Haisha of the Dead Ⅰ
朝日が雲に飲まれて、霧雨がじとじと地面に吸い込まれていく。
嫌いじゃない。けど、特別好きでもない。
そんな微妙な空の下、僕はガラス戸にもたれて、ぼんやりしていた。
「平和だなぁ」
湿気でうねった髪をいじりながら、ぽつりとこぼした。
雨音以外、何もない朝。
この歯医者にとって、静かな雨は──よくあることだ。
この仕事を始めて十年以上経つけど、雨の日は決まってこうだ。患者が来ないのは土地柄か、単にみんな家で雨宿りしてるだけなのか。
でも、まあ困るわけじゃない。金儲けのためにやってる仕事でもないし、普段はそれなりに忙しい。暇を持て余すぐらいがちょうどいい。
「アマギ先生、なんかひとウェーブ来そうだゆ」
背中越しに、やる気あるんだかないんだかわからない声が聞こえた。振り向くと、受付のカウンターの向こうで、小さな影がぽつんと座っている。肩まである桃色の髪をこめかみのあたりでぎゅっと押さえている姿は、いつものポーズ。なんかあざといけど、それを言ったらまた面倒臭いだろうな。
彼女は目を閉じている。それなのに、何かを「見ている」感じがするのが不思議だ。というか、実際「視えている」らしい。
「ウェーブって、患者のこと? それともゲーム?」
僕が聞くと、彼女は首にかけていたヘッドホンを頭に装着し直して答えた。
「患者だゆ。ゲームはさっき全滅したゆ……」
相変わらず軽い口調。でも、未来を知ってるからの余裕なのか、ただそういう性格なのか、どっちなんだろう。彼女は一瞬だけしょぼんとした顔を見せると、頬を両手でパチンと軽く叩いてモニターを鋭く睨んだ。
「強化ゆぅ……」
キリアが何やら呟くと、彼女の右手が眩く光を放つ。彼女は即座に前傾姿勢で机に齧り付き、激しくマウスをクリックし始めた。もはや右手の人差し指が残像を見せるほどの目にも止まらぬ速さだ。
……アレ?なんか見たことある。あれだマ◯カーのスター状態だ。彼女の右人差し指がスター状態になっている。例のBGMがうっすら脳内に響いた。
クリックのbpmが安定してきたくらいで彼女はまた口を開く。
「雨の中、こっちに向かって走ってる方が見えたゆ。尋常じゃないゆ。すごく速いゆ」
湿気がこれだけあるのに、彼女の髪はなぜかサラサラのまま。それをマウスとは逆の手で触りながら、心ここに在らずと言った風に喋る様子はなんというかちょっと儚げに見える。その姿を納めまいとするように、モニター画面の激しい明滅がカメラのフラッシュみたいに彼女の顔をくっきりと浮かばせていた。僕はよくもわからず見惚れてしまう。いかんいかん、患者さんの話だった。
「……すごく速いって、それ雨が嫌だからとかじゃなくて?」
「いや、歯が痛いんじゃないかゆ。普通の速度ではないゆね」
ふんわりした雰囲気をまといつつも、言うことはどこか鋭い。僕は肩をすくめてから、ゾーンに入った彼女が食い入るように見つめるモニターを覗き込む。彼女のマウスは、キャラクターを掴みひっきりなしにキャラ同士をマージ(合体)させて、自分の城に攻め入ってくるモンスターを撃退していた。Hellと左上に書かれてるけど、なんでしょうね。パソコンが悲鳴をあげ、周囲の温度を1度ほどあげている気がした。
「キリちゃんも尋常じゃない速度ですね……で、アポはどんな感じ?」
「んゆ。今のところ大丈夫だゆ」
キリアはモニターを見ためたまま答えるけど、この視線が本当に予定表を確認してるかどうかは怪しい。だって、モニター画面ではキャラたちが次々とやられてるし、マウスのクリック音がどんどん激しくなってるし。あれは間違いなくアポではなく戦況を見てる音だ。まぁいいんです。あとで自分で見ますから。
「そっか。じゃあ準備しとこうかな」
適当に流して返事すると、あれだけ集中していたのに彼女はマウスからパッと手を離した。画面をみると『Defeat』の文字がモニターにデカデカと浮かんでいる。彼女は小さく舌打ちしヘッドホンを首に打ち掛けると、「くぞうゅー」とおっさんのようにため息を吐き天井を仰ぎ見た。目を数回ぱちくりさせた後、切り替えられないように苛立ちの混ざった声を僕にぶつけてくる。
「ぐゆう……せんせい、コーヒー飲んでもいいゆ?」
こっちを睨むような目つきで言うわりに、口だけはすこし尖っていて、たぶん本人は真剣だけど、見た目はどうしたって子供のわがまま。というか、可愛い。あと、ゲームとカフェインの優先順位が業務より高いこともバレバレ。
というわけで、僕は紳士ぶって、すこしだけ大げさに両手を広げた。
「Absolutely【æbsəlùːtli】」
発音に無駄な気合いを込めたのが効いたのか、「やったゆ!」と跳ねながら彼女はスタッフルームへ消えていった。あれはきっと、嬉しい時のマーメイド特有のステップ……とかじゃなくて、ただの喜びの舞い。
名前はキリア。13歳。うちの受付嬢にして看板娘。ちなみにこのクリニックは「モンスター専門の歯医者さん」という、需要と供給が一周回って成立してる不思議な場所。名称はAMDS。正式にはAmagi Monster Dental Studio。直訳すると、アマギモンスター歯医者。略すと、アミダス。うん、意味分かんないよね。
彼女がここにやってきたのは、数年前の雷雨の晩。びしょ濡れの子たちが突然飛び込んできて、そのまま彼女たちが居ついた。今では受付どころか、患者の動きの把握から未来の予約まで完璧にこなす、ちょっとした司令塔みたいな存在になっている。未来視ができるから、もあるけど、当人はだいたいゲームしてる。
マーメイドにとって乾燥は死活問題らしく、受付には小さなバスタブが常設されている。ぬるめのお湯に浸かりながら、「魔法的にめっちゃ消毒してるからご安心ください」と患者さんには説明しているけど、その実態は僕にもわからない。聞いたら「セクハラだゆ!」って怒られたし。まあ、そのへんは大人の事情で目をつむっている。
ちなみに制服は濡れても平気な特注ワンピース。そこだけは妙にハイテク。
コーヒーの香りと機嫌のいい鼻歌が、スタッフルームのドアのすき間から漏れてきた。しばらくして、ちょっと誇らしげな顔でキリアがマグカップを掲げる。
「先生も、飲むといいゆ!この味は“伝説のモンスターにボコされた敗北の味”だゆ!」
元気よくスタッフルームのドアを開けた彼女は、両手で黄色いマグカップを抱えていた。表情は惨敗したくせに勝ち誇った勇者。中身はただのコーヒー。
取っ手がこちらを向いている。地味だけど、こういう気配りが心にじわる。
ありがとうの気持ちが湯気みたいに胸に立ちのぼる。
「ありがと、キリちゃん」
マグを受け取って、ふちにそっと唇をあてる。
うん、ちょうどいい熱さ。舌の上をすべる苦味。なんか知らんけど、いつもよりうまい。
彼女の手からもらったからか?
それとも、苦労して淹れたことにしてるだけか?
──まあいいや、美味けりゃそれで。これで、今日もモンスターたちのお口の健康を守ることが──
「ずずず……クソモンスターどもゆ。次こそは必ずクリアしてやるゆ。ぼっこぼこのくっちゃくちゃに。待ってろゆ、ヘルモード……」
あ、今のなし。
感謝の気持ち、撤回します。
あと、コーヒーがさっきより苦い気がする。精神的ダメージか?てか、変な誤解が生まれるからボコボコにするとか言わないで。
「コーヒーが……五臓六腑に染み渡るゆ……」
えーと、急に昔のリーマンみたいなこと言い出した。
でもこのギャップがキリアの魅力だから、はい可愛い。帳消し。平和。
「うん、美味しい。平和って感じ」
湯気の向こうで彼女が髪を指でくるくるいじってる。
猫っぽいし、子どもっぽいし、なんだかんだ受付嬢だし。
と、次の瞬間。
彼女の目がまんまるになったと思ったら、口からコーヒーが噴き出してきて──
「ゆゆゆゆゆ!!!!!」
顔面に着弾。
……そう、これが彼女の平常運転。
芳醇なコーヒーの香りを、顔全体で楽しむのが最近のトレンド。
外より土砂降り。
平和 is 何。




