。それだけだ。それだけなのに、菅野はあの男の傍でだけ、少年の顔になる。
源田は記録に書かなかった。
書く言葉を、持っていなかった。
その日の帰投後、庄一は直の機体を眺めていた。被弾痕が二つ、主翼の付け根に近い。整備兵が塞いでいく穴を見ながら、庄一は思った。
もう少し早く動けたなら。
悔しいとか、申し訳ないとか、そういう言葉とは少し違う感情だった。もっと単純な、農夫が天気を悔しがるような——あの雨さえ来なければ、という、素朴な惜しさ。
「見てるな」
直の声がした。
「穴、二つですね」庄一は言った。
「お前のせいじゃない」
「わかってます」庄一はあっさり言った。「でも、もったいない」
直は少し黙った。
「……その言葉、よく使うな」
「だって本当にもったいないので」
直は何も言わなかった。ただ、また口の端が動いた。
庄一はそれで十分だった。
菅野さんが笑うと、空が少し広くなる気がした。理由はわからなかったが、庄一にとっては、それも一つの算数だった。
夜、直は独り言のように言った。
「俺たちは、空を耕しているんだな」
庄一は干し飯を噛みながら答えた。
「そうですね。で、今月の収穫はまずまずでしたね」
直は黙った。
それから、静かに笑った。今度は声が、少しだけ出た。
第四章 折れた柱、枯れたペン
四月の空は、残酷なほど青かった。
庄一が逝ったのは、そういう日だった。
直は見ていた。見ていたが、間に合わなかった。庄一機が炎を吹いた瞬間、直の体は既に操縦桿を引いていた。引いても、届かなかった。距離の問題ではなかった。時間の問題だった。世界にはどうにもならない時間というものがあって、その日の午前、直はそれを初めて体温で知った。
庄一機は海へ落ちた。
炎が、青い水面に消えた。
直は叫ばなかった。声が出なかったのではない。叫ぶという行為が、何の意味も持たないことを、体が先に知っていた。
基地に戻った直は、飯を食わなかった。
翌日も食わなかった。
三日目に源田司令が部屋を訪ねた。直は壁を見ていた。源田は何も言わずに隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。
「杉田は、お前を守って逝った」
直は答えなかった。
「わかっている」
それだけ言った。わかっていた。だからこそ、どうしようもなかった。守られた。また守られた。言葉では守れないと誓った人間が、最後まで言葉ではない何かで守られ続けた。
庄一は何も言わなかった。
最期まで、何も。
ただ飛んで、盾になって、海に消えた。
それが庄一という人間の、全部だった。
直は夜、庄一の荷物を整理するように言われた。
大した荷物ではなかった。着替えが少し。実家からの手紙が束になったもの。算盤。それから——
飛行服が、畳んであった。
洗ってあった。
直は動けなかった。
庄一はいつも、飛ぶ前に飛行服を洗っていた。帰投したら洗う、ではなく、飛ぶ前に洗う。汚れたまま死にたくない、という美学ではなかった。ただの習慣だった。農家の朝のような、体に沁みついた順序。
その習慣が、ここに残っていた。
庄一はもう戻らないのに、飛行服だけが、次の出撃を待っていた。
直は飛行服を手に取った。
畳みの跡がついていた。庄一の大きな手の、不器用な畳み跡が。
その跡に指を当てて、直は初めて、声を出した。
誰もいない部屋で、壁に向かって、一度だけ。
源田司令が本気で心配したのは、その後の直だった。
飛ぶ。帰る。飯を少し食う。寝る。また飛ぶ。
動いてはいた。戦ってもいた。しかし何かが違った。庄一がいた頃の菅野は、怒気の中に芯があった。今の菅野には、芯がなかった。燃えているが、根がない。風が吹けば折れる炎だった。
源田は直を呼んだ。
「無理に飛ぶな」
直は答えた。
「飛ばなければ、何もありません」
源田は何も言えなかった。
間違っていなかった。間違っていなかったから、言えなかった。
転機は、思わぬところから来た。
ある夜、直は庄一の飛行服を取り出した。荷物整理の日から、ずっと手元に置いていた。理由はわからなかった。捨てられなかっただけかもしれない。
袖を通してみた。
庄一の体に合わせた服は、直には大きかった。肩が余った。袖が余った。
それでも、直は暫くそのままでいた。
大きな服の中で、直は考えた。
庄一が守りたかったのは何だったか。
新潟の屋根。母の算盤。兄の畦。白い飯の匂い。そういうものだった。国でも名誉でも、ましてや詩でもなかった。ただの、生活だった。
庄一はその生活を守るために空を耕して、俺を守って、逝った。
ならば。
直は飛行服の袖を、自分の手首に合わせて折った。
ならば、今度は俺が守る番だ。
庄一が洗い続けたこの服を着て。庄一が見ていた角度から、庄一が守りたかった生活を、今度は俺が守る。
それだけのことだった。
それだけのことが、直の根になった。
翌朝、直は飯を食った。
源田司令がそれを見た。何も言わなかった。
ただ、記録に一行だけ書いた。
——菅野、飯を食う。
第五章 最後の一行
八月の空は、夏の重さで白く霞んでいた。
直は出撃前、庄一の飛行服を畳んだ。自分の服を着る前に、必ずそうするようになっていた。いつからか、覚えていない。ただそうしないと、飛べない気がした。農家の朝の習慣が、いつの間にか直の体にも沁みていた。
畳みながら、直は思った。
庄一、お前は不思議な男だった。
詩の景気も聞かず、飯の心配ばかりして、飛行服を洗い続けた。俺が何を抱えているか、最後まで言葉では理解しなかった。それなのに、お前の隣にいると、俺は初めて、葬れないものを葬れないまま持っていることが、恥じゃない気がした。
啄木を、俺はまだ葬れていない。
だが今はもう、それでいいと思っている。
「ワレ、菅野一番」
無線に自分の声が流れた。
編隊が動く。直は操縦桿を握った。手に馴染んだ重さ。何百回触れても、同じ重さ。この重さだけは、変わらなかった。
敵影が見えた。
直は計算した。距離。速度。角度。太陽の位置。いつもの算数だった。庄一がいた頃も、いなくなってからも、空の算数だけは変わらなかった。
引き金を引いた。
炎が上がった。
機銃弾が来たのは、その直後だった。
衝撃よりも先に、音が来た。金属が裂ける、乾いた音。次の瞬間、操縦桿が重くなった。いや、軽くなった。効かなくなった、という感覚に近かった。
直は状況を確認した。冷静だった。
主翼、損傷。エンジン、煙。高度、落ちている。
帰れない。
その認識は、恐怖ではなかった。ただの、算数だった。
庄一、お前もこういう算数をしたのか。
直は思った。海へ落ちる前の、あの短い時間に、お前は何を考えていたか。屋根のことか。算盤のことか。それとも——
脳裏に浮かんだのは、啄木の詩ではなかった。
松山の夜だった。
月が出ていた。庄一が後ろにいた。啄木の話をした。庄一が笑った。俺も笑った。声が少し出た。
そういう夜だった。
それだけの夜が、なぜこんなに重いのか。
直には、もうわかっていた。
庄一はあの夜、俺が葬れずにいたものを、景気が悪いと笑って、それでも隣に座っていた。葬らなくていい、と言ったわけじゃない。ただ隣にいた。それだけだった。
それだけのことが、俺の根になった。
庄一。
お前が守りたかった生活は、今も続いている。新潟の屋根は直った。母の算盤は、今日も珠を弾いているだろう。兄の畦に、今年も水が流れているだろう。
それで、十分だ。
俺は——
屋久島の沖、八月一日。
菅野直の機体は、海に消えた。
炎は、青い水面に一瞬だけ映えて、消えた。
エピローグ
戦争が終わった。
新潟・古志の杉田家の屋根は、立派だった。庄一が送り続けた金で、職人が丁寧に葺き替えた屋根は、雪の重さにも歳月にも、よく耐えた。母はその屋根の下で長く生き、算盤の珠を弾き続けた。
宮城・角田の菅野家には、一冊の詩集が残った。
石川啄木。表紙は手垢で黒ずんでいた。頁の端が折れていた。余白に、鉛筆の跡があった。読めない字もあった。読める字もあった。
誰が書いたのか、家族には分からなかった。
ただ、直の弟だけは知っていた。兄が押し入れにしまったはずのその本が、いつの間にか机の上に戻っていたことを。
葬れなかったのだ、と弟は思った。
葬れなかったから、最後まで持っていたのだ、と。
直が整え、庄一が支えた。
二人が守りたかったのは、英雄の物語ではなかった。
今、私たちが当たり前に食べている、一杯の白い飯の匂いである。
その匂いが、彼らの戦記の、最後の一行だった。
了
史実に沿ったフィクションです




