EYES ON ME. Ⅱ
──問診票、書き終えましたもんで。
まったりした声が待合室から届く。途端に、空気がぴしりと張り詰めた。
スタッフルームの隅っこで気配を消していた僕とフォンファは、まるで既に睨まれたかのように動きを止める。硬直。見つめ合う。なんかもう、このまま石像になってしまう未来すら想像できる。
一方で、そんな僕らを横目に見ながら、ちっとも動じないのがキリアだ。彼女は無言で手鏡を持ち上げ、ふっと息を吐く。すると、その息が靄になったと思うとキリアの笑顔の形になって彼女の顔に貼りついた。完璧な偽装スマイルである。
そして、手鏡を掲げたまま後ろ向きでスタッフルームを出る。なめらかだった。まるで水が流れていくようなスムーズさで、受付へと向かう。
「はい、確認したゆ。メデコさんでお間違いないゆか? 今日はどうされたゆ?」
「メデコって言いますもんで。ちょっと院長先生にご相談したいことがありますもんで」
そう言うと、彼女──メデコは、目に涙を浮かべた。
たぶん、慣れているのだろう。キリアが鏡越しに対応しても、メデコは何も言わなかった。
僕も同じく鏡越しで彼女の嘆願するような眼差しを受ける。
メデューサのお口のトラブルを想像しようとしたそのときだった。
──横のフォンファが、手鏡を持ったまま、声にならない悲鳴をあげた。
「アマギ先生、あれ、やばいっす……やばいっすよ……!」
フォンファが僕の手鏡を乱暴に押し下げ、ぶるぶる震えながら自分の手鏡を指差す。目がぎょろりと見開かれ、呼吸は浅く早い。狼狽え方が尋常じゃない。
そのまま彼女は鏡を固定しながら、僕の頭をぐいっと引き寄せた。まるで自分の視界を丸ごと移植するみたいに、強引に、絶対に見ろと言わんばかりの力で。
──窓の外。待合室の先。
無数の石が積み上がっている。いや、石? いやいやいや、違うだろう。そんな単純な話じゃない。僕はぼやけた視界を瞬きで正し、改めて焦点を合わせる。
──あれは、鳥だ。
医院の前方、地面から空へ向かうように、鳥の石像が積み上げられていた。まるで誰かが丁寧に、儀式のように並べたかのように。
喉が引きつり、乾いた空気が粘膜を擦る。
妙な音が出た。ひゅこっ。喉元がひとりでに鳴る。
「ああ、……ああなる未来だけは、御免蒙りたいね」
冷静に言ったつもりだった。
けど、声が裏返っていた。完全に、もう、がっつり、びびっていた。
フォンファは鏡を持つ手をだらりと下げて、スタッフルームの壁を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……なんかウチ、若くて可愛いまま石像になって終わるのもアリな気がしてきました」
おいおいおい。縁起でもないこと言うなよ。
弱気になっちゃダメだ。こんな時こそ強気でいくべきだ。いや、いくしかない。選択肢はひとつ。
「ここはもう、断固として拒否するしかない!」
僕は人差し指を高々と掲げ、意気揚々と主張する。もちろん、メデコに聞こえない程度の音量で。
「何アホなこと言ってるゆ。みるに決まってるゆ」
即座に却下された。秒速だった。
「いやまぁ、ほら。冗談だけど、ね? キリちゃんの魔法、解呪とかあるんだよね。いつも通り頼りにしてますよ」
僕は、キリアの真横に寄って彼女に耳打ちする。それはもうゴマをすりにすったような媚び諂い平身低頭でだ。今の僕は院長の威厳なぞ微塵も感じられない。威厳がないのはいつものことではあるが。
返事の代わりにキリアは手首を返すと、手鏡の角度を変えて僕の顔を鏡越しで見つめた。
いや僕の顔を鏡で見る意味は?と、問おうとするもキリアは眉をあげて口角を下げた珍妙な笑みを浮かべている。まるで重役のおじさんが下っ端の意見を小馬鹿にするような表情だ。
僕らが黙ったことで代わりに換気扇のモーターの唸りが院内に響き渡り、メデコがもたらした緊迫した空気をほんの幾ばくか吸い込んでいった。
「ないゆ」
あっけらかんと人魚姫は宣う。大問題である。え、待って。解毒剤なしで毒を扱うってこと? 命知らずすぎないか?
「え」
開いた口が、そのまま閉じ方を忘れた。間抜けな声が漏れているのも気づかないまま、僕はキリアを見つめた。
「そんな難しくてレアな魔法、覚えてないゆ」
「えっ」
「大丈夫ゆ。もし石になっても、何十年後かにはスト◯スの杖でも探してくるゆ」
「ちょっと何言ってるかわかんないです」
本当にわからない。本当に、本当に、わからない。
「なんとかなるゆ」
「やっぱり断ろう。いのちだいじに、だよ」
「石化は別に死ぬわけじゃないゆ。むしろお気軽タイムスリップゆ」
「僕は今この瞬間をキリちゃんとフォンファと生きたいんですが?」
「歯が浮くようなこと、よくサラッと言えるっすね」
冷静さを取り戻したのか、フォンファがぼそっとツッコむ。
「ふんゆ。ちゃっちゃっと終わらせるゆ。先生」
キリアは鼻で笑って、ひょいと手鏡を掲げた。二人の頬がほんのり紅潮してみえるのは、鏡のせいか、気のせいか。
僕らの小声の作戦会議が幕を閉じ、再び鏡越しに患者と対峙することになった。鏡の中のメデコは、無垢な笑顔でこっちを見ている。が、こっちの視線は彼女の目を避けてひたすら口元へと向かう。石化とか、勘弁してほしい。
手鏡を握る手のひらには、緊張からじっとりと汗が滲んでいる。滑りそうで滑らないその感触が余計に気持ち悪い。
キリアは自分の頬に鏡をぴったりと押し当てて、あの眼を見ないように徹底していた。
「早く出てこいゆ。でないと、処すゆ」
その無言の圧力を、鏡越しにひしひしと感じる。
僕は渋々と後ろ向きに受付に向かい、鏡越しにメデコと対面した。傍から見れば、僕とキリアの二人が後ろ向きで鏡を持ちながら応対しているという、滑稽極まりない光景だ。
「大変お待たせいたしました。歯のお悩み本当に辛いですよね。えっと、鏡越しで失礼します。アマギと申します」
どうにかこうにか、震えを隠しつつ名乗る。
「は? あなたが院長せんせなもんで?」
メデコの声は相変わらずまったりと甘いが、その真意を探ることはできない。というか、探ろうとする気も起きない。見れば石、聞けば怯え、触れればもうおしまいだ。なるべく刺激しないように、なるべく普通を装う。
……まあ、きっと僕が若いから不安に思っているんだろう。
そりゃあ、最弱レベルだし、院長としての威厳なんて、影も形もないのだから。
「あ、すいません。一応、僕は歯医者です」
そう言いながら、気づけば手鏡を持つ手がじわじわと下がっていた。意識して持ち直す。経験上、こういう会話から始まる患者さんは大体ラポールの形成に苦労する。ああ、なんか今日は特にダメな気がする。いや、気のせいか? いやいや、気のせいであってくれ。でもほら、まだ希望は……いや、ダメだな、これはダメなやつだ。
そんな悟りを開きかけた瞬間、受付の上に影がぬるっと這い出てきた。
「まぁ、院長先生は、わっちと違ってなんて美しい瞳をされてるもんで」
メデコはうっとりとしたため息をつき、受付にぐっと身を乗り出す。僕の顔の横に──ぴたりと顔を横付けして頬擦りしてくる。蕩けるような表情が僕の視界の半分を占めてしまった。もちろん、鏡の中の話で、だ。
え? なんで? どうして?
この距離感、アウトでしょ? アウトじゃない? ヤバいよね?
喉元にナイフどころの騒ぎじゃない。もはやこれは、真祖ヴァンパイアのミルカラが「イヤァああッ!!」とヘラって叫んだ時か、レッドドラゴンのヴァルミラアスが「グオオオオオ」と息を吸ってブレスを吐こうとしてきた時と同じだ。心臓の震え方が完全にアレ。スライムのリィナさんが躓いた時くらいブルッブルに揺れてる。
うん、普通に怖いんだけど。




