Dragon in Dragon Ⅶ
べちゃり。全身を覆うヴァルミラアスの唾液は、口から射出された僕らをしっかり包み込んだ。最悪な手土産だったが、不幸中の幸いとして、唾液が着地の衝撃を緩和し、僕とキリアは無傷で生還を果たした。横を見ると、キリアが「うへえゆ」と顔をしかめ、鼻をつまみながら全力で洗浄魔法をかけている。その清潔感への執念には感心するほかない。
「お疲れっす! 思ったより早かったっすね!」
一本釣りの仕掛けを操作してくれたフォンファが駆け寄ってくる。彼女の視線が、僕たちの隣に横たわる黒いムカデに吸い寄せられた。
「えっ、なんすかこのキモいムカデ!?」
フォンファが驚く間もなく、大きな音が響く。振り返ると、ヴァルミラアスがAMDSから口を外したところだった。防御膜は唾液でぎとぎとにコーティングされ、完全に乾くまで触れない方が良さそうだ。何より臭い。いや、本当に臭そうだ。
「なんか失礼なこと考えてない?」
ヴァルミラアスが目を細めてこちらを睨む。
「アタシは虫歯を作っちゃったけど、ケアだけはちゃんとしてるんだから!」
「いえ、臭いだとかは全然思ってません!」
場を取り繕う僕の言葉を無視するかのように、ヴァルミラアスは視線を黒いムカデに向けた。
「その黒い雑魚……よくもアタシを痛めつけてくれたわね。消し炭にしてやる!」
「それは待った、ミラたん」
僕が制止すると、ヴァルミラアスは不満げに眉を吊り上げる。
代わりにキリアがムカデの横に立ち、小さな手を添えて言った。
「可哀想だゆ」
「はぁ!?アタシの方が可哀想でしょ!?どんだけ痛かったか!」
二人の間に緊張が漂い、僕は慌てて話を切り出した。
「ミラたん、最近、寒冷地に行ったりしてない?」
僕の言葉にヴァルミラアスはギクリと体を固くする。
「なんで?」
ヴァルミラアスが眉をひそめた。その声には、微かな警戒と不機嫌さが混じっていた。
「いやあね、このワームは寒冷地のスノードラゴンにしか棲まない。いや、棲めないんだよ。この子は暑さが大の苦手でね。だから、ミラたんのドラゴンブレスを嫌がって虫歯の奥に逃げ込んでたんだろう。熱を感じるたびに、歯の中で暴れていたんじゃないかな」
僕の説明を聞いたヴァルミラアスは、しばらく黙って考え込むような素振りを見せた。
「え、そうだったの? ……道理で激痛なわけね。でも、なんでアタシの口なんかにいたのかしら」
不満げな声を漏らしながら、ヴァルミラアスはワームに指先を伸ばしてツンツンと突っつく。その様子を見て、キリアが「やめてほしいゆ」と言わんばかりに両手で彼女の指を押し返した。その様子を見てヴァルミラアスは面倒くさそうにそっぽを向き、鼻で笑う。
「それなんだよね。それがちょっと不思議でさ」
僕はワームに目を向けながら、話を続ける。
「この子の終宿主は寒冷地のドラゴン、主にスノードラゴンで、中間宿主はリンゴなんだ。そしてスノードラゴンたちは、リンゴの中でワームを育てて、ある程度育ったら自分の口の中に入れる。歯磨きペットとしてワームと共生してるんだよ」
僕が言うと、ヴァルミラアスは再びこちらに目を向けた。その瞳には、ほんの少しの興味が宿っている。
「ふうん?博識ね、アナタ。益々イイワァ」
「恐縮です」
軽く頭を下げつつ、ポケットからビニール袋を取り出した。中には、さっき彼女の歯の上で採取した食べかすが入っている。袋越しでも漂う臭いに、キリアが顔をしかめながら僕から距離を取った。
「え、さっきのものすごい臭いやつゆ?」
キリアが僕に向けた視線には、あからさまな拒絶が混じっている。僕にも、そしてヴァルミラアスにも失礼じゃない?それ。
「そうだよ。でも開けないから安心して」
袋を指先で軽く持ち上げながら、僕は冷静にそう言った。キリアがホッとしたのか、ようやく少しだけ近寄る気配を見せた。
「で? それがなによ」
ヴァルミラアスの声には、少しばかりの苛立ちが混じっていた。今まで痛みに耐えた上に、無駄に時間を取られていると思っているのだろう。
僕は軽く手を振って、それを無視するように話を続けた。
「これは、ミラたん。リンゴを食べたことはあるかい? レッドドラゴンは完全肉食性だよね?」
質問の意図が読めないのか、ヴァルミラアスはしばし考え込むような表情を浮かべた後、ふんと鼻で笑う。
「ないわよ。野菜とか果物を食べるドラゴンがドラゴン族の頂点なんていやじゃないのヨ。スノードラゴンはリンゴを食べるみたいだけど、そんなの軟弱だワ」
そう断言する彼女の声には、確かなプライドが感じられた。彼女にとって、肉以外を口にすることは屈辱以外の何物でもないらしい。
「そうか。ありがとう、ミラたん。ただね、完全肉食性の動物やモンスターは虫歯にならないんだ。糖分ゼロの生活だからね」
僕の声が少しだけ低くなる。
「しつこいけど、本当にリンゴを食べた覚えはないんだね?」
ヴァルミラアスは目を細め、少しだけ苛立ちを含ませた視線を僕に向ける。
「はあ。ないわヨ。断じてそんなのアタシのプライドが許さないわ。てことは虫歯じゃなくてワームのせいだったんでしょ?」
彼女は軽く顎をしゃくりながら、ワームの方を睨みつけた。その視線を受けたワームがピクリと反応したように見えるのは、多分気のせいだ。
「それがね、実は違うんだよ」
僕は袋を指でつまみながら、慎重に言葉を選んだ。
「このワーム、ドラゴンの歯の中じゃなくて歯と歯茎の隙間に入っているはずなんだ。つまり、歯を溶かす能力なんて皆無だよ」
ヴァルミラアスの眉がピクリと動く。僕は構わず続けた。
「確かに穴の上の方は物理的に欠けた感じだったけど、中のあれは虫歯だ。……そして、この袋の中には君の食べかすが入ってる。その中にはリンゴの繊維が含まれていた」
その瞬間、ヴァルミラアスの瞳がギラリと光る。彼女の声が、先ほどまでとは打って変わって低く、威圧感に満ちたものに変わった。
「それで? 何が言いたい?」
その声に思わず喉が鳴る。まるで山が怒りだしたかのような迫力だ。僕は小さく息を吸い直して、彼女の視線を正面から受け止めた。
「推測するにだけど、リンゴを食べて油断しているスノードラゴンを、君は不意打ちで殺して食べたんじゃないかな?」
彼女の目がわずかに見開かれる。僕は追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「スノードラゴンを食べただけなら虫歯はできなかったはずだし、虫歯という避暑地のないワームは生き残れなかったはずだ」
ヴァルミラアスはしばらく沈黙した後、ふっと鼻で笑った。その笑いはどこか冷たく、挑発的だった。
「それで? アタシをスノードラゴンを殺したの犯人としてしょっぴこおっての? アンタ、千年早いわヨ」
その言葉とともに彼女が大きく息を吸い込む。直後、周囲の空気が一気に熱を帯びていくのが肌で分かった。背中を汗が伝う感覚が、いつもより妙に鮮明だ。
「ちょっと何やってんすか!」フォンファが慌てて叫ぶ。
「こうなったらやるしかないゆ」キリアが声を上げる。
二人が慌てふためく中、僕は自分の腹に手を当て、大きく息を吸った。ヴァルミラアスに負けないくらい、全身の力を込めて、声を張り上げる。
「待って! 勘違いしないで!」
彼女の動きを止められるかどうかは、正直分からない。けれど、この場で黙っているわけにはいかないんだ。なぜなら──
「僕は別に犯人探しの探偵ごっこをしたいわけじゃない!」
声を張り上げると、ヴァルミラアスの動きが止まった。その金色の瞳がこちらを捉えたまま、彼女の表情にはわずかな揺らぎがあった。その間に、キリアが「ゆ!」と声を上げ、何者かに押されて尻餅をつく。ワームの麻痺が解けて、ワームが一目散走り出した。
「スノードラゴンとのいざこざなんて僕からしてみればどうでもいいし、知ったこっちゃない。レッドドラゴンは何を食べても許されるはずだ。これは単なる問診の続きだ!」
言葉を強めたところで、こちらの緊張が勝手に上がるばかりで、ヴァルミラアスの反応は読めない。間が開いた。彼女の中で何かが決まったらしい。
その場から逃げ出そうとしているワームをヴァルミラアスの前足が掴んだ。ワームは小さく震えている。彼女はワームを上空へ投げた。
次の瞬間、彼女の喉から溜め込んだ空気が震えとなって解放された。ドラゴンブレス。まるで世界の一端を燃え広がらせるような激しい炎がワームめがけて吐き出される。その方向はこちらから離れているのに、僕の肌が焼けるように熱い。前髪がなかったのは幸いだったけど、眉毛は無事だっただろうかと心配になる。
「ふぅ……なによソレ」
ヴァルミラアスは息をつくとともに、場の緊張をふっと解き放った。音だけではなく、その仕草全体が肩の力を抜けさせるものだった。
キリアがほんの少しだけ音を立てて息を呑む。彼女の顔には一抹の悲しみがあったが、言葉にはしない。
僕はそっと口を開く。空気が緩んだからといって、ここで沈黙を続けるわけにはいかない。
「虫歯の原因を明らかにしないとまた作っちゃうでしょ?」
僕の声は今度は穏やかだった。責めるのではなく、導くつもりで。
「それに、治療に多大な時間と労力がかかるミラたんみたいな患者さんは、特に予防に力を入れなければならないんだ」
ヴァルミラアスが僕の言葉を理解したのは、一拍置いてからだった。彼女は突然、大きく手を叩き始める。その音と笑い声は痛烈で、こちらの体に物理的な衝撃を与えるほどだった。まるで先の鼻息をくらったように、僕はよろめく。
「なによぉ! 人が悪いわね先生も! アタシ、びっくりしちゃったじゃない!」
豪快な笑い声の隙間で、僕も少しだけ笑う。
「僕らは患者指導をしなきゃいけない立場だからね。今度からは、リンゴを食べているスノードラゴンは狙わない方がいい。もっと言うと、リンゴとワームが入ってる可能性のある消化器も食べないほうがいいね」
ヴァルミラアスは両翼をゆっくり広げながら頷く。
「分かったワ。気をつける。ただ、今度から先に理由をいってネ」
その言葉を残して、彼女は翼を大きく広げた。
「じゃあ、疲れたし今日は帰って寝るわ」
地面が大きくへこむ。彼女の飛翔の準備だ。次に彼女が空を飛び立つ瞬間、その風圧がどれほどのものかを思うと、僕は無意識に目を細めてしまった。一件落着かな──いや、ちょっと待て。
大事なことを思い出して、僕はヴァルミラアスに向かって声を張り上げた。
「待って! ミラたん! 貴方の治療はまだ済んでない。虫歯に仮の詰め物をしただけだ! 次回、虫歯を削ってミラたんのお口に合う素材を詰めるから、予約を取っていって! あと何より、お会計!!!」
言い終わると同時に、全身から疲労が吹き出る。ここまでのやり取りの緊張が解けたからか、それとも単に声を張り上げすぎたからか。
「あらぁ、ヤダ。忘れてたわ。タダで診療してもらうところだったわね」
ヴァルミラアスはそう言うと、大きく笑った。その笑い声に含まれた豪快さに、少しだけ救われた気分になる。
彼女は笑顔を浮かべたまま、キリアの方を向く。
「あの……お嬢ちゃん、ごめんネ。あの虫を焼き消さないと、私の腹の虫がどうしても治らないもんだったから」
キリアは黙ってこくんと頷いた。けれど、その表情は曇っている。怒りや悲しみといった感情が混ざり合い、複雑な影を落としていた。それでも彼女は言葉にせず、翼をたたんで立ち尽くすヴァルミラアスに近づくと、日程調整を始めた。職務として折り合いをつけなければならないのだろう。その気持ちは痛いほどわかるけれど、キリアのケアはあとでしっかりしてあげなくちゃと思った。
ふと、頭をよぎるのはスノードラゴンたちのことだ。彼らが手間暇かけて育てたワームは、結局ヴァルミラアスによって燃やされてしまった。あれがどれほどの価値を持つのかはわからないが、黙っているわけがない気がする。スノードラゴンたちは誇り高く、執念深いと聞く。彼らがヴァルミラアスに対して何か仕掛けてくる可能性は──いや、考えないでおこう。今は。
僕は目の前のことに集中するべきだ。次回、またあの口の中に入って虫歯を削る作業が待っている。正直なところ少しだけ憂鬱だ。でも、その憂鬱を上回る充足感が僕の胸をじんわりと熱くしていた。最強生物レッドドラゴン、その痛みを取り除けたという事実。それは、臨床家として僕にとって何よりも大きな意味を持つものだった。
ヴァルミラアスの翼が、再び広げられる。その動きには、どこか満足げな余韻があった。僕はその姿を見ながら、そっと息をついた。そして、次に向けて小さく気合を入れ直す。
また会おう、ヴァルミラアス──次の治療の日に。




