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EYES ON ME. Ⅰ

 


「ただいまお昼休み中です」

 そう玄関の札をひっくり返した僕は、二人の少女がじゃれ合うのを遠目に眺める。


 医院の空気は、昼休みに入った途端、ぬるい水みたいにダレる。

 椅子に置き去りのカルテ、冷めたコーヒー、待合室にポツンと残された雑誌。

 人が手を放した場所は、一瞬で「使われていない空間」になるものだ。


 ──けれど、受付だけはそうじゃなかった。

 そこではいつも、小さな嵐が吹いている。


「そういえばゆ。フォンちゃんの家族って、ここに住むの知ってるゆ?」

「多分、知らないと思うっす」


 キリアの問いに、フォンファは肩をすくめて答える。

 あまりにも、あまりにも軽い返答。

 空気より軽く、まるで「あるけど気にしてないホコリ」みたいな口ぶりだった。


 キリアは、不思議そうに小首を傾げる。

 彼女の中の疑問が、額の上に浮かんでいるのが見えるようだった。


「連絡しなくていいんゆ?」

「多分ってのは、多分ウチに家族がいるって意味っす」


 クエスチョンマークが、僕とキリアの頭の上でひしめき合う。

 数で言えば、カラスの群れくらいはいる。


「どういうこと?」

 僕はそのうちの一羽を手に取り、そっとフォンファに投げてみた。


「いやー。それがウチ、キョンシーになる前後の記憶が曖昧なんすよね」


「「え゛?!」」


 思わぬカラスのピッチャー返しに、僕とキリアの声がユニゾンする。

 まるで絶妙なタイミングで演奏されたオーケストラのように。

 指揮者がいるなら、間違いなく天才だ。


「家族が一人いたことと、誰かにキョンシーにされたことは覚えてるんすけどね」

 フォンファは頬の縫い目あたりを指でなぞる。

 それは思い出すための行為なのか、ただの癖なのかはわからない。


 僕は玄関から待合室を抜け、受付へと足を向ける。

「キリアといい、フォンファといい、大変なバックボーンを持つ子ばかりだね」

 この歯医者、患者より従業員の方がよっぽど困難な目に会っているのでは?


「大変なんすかね。ウチは逆に余計なしがらみがなくて気楽っすね」


 ──そのとき、ほんの一瞬だけ、フォンファの顔に影が落ちた。

 影はすぐに消えて、いつもの飄々とした笑顔に戻る。

 でも、確かに見た。見間違いじゃない。

 一瞬だけ、彼女は「自分の言葉の重さを測っていた」。


「そんなものなのかな」


 僕は言いながら目線をキリアに移すと、キリアも同じものを感じ取ったのか、つま先立ちをし、精一杯伸ばした手でフォンファの頭を撫で始めた。



「フォンちゃん、私のことお姉さんだと思っていいゆ」


 キリアは どこか得意げに胸を張り、フォンファの頭を撫でくり回している。最初は逃げようとしていたフォンファも、観念したのかされるがままにされていた。


「先輩が、姉ちゃんっすか?! ウチ、先輩の五個上なんですけど?」


 手ぐしで乱れた髪を整えながら、フォンファは呆れたように笑った。しかし、よく見れば頬の片隅が少しだけ綻んでいる。まんざらでもないらしい。


「細かいことは気にしちゃダメゆ。試しにキリアお姉ちゃんって呼んでみるゆ」


 キリアは腰に両手を当てて、どこか誇らしげにふんぞり返る。すでに堂に入った「お姉ちゃん」っぷりだった。


 その勢いに抗いがたい圧を感じた僕は、なぜかつい口を滑らせる。


「キ、キリアお姉ちゃん」


 ──次の瞬間、ピシャリとした拒絶の音。


「なんで先生が言うゆ? きしょいゆ」


「……あの、その」


 真顔で切り捨てられ、僕はひどく複雑な心境に陥る。

 屈辱と、それを超えた竹を割ったような清々しさが同時に押し寄せた。

 違う。違うんだ。僕にはそういう趣味は、絶対にないはずなのに。


 沈没しかけた僕を尻目に、フォンファが後ろ手に両手を組み、少しだけ体をよじりながら目を伏せる。


「……キリア姉ちゃん」


 その言葉が僕が作った空気を切り裂くように響いた。


 ──静寂。


 次の瞬間、キリアが恍惚とした表情でフォンファに抱きつく。


「んんゆゆ……たまらんゆ。年上に無理やり呼ばす、この征服感……!」


 フォンファはキリアの腑抜けきった顔を見れない位置にいる。だが、僕からはバッチリ見えてしまった。


 ──うわぁ。


「キリちゃん、なんか目的違わないそれ?」


 僕が冷静に指摘すると、キリアはこちらを睨みつける。


「黙るゆ。さらながら神話のような美しさだゆ?」


「いやまぁ、キリちゃんのその顔さえなければ、一見はね? ……フォンファはいいの?」


 一応、当事者にも確認しておく。


「ウチは──」


 ──その言葉が終わる刹那。


 ──ビキッ。


 音がしたわけじゃない。けれど、フォンファから飛び退いたキリアの全身が雷に打たれたように強張った。


「か!かが!!」


 彼女の叫びは、引き裂かれた布のように不安定だった。


 次の瞬間、キリアは両目を抑えてうずくまる。息が詰まるような短い嗚咽が漏れた。


 僕とフォンファが反応する間もなく、彼女は頭を激しく横に振る。何かを振り払おうとしているように。


「お、おい、大丈夫?」


 そう声をかけた僕を、キリアは見なかった。

 見れなかったのかもしれない。


 彼女の指の隙間から覗く瞳は焦点が合っていない。いや、違う──まるでここにいない「何か」を見ている。


 背中を強張らせたまま、キリアが絞り出すような声 で言った。


「……来るゆ……!」


 声が震えていた。いつものキリアとは違う、 恐怖に支配された声だった。


「なにが?」


 僕が訊くと、キリアは今度こそ僕のほうを向いた。


 肌が青ざめている。唇がひきつっている。いつもの軽口を叩く余裕なんて、欠片もない。


 僕は心配になり、顔色を伺うために近寄る。

 彼女は小さく喉を鳴らし、震える唇をなんとか動かして言った。


「鏡持ってくるゆ……! 早く!!」


 急に頭を上げたキリアのヘッドバットが僕の喉仏に直撃し、僕は激しくむせた。


「か、鏡?」


 フォンファが戸惑いながら訊く。


「手鏡でいいんすか?」


 そう言いながら、彼女は診療室へ駆け出した。だが、キリアは狂気じみた勢いで叫ぶ。


「最低人数分! 三つ!ありったけ! 早くするゆ!!」


「このままだと全滅するゆ!!」


 ──何を言ってるんだ?


 咳き込みながらも、僕はキリアの異常さをひしひしと感じていた。


 これは、ただ事ではない。


 ほどなくして、フォンファが手鏡を三つ揃えて戻ってくる。


「はい! もってきたっすよ」


 彼女が10本ほどの鏡を差し出した瞬間、キリアはむさぼるようにそれを掴み、僕らに一本ずつ配布した後、乱暴に院内にさし木の如く配置し始めた。


 何がどう「全滅」なのか、僕にはまだわからなかった。


「どうしたの? また見えたの?」


 息を整えながら、僕が訊ねる。


 キリアは鏡越しにこちらを見たまま、震えた声で答えた。


「見ちゃいけないものゆ……!!」


 ──その瞬間、玄関のベルが鳴る。


 扉の向こうから、 来訪者の気配がした。




  お昼休み中の札? いつものことだが、意味をなさなかったらしい。




「こんにちはー。あのう。モンスター向けの歯医者をやってるって聞いたもんで」


 僕は反射的に受付から身を乗り出そうとする。

 しかし次の瞬間、キリアが体を沈めて僕の足もとに潜り込み、Imanari rollを繰り出し、僕の後頭部が床に派手にぶつかった。


「へぶ」


 ぐるぐる回る視界の先には、キリアが鏡を介して患者と話す姿があった。


「問診票をこちらに置いておくので、そちらにおかけになって書きながら少々お待ちくださいゆ」


「はいなもんで」と透き通るような返事が聞こえた。フォンファが不思議そうに待合室を覗こうとすると、僕と同じようにして床に引き倒される。



 僕らはバフの影響で光を放つキリアにずるずると引きずられ、スタッフルームに押し込まれた。



 最後にキリアが扉を指で横に引くと、それはまるで意思を持つかのように、ぴしゃりと閉じた。外界との繋がりを断つように。


 鍵もかけていないのに、まるでこの空間ごと異世界に移動したような感覚に陥る。スタッフルームは狭く、薄暗く、壁に掛けられた時計がやけに耳障りにコチ、コチと時を刻む。外に患者がいることを思い出し、反射的に動こうとした僕の肩を、キリアがぐいっと掴んだ。驚くほどの力で。


「絶対に直視しちゃいけないゆ」


 その言葉は異様に重かった。ただの注意じゃない。これは警告だ。


「説明してくれない?」


 キリアの顔を覗き込むが、彼女はただ無言で、ぎゅっと目を閉じたまま頭を振る。汗がこめかみを伝い、唇は強く噛み締められている。その横では、フォンファが壁に寄りかかりながら、自分の足元をぼんやりと見つめていた。


「目が回っているのか、ウチが回っているのか、世界が回っているのか分かんないっす」


 フォンファの呟きは、呆然としているようでいて、どこか現実味がなかった。言葉が宙に溶けていく。さっきまでの和やかな空気が嘘みたいだ。


「……キリア、何が見えた?」


 問いかけると、キリアはゆっくりと、苦しげに喉を鳴らした。


「メデューサゆ」


 ──瞬間、その名がこの空間を軋ませ、僕の中の何かが「ひゅっ」と縮み上がった。


 頭の中でモンスター図鑑をパラパラとめくる。けれど、お生憎様、そこにメデューサの項目はなかった。ページをいくら捲っても、ただ白紙が広がるばかり。


 無論、概念としては知っている。蛇の髪、石化の魔眼、神話の怪物。けれど、それが実在するモンスターとして、どういうものなのかは知らない。神話のままなのか? それとも、もっと別の、僕の知らない「何か」なのか?


 知らないものを知らないままでいたい──そんな感情が、背骨を這い上がってくる。


「待って、キリちゃんは見たの?」


「見てないゆ。でも、視えたゆ」


 それが幸いだったんだろうか? 未来視のことなんだろうけど、みてないのにみえたって、国語的にどうなんだ。


 待合室のほうから、静かに、音が消えていく。

 ──普通のモンスターがいる空間は、あんなに静かじゃない。


 意を決してスタッフルームの扉を少しだけ開き、渡された手鏡で待合室を覗く。

 鏡に映るその姿を、ほんの端だけ見てしまった。


 彫刻のように整ったお顔の周りにまとわりついた髪の毛は──蛇だ。無数の蛇がうねうねと蠢いている。


 全身が冷え、脳が理解を拒む。やっぱりかの神話ベースのようだ。





 詰んだかもしれない。







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