Howl Me to the Moon
もう今日の患者は来ないだろう。そう決めつけて、僕はさっさと締め作業に取りかかっていた。なのに、この世の中というのはどうしてこうも期待を裏切るのが得意なんだろう。
「先生、また凄そうなの来たゆ」
受付の方から、キリアの気だるげな声が聞こえてきた。ちらりとそちらを覗くと、彼女は例のごとくタブレット片手に音ゲーに没頭中。その集中っぷりに、僕は思わず溜め息をつく。受付嬢に見えないどころか、ただのゲーマーだ。でも、責めるつもりはない。だって受付でのゲームを許したのは、他でもない僕自身なんだから。
「凄そうって、どんな感じ?」
渋々問いかけると、キリアは画面に集中したまま、指をタブレットに踊らせながら答えた。
「説明むずいゆ。二人いるゆ」
タン、とリズムよく叩かれる画面で「Excellent」の文字が何度も出ては消える。それを見送った後、ようやく彼女は顔を上げた。
「ふたり……?」
疑問を返す僕の耳に、扉のベルが控えめに鳴る音が聞こえた。
「遅くにすみません。まだやっていますか?」
現れたのは、小柄な少年だった。銀色の髪、褐色の肌、淡い赤の瞳──どこか異国的な雰囲気を纏っていて、この街ではちょっと見慣れないタイプだ。
「やってるゆー。初めての方ゆね?問診票をかいてゆ」
キリアは相変わらずタブレットに視線を固定しながら、最低限の受付業務をこなす。少年は礼儀正しく問診票を受け取り、素直に椅子に腰掛けた。その姿に、僕は心の中で感心する。こんなに小さいのに、えらく礼儀正しいじゃないか。
「フェンリル君か、いい名前だね」
問診票を覗き込みながらそう声をかけると、少年は恥ずかしそうに視線を伏せた。
「あ、えっと……ごめんなさい。名前負けしてるって、よく言われるんです……」
少年は申し訳なさそうに呟く。
名前負け?そんなことはないだろう。フェンリルといえば、北欧神話の……まあ、神話の何かだ。適当に褒めておこう。
「そんなことないよ。君にぴったりの名前だと思う。もっと気楽にしていいんだよ」
そう言うと、少年は目を丸くして僕を見つめた。その純粋な瞳には一切の敵意がなく、なんだかこちらの心が洗われるようだ。
「歯医者さん、不安だろうからなんでも聞いてね。書き終わったら受付のお姉さんに渡してくれればいいから」
「はい! わかりました!」
少年は元気よく返事をした。その姿を見た瞬間、僕の中に性別的に持ち合わせていないはずの内臓がきゅんと動いた。──いや、動いたというより、どこか柔らかく温かい何かが胸の内を撫でたような感覚だ。この子を無邪気に愛おしいと思い、手のひらで包み込んで育ててあげたい──そんな妙な感情を飲み込む。いやいや、歯医者としてこの感情はおかしいだろう、と自分に言い聞かせる。
「先生、腑抜けきった顔してるゆ。針と糸で引き締めてやろうかゆ。まあいつものことか」
受付に戻ると、キリアが視線をタブレットから外さないまま僕を睨んでいた。
「あんな天使がいるなんてな。キリちゃんの予知能力もたまには外れるんだね」
余裕ぶった調子で返すと、彼女はふんと鼻で笑った。
「外れるわけないゆ。一番に通せばいいゆ?」
「うん、それでお願い」
僕はキリアに指示を出し、診察室に向かう準備を始める。
こんな風に穏やかな患者ばかりなら、歯医者も悪くないな──そんな甘い考えを抱きながら僕は思った。でも、このとき僕はまだ知らなかった。キリアが言った「凄そう」の意味を、これほど早く知ることになるなんて。
僕がユニットの準備を整え終えた、そのちょうどタイミングで、消毒室の奥からフォンファが猛スピードで駆け込んできた。床に院内シューズの擦れる音が響く。相変わらず彼女の動きは無駄にダイナミックだ。
「先生! 患者さん来たんすね! ──って、うわっ!」
受付の方を一目見るや否や、フォンファはその場で固まる。そして、すぐに僕の元に慌ただしく戻ってきて、 conspirator(共謀者)じみた動きで耳打ちしてきた。ほんの数秒前の勢いはどこへ消えたのだろうか。
「いや、先生、やばいっすよ! あの子、なかなかの美ショタみっすねえ! ラミアさんとかゲラティーさん、大歓喜じゃないっすか?」
「……絶対に呼ぶなよ。あの二人は厄介すぎる」
「はーい。でも、ラミアさんは匂い嗅ぎつけて降りてきちゃうんじゃないすか?」
「いやいや、さすがに子どもは守備範囲外だろ?」
「先生、ラミアさんの守備範囲はきっと、地球の全表面積くらい広いっすよ?」
馬鹿げた会話を続けていると、背後に気配を感じた。振り返ると、そこには無音で現れる特技を持つ噂の張本人──ラミアが立っていた。いつもの派手な笑顔ではなく、妙に冷めた目つきでフォンファをじっと見下ろしている。
「ワタシは──」
「お母さん、今は出てきちゃダメゆ」
受付からキリアの刺すような声が飛んだ。ラミアは一瞬ムッとした顔を見せたが、キリアの視線に押されてか、しぶしぶ引き下がる。その際、こちらに未練たっぷりの手を振りながら去っていった。
「お楽しみはとっておく派なの。また後でね、先生……」
「本当にラミアさんから先輩が生まれたんすかね。なんでしょうか。あの色ボケマダムは」
フォンファが眉をひそめながら僕に問いかける。
「知らないよ。彼女の生態については僕も教えて欲しいくらいだもの」
この騒ぎを気にも留めず、受付ではフェンリル君が律儀に問診票を書き進めている。相変わらず礼儀正しい少年だ。その光景に、僕はつかの間の平和を感じつつも、彼がこの場に引き寄せた混乱を思えば、さすがに次回からはもう少し静かな来院をお願いしたい気持ちになった。
トトトッ、と軽い足音が聞こえ、一番ユニットの扉からフェンリルくんが顔を覗かせた。まるで迷子の子猫が戻ってきたみたいに、おどおどと辺りを見回しながら入ってくる。まるでピアノの発表会で出てきた小学生のような緊張感を漂わせていた。
「お、お願いしますっ!」
椅子の前でピンと背筋を伸ばしてお辞儀をするその姿は微笑ましい。だが、彼の背中に背負っていたランドセルの蓋が中途半端に開いていたことに気づいた瞬間、物語は一気にアクシデントへと転じる。
バサバサッ!
色とりどりの文房具やら教科書やらが派手に床へ散乱した。蛍光オレンジの下敷きに混ざって、小さなノートが勢いよく滑り、僕の足元まで転がってくる。
「ああ! 僕ったら! ごめんなさい!」
慌てて床にしゃがみ込もうとするフェンリルくんを僕は手で制した。
「大丈夫、大丈夫。君は座ってていいよ。僕が拾うから」
僕が屈んで荷物を拾い集めると、さっきのノートが手の中に収まった。表紙には、子どもらしい丸い文字でタイトルが書かれている。
「なになに……“ショタときどきおお”?」
僕が声に出して読んだ瞬間、フェンリルくんは突然の狼のごとき俊敏さで僕の手からノートを奪い取った。そして、それを他の荷物と一緒にランドセルへと押し込み、パチンと乱暴に蓋を閉じる。
「す、すみません! その……あの、お願いします!」
彼はランドセルを床に置くと、再び椅子に座り直し、真っ直ぐな瞳で僕を見上げた。顔は真っ赤。全力で隠したい何かが詰まっていることは明白だったが、そこに触れるのは野暮というものだ。
「じゃあ、椅子倒すねー。今日はどうしたのかな?」
椅子を倒しながら軽く話を振る。背後からキリアの小さな笑い声が聞こえたが、気にしないことにした。何を面白がっているのやら。
フェンリルくんは少しの間、言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように話し始めた。
「それが、先生、僕、矯正をしていて……」
「ああ、矯正ね。針金が刺さって痛いとか?」
軽い気持ちで尋ねる。ありがちなトラブルなら、すぐに対応できる。だが、彼の表情には何か決定的に説明しにくい事情が滲み出ていた。
「いえ……僕の、種族のせいなんですけど──」
その時、不意にフェンリルくんの視線が窓の外へと向かう。途端に彼の顔が強張る。その様子につられて僕も窓の外を見た。
そこには、煌々と輝く満月が夜空に浮かんでいた。
月──そうだ。彼の名前の由来、北欧神話の狼の怪物フェンリルのことが、頭をかすめる。
その時だった。
耳をつんざくような遠吠えが室内に響き渡った。それが外からじゃないことは、一瞬でわかった。
グポン──。
不気味な音が、彼の口の中から漏れた。何事かと身構える僕の目の前で、フェンリルくんの愛らしい口元がみるみるうちに歪み、まるで恐ろしい獣の顎のように変形していく。
次に瞬きしたときは、歯に装着されていた矯正器具が金属音を立てながら弾け飛び、診察室の天井に突き刺さった。さらながら人間手榴弾のように。
──何だこれは?
僕の思考が追いつかない間にも、フェンリルくんの体が急速に大きくなっていく。診察台に収まりきらないその姿は、少年というより半分狼の化物だ。その体勢のまま、彼はぼそりと呟いた。
「先生……すまんっすわ。毎回こうなんすわ……。矯正器具、また飛ばしちまったっすわ……」
なんだその冷静な語り口は。診察台の上で腕を組む半狼のフェンリルくんに対し、僕は天井を見上げた。そこには無数の金属ブラケットが突き刺さり、怪しく光っている。それを指差しているフォンファが、硬直したまま動かない。
「……あれ全部、ブラケットか?」
自分で口にしても、信じられない事実に僕は目を疑った。
「もう十回目っすわ……。矯正なんて諦めたほうがいいんすかね?」
「いやいやいや、君が諦めるのは矯正じゃなくて、満月の日に来ることだよ!」
僕が思わず声を荒げると、受付からキリアが手をひらひら振りながら言い放つ。
「大丈夫ゆ。当たらないこと計算済みゆ」
いや、計算してたって、天井に刺さってる時点でアウトだろう?僕は眉間を押さえながらため息をついた。
「フェンリルくん、噛み合わせもズレてるし、これじゃご飯食べるのも大変でしょ?」
「いやあ、昨日もステーキ食ったら舌噛んじまいましてね。狼のプライド、ゼロっすわ!いやホント、情けないっすわ……」
あれ?さっきまでの礼儀正しい少年口調はどこへやら。いきなり親しげなおっさん口調に変わったフェンリルくんに、僕は目を丸くする。
「その口調、急にどうしたの?」
「はぁ、変身するとこうなるっすわ。狼はみんなこんな感じっすから!」
「知らないよ、そんな文化……」
とにかく治療を進めようと、僕はフェンリルくんの口元に手を伸ばす。だが、その時だった。隣でフォンファが消毒用アルコールを持って近づいてきた途端、フェンリルくんがビクッと震えた。
「えっ、どうしたの?」
「やっべ……!」
「やっべって何が!?」
次の瞬間、彼の耳がピンと立ち、体毛が急激に伸び始めた。犬歯がさらに鋭く伸び、体は診察台を完全に覆い尽くすほど大きくなる。
「まさか……さらに変身するの?」
「先生、アレの匂いが、オイラの狼心を揺さぶるんすわ!めちゃ美味そうっすわ!」
「アレって、消毒液のこと?」
「ええ、もうたまらんっすわ!それ飲ませてください!」
「絶対にダメ!」
僕は慌ててアルコールボトルを背中に隠すが、その間にも彼の体はますます狼に近づいていく。そして、ついには「ボフンッ」という音を立てて完全な狼姿に変貌を遂げた。
室内に舞う大量の毛、そしてもはや診察室に入りきらない巨体。
「先生、これ治療できるんすか?」
「いや、僕も知りたいよ、それ!」
狼になったフェンリルくんに問い詰められながら、僕は満月の夜に患者を受け入れた自分を、ただただ呪った。
「次回からは満月の日に来るなら、変身し終わってから来てね」
すこし怒気を含めて伝えたが、フェンリルくんの狼耳がその声を拾う気配はない。
診察室には、まだ空中を舞う毛と、無理やり詰め込まれた巨大な狼の体。そして、机の上には、彼が飛ばした矯正器具の残骸が無惨に散らばっている。
「で、なんでわざわざ満月の日に来たの?」
僕が問い詰めると、フェンリルくんは、耳をぴこぴこと動かしながらぼそぼそと言い訳を始めた。
「いやあ、その……子供の姿だと、舐められることが多いんすわ……」
「舐められる?」
「この前なんて、歯医者さんに行ったら『あらまあ、ボクちゃん、痛くないようにやってあげるからね~』って言われて、なんかもう悔しくて……!」
「それで?」
「で、考えたんすわ。ああ、狼になれば誰も舐めてこない、って!」
「いやいや、舐められないどころか、誰も近づきたくなくなるよ!」
僕が突っ込む間にも、フェンリルくんは大きな手で顎を撫でながら、得意げに胸を張っている。いや、それ威張ることじゃないから。
次の満月までに、どうやって彼を治療すればいいのか。その考えだけが、僕の頭をぐるぐると駆け巡る。
──まあいいか。満月じゃない日はまだ、きっと可愛いフェンリルくんが戻ってくるのだろう。
そう願わずにはいられなかった。




