過去のこと 1
まずは昔話から。
昔のこと、私は自分の容姿が好きだった。
甘いチョコレートのような髪は侍女が丁寧に手入れをしてくれたから艶があって、毛先の方にいくと柔らかく波立っていた。若草色の瞳も優しい色味で私らしいと言われていた。美女とは言えないけど、出会う人は可愛いと言ってくれる。美しいお母様と優しい面差しのお父様のご容姿を受け継いでいるからだろう。
血の繋がりがあると分かる私を両親は愛してくれた。甘やかして誰よりも可愛いと言ってくれた。それを嬉しいと思うのは当たり前のこと。褒められたら嬉しい。可愛いと言われたら嬉しい。そんな純粋さが私にはあった。
侯爵令嬢としては威厳も気品も足りなかったかもしれないけれど、少女らしさは私の長所だった。私と出会う人々に敵意は抱かれず、ありのままの私自身を受け入れてくれていたから。
それは、幼い時に決められた婚約者も同じだった。出会ったのは九歳の時。まだお母様と離れがたくて、甘えて身を寄せていた私は素敵な少年に目を奪われた。
夜闇のような黒髪なのに光を宿す瞳は雲のない青空のよう。体は私よりも大きくて、でも優しく微笑んでくれたから恐怖は感じなかった。
『はじめまして、ベルアダム侯爵令嬢。俺はアベル・フィガロと言います』
少年らしくも既に整った顔立ちをした彼は、初めて会った自分よりも小さな私に丁寧な挨拶をしてくれた。それなのに「俺」なんていう一人称に、今まで出会った男の子になかった荒っぽさを感じて、ああ、なんて格好いい方なんだろうと素直に思ってしまった。
ぼんやりと、私はよく想像したものに夢見心地になって惚けることがあったのだけど、男性らしさのあるアベルに夢中になっていた。素敵だと思うだけで何も言えず、お母様が促すまで挨拶の言葉すら出なかった。
『は、はじめまして、アベル・フィガロ様!コルネリアと申します!』
ぼんやりしていたことが恥ずかしくて、急いで答えなければならないと慌てて口走ってしまった。
お母様はそれを呆れてらして、アベルのお母様は苦笑されていた。でも、彼は優しい微笑みを崩さなかった。私よりも少し大きな手を差し出してくれた。
『君のような可愛い子と婚約なんてうれしい。俺達は大人になったら夫婦になるんだ。つまり、ずっと一緒に暮らすってことだろう?』
これは、我が家の庭園を案内した時にアベルに囁かれた言葉。お母様達から離れて庭の奥で聞いた言葉。あの時の彼の顔は覚えている。端正な顔を真っ赤にしていて、恥ずかしそうだった。
でも、言い淀むことなく言ってくれたから純粋な気持ちを露わにしてくれたのだろう。
『私も嬉しいです、アベル様。貴方のような素敵な方を旦那様にできるなんて』
私達は最初から好意を寄せていた。お互いが一目惚れだったのかもしれない。あの時は絶対にそうだと言える。
無事、婚約が結ばれたあとのこと。アベルは本当に優しくて、いつも私をエスコートしてくれた。もう配慮という意識があって、お出かけのときは私を守るように隣に立ち、歩調も合わせてくれる。話しかければ必ず答えてくれて、笑いかけてくれる。贈り物も月ごとに贈ってくれて、私も必ずお返しをした。手紙のやり取りなんて、お互いが毎日のふとしたことすら綴って送り合っていた。
想い合っている。私はそう思っていたし、アベルもそうだった。
彼は、王家の血が流れるフィガロ公爵家の次男。優秀だと言われていたお兄様がいたから、公爵家を継ぐことはない。私との結婚で、建国当初からあるベルアダム侯爵家の婿となる。次期ベルアダム侯爵で、私は侯爵夫人として彼と並び立つ。
素敵で優しい男の子。顔を合わせるたびに私の視線も心も奪っていく人が、私の夫となる。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。私の魅力なんて少女のような可愛らしさだけ。年を取れば、きっと人並みの容姿になって、幼い心根のままでは笑われてしまう。そんな未熟な私がアベルと夫婦になれるなんて、夢みたいだった。
彼は文武両道で理知的で何年経っても変わらず私に優しかった。きっと穏やかな心根のままベルアダムの平穏を守ってくれるだろうと思った。
だから、私もアベルに相応しい妻にならないといけない。幼いままではいけない。淑女としても、侯爵夫人としても、浮ついた心ではいられない。
勉学で成績を収めるのは当たり前で、可愛らしいという容姿を崩してはならないと注意した。そして社交は貴族社会で一番重要なこと。何事も疎かにできないと出来る限り、同年代の貴族子女とのお茶会や、懇談等も精一杯熟した。
アベルに心配されたこともあったけど、相応しくなるためには頑張るしかなかった。何事も卒なく熟すなんて、ありのままの私では出来ないことだったから。
貴族子女が通う国立学園には、勿論入学した。アベルも入学するし、その場所は小さな社交場だから。同年代の子女達は次代の国の担い手。交流を深め、侮れないように勉学も注力して、彼らの中で自分の立場を明確にする。建国当初より国から賜られた土地を守る名家ベルアダム侯爵家の令嬢として、先祖やお父様達の汚点にはならないように頑張った。
その私の頑張りは何とか実ったようで、入学から一年経てば学力の成績は上位になり、友人も沢山できた。
中でもマッケンジー伯爵家のカーラとレーヌ伯爵家のアリア、ロンド辺境伯家のエリシャは、人が合ったのかすぐに意気投合をして親友と呼べる仲の良さだったと思う。よい友人に巡り合うことができた学園生活を送ることができていた。
ただ、この時から異常は起こっていた。学園に通学する令嬢達は、相手が自分の婚約者であろうとも令息達と話すことすらできない。令息達、それだけではなく男性教員すら一人の少女に視線を奪われていたのだから。
その少女の名はデイナ。平民階級ではあるけれど、今は減少の一途を辿る魔法使いの家系だった。男性には気さくで親しみやすく、それでいてミルクティーのような髪色に淡い桃色の瞳をした可憐な容姿の人。
彼女は山奥の村でひっそりと住んでいたらしいけれど、咄嗟に魔法を使ったことで存在が露見した。私はどんな魔法なのかは知らない。でも、それは特別な実績のない平民の身で、貴族の学園に推薦で入学できてしまうほどの素晴らしい力だったらしい。
国に貢献している知識や財力を持つ平民の家ならば、入学できるのは分かる。だけど、血筋で継いでいくという魔法使いだからと官職に就く貴族自らが推薦したのは不思議だった。見たことがないものだから信じられなかったのもある。
何より、すぐに男性達がデイナに夢中になっていたのが異常で、忌避感を抱いていた。まるで恋をしたかのようにのぼせた顔で彼女の脇を固め、何人も、人の変動はあったけれど常に囲っていた。
勉学について行けないと言えば親身に教えて、教員に至っては免除をすることもある。騎士科の貴族令息達なんて護衛騎士のように従っていたし、在学生だった第一王子殿下はデイナの王子様のように恭しく扱っていた。同級だった第二王子殿下は彼女にすがる始末。騎士団長子息も、宰相子息も、見目麗しい令息達もデイナを愛しい者と侍るようだった。
その中には、私のアベルもいた。
入学式の日から、私の隣にアベルはいなかった。彼はすぐにデイナに夢中になったから。前日に共に学園内を回ろうなんて言葉は彼の中から消え失せてしまったようで、デイナを追いかけて、私に向けていた優しい笑みを浮かべて、甘く囁いていた。
どうして、と数日は悩んだことを覚えている。でも、それから一年経ってもアベルとは言葉すら交わせていなかった。何度か話しかけては居ない者だと無視をされた。手紙を送っても帰ってこないし、幼い頃から続いていた交流も途絶えた。
恋が彼を変えてしまったのだろう。初恋だという私のことなんて忘れるほどの熱愛。デイナへの想いが心を上書きすることで私の存在自体を塗り潰してしまった。
貴族と王族は政略結婚が多い。家同士の繋がりによる利益のためだから仕方がないこと。
その中で私の両親のように結婚してから想い合う人達もいるし、恋愛でなくとも家族愛は芽生えるという人達もいるという。この国の貴族のご夫婦で険悪な関係など稀。愛がなくともお互いを尊重して、家を共に守り立てる。
ただ、それは相手をきちんと認識しているからこそ成り立つ。ならば、私を居ない者と扱うアベルにはそんな気持ちすら芽生えないのかもしれない。彼の心にはデイナだけがいるといった様子だから。
理解したことで、私はとても暗い気持ちになった。友人達のおかげで気が紛れることはあったけれど、私はアベルとの結婚生活なんて想像すら出来なくなっていた。
不義理だと、そういった考えに至るのも仕方がないと思う。それはアベルだけではなくて、デイナに夢中な男性全員にも思った。
騎士団長子息のレグルス・オルトリンデはカーラの婚約者だったし、宰相子息のルーベンス・マルチェロはアリアの婚約者だった。周囲に侍る令息達の中にはウリエル・ルノーというエリシャの婚約者もいた。
第一王子エリオット・シルヴァン殿下は卒業後に立太子をして、隣国のフラメル王国のクローデット王女殿下を娶るという話だった。第二王子殿下だって、私はあまり交流はないけれど、気の強さが勇ましさに表れているディルフィノ公爵令嬢が婚約者だった。他にも婚約者がいる令息や妻帯している教員がいるけど、皆、大事な女性達を蔑ろにしていた。
自分たちの気持ちはデイナに捧げていると、彼女に侍って愛を囁いていた。本当に大事にしなければならない女性達を居ない者と扱って。
『異常ね』
『でも、私達は近付くこともできないわ』
学園の中庭で複数の男性達と触れ合っているデイナ。私は、教室の窓からカーラとアリアと一緒に眺めていた。男性達の中にそれぞれの婚約者がいて、私のアベルもいた。デイナの肩を抱いて寄り添っている。耳元に口を寄せて何か囁いて、笑い合っている。
その光景を見るのはいつものことで、眺めることが日課になってしまっていた。
『とても仲良しだったとは言えないけれど、ここまであからさまではね。気持ちも冷めるというものよ』
『あら、カーラは婚約者様に心を移していたの?』
『まさか、政略的な関係ですわ・・・そういうアリアはとても嬉しそうね?』
『ええ!だって大嫌いなルーベンス様と定期的なお茶会すらなくなったんですもの。真面目で厳しいことしか言わない方とご一緒するなんて苦痛でしかなかったわ!』
元気よく答えるアリアにカーラが苦笑したのを覚えている。私は、アベルを見ているのに他の人の様子が分かるほど気持ちが落ち着いているのだと、客観視すらできていた。
『コルネリアは、辛そうね』
『・・・いいえ、もう過去のこと、だから』
少し言い淀んでいたけれど、はっきりと言葉に出したカーラに私は言葉を詰まらせながら答えた。
アベルの心の中に私がいないなんて、この時はよく分かっていたから・・・もう涙すら出なかった。