Brocken spectre Ⅰ
なんか妙な感じだ。妙っていうのは、まあ、僕の感覚の話だから、誰かにとっては全然妙じゃないのかもしれないけど。少なくとも僕には妙だ。
キリアの可愛らしい顔が、悲しみだとか怖れだとか、そんな種類の感情で歪むと、決まってその後に雨が降ることに気づいた。しかも、それはかなりの確率でだ。ただ、キリアが笑顔のときも雨は降る。そして不思議なことに、雨が降ると彼女はどこか嬉しそうなのだ。
──水棲の人魚種である彼女の肌が潤いを取り戻すとか、診療所に来る患者が激減してゲームに没頭できるとか、そういう理由があるのだろうと僕は推測している。でも、もしかして──いや、これは考えすぎかもしれないけど、そもそもこの診療所に降る雨は彼女が原因なんじゃないだろうか?もっと言えば、彼女が故意に雨を降らせているのでは……?
僕の被害妄想は、どこまでも突き進む。きっと、止まることを知らない伝説の麒麟みたいに。
「つかぬことを聞くけど、雨を降らす魔法ってあるの?」
僕が尋ねると、キリアはちらっとこちらを見て、肩をすくめた。
「あるにはあるゆ。でもゆ。それ、結構面倒ゆ。一回使うごとに生贄が必要ゆ」
「生贄?」
「そう、生贄。ランクが高ければ高いほど、雨を降らせる確率も高くなるゆ」
なんだか神話じみた話だなと思いつつ、僕は首を傾げた。
「たとえば、どんな生贄?」
「えっとね、生娘とかゆ」
僕は思わず口元を押さえた。
「それ、もう完全に太古の雨乞いの儀式だろ……?」
「まぁそんなもんゆ」
キリアはあっさりと答える。そりゃそうだ、彼女の種族はそもそも人間社会の枠からはみ出した存在だ。だが、古代的な儀式だの生贄だのといった話は、どこか現実離れしすぎている気がする。
「じゃあ、他に雨を降らせる方法は?」
「他には……古代種のドラゴンとか連れてこないと無理ゆ」
ドラゴン。なんてファンタジーな響きだろう。だが、その言葉を口にした瞬間、キリアの顔がふっと曇った。
「あ、今の顔だよ。その渋い顔! 雨が降る前の顔!」
僕は勢い込んで指を指した。キリアは一瞬目を見開き、それからぷっと頬を膨らませた。
「失礼だゆ。ワタシはいつだってかわいい顔ゆ」
両手で頬を押さえながら、ぷんぷんと怒る彼女。確かにかわいい。いや、違う、そういう話をしているんじゃない。
「いやそうなんだけどね。本当に気づいてないの? 眉間に皺寄ってたよ、さっき」
「知らないゆ。そんなこと言われても困るゆ」
キリアはむすっとして窓の外を向いた。次の瞬間、ポツポツと小さな音が聞こえる。
雨だ。
「ほら! 降ってきた!」
「先生、さっきからなんなんゆ! 言いたいことがあるならハッキリ言うゆ!」
キリアの膨れっ面が限界突破しそうだ。その時、助け舟を出すようにフォンファがユニットの方から現れた。
「先生、先輩をいじめちゃダメっすよ! 先輩、ウチが癒してあげるっす!」
フォンファは、軽快な口調でそう言いながら、キリアの後ろに回り込み、彼女の頭を胸に抱き寄せた。その動作はまるで慣れた手つきで、いかにも自然だった。キリアは一瞬だけ驚いた顔を見せたものの、すぐにその驚きはどこかへ消えた。代わりに現れたのは、あからさまに面倒くさそうな表情だ。
その仕草に見とれていたわけではないが、不意に目に入ったフォンファのボディライン。キリアの頭を抱えることで強調されたそれを目にして、つい別の考えが脳裏をよぎる。いや、違う。そうじゃない。
「……なんか、意外とあるんだな」
「先生、何見てるっすか?」
フォンファの声に、ハッとする。僕が邪なことを考えていたのを察したのか、それともただの偶然か。いや、多分察してるな、これは。
キリアが冷たい目をこちらに向けた。視線は氷のように刺さるが、それ以上何かを言うつもりはなさそうだ。代わりに彼女は呆れたように言った。
「どうせくだらないことゆ。フォンちゃん、ゲームしよーゆ」
そう言いながら、キリアは自分の席に戻り、テーブルの上に置かれたゲーム機に手を伸ばした。その指がボタンに触れる瞬間には、もうこちらへの興味など微塵も残っていなかった。
「いやいや、そうじゃなくて。最近気づいたことがあってさ」
僕は慌てて話題を戻す。
「なにゆ? フォンちゃんが無駄に育ったことかゆ?」
「は? どこ見てんすか! そんなことより時給5000ルビーに昇給してください!」
ふざけた要求に、僕は本気で迷った。昇給してしまおうか、と一瞬思ったが、いや違う。今はそういう話ではない。
「前向きに検討しま──じゃなくて! キリちゃんが辛そうに目を瞑った後ってさ、なんか高確率で雨が降るんだよ」
自分でも、言いながら少しだけ馬鹿げていると思う。だが、事実だ。
「先輩、低気圧性の偏頭痛持ちっすか?」
「それは僕も持ってるけど、ここ何年かの雨じゃそんなに頭痛くならないんだよね」
「気のせいじゃないっすか? 個人差があるとか」
フォンファが肩をすくめる。あっけらかんとした態度に、なんだか少し腹が立つ。でも、それ以上に気になったのは──
「……気のせいじゃないゆ」
キリアの静かな声。普段の彼女の軽い口調とは違う、その響きに僕もフォンファも思わず顔を向けた。
「え、キリちゃん……」
「先輩?」
フォンファの軽い口調が、わずかに真剣みを帯びる。
「いつか言おうと思ってたゆ」
キリアが、ゲーム機から顔を上げた。その表情は、雨音ぐらい穏やかで、しかし確かに何かを抱えている顔だった。
窓の外では雨がしとしとと降り続いている。まるでこの部屋の空気を、引き寄せたかのように。
「私が目を瞑って辛そうな顔してる時は、本当に辛いか、未来を見た時ゆ」
キリアはまるで「さっきのコーヒー、砂糖多すぎたゆ」とでも言うように当たり前でないことを当たり前のように言った。彼女の言うことはいつもの事で予想はできてるし、まぁそうだろうなと僕らは軽く頷く。
「なぜって、現実の視界と未来の映像が重なると気持ち悪いからゆ。瞼の裏をスクリーンみたいにするゆ」
彼女の説明は淡々としている。だが、その内容があまりに非日常なので、僕とフォンファは言葉を失う。はて? 瞼の裏をスクリーンに? そんなの僕らに標準搭載されちゃいない。目を瞑ってみる。僕はなんとなくこんな感じかな、瞼の裏に妄想の絵を描いて想像した。決して邪な絵ではない。断じてない。
「ほうほう。それで気持ち悪いから顔を顰めちゃうと」
変な妄想をしてしまったことを振り払った。なんとか平静を装い、問い返す。
「違うゆ。普通の未来は大丈夫なんだゆ」
キリアは首を振った。その仕草があまりに無邪気なので、一抹の不安が胸の中に生まれる。
「じゃあ普通じゃないのもあんすか?」
声がわずかに震えたのを、フォンファが気遣うように横目で僕を見る。だがキリアは、それに気づいた素振りもなく、さらりと「うゆ」と答えた。
その響きの軽さが逆に怖い。
「それは、どんなっすか?」
フォンファが無邪気に訊ねる。さすが彼女だ。怖い話だろうが不思議な現象だろうが、彼女の好奇心に勝るものはない。僕も少しだけその無鉄砲さに救われた気がした。
「なんか、決まって晴れの日なんゆけども」
キリアは少し遠くを見るような目をした。まるで、その「未来」が今まさに彼女の瞼の裏に投影されているかのように。
「全身黒のスーツと、黒の中折れ帽を被った人が未来では待合室の端に立ってるゆ」
その言葉が落ちると同時に、室内の空気が変わった。湿度が高くなったような、温度が少し下がったような、そんな感覚。
「え」
僕は何も考えられず、ただ短く声を漏らした。
「そしてこちらを、じっとみるんゆけど、顔は真っ黒なんゆ」
キリアの声が妙に響く。実体のない何かが彼女の言葉に宿っているようで、逃げ出したい衝動に駆られる。
「なに? 急に怖い話始めた? この子」
僕は間を埋めるように茶化した。話しかけたフォンファの表情には、明らかに余裕はなくなっており応答してくれない。僕は自分で言った言葉の後始末に困ってしまった。
「歩く素振りも見せないで、私が瞬きするたびにこちらに水平移動してくるんゆ」
「怖いっす!! 無理っす! 幽霊っすか!」
フォンファが軽く肩を震わせながら声を上げる。だが、キリアはその反応に一切動じない。むしろ「まだ話の途中なんだけど」というように少し不満げだ。
「フォンファも似たようなもんだけどな」
思わず茶々を入れる僕。しかし、言葉を発した瞬間、フォンファの冷たい視線を感じた。
「ウチはこの通り実態があるっすよ!!」
フォンファは自分のほっぺを引っ張って実在感を強調する。それが妙に滑稽で、少しだけ笑ってしまった。
「きいてゆ」
「「はい」」
僕とフォンファが同時に返事をする。これ以上茶化したら、キリアがヘソを曲げてしまう。
「それで、私も不気味に感じて一度目を開けるゆ」
僕らは固唾を飲んで怖い話の結末を聞く。
「ダブった世界になるから、逃げ場がないゆ。こわいゆう……こわいゆう……って思うんゆ」
キリアの声は、あどけないお顔に反して徐々に低く、スローになり暗く恐ろしい雰囲気を醸し出していった。
「でも未来を瞼に映さなきゃゆから、意を決してぎゅっと目を閉じゆと!」
キリアが急に声を張り上げる。フォンファがびくっと肩を跳ねさせた。
「ひぃ!」
フォンファが情けない声を上げる。僕は冷静を装いつつ、内心では彼女と同じくらい怯えていた。
「なにもないゆ。そして雨が降るゆ」
キリアはあっさりと言った。それが怖さを倍増させる。
「なんだよ」
力が抜ける僕。肩を落として溜め息をつくフォンファ。
「今脅かす必要あったっすか?」
「雰囲気作りゆ」
「いらないっすよ!そんなの!」
フォンファが必死に抗議するが、キリアはまるで意に介していない。
「アマギ先生も気付いてたんゆか」
キリアがこちらをじっと見る。その瞳は無垢そのもので、逆にこちらの内面をすべて見透かしているように思える。
「うん。妙だなって」
僕は静かに頷いた。何が妙なのかはまだ言葉にならない。ただ、彼女の語る「未来」が、この診療所の中に今も影を落としていることだけは確かだった。




