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Haisha of the Dead Ⅴ







 ——なのに。


 指は、止まらなかった。


 止めたはずの思考の外側で、手だけが勝手に動く。誰の命令でもないのに、筋肉が了解している。


 ほんの数ミリ。


 たったそれだけで、世界は十分に壊れる。


 リーマーが、さらに奥へと沈む。


 逃げ場のない細い管の、そのさらに奥。存在してはいけない“余白”へ。


 その瞬間。


 “向こう側”が、こちらを掴んだ。


 ——ぬるり、と。


 金属越しに伝わるはずのない感触が、直接、神経に触れてくる。


 媒介が、意味を失う。


 距離が、無効化される。


 手応えだけが、こちらの中に直接“置かれる”。


 柔らかい。


 粘つく。


 温度がある。


 呼吸はしていないのに、拍動みたいなリズムだけがある。


 生きている。


 いや、違う。


 生きている“みたいに振る舞っている”何か。


「——っ、が……ッ!」


 脳の奥が、焼ける。


 焼ける、という比喩が足りない。


 もっと雑で、もっと原始的な“壊れ方”をしている。


 噛み砕かれる前の、内側から裂ける感覚。


「アマギ先生!? どうしたゆ!? 麻酔うつゆ!」


 視界の端でキリアが動く。


 慌てふためいて僕の周りを駆け回っている。


 僕は、手で制した。


 ここで麻酔を入れたら、この違和感は“ただの痛み”に回収される。


 それは敗北だ。


 痛みの正体が分からないまま、痛みだけを消す。


 それは医療じゃない。逃げだ。


 見ていられないのか、キリアが目を覆っている。


 ——いや、違う。


 見えているから、外している。


 僕は歯を食いしばりながら、続ける。


 止めない。


 止めたら、たぶん、戻れない。


 歯じゃない。


 僕の口腔でもない。


 もっと奥。


 名称のない場所。


 存在の境界線が曖昧なところを、内側から引き裂かれるみたいな痛み。


 同期は成立している。


 だから、これは——フォンファの痛み。


 そのはず、なのに。


 混ざっている。


 痛みの中に、明確に“異物”がある。


 方向が違う。


 質が違う。


 これは、単なる侵害受容じゃない。


 信号じゃない。


 接触だ。


 “触られている”。


 しかも——こちらが触れたからじゃない。


 向こうが、触りにきている。


 リーマーの先が、わずかに引かれた。


 僕の手じゃない。


 器具でもない。


 もっと内側。


 歯の中で、何かが、動く。


 あり得ない。


 あり得ないはずだ。


 歯の内部構造に、こんな可動域は存在しない。


 閉鎖空間だ。


 逃げ場も、余白も、そんなもの——


 ——ある。


 “あるから、触れている”。


 思考がそこに届いた瞬間、視界がぶれた。


 何かが二つ、首元に飛び込んでくる。


 速い、というより、最短だった。


 空間をショートカットしてきたみたいに、途中がごっそり抜け落ちている。


 ガチン、と。


 嫌な音がした。


 硬質な何かと、柔らかい何かが、噛み合う音。


 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。


 遅れて、衝撃が来る。


 ——僕の首元。


「……は?」


 視界が、近い。


 近すぎる。


 距離感が壊れている。


 さっきまでフォンファは、ユニットに寝ていたはずなのに、


 いつのまにか身体を起こして、


 ——僕の首を覆うように置かれたキリアの腕に、食らいついている。


 その動きに、躊躇がなかった。


 迷いも、ためらいも、判断もない。


 結果だけがそこにあった。


 狙ったわけじゃない。


 でも——


 最短で、そこに届いている。


 偶然じゃない。


 計算でもない。


 そのどちらでもないのに、最適解だけが選ばれている。


 おかしい。


 狙ってやった動きじゃない。


 もっと、反射に近い。


 いや、それすら違う。


 反射ですらない“何か”。


「……ッ、なに、して……」


 言葉の続きが、出ない。


 理解が追いつかない。


 追いつく前に、状況が先へ行く。


 フォンファの目が、近すぎる。


 さっきまでのそれとは、明らかに違った。


 焦点が、合っていない。


 でも、外れてもいない。


 “目”を見ていない。


 その奥。


 もっと、別の何かを——


 ——排除するみたいに。


 ぞわり、と。


 背筋に遅れて理解が走る。


 これ、は。


 敵意じゃない。


 ——違う。


 一拍、遅れて理解が追いつく。


 これは、


 排除だ。


 フォンファに同期しようとしている魂を、


 その“内側”にいる別の誰かが、


 外側ごと、まとめて噛み砕こうとしている。


 対象の特定が、雑だ。


 雑なのに、正確だ。


 守るために、壊す。


 そのロジックだけが、綺麗に通っている。


 ぎり、と。


 キリアの肉を食い破る音が聞こえた。


 繊維が裂ける、現実の音。


 ファンタジーが、現実に食い込んでくる音。


「んあッ!」


 短い声。


 でも、そこに焦りはない。


「キリちゃん!!」


 叫んでいるのは、僕だけだ。


「……、あ」


 フォンファの喉が、小さく鳴る。


 遅れて、表情が揺れる。


 今の今までそこにいた“何か”が、


 少しだけ、奥へ引っ込む。


「……なん、で……」


 力が、わずかに緩む。


 噛むための力じゃない。


 噛んでしまった“後”の力だ。


 自分でやったことに、自分が追いついていない顔。


「……ウチ……?」


 問いが、空中でほどける。


 その一瞬。


 ——噛みついているのが、“誰か”から“彼女”に戻る。


 境界線が、元の位置に“戻される”。


 さっきまで確かに存在していたはずの“別の気配”が、


 何事もなかったみたいに、引いていく。


 残るのは、血の匂いと、


 状況だけを理解していない当事者の顔。


 その隙間に、僕は息を吐いた。


 長く。


 遅れて。


 やっと、呼吸という行為を思い出したみたいに。


 隙間に、僕は息を吐いた。


 ……いや、吐いたつもりだった。


 肺が、うまく動かない。


 代わりに、喉の奥に、別の何かが溜まっていく。


 熱い。


 焼ける、というより——滲みてくる。


 痛みが、遅れて形を持つ。


 同期の回路を通って、フォンファの痛みとは別の“何か”が、こっちに流れ込んでいる。


 さっき触れた、“あれ”だ。


 歯の中にいるはずのないもの。


 構造の外側にあるはずのもの。


 それが——


 まだ、繋がっている。


「……っ、ぐ……」


 声が、漏れる。


 抑えたつもりだったのに、喉が勝手に鳴った。


 まずい。


 このままじゃ、引きずられる。


 痛みだけじゃない。


 “あっち側”に。


「アマギ先生?」


 キリアの声が、すぐ近くで落ちる。


 腕はまだ、フォンファに噛まれたまま。


 なのに、声はいつも通りだ。


 ちょっとだけ安心する。


 ちょっとだけ、腹が立つ。


 なんでそんな平常運転なんだよ。


「……キリちゃん、そのまま」


「このままゆ?」


「いい。離さないで」


「了解ゆ」


 即答だった。


 迷いがない。


 未来視、ってこういうときズルい。


 こっちは今、命削って判断してるのに。


 いや、だからこそか。


 ズレがない。


 最短距離で、正解を踏み続ける。


 だったら——


 こっちも、最短でやる。


 僕は片手で口元を押さえながら、もう片方でポケットを探る。


 冷たい金属が、指先に触れた。


 引き抜く。


 音がした。


 チャリ、と。


 場違いなほど軽い音。


「……それ、なにゆ」


「保険」


「顔が、保険使う人の、顔じゃない、ゆ」


「使うときはだいたいこうなる」


 軽口を叩きながら、僕はそれを指に引っ掛ける。


 歯列に沿うように、金属を滑らせる。


 カチ、と。


 噛み合う。


 ——装着完了。


 患者から模って作った。


 バンパイアのグリルズ。


 見た目はただの悪趣味なアクセサリー。


 機能は、全然ただじゃない。


 吸着。


 固定。


 そして——


 吸引。


「ちょ、それ」


 キリアの声が、ほんの少しだけ低くなる。


「それ、使うやつゆ?」


「使うやつだよ」


「やばいやつゆ」


「うん、やばいやつ」


 認識は一致してる。


 だから話が早い。


 僕はフォンファに近づく。


 正確には——


 キリアの腕と、フォンファの口元、その“交点”に。


 まだ噛みついている。


 まだ、離れていない。


 なら——


 そこが、いま一番“繋がっている場所”だ。


「……フォンファ」


 声をかける。


 反応は、遅れて返ってきた。


「……っ、な、に……っす……」


 息が荒い。


 目が揺れている。


 さっきまでの“別の誰か”は、引っ込んでいる。


 でも——


 完全に消えてはいない。


 奥で、まだ、こっちを見ている。


 分かる。


 さっき、触ったから。


「ちょっとだけ、我慢して」


「……もう、してるっす……」


「もうちょっとだけ」


「ブラック企業っすか……」


「ご覧の通りホワイトだよ。命の保証はないけど」


「最悪っす……」


 軽口が返ってくる。


 大丈夫だ。


 まだ、こっちにいる。


 だったら——間に合う。


 僕は、グリルズを噛み締める。


 内部機構が起動する。


 微細な振動。


 圧の変化。


 吸引路が、開く。


 狙いは二つ。


 キリアの中に入ったキョンシーの感染物質と、


 さっき、繋がった“異物”。


 痛みの中に混ざっていた、あれ。


 あれを——


 引き剥がす。


「……いくよ」


 誰にともなく言って、


 僕はそのまま、キリアの腕——正確には、そこに噛みついているフォンファの口元へと、自分の口を重ねた。


 ぐ、と。


 距離が、ゼロになる。


 視界が、近すぎて歪む。


 呼吸が、混ざる。


 キリアの腕越しに、フォンファの息がかかる。

甘い匂いと、鉄の匂いが、混ざっていた。


 境界が、また曖昧になる。


 でも今度は——意図的だ。


 グリルズが、喰らいつく。


 肉じゃない。


 血でもない。


 もっと奥。


 “接続”そのものに。


 次の瞬間。


 ——来た。


 引っ張られる感覚。


 違う。


 引っ張っているのは、こっちだ。


 なのに、向こうも、離れない。


 絡みつく。


 粘る。


 抗う。


 まるで——


 意思があるみたいに。


「……ッ、く……!」


 喉の奥で、何かが暴れる。


 吐きそうになる。


 でも吐いたら終わる。


 これは外に出すものじゃない。


 抜くものだ。


 ぎり、と歯を食いしばる。


 金属が軋む。


 顎が悲鳴を上げる。


 でも止めない。


 止めたら、たぶん——


 戻る。


 あっちに。


「……アマギ先生」


 キリアの声が、近い。


「それ、引けてるゆ?」


「……半分」


「半分は?」


「向こうが持ってる」


「綱引きゆね」


「負けたらどうなると思う?」


「考えたくないゆ」


「僕も」


 軽口が、震える。


 でも、まだ笑える。


 だったら——


 まだ、負けてない。


 ずるり、と。


 何かが、動いた。


 境界の奥で。


 剥がれる音がする。


 音じゃない。


 感覚だ。


 でも、確かに“剥がれている”。


 もう少し。


 もう、少し——


 そのとき。


 不意に。


 フォンファの目が、かっと見開いた。


 さっきと同じ。


 でも、違う。


 焦点が——


 合った。


 僕に。


 真正面から。


「——あ」


 声が、重なる。


 僕と、


 それと。


 同時に。


 ぞわり、と。


 全身の毛が逆立つ。


 掴んでいる“何か”が、


 こっちを認識した。


 その瞬間。


 引き合っていた力の向きが、反転する。


 引く、じゃない。


 ——引き込む。


「……っ、待——」


 遅い。


 次の瞬間、視界が暗転した。


 飲み込まれるみたいに。


 意識が、内側に落ちる。


 音が消える。


 感覚が途切れる。


 最後に見えたのは——


 フォンファの口の奥。


 じゃない。


 そのさらに奥。


 “歯の中じゃない場所”が、口を開けている光景だった。



最新話を執筆していたところ、構成的にさらに良くできそうな手応えがあり、現在「Haisha of the Dead」章を中心に大幅な改稿を進めています。 既存話についても順次ブラッシュアップ予定のため、多少の差異や揺れが生じる可能性がありますが、ご容赦いただけますと幸いです。 また、改稿に伴い伏線や描写の意味合いも強化されていく予定ですので、既読の方も「Haisha of the Dead」を読み返していただけると、より楽しんでいただけるかと思います。 今後とも『怪物の歯医者』をよろしくお願いいたします。

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