過去のこと 2
女性に対する暴力行為。ぼかしてありますが、強姦の描写もあります。ご注意ください。
事件が起きたのはその会話から数日後のことだった。
二時限目の授業が終わって次の授業に向けて教室を移動している時に、怒鳴り声と悲鳴が聞こえた。人々の声や足音で騒がしく、それは向かう先から響いてくる。私は驚いて怖くて、思わず足を止めてしまった。
『喧嘩でも起きたのかな?』
そう言ったのはエリシャ。先から伝わってくる騒ぎ声に、私もそう思った。躊躇わず進んだ彼女に続いて、私もカーラ達も歩き始めた。
開かれたまま、人が慌てて立ち去っていく扉の中に入れば、そこには喧嘩なんて生易しいものではない凄まじい光景があった。
『っ、はぁ、いたい!うぅっ!いたぁい!』
床に座り込んでいたのは同級生のパトリツィア・オルセイン伯爵令嬢だった。よく整えられていた艶やかな栗色の髪が無惨に床に落ち、綺麗だった顔は苦痛で歪んでいた。サファイヤのようだと思っていた澄んだ青い瞳から、滂沱と涙が溢れている。こちらに見せるように向けている彼女の背中は、真っ赤に染まり始めていた。斜めに切り裂かれた制服からジワジワと広がっていた。
『何が起きたの!』
咄嗟に動いたのはエリシャだった。私も居ても立っても居られずに、パトリツィア嬢へと走り寄った。
『せなかが、あつくて、っ、いたい!!いたい!!』
泣き叫んで苦痛を訴える彼女を抱き締める。背中に回した手が温さのある滑りを感じた。
『誰か医務員を連れてきてください!!背中が切り裂かれています!このままでは死んでしまう!!』
誰かが走り去っていく。カーラとアリアだったようで、このすぐ後に彼女達が医務員を連れてきたから分かった。
応急処置を習っていたことで、上着を脱がして止血のために傷口を抑える。背中に受けた傷がどんなものか分らなかったし、怖くて見れなかったから傷口圧迫しかできなかった。
『ひぃ、っ・・・ひぃっ・・・』
引き攣った呼吸を繰り返すパトリツィア嬢を、しっかり抱き締める。私の視界には血の付いた剣を持つ男性と、立ち塞がるようにいるエリシャの姿があった。
『貴方が斬りつけたのか』
厳しい声色はエリシャの怒りを表していた。燃えるような赤い髪と、夕陽の色の瞳が怒りを際立たせている。力では上の男性が女性を、しかも武器を用いて危害を加えるなど許せないのだろう。エリシャは国境を守る辺境伯の令嬢だから、戦士や騎士の役割には厳しい。弱い存在に力を振るうべきではないとよく言っていた。
そんな怒気を表す彼女に男性は気にも留めない。鋭い眼差しで、それでいても麗しい容貌を損なわずに、エリシャではなく私の腕の中のパトリツィア嬢を睨み付けていた。
すぐに、彼がパトリツィア嬢の婚約者であるノヴァ・ガリアードと知った。焦茶色の髪に茶色の瞳という色味では華やかではないのに、容貌の美しさで貴公子然とした伯爵令息。デイナの側で愛を囁く男性の一人とは目にした瞬間に気付いた。
『斬ったからなんだという。その女は俺のデイナを害した。彼女の騎士として害悪から守るのは道理だ』
『貴方はノヴァ・ガリアードだよね?パトリツィア・オルセイン嬢の婚約者でしょう?それなのに』
『俺のデイナを傷付けたんだ!この場で処刑してやる!!』
異常なことだった。好きな女性のために婚約者を剣で斬った。殺そうとしたなど、非常識極まりない行いだった。
腕の中のパトリツィア嬢だって震えている。苦しそうに啜り泣いて、異常な婚約者の発言に恐怖していた。
『わ、わたしは、傷つけ、な、して、ないっ!危ない段差があったから、足元に注意してって』
『俺のデイナを言葉で害したということだろう!貴様に存在が邪魔だと言われて泣いていた!!』
パトリツィア嬢の言葉が真実ならば、デイナは善意を曲解して事実を歪めたわけで、おかしいのは彼女だ。そして、何よりも彼にとって、今泣いている婚約者のことはどうでもいいのだろうか。殺意を持って害してもいいのだろうか。
『ひっ、ひ・・・い、いやっ、もう、いや!どうして、私が』
『デイナを害する貴様はこの場で殺す!』
そう言って剣を振り上げたノヴァ・ガリアードを、エリシャが押し留めてくれた。
カーラとアリアが連れてきた医務員が走り寄ってきて、アベルを含む王子達に抱き支えられたデイナがやって来た。キラキラとした涙を流して、剣を持つノヴァ・ガリアードに抱き着く。怖かったなど甘えて訴えている。
私は何を見せられているんだろうと思った。まるで歌劇のよう。辛そうな顔をしたデイナを守るようにいる男達は、パトリツィア嬢を、私達に殺意の滲んだ眼差しを向けていた。アベルも私を憎んでいるように睨んできた。
『急いで病院に!』
適切な止血をした医務員は女性だったから、パトリツィア嬢を守ろうとしてくれた。王子達は、彼女を死罪にしようと声を張り上げる。取り巻くようにいる男達は、捕らえようと手を伸ばしてきた。怒りで顔を歪めた彼らが怖くてたまらない。教師も、集ってきた男性達はパトリツィア嬢を殴ろうとすらしていたけど、正常だった他の教員達が抑えてくれたことで彼女は病院に向かえた。
『む、むかしは、あんな人じゃっ、なかった、のに』
悲痛な泣き顔と苦しそうな声は、別れの間際に目にしたもの。
その後、パトリツィア・オルセイン伯爵令嬢は学園には来なかった。国が保護する要人であるデイナを傷付けたことで退学処分になり、裁判にかけられた。
デイナの男達、それだけでなく国王や辺境伯含む立場のある人達が死罪を望んだけれど、公平な裁判官のおかげで死は免れた。ただ、王都の立ち入りを永劫に禁止され、元婚約者となったノヴァからは付き纏われるのは困ると、国の端に領地を持つ新興の男爵家に嫁がされたという。
なぜ小さな注意で、しかも善意の注意をしただけでそこまでの罰を下されないといけないのだろう。ノヴァも言い掛かりが甚だしい。自分を殺そうとした男に、パトリツィア嬢が愛情を抱いていると思っているのだろうか。
そのようなことはあり得ない。
殺意を向けられて、体に一生は残る傷を付けられたのなら、愛も恋も枯れる。私だったらそうなるだろうし、正しくその通りとなった。
始まりとなったパトリツィア嬢の一件から、辛うじて保っていた均衡は崩れていった。
王城に招いたことでデイナの虜になったらしいリカルド国王陛下は、アドリアーヌ王妃殿下を殺害しようとした。国にとって大事なデイナを排除しようとした国家転覆罪と、妊娠中の子が不義の子だという姦淫罪。理解できない罪状を受けた王妃殿下は、その時、出産中だった。剣を振り上げて迫ってきた国王陛下から命がけで逃げ惑い、最中に産み落としてへその緒が付いたままの王女殿下を抱えて、実家であるタリス公爵家に保護された。公爵家の従者が登城していたのが幸いだった。もし彼らがいなかったら、王妃殿下は産まれたばかりの王女殿下と一緒に狂った王に殺害されていただろう。
叔母である王妃殿下を保護した現タリス公爵は、現在も王家と敵対関係にある。相互不干渉の状態が続いているけれど、国王陛下は犯罪者と断じた王妃殿下の身柄を引き渡すように訴えている。
タリス公爵が引き渡すわけがない。隠居された前公爵は妹である王妃殿下を大切にされていた。王妃殿下はタリス家の珠玉として、外部の人間が見ても愛されていると分かるほどだった。
だから、きっと、いつか王家とタリス公爵家は軍事衝突することになるだろう。
その数日後にも、非常におぞましい事件が起きた。それは、王妃不在となった王城での建国祭の日。出席が義務付けられた私は、お父様にエスコートされて入城した。カーラもアリアもエリシャにも会って、私達は壁の花として控えていた。宴の中心にはデイナと彼女に愛を囁く男達。立太子したエリオット王太子殿下とジャレッド第二王子殿下。レグルス、ルーベンス、ウリエルにノヴァ。当たり前になっているけれどアベルも彼女を囲っていた。それをうっとりとした眼差しで見ている国王を始めとする高位の男性達。
エリシャは、デイナに向けて熱を帯びた目で見ている父親に嫌悪して、その場を辞した。私達も、お互いのお父様達が早々に挨拶を終えると退場することにした。
おぞましいことが起きたのはその後。私達のお父様達は正気で、デイナのことや彼女を過剰に保護する国と男達に不審感を抱いていた。大人同士で話すことがあるからと別室に向かっていく。
すぐに続こうとしたけれど、背後から騒がしい声が聞こえ始めると、会場である広間の入口は衛兵に閉ざされた。
『退室します、扉を開けてください』
そう言っても衛兵達は聞いてくれず、後ろから聞こえる喧騒は大きなものに変わっていく。それは笑い声と悲鳴が混じっていて、異様だと思わず振り返ってしまった。
見えた光景に喉が引き攣った。おぞましさに胸が張り裂けそうなほど心臓が鼓動を打つ。震えたのは、私が女性だからだろう。
『いやぁっ!いやっ、あっ、あぁっ!』
綺麗な女性が全裸で床に倒れている。その体に不衛生だと分かるほど薄汚れた男達が群がっていて、彼女を・・・乱暴に犯していた。
詳細なんて言いたくない。すぐにアリアが私を抱き締めて、お互いに顔を伏せた。カーラは呆然として。
『なんて、酷いことを・・・』
嗚咽混じりの声で呟いていた。
一目で綺麗だと分かった女性は、隣国のフラメル王国から建国祭に合わせて入国してきたクローデット王女殿下。エリオット王太子殿下の婚約者。一瞬見えた様子では、ふんわりと波立つ美しい金の髪が乱暴に掴まれていて、美しい緑色の瞳は涙で歪んでいた。
『ははっ、浅ましい魔女が!罪人に犯されて喜ぶとは淫乱極まりないな!!』
エリオット殿下の声がする。楽しそうに、上擦った声で笑っている。
婚約者を、しかも隣国からの賓客に対して酷い行いをしているのに何故笑うのだろう。下品な言葉で貶めるなど、理解できなかった。
『フラメルは未だに魔法の力が浸透した国ですから、そこの王女様だというなら魔女なんです。魔女は淫らな交わりが大好きなので王女殿下はかなり喜んでいますよ!』
デイナの声だった。可愛らしい声で嘲り、クローデット王女殿下を辱めている。
『ならば、もう二、三人加えるか。観衆も魔女の痴態を観覧したいだろう。ルーベンス、より女に飢えた罪人を連れてこい。魔女が満足するように精力が強い者を選べ』
『いぁ、あぁぁぁっ!!』
暗に性犯罪者を連れてこさせようとする言葉に体が動こうとした。でも、私達の前に衛兵が立ち塞がる。
『今は動いては駄目です。下手に動けば、王太子殿下の標的が貴女方になる』
『クローデット王女殿下は隣国からの賓客です!あのような、おぞましい行いをするなど、このままではフラメル王国と戦争になります!』
『国王陛下が容認しているのです。我々も動けば罰されます。今動けば、クローデット王女を助け出す者はいなくなり、殺害される恐れがあります。陛下は魔女の討伐だと銘打って、クローデット王女を建国祭の余興としているのです』
『なぜ、そんな・・・』
隣国の王女殿下がそのような処遇になるのか理解できない。魔女だからという妄言も、魔法使いを容認している我が国ならば、あのデイナのように手厚く保護するはずなのに。
『・・・いや、もう、聞きたくない』
アリアが耳を手で塞いで泣き出してしまった。
呆然とする私の耳が声を拾っていた。王女殿下の悲痛な悲鳴が大きくなって、デイナの男達は下品に囃し立てる。
観衆だと言われた貴族達も、女性達はおぞましさに腰を抜かしたり、逃げ去るように私達の方に来たが、正気でない男性達は食い入る様に見ていた。
『どうにか、どうにかして王女殿下を救わなければ・・・お、お父様を、ベルアダム侯爵をお呼びください!マッケンジー伯爵とレーヌ伯爵もご一緒に別室へ行かれました!』
『わ、私のお父様が役に立つか分からないけれど・・・正気な人間がいてくれたら興が削がれるはず』
『父はディルフィノ公爵とも一緒でしたわ。公爵ほどの発言力があれば止めて下さるはずです』
私達は衛兵に訴えた。彼は渋っていたけれど、必死の様子に重い腰を上げてくれて、ディルフィノ公爵とお父様達を連れてきてくれた。
『これは何事ですか!!』
開口一番、怒号という声を発したのはディルフィノ公爵。私達のお父様達も続いて追求して、クローデット王女殿下に群がっていた罪人達を兵士に捕縛させていた。
おかげで、ぐったりと伏す王女殿下を助け出すことができた。私は悲惨なほど汚れた体が床に落ちないように抱き支える。嫌悪感を抱く様相だったけれど、クローデット王女殿下には罪などなく、手を差し伸べなければならなかった。
そのような私に、アベルを含んだ男達の敵意の眼差しを受けたけれど、悪鬼のような彼らから引き離すことができたのだから良かったと思う。
お父様達を引き連れたディルフィノ公爵は国王陛下を糾弾して、言い合っていた。その間に、隙を見て王女殿下を病院に連れて行かねば行けない。
『医務官に』
『待ってコルネリア。私の主治医が王都に医院を持ってるの。婦人科も専門ですから、クローデット様の容態も見てくれるはずよ』
『ふ、婦人科・・・』
カーラの言葉にアリアが青褪めた。私も青褪めたかもしれない。
そう、その通り。クローデット王女殿下が受けたのは凌辱で、胎内に・・・子供が宿ってしまった可能性があった。
『急いで連れていきましょう!』
王女殿下を運んで、陰惨な余興を催した王城を後にした。ディルフィノ公爵とお父様達が糾弾を続けていたから、任せれば大丈夫だと思っていた。
もうこの時にはアベルに失望していた。一人の女性が尊厳を失うおぞましい行いをするような人だったのか、と。王女殿下が受ける暴力を笑って見ていた彼を、私は信じられなくなっていた。