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To Bloom in a Thousand Souls Ⅰ






「……死ねよ」






 ズブ……ズブ……と、熟れた果物に包丁を差し込むような音が響く。続いて、何かが潰れる嫌な感触を含んだ音。それが繰り返される。何度も、何度も。


 私は床に倒れていた。動けない。身体が冷たいのは、血のせいか、それとも空気のせいなのかすら分からない。開けっぱなしの視界の端には、兄がいる。仄暗い無機質な部屋の中で私に覆いかぶさるようにして、身体を刺している。


 狂ったように。泣きながら。何かに祈るように。それでいて力任せに、容赦なく。彼の手は、既に血で滑りそうなほど濡れている。それでも、止まらない。


「死ね。お前、なんか、死ん、じまえ……」


 兄の声は、酷く掠れている。叫んでいるはずなのに、どこか悲鳴に近い。それが何故なのか、私には理解できなかった。何が起きているのか分からない。兄は包丁をつき立てる。繰り返し、繰り返し。それが事実だ。でも、どうして? 私は兄を庇った。確かに、そうだった。兄を守るために、囮になった。


「頼む、から……死んで、くれ……」


 兄の呻き声が弱くなっていくたびに、私の中に霧が晴れるように記憶が戻ってくる。あの時、私は殺された。そうだ、死んだんだ。兄の目の前で、私は力なく倒れた。それが終わりの始まり。でも、今。どうしてまだ意識がある?

 いわゆる死後硬直のせいなのか、身体は動かないし、声も出ない。それでも、私は見ている。聞いている。兄が何をしているのかを。


「俺も、一緒、に行く……」


 兄は呟く。疲れた声、もう終わりを告げるような響きだった。そして、また自分のお腹に包丁を刺し始めた。ズブ、ズブ、と。無表情で、何かを噛み殺したような目をしている。兄の目からわたしの右目に涙が落ちた。視界の半分だけベールがかかる。まばたきは起きなかった。


「フォンファ……。ダメな、兄ちゃん、で、ごめん、なぁ……」


 最後にそう言うと、兄は包丁を自分の首に当て、力いっぱい突き刺した。その瞬間、噴き出した血と泡が音を立てる。ヒューヒューと空気が抜ける音が耳障りだ。兄の喉元からは溺れるような泡がぶくぶくと立ち上り、彼の体は小刻みに震えながら、次第に動きを止めていく。目の前を覆っていたベールが赤くぼんやりと染まった。


 兄は私に覆い被さるように崩れ落ちてくる。温かい、と思った。けれど、それは錯覚だったのかもしれない。彼の身体からどんどん熱が失われていくのが分かるからだ。五感が、徐々に戻ってくる。兄の意識と反比例するように。血の匂いと、重さと、兄の息絶えた静寂。


 その瞬間、私の息が戻った。吸い込んだ空気が痛いほど肺を刺し、反射的に私は叫び声を上げた。兄が息を引き取るのと、私が息を吹き返すのは、ほぼ同時のことだった。


 その事実が、どれだけ残酷なものか、私はすぐには受け止められなかった。ただ、兄の名を何度も呼ぶだけで精一杯だった。











 ────────────────



「フォンファ。今日の晩飯、バーワンと点心に決まったぞ。異論は受け付けない」


 台所から鉄鍋の鳴る音。兄が中華鍋を軽く煽りながら、こっちに声をかけてきた。フライ返しで何かを押し潰しながら、笑っている気配がする。


「おっしゃー!兄ちゃんのバーワン、マジでうまい。トロッとしてて、モチっとしてて、口の中が春節になるやつ!」


 私は雑誌を閉じて、床をゴロゴロ転がりながら台所ににじり寄る。途中で座布団を巻き込んで盛大に滑る。着地失敗。兄は無言で中華鍋の蓋を閉じる音を立てた。


「お前がせんせいの助手してる間に、ばあちゃんが今日ウチに寄ってさ。筍と椎茸、袋いっぱい持ってきてくれた。蒸すバージョンと揚げるバージョン、両方作る」


「テンション爆上がりなんですけど!」


 兄はフライパンをあおりながら片手で冷蔵庫を開け、鍋を火にかけたまま調味料を並べていく。手際は無駄がないけど、ちゃんと私の相手はやめないのが兄の妙なところ。


「というわけで」

「うん」

「……酒、買ってきてくれ」


「ちょ、待て。飲むの?」

「飲む。飲む日。飲む曜日」

「兄ちゃんの泣き上戸、あれ地獄なんだけど? 前、床がびしゃびしゃになるまで泣いたよね?」


「うるさいな」


 私はその言葉にスイッチが入ってしまい、床から立ち上がって即興モノマネ劇場を開演した。


「うわああフォンファァァア、兄ちゃんなんかでごめんなァァァ!って床に額こすりつけて泣くのやめてよ?」


「殺意湧くからその声真似やめろ」


 兄は落ち着いた声で言いながら、トロミのついた餡をレンゲで混ぜている。むしろ混ぜながら言うな。しっかり私の目見て言え。


 私はキッチンの出入り口まで忍び足で近づき、彼の背後にぴたりと貼り付いた。そして──


「フォーーーンファァァアアアア!」


 150%の大音量で泣き真似を炸裂させた。


「やめろって。中華鍋で頭割るぞ」

「その時はせめて点心いっぱい詰めてあげてね」


 すかさず中華ヘラが飛んできた。私は腰を落として回避。飛び込むように横に転がる。


「このヤロウ」


 ヘラでこちらを軽く一振りしてから、兄はまた餡に集中しはじめる。無敵か。


「……ウチも飲んでいいなら行ってくるけど」

「フォンファも、飲んでいい」

「っしゃきたあああああ!!」


 私は勢いのまま兄にダイブ。両手を広げて突進したら、兄は無言でヘラの平たい面を私の額にぐいっと押し付けてきた。


「あぢッ! あづッ! 兄ちゃんそれは拷問だよ?!」


 兄はもうこちらを見ておらず、鍋の様子を見ながら笑っている。このクソボケアニキ、ほんと人の感情をあっためてから突き落とすのがうまい。


「机の引き出しに、500ルビー入ってる」

「わかってるぅ~!」


 私は派手に足音を立てながら部屋を飛び出していく。

 それでもちゃんと、ドアの前で一度だけ振り返る。

 兄はいつものように、台所で背を向けたまま、こちらにフライ返しを振っていた。

 ……その背中を見るだけで、心の中に、焼きたての点心みたいなあったかさがじゅわっと広がった。




 木製の玄関を開けると、真正面に広がるのは半円の木壁と、ど真ん中にどーんと居座る中庭だった。夕陽が青空を茜色に染めようとしている真っ最中だ。


 ここは土楼。上も下も横もぐるっと回って、まるでドーナツみたいな形をしている。円形土楼っていうんだって。中身の詰まってない中華ドーナツ。それが私たちの住んでる場所。


 鍵は閉めない。うちはそういう家系だ。盗まれたら、盗んだ人が謝って返しに来るまでが様式美。


 左手で壁に手をついた。やや中腰になったせいか、目に刺していた光が一瞬なくなり、扉が夕陽に照らされた。右手で靴をつま先から突っ込む。目をつぶっても履けるのが土楼っ子の誇り。……かかと浮いてるけど。


 よし、走れる。


 私は靴が半分脱げたまま、長い長い廊下を、バーワン目がけて走り出した。


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