表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

直と庄一

作者: さばだんご
掲載日:2026/04/08

日本海軍航空隊に若くした散った2人の撃墜王がいた

二人は伝説のバディだった

第一章 凍てつく土と、飢えた知性

 活字は、腹を満たさない。

 直はそれを知っていた。知っていながら、夜ごと石油ランプの下に頁を広げた。石川啄木。東北の貧困と詩心を道連れに死んだ男の、みすぼらしくも美しい嘆き。

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

 父は警察官だった。家は食えた。だからこそ、直には周囲の貧しさが余計に見えた。隣家の子が弁当を持ってこない日。友人の父が出稼ぎに消えて戻らない冬。宮城・角田の土は、啄木の詩とおなじ匂いがした。湿って、暗くて、それでも何かを待っている匂い。

 直は詩が好きだった。

 それが、恥だと気づくまでは。


 庄一の手は、同い年の少年の手ではなかった。

 新潟・古志。豪雪地帯の農家の六男。生まれた瞬間から、この家には彼の分の飯がないことを、誰も口にしなかったが全員が知っていた。

 口減らし。

 庄一はその言葉を辞書で引いたことがない。辞書など家になかったし、引かなくてもわかった。冬の朝、馬の世話をしながら、湯気の立つ糞を素手で片づけながら、自分の腹が鳴っても馬に先に食わせながら——体が全部、教えてくれた。

 俺がいると、米が減る。

 俺がいなければ、兄たちが食える。

 それだけのことだった。庄一にとって、それは絶望ではなかった。ただの、算数だった。


 直が初めて人を殴ったのは、十四の秋だった。

 相手は上級生だった。名前は覚えていない。覚える必要がなかった。そいつは直の家の近くに住む農家の息子で、父親が酒に溺れ、母親が夜に出かけるような家の子だった。直はそいつを哀れだと思っていた。少なくとも、殴る前までは。

 事の発端は些細だった。そいつが直の弟を校門の外で待ち伏せ、靴を泥に投げ込んだ。理由など最初からなかった。ただ弱いものを踏みにじることで、自分の惨めさを一時忘れたかっただけだ。

 直は止めに入った。言葉で。

 やめろ。お前がすることじゃない。

 上級生は笑った。詩を読む警察官の息子が何を言う、という顔で笑った。

 言葉は、届かなかった。

 次の瞬間、直の右拳は相手の頬骨を捉えていた。一発。二発。地面に崩れた相手の襟を掴んで、もう一発。血が出るまで、止まれなかった。

 後で父に叱られた。警察官の息子が暴力を振るうとはなにごとか、と。直は黙って聞いた。反論しなかった。

 ただ一つのことだけを、胸の奥で確かめていた。

 言葉では、守れない。

 啄木は詩を書いた。東北の貧困を、魂の嘆きを、あれほど美しく書いた。それで何が変わったか。啄木の家族は救われたか。妻は。子は。

 直は石油ランプの下で詩集を閉じた。

 長い時間、表紙を見つめた。

 それから、押し入れの奥にしまった。


 庄一が軍を志したのは、算盤のせいだった。

 ある冬の夜、母が台所で帳簿をつけていた。庄一は眠れなくて、そっと覗いた。数字の列。米の収量。税。借金の利子。六人の息子の食い扶持。

 母の指が、算盤の珠を弾くたびに止まった。

 また弾いた。また止まった。

 庄一は見ていた。母が何度計算し直しても、答えが変わらないことを、子供なりに理解した。数字は嘘をつかない。どう並べ替えても、この家には米が足りない。

 翌朝、庄一は兄に聞いた。軍に入ったら、家に金を送れるか、と。

 兄は驚いた顔をした。お前まだ子供だろう、と言いかけて、やめた。

 送れる。

 それだけ言った。

 庄一はその夜から、飯を一口ずつ減らし始めた。胃を小さくする練習だった。軍に入るには体が要る。体を作るには飯が要る。しかし飯を食えば米が減る。ならば今のうちに慣れておけばいい——十二歳の庄一の論理は、そういうものだった。

 誰にも言わなかった。言う必要がなかった。

 俺の体は、一番高く売れる道具だ。

 それが庄一の、最初の覚悟だった。


 宮城と新潟。二つの土地で、二人の少年が同じ冬を越えた。

 一人は言葉を押し入れにしまい、一人は腹を減らす練習をした。

 まだ互いの名前も知らぬまま、二人はそれぞれの仕方で、同じ時代の重さを引き受けていた。





第二章 邂逅、あるいは魂の洗濯

 松山基地の空気は、潮と油の匂いがした。

 直が初めて庄一を見たのは、格納庫の脇だった。夕暮れ時。整備兵たちが引き上げた後の静けさの中で、一人の男が飛行服を桶の水で洗っていた。

 泥だらけだった。土埃と排気と、おそらくは血の混じった、くすんだ色の染み。それを男は黙々と、農作業でもするような手つきで擦っていた。急ぎもせず、嫌がりもせず、ただ丁寧に。

 直は足を止めた。

 なんだ、あの男は。

 飛行服は消耗品だった。撃墜されれば燃える。明日には新しいものが支給される。洗う意味など、合理的には存在しない。なのにその男は、まるで母親が子供の着物を洗うような顔で、桶の水を換えていた。

 「もったいないだろ」

 直は気づいたら声をかけていた。

 男が顔を上げた。日焼けした、大きな顔。目が丸くて、少し間が抜けている。

 「何がですか」

 「その手間が」

 男はきょとんとした顔で直を見た。それからまた飛行服に目を戻して言った。

 「汚いまま着るのは、もっともったいない気がして」

 直は返す言葉がなかった。

 その男の名が杉田庄一だと知ったのは、翌日のことだった。


 庄一は菅野直という男が最初から気に入った。

 理由はうまく言えなかった。強いのはわかった。目が違う。あの種の目をした人間を、庄一は一度だけ見たことがあった。吹雪の中で死んだ馬の目——ではなく、その馬を最後まで小屋に引き入れようとした兄の目だ。何かを諦めた人間の、静かな燃え方。

 ただ、菅野さんは少し変わっていると思った。

 夜、兵舎の隅で何かを読んでいる。近づいてみると、薄い本だった。

 「何読んでんですか」

 菅野は本を伏せた。一拍置いて、答えた。

 「……詩だ」

 「詩」

 庄一は復唱した。詩というものを読んだことがなかった。読む暇がなかったし、読んで腹が膨れるとも思えなかった。

 「景気いいですか、そういうの」

 菅野の表情が、かすかに動いた。笑いとも困惑ともつかない、奇妙な顔だった。

 「……景気は悪い」

 「そうですか」

 庄一はそれ以上聞かなかった。腹が減っていたので、干し飯を取り出して食べ始めた。菅野がこちらを見ていたが、気にしなかった。

 景気の悪い詩を読む人間が、なぜあんな目をしているのか。

 庄一には、よくわからなかった。


 二人が初めて共に飛んだ日、庄一は悟った。

 菅野直という人間は、空では別の生き物になる。

 地上では鋭く、どこか投げやりで、人を遠ざけるような気配を纏っていた男が、操縦桿を握った瞬間に変わった。無駄がなくなる。迷いがなくなる。まるで言葉を全て捨てた代わりに、機体そのものが彼の言葉になるような——

 庄一は一番機の後ろで、その軌跡を目で追った。

 守らなければ、と思った。

 任務だから、ではなかった。そういう感情でもなかった。ただ、あの飛び方をする人間を、地面に落としてはいけないという、農夫が種を守るような、素朴な確信だった。


 夜、直は兵舎の外に出た。月が出ていた。

 庄一が後ろにいた。気配で分かった。振り返らなかった。

 「菅野さん」

 「なんだ」

 「啄木って、家族に仕送りしましたか」

 直は少し黙った。

 「していない。借金を作って死んだ」

 「そうですか」庄一は特に驚かなかった。「じゃあ俺には向いてないな、詩は」

 直はその言葉を聞いて、初めて笑った。声を出さず、ただ口の端が動いた。

 向いていない。そうだ。庄一には向いていない。詩も、絶望も、美しい嘆きも、何もかもが向いていない。この男は米と金と家族の屋根のことしか考えていない。

 それが、直にはひどく眩しかった。

 押し入れにしまった詩集のことを、直は思った。

 葬ったつもりだった。

 けれど庄一の隣に立つと、葬れていないことが、なぜかそれほど恥ずかしくなかった。





第三章 蒼穹の労働

 空は、職場だった。

 直にとって、それは最初からそうだった。感傷も、高揚も、必要なかった。眼下に広がる海の青さに見惚れる暇があれば、敵機の位置を計算する。雲の形を詩に喩える代わりに、太陽の角度から奇襲の死角を読む。

 空は、言葉を必要としない場所だった。

 それだけで、十分だった。


 庄一は飛びながら、よく家のことを考えた。

 不謹慎だとは思わなかった。考えることと、操縦することは、庄一の中では別の引き出しに入っていた。体が機体を動かす間、頭は新潟の母の顔を思い浮かべていた。今月の仕送りは届いたか。兄の田んぼは雪解け後の水はけが悪いと言っていたが、あの低いところの畦は直ったか。

 敵機が来る。

 庄一は引き出しを閉めた。体だけになった。

 翼を傾け、速度を落とし、一番機の死角に入り込もうとする影を弾く。菅野さんには見えていない角度だ。だから俺が見る。それだけのことだった。

 敵機が離脱する。

 庄一はまた引き出しを開けた。畦の続きを考えた。


 ある夜、二人は撃墜数の話をした。

 「今月で十二だ」と直が言った。事務的な口調だった。

 「十二」庄一は指を折った。「屋根、直りますね」

 直が顔を上げた。「何の話だ」

 「うちの実家の屋根です。吹き替えに職人を頼むと、米が何俵かかるか、ずっと計算してて」庄一は少し考えた。「菅野さんのうちは、何に使いますか」

 直は答えなかった。しばらく黙っていた。

 「……弟の学費だ」

 「そうですか」庄一は満足そうに頷いた。「じゃあお互い、よく働きましたね、今月」

 直は返事をしなかった。

 ただ、窓の外の暗い空を見ながら、思った。

 俺たちは何を戦っているのか、と問われたことがある。源田司令に、ではなく、自分自身に。国のため、という答えは嘘ではないが、全部でもない。

 庄一の言葉が、答えに近かった。

 よく働きましたね、今月。

 それだけのことだった。それだけのことが、直には、ひどく正確に思えた。


 源田司令は、二人のことをよく見ていた。

 菅野は猛将だった。敵に向かう時の凄みは、他の追随を許さない。しかし源田が気になるのは、杉田庄一の隣に立つ菅野の顔だった。

 別の顔になる。

 怒気が抜ける。肩が、わずかに下がる。まるで長い間握り続けていた刃を、鞘に収めたような——そんな一瞬が、確かにある。

 杉田は何も特別なことをしていない。飯を食い、機体を磨き、飛行服を洗い、寝る。それだけだ。それだけなのに、菅野はあの男の傍でだけ、少年の顔になる。

 源田は記録に書かなかった。

 書く言葉を、持っていなかった。


 その日の帰投後、庄一は直の機体を眺めていた。被弾痕が二つ、主翼の付け根に近い。整備兵が塞いでいく穴を見ながら、庄一は思った。

 もう少し早く動けたなら。

 悔しいとか、申し訳ないとか、そういう言葉とは少し違う感情だった。もっと単純な、農夫が天気を悔しがるような——あの雨さえ来なければ、という、素朴な惜しさ。

 「見てるな」

 直の声がした。

 「穴、二つですね」庄一は言った。

 「お前のせいじゃない」

 「わかってます」庄一はあっさり言った。「でも、もったいない」

 直は少し黙った。

 「……その言葉、よく使うな」

 「だって本当にもったいないので」

 直は何も言わなかった。ただ、また口の端が動いた。

 庄一はそれで十分だった。

 菅野さんが笑うと、空が少し広くなる気がした。理由はわからなかったが、庄一にとっては、それも一つの算数だった。


 夜、直は独り言のように言った。

 「俺たちは、空を耕しているんだな」

 庄一は干し飯を噛みながら答えた。

 「そうですね。で、今月の収穫はまずまずでしたね」

 直は黙った。

 それから、静かに笑った。今度は声が、少しだけ出た。





第四章 折れた柱、枯れたペン

 四月の空は、残酷なほど青かった。

 庄一が逝ったのは、そういう日だった。

 直は見ていた。見ていたが、間に合わなかった。庄一機が炎を吹いた瞬間、直の体は既に操縦桿を引いていた。引いても、届かなかった。距離の問題ではなかった。時間の問題だった。世界にはどうにもならない時間というものがあって、その日の午前、直はそれを初めて体温で知った。

 庄一機は海へ落ちた。

 炎が、青い水面に消えた。

 直は叫ばなかった。声が出なかったのではない。叫ぶという行為が、何の意味も持たないことを、体が先に知っていた。


 基地に戻った直は、飯を食わなかった。

 翌日も食わなかった。

 三日目に源田司令が部屋を訪ねた。直は壁を見ていた。源田は何も言わずに隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。

 「杉田は、お前を守って逝った」

 直は答えなかった。

 「わかっている」

 それだけ言った。わかっていた。だからこそ、どうしようもなかった。守られた。また守られた。言葉では守れないと誓った人間が、最後まで言葉ではない何かで守られ続けた。

 庄一は何も言わなかった。

 最期まで、何も。

 ただ飛んで、盾になって、海に消えた。

 それが庄一という人間の、全部だった。


 直は夜、庄一の荷物を整理するように言われた。

 大した荷物ではなかった。着替えが少し。実家からの手紙が束になったもの。算盤。それから——

 飛行服が、畳んであった。

 洗ってあった。

 直は動けなかった。

 庄一はいつも、飛ぶ前に飛行服を洗っていた。帰投したら洗う、ではなく、飛ぶ前に洗う。汚れたまま死にたくない、という美学ではなかった。ただの習慣だった。農家の朝のような、体に沁みついた順序。

 その習慣が、ここに残っていた。

 庄一はもう戻らないのに、飛行服だけが、次の出撃を待っていた。

 直は飛行服を手に取った。

 畳みの跡がついていた。庄一の大きな手の、不器用な畳み跡が。

 その跡に指を当てて、直は初めて、声を出した。

 誰もいない部屋で、壁に向かって、一度だけ。


 源田司令が本気で心配したのは、その後の直だった。

 飛ぶ。帰る。飯を少し食う。寝る。また飛ぶ。

 動いてはいた。戦ってもいた。しかし何かが違った。庄一がいた頃の菅野は、怒気の中に芯があった。今の菅野には、芯がなかった。燃えているが、根がない。風が吹けば折れる炎だった。

 源田は直を呼んだ。

 「無理に飛ぶな」

 直は答えた。

 「飛ばなければ、何もありません」

 源田は何も言えなかった。

 間違っていなかった。間違っていなかったから、言えなかった。


 転機は、思わぬところから来た。

 ある夜、直は庄一の飛行服を取り出した。荷物整理の日から、ずっと手元に置いていた。理由はわからなかった。捨てられなかっただけかもしれない。

 袖を通してみた。

 庄一の体に合わせた服は、直には大きかった。肩が余った。袖が余った。

 それでも、直は暫くそのままでいた。

 大きな服の中で、直は考えた。

 庄一が守りたかったのは何だったか。

 新潟の屋根。母の算盤。兄の畦。白い飯の匂い。そういうものだった。国でも名誉でも、ましてや詩でもなかった。ただの、生活だった。

 庄一はその生活を守るために空を耕して、俺を守って、逝った。

 ならば。

 直は飛行服の袖を、自分の手首に合わせて折った。

 ならば、今度は俺が守る番だ。

 庄一が洗い続けたこの服を着て。庄一が見ていた角度から、庄一が守りたかった生活を、今度は俺が守る。

 それだけのことだった。

 それだけのことが、直の根になった。


 翌朝、直は飯を食った。

 源田司令がそれを見た。何も言わなかった。

 ただ、記録に一行だけ書いた。

 ——菅野、飯を食う。





第五章 最後の一行

 八月の空は、夏の重さで白く霞んでいた。

 直は出撃前、庄一の飛行服を畳んだ。自分の服を着る前に、必ずそうするようになっていた。いつからか、覚えていない。ただそうしないと、飛べない気がした。農家の朝の習慣が、いつの間にか直の体にも沁みていた。

 畳みながら、直は思った。

 庄一、お前は不思議な男だった。

 詩の景気も聞かず、飯の心配ばかりして、飛行服を洗い続けた。俺が何を抱えているか、最後まで言葉では理解しなかった。それなのに、お前の隣にいると、俺は初めて、葬れないものを葬れないまま持っていることが、恥じゃない気がした。

 啄木を、俺はまだ葬れていない。

 だが今はもう、それでいいと思っている。


 「ワレ、菅野一番」

 無線に自分の声が流れた。

 編隊が動く。直は操縦桿を握った。手に馴染んだ重さ。何百回触れても、同じ重さ。この重さだけは、変わらなかった。

 敵影が見えた。

 直は計算した。距離。速度。角度。太陽の位置。いつもの算数だった。庄一がいた頃も、いなくなってからも、空の算数だけは変わらなかった。

 引き金を引いた。

 炎が上がった。


 機銃弾が来たのは、その直後だった。

 衝撃よりも先に、音が来た。金属が裂ける、乾いた音。次の瞬間、操縦桿が重くなった。いや、軽くなった。効かなくなった、という感覚に近かった。

 直は状況を確認した。冷静だった。

 主翼、損傷。エンジン、煙。高度、落ちている。

 帰れない。

 その認識は、恐怖ではなかった。ただの、算数だった。

 庄一、お前もこういう算数をしたのか。

 直は思った。海へ落ちる前の、あの短い時間に、お前は何を考えていたか。屋根のことか。算盤のことか。それとも——


 脳裏に浮かんだのは、啄木の詩ではなかった。

 松山の夜だった。

 月が出ていた。庄一が後ろにいた。啄木の話をした。庄一が笑った。俺も笑った。声が少し出た。

 そういう夜だった。

 それだけの夜が、なぜこんなに重いのか。

 直には、もうわかっていた。

 庄一はあの夜、俺が葬れずにいたものを、景気が悪いと笑って、それでも隣に座っていた。葬らなくていい、と言ったわけじゃない。ただ隣にいた。それだけだった。

 それだけのことが、俺の根になった。

 庄一。

 お前が守りたかった生活は、今も続いている。新潟の屋根は直った。母の算盤は、今日も珠を弾いているだろう。兄の畦に、今年も水が流れているだろう。

 それで、十分だ。

 俺は——


 屋久島の沖、八月一日。

 菅野直の機体は、海に消えた。

 炎は、青い水面に一瞬だけ映えて、消えた。



エピローグ

 戦争が終わった。

 新潟・古志の杉田家の屋根は、立派だった。庄一が送り続けた金で、職人が丁寧に葺き替えた屋根は、雪の重さにも歳月にも、よく耐えた。母はその屋根の下で長く生き、算盤の珠を弾き続けた。

 宮城・角田の菅野家には、一冊の詩集が残った。

 石川啄木。表紙は手垢で黒ずんでいた。頁の端が折れていた。余白に、鉛筆の跡があった。読めない字もあった。読める字もあった。

 誰が書いたのか、家族には分からなかった。

 ただ、直の弟だけは知っていた。兄が押し入れにしまったはずのその本が、いつの間にか机の上に戻っていたことを。

 葬れなかったのだ、と弟は思った。

 葬れなかったから、最後まで持っていたのだ、と。


 直が整え、庄一が支えた。

 二人が守りたかったのは、英雄の物語ではなかった。

 今、私たちが当たり前に食べている、一杯の白い飯の匂いである。

 その匂いが、彼らの戦記の、最後の一行だった。





史実に沿ったフィクションです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ