8話
──ヴィルジール殿下は、何故リスティアナ嬢を差し置いて他の女性と?
──そう言えばそうだな。この間殿下があの女性と共に馬車から降りて来たらしいぞ。
──ああ、聞いた聞いた。それに嫉妬をしたリスティアナ嬢が庭園でその令嬢に対して酷い言葉を投げ掛けて泣かしたみたいだな。リスティアナ嬢のほら、ご友人達も寄って集ってその令嬢に酷い事を言ったとか──……。
何処かから聞こえて来た噂話にリスティアナ達はお互い不自然にならないようにそっと視線を交わす。
「──あのような広まり方をしているなんて、ねぇ」
コリーナは不服そうに瞳を細めると同じテーブルに着いているリスティアナやアイリーンに辛うじて届く程度の声量でぽつりと呟く。
「まったくですわ。あの時の事がそのように捉えられているなんて……」
アイリーンも、コリーナの後にぽつりと呟くと心外だわ、と小さく言葉を零した。
「──ここでは、満足にお話出来ないわね……。食後のお茶をカフェテラスで飲みましょうか?」
「あら! それは良いわね、リスティアナ。天気も良い事だしゆっくり美味しい紅茶を楽しみましょう?」
リスティアナの提案にコリーナも賛同してくれて、アイリーンも「良いお考えですわ!」と笑って頷いてくれる。
三人は、早々に昼食を片付けるとカフェテラスに移動する為にその場を後にした。
リスティアナ達三人が移動して行くのを、周囲に居た学園生達はちらちらと気にして視線を向けていたが、終ぞリスティアナ達の口からこの国の王太子である婚約者と、その婚約者が何やら大切に扱っているらしい令嬢についての話は聞こえて来る事は無かった。
食堂のホールから庭園を見渡せるカフェテラスに場所を移して来ると、椅子に腰を下ろすと給仕がティーカップに紅茶を淹れてくれる。
リスティアナはその給仕に「ありがとう」とお礼を告げると、そっとそのカップを自分の口元に持ち上げて一口紅茶を口に含むとふわり、とフルーツの甘さが口内に広がる。
紅茶の甘さにリスティアナが口元を綻ばせていると、風に乗って誰かの声がリスティアナ達の座るテーブルにまで届いて来た。
──ヴィルジール殿下の寵愛は、今は別の女性にあるのではなくて?
──けれど、本日の午前中に殿下がリスティアナ嬢を学園までわざわざ訪ねて来たと言う話ですわ。
──あら、それは殿下の意中のお相手が怪我をしたからその事情を聞く為にリスティアナ嬢を呼び立てた、と聞いたのだけど……。
「もう、こんなに噂が広がっているのね……」
リスティアナはうんざり、と言った様子で小さく呟く。
先程昼食を食べていた室内のホールとは違い、声を潜めれば簡単には周囲に聞こえないだろう。
リスティアナとコリーナ、アイリーンは周囲に聞こえてしまわないように細心の注意を払いながら微笑みを浮かべながら小声で会話を続ける。
「ええ、しかも……どんどんと尾ひれが付いて広まっていっているようね」
「娯楽が王家と由緒正しいリスティアナ嬢のお家のゴシップだなんて……何て下品なのかしら」
「──おかしな方向に噂話が広まらなければいいのだけれど……家に迷惑が掛かりそうで嫌だわ」
リスティアナ達三人は、ヒソヒソ、と聞こえて来る噂話を耳にしながら今どれだけの噂が学園内に広まってしまっているかを時間一杯テラス席を利用して収集したのだった。
◇◆◇
時刻は少し遡り、リスティアナとリオルドが医務室を出て行った後。
ヴィルジールが、力無くぱたりと下ろした自分の腕を見詰めていると、ナタリアがヴィルジールの腕にそっと手を添えて話し掛けて来る。
「──殿下、私このままこのようにリスティアナ嬢からあのような冷たい態度を取られ続けてしまったら、と考えると不安で仕方ありません……」
「だから……後は王城で過ごし、教師から直接学べばいい、と説明しただろう? それを、ナタリア嬢貴女があと少しで学園を卒業だから、と……ちゃんと学園に登園して卒業したい、と言ったではないか?」
「それ、は……そうですが……。ここまでリスティアナ嬢が怖い方だとは思わなかったからなのです……」
「──……、」
ナタリアの言葉に、ヴィルジールは疲れたように溜息を吐き出すと、リスティアナが出て行った扉へと視線を向ける。
いくらナタリアにリスティアナの事を説明しても、誤解を解こうとしてもナタリアの中ではリスティアナは既に「怖くて恐ろしい人」と言う認識になってしまっている。
いくら妊娠初期で、体調面や精神的に不安定になっているとは言えナタリアの思い込みは行き過ぎているとは感じるが、あまり強く言い、腹の子に何かあっては大変な事になる。
(本当に、こんなつもりじゃ無かったのに……)
ヴィルジールはついつい未練がましい想いを抱いてしまう。
数ヶ月前に、長期間の戦闘訓練に参加し、リスティアナを裏切ったのは自分自身だ。
(来年……リスティアナが学園を卒業したら、婚姻が決まっていたのに……)
浅はかな行動を取ってしまった過去の自分を殴りたいような衝動に駆られる。
あの土地に居た時のような高揚感も、目の前に居るナタリアに焦がれるような気持ちは日が経つにつれて落ち着きを取り戻し。
先程リスティアナの手を取ったリオルドの姿を見た瞬間、ヴィルジールは「私のリスティアナに触れるな」と何とも自分勝手な感情が湧き上がって来た事に自分自身とても驚いた。
「──もう、私のリスティアナでは無くなったというのに……」
「殿下?」
ぽつり、と呟いたヴィルジールの言葉は、ナタリアの耳には幸いにも届いておらず、不思議そうな表情を浮かべるナタリアに向かってヴィルジールは何とも言えない微笑みを浮かべると「帰ろうか」とナタリアに向かって優しく声を掛けた。
ヴィルジールと、ナタリアが二人揃って学園の正門に止まっている王家の紋章の付いた馬車に乗り込み、ナタリアが早退して帰宅した事は多くの学園生が目撃しており、その日から王太子であるヴィルジールはメイブルム侯爵家のリスティアナでは無く、マロー子爵家のナタリアと婚約を結び直すのでは? と実しやかに囁かれ始めた。
多くの学園生に目撃されてしまえば、その話はその学園生の家族に話され、その話──噂は、瞬く間に数日の内にアロースタリーズ国の貴族達の耳にも入り始めた。
その事に、激怒したのはリスティアナの父親であるメイブルム侯爵その人だ。
「──殿下は、何を考えているのか……! 娘とまだ正式に婚約を解消出来ていないと言うのにこのような噂が流れる事など断じて阻止せねばならぬ事……!」
リスティアナの父親、メイブルム侯爵は「内戦でも起こしたいのか殿下と陛下は!」と声を荒げながら手に持っていたグラスをテーブルに荒々しく置く。
──時刻はとっぷりと日も暮れた晩餐の時間帯。
リスティアナは、学園生から注がれる視線をそ知らぬ顔で全て受け流し、顔には出さずに急いで邸へと帰宅した。
そうして、晩餐の時間になり食堂にやって来たリスティアナを迎えたのは怒りを滲ませていた父親で。
父親は、リスティアナの学園に放っていた諜報部隊から事の成り行きと、リスティアナ本人からの説明を聞いた。
そうして、怒鳴ったのが先程の言葉である。
リスティアナは、自分の口元を紙ナプキンでさっと拭いながら「同感ですわ」と呟いた。
「今の殿下のお姿、対応を見た貴族達は我が侯爵家との婚約を白紙に戻し、子爵家のナタリア嬢を王太子妃に望んでいる、と受け取るのは必定。そうなってしまいますと、子爵家に近付く貴族も出て来ますわね」
「ああ……。宮廷の腹黒い豚共とまともにやり合った事の無い子爵家は良いように取り込まれる……」
「後ろ盾も、繋がりも無いマロー子爵家にはこれを躱す事など出来ませんわ」
「そうだろうな。そうなると、今はまだマロー家の令嬢との間にお子が居るとは知れてはいまいが、それも時間の問題か……」
「下位貴族の血を王家の血筋に残したくないと考える過激な貴族の派閥も動き出してしまいますわね……」
「その通りだ……。だが、あの殿下のご様子だとマロー家の娘との間にお子がいると言う事が知れてしまうのも時間の問題だ」
そうなってしまえば、マロー子爵家を上手く取り込み操りたい派閥と、高貴な血筋に固執する派閥がぶつかり合うのは自然の流れとなる。
そうなってしまえば、水面下で争っていた両派閥が表立って対立し始めてしまう。
最悪の場合は内戦に発展してしまう可能性すらあるのだ。
「──お父様、学園内での噂が大きくなる一方になってしまいましたら、ハーディング伯爵家とハナム子爵家は遠ざけますわ。派閥争いや、学園生から敵意を持たれてしまったら……伯爵家は兎も角子爵家では対応する事が出来ませんので」
「──ああ、リスティアナの学友か。その方がいいだろう。状況が悪化するのであればその二人には暫し騒ぎの外に居てもらいなさい」
「分かりましたわ。コリーナの家は、我が家と同じ侯爵家ですので……今まで通りでも宜しいでしょうか?」
リスティアナの言葉に、父親は一瞬考えるような素振りを見せたがすぐにリスティアナに視線を戻すと頷いた。
「ああ。フィリモリス侯爵家ならば大丈夫だろう。あそこの家の父親も相当腹が黒い。宮廷でもやり返す事が出来るから問題無いだろう。父親に似て娘も強い。問題無いだろうな」
「そのお言葉を聞いて安心致しましたわ。事態が悪化しましたらそのように致します」
にっこり、と笑顔を浮かべるリスティアナに父親はこくりと頷く。
父親が頷いた事を確認すると、リスティアナは笑みを深くして手にしていたナイフとフォークをそっとテーブルの上に置く。
「それでは、お父様。明日も学園に参りますので下がらせて頂きますね」
「ああ。お休み、リスティアナ」
「おやすみなさいませ」
ドレスの裾をちょこんと摘み、退出の挨拶をするリスティアナを見送る。
パタリ、と音を立てて閉まった扉を見つめながら、リスティアナの父親は扉に向けていた視線をそっとリスティアナの向かいの椅子に移す。
そこに座っていた自分の妻の姿を思い出すように父親は瞳を細めると、溜息を吐き出してぐりぐりと自分の眉間を親指で押した。