Tomorrow Never Comes Ⅳ
夜も更けてきて人がそぞろになった頃、ヤギ亭に入って早々に絡んできた常連のおじさんが、仲間を数人引き連れてこちらの席に歩いてくる。
「それで、にいちゃん。依頼を出したのは俺らなんだけどな」
顔が赤く酔っているのは一目瞭然だが、その目だけは奇妙に澄んでいて、まるで僕らを値踏みしているように鋭かった。おじさんたちは椅子を引きずって僕たちを囲むと、互いに無言で視線を交わし、僕に顔を寄せて話し始めた。低い声で、だけどその響きはやけに重たかった。
「まだ、マスターの奥さんが戻ってきてないんだ」
その一言で、場の空気が一気に変わった。依頼書には確かに「未だ帰らない家族」と書いてあったけど、それがこういう話だとは夢にも思わなかった。フォンファがすぐさま椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
「え! 飲んでる場合じゃないじゃないっすか! 探しに行くっすよ! すぐに!」
いつもの調子で意気込む彼女を、おじさんはそっと座らせた。酔っ払いらしからぬ慎重な仕草に、僕はただ黙るしかなかった。
「いや、この村にはいるんだ」
声は低いけれど、その響きには明らかに未練と諦めが入り混じっていた。その目が訴えかけるものは、酒場の賑わいにはあまりにそぐわない寂しさだった。
「どういうことゆ?」
キリアがジョッキを置き、初めて真剣な目つきになる。おじさんはため息をつき、重々しく続けた。
「もう、亡くなってるんだよ」
亡くなっている──その一言が静寂を作った。外ではまだ村の人たちの笑い声が聞こえるのに、この場だけ音が消えたみたいだ。
「最近になってやっと、戦争による遺体と行方不明者の数が一致してな。ただ、時間が経っちまったもんだから、損傷もひどい。臨時の保管所に氷魔法と治癒魔法を使って遺体を保管してるが、それだって限界がある。だからなんとかして、全員の身元を特定してあるべき家に帰してやりてえんだ」
その話を聞きながら、僕は依頼書に書かれていた簡素な言葉を思い出していた。「家に帰してやりたい」──それだけ。だけど、そこに込められた背景が今、ようやく見えてきた。
「亡くなった方の体は腐敗するけど、歯の治療痕は残る。それぞれ違う治療を受けているから、身元の特定には役に立つんだよね」
そう言った僕の声は、どこか上滑りしていた。実際に遺体を前にして歯を調べることの重みを、まだ実感できていなかったからだ。
キリアが下を向いたまま、「もういないんゆか」とぽつりと漏らす。その声には珍しく子どもっぽさがあった。フォンファは肩を落とし、「迷子のお家を探すのかと思ってたっす」と呟く。二人とも、いつもの調子じゃない。その様子を見ていると、僕も胸の奥に重たい何かが沈んでいくのを感じた。
「僕にできる限りのことをします」
そう答えるしかなかった。笑顔もない酒場のテーブルの上で、冷めたエールだけが寂しそうに揺れていた。
明け方の空気は冷たく澄んでいて、ひたすら眠気とだるさを引きずる僕には少しだけ残酷だった。二度と酒なんて飲まないので、この辛さから開放してください神様、と天を仰ぐも、その拍子に胃のあたりから拳大の不快感が喉元まで押し寄せてくる。込み上げる胃液を必死に喉輪を閉めながら蓋をする僕は思った。この星に神などいないって。
遺体安置所へ向かう途中、二日酔いでふらつく僕と常連のおじさんたちを見かねて、キリアが解毒魔法をかけてくれた。ぶつぶつ文句を言いながらも手つきは丁寧で、放たれる魔力が身体に染み渡った瞬間、頭痛と吐き気が霧散するのを感じた。酔いが抜けた後の静寂は心地よい。あ、これでまた飲めてしまう、なんて薄ら馬鹿なことを考えている自分に気づき、少しだけ嫌気が差した。
「どうせまた飲むくせに。反省もなしで、本当情けないゆ」
「それが酒ってやつだぞ、嬢ちゃん」
おじさんの適当なフォローに「解毒魔法の効きが悪いゆ。鈍ったかゆ」とキリアが小さく舌打ちする。僕はただ苦笑いを浮かべるほかない。
道中、無言が続くと思っていたけれど、常連のおじさんがぽつりぽつりと話し始めた。彼の言葉は静かな夜明けの風にさらわれるようで、それでも耳に残った。
「パーン族はな、女の方がべらぼうに強ぇんだ。力も気概も男より遥かに勝る。だから、戦いになると自然と矢面に立つのも彼女たちなんだよ」
その語り口には、自嘲混じりの苦味が滲んでいた。
「命を賭けてでも、仲間を守ろうとする。彼女らは、そういうやつらだ。だけど、俺たちは、そんな彼女たちを止める術を持たなかった。持てなかった。結局、彼女らの覚悟に甘えちまったんだな」
足元の砂利が小さく音を立てる。僕もフォンファも、何も言えなかった。キリアが少しだけ顔を上げていたけれど、その表情は読めなかった。
「こんなことになるんなら、俺たちも一緒にいっちまえばよかったんだ……」
そう言ったおじさんの声は、朝焼けに溶けるようにかすれて消えた。彼が握りしめた拳は小刻みに震えていた。僕らはただ、黙ってその背中を追うしかなかった。
またチビ風車が見えてきた。朝焼けの光を受けながら、くるくると回るその姿は、さっき見たときよりも少しだけ大人しく見える。風も弱まったせいだろう。聞こえてくる音も穏やかで、どこか懐かしい響きだった。
「やっぱりかわいいゆ」「一本AMDSに持って帰って飾りたいっすね」
キリアとフォンファが、目を輝かせてチビ風車に再会の挨拶をする。その無邪気な声は朝焼けの中に溶けていった。
けれど、先導していたおじさんが立ち止まり、振り返って静かに口を開いた。
「あれはな。大量の風車は、主人のいないお墓なんだよ」
その言葉が、風よりも冷たく響く。僕たちの足も止まる。
「……申し訳ねえけど、やれねえよ。早く、あそこにみんなを帰してやんなきゃなんねえ。それに、縁起でもねえだろう?お墓もんをお土産にするなんてさ」
おじさんは苦笑しながら肩をすくめたが、その笑いにはどこか乾いた音が混ざっていた。僕たちは、それに何も返すことができなかった。ただ立ち尽くして、風車の回る音を耳にするしかなかった。
朝焼けの中で風車が回り続ける。その回転の一つ一つが、そこに眠る人たちを待っているかのようにみえた。僕たちが再び歩き始めると、静かな足音だけが響いた。
村の集会所は、朝日を背にして静かに佇んでいた。木造の扉は所々剥げ、長年の風雨にさらされた跡がくっきりと刻まれている。それでも、そこに流れる空気はどこか厳かで、僕らを迎える準備が整っているように感じられた。
「さぁ、着いたぞ、先生。だけど……嬢ちゃんたちにはきついんじゃないか?」
先導していたおじさんが足を止め、ちらりとフォンファとキリアを交互に見た。どこか申し訳なさそうに、それでいて強がるような乾いた笑みを浮かべている。
「今回ばかりは、僕一人でやるよ」
そう言い切るには少し足りない声だったけれど、僕は努めて強く答えた。そして一歩前に出ようとしたその瞬間、両腕に柔らかい抵抗がかかった。フォンファとキリアが、左右から僕の腕を掴んでいた。
「ふざけんなゆ。人の痛みを見て黙っていられるわけないゆ。それに、家で帰りを待ってる人たちがいるんゆ。放っておけるわけないゆ」
キリアの声には、いつもの軽口とは違う鋭さがあった。その目はまっすぐ集会所を見据えている。
「この村の人たちの力になりたいっす。それに、ウチらも先生一人だけに背負わせるわけにはいかないっすよ」
フォンファもまた、普段の陽気な調子を抑えた静かな声で続けた。その手には、彼女なりの覚悟がにじみ出ている。
僕は一瞬、二人の顔を交互に見た。それから深く息を吸い込む。どうしようもないほどに頼もしくて、胸が少しだけ熱くなった。
「……そうだな。早く皆を帰してあげよう」
そう言うと、二人は何かを決意したように大きく頷き、僕の前を行く。彼女たちは揃って背筋を伸ばし、堂々と集会所の扉を押し開けた。その背中は、朝日の中に頼もしく浮かび上がっていた。
僕も続いて扉をくぐる。足音が木の床を伝い、広い集会所の中で吸い込まれるように響いていった。その先に待つものが、僕らの決意を試すものだと知りながら。
ここからが本当の始まりだと、気を引きしめるように拳を握った。




