2話
それから、リスティアナは邸内を自分の私室へと急ぎ戻った。
ヴィルジールの婚約者としていつも凛とし、礼儀作法を大切にし、所作の一つ一つを美しく心掛けていたリスティアナは、自分自身廊下を駆けるなどはしたない行為だ、と分かってはいても溢れ出る涙を使用人達に見られたく無くて、必死に足を動かした。
ばたん、と私室の扉を勢い良く閉めて扉に背中を預けたままずるずるとしゃがみ込む。
「──ぅっ、」
後から後からぽろぽろと零れ落ちてくる涙を拭っても拭ってもキリがない程、涙が止まる気配が無くて、リスティアナは声を殺してそのまま泣き続けた。
ずっと、ずっと好きだった。
慕っていた、愛していたのだ。
けれど、ヴィルジールが本当に想う人と共に居たい、と言うのであればリスティアナにはどうしようもない。
リスティアナは、流れ落ちて行く涙と一緒に、ヴィルジールへの想いも、思い出も全て流れて消えてしまえ、と思いながら泣き続けた。
◆◇◆
「──なるほど、"こう"なってしまった事の経緯は分かりました……」
「本当に、すまない……メイブルム侯爵……」
「これ以上、殿下に謝罪を頂いても現実に起きてしまった事はどうしようもございません。……リスティアナとの婚約は殿下のお申し出通り解消と致しましょう。後日、正式に婚約解消の署名を入れた書類を殿下にお送り致します。……教会へのご提出をお願い致します」
「ああ、分かった……。必ず提出しよう……。この度は……っ、このような事になってしまい申し訳無い……リスティアナにも、宜しく言っておいてくれ」
「──殿下に対して、不敬な物言いと態度を取ってしまいました事、申し訳ございません。処罰はどうぞ私だけにお願い致します」
「処罰など……! そのような事、私がする筈がない……。──それでは、そろそろ失礼する」
ヴィルジールが退出の挨拶をすると、父親はサッとソファから立ち上がりヴィルジールを見送る手配をする。
「──殿下、申し訳ございません。お見送りはここで失礼致します」
「ああ、大丈夫だ」
頭を下げる父親に、ヴィルジールは気まずそうに唇を開くとそのまま扉から部屋の外へと出た。
リスティアナの私室がある方向へとヴィルジールは一瞬だけ視線を向けたが、直ぐにさっと顔を逸らすと真っ直ぐ前を向いて廊下を歩いて行った。
アロースタリーズ国では、長らく戦争は起こっていないが、いつ他国に攻め込まれるかは分からない。
その為に定期的にアロースタリーズでは騎士団を中心に、街の衛兵や貴族の私兵なども交えて大規模な模擬戦闘訓練を行う。
この国の王族であり、王太子であるヴィルジールは、学園を卒業し一年が経った頃、政務が落ち着いた事でその模擬戦闘訓練に参加した。
王族であっても、他国に攻められれば剣を持ち、軍の先頭に立つ事も有り得る。
その為にヴィルジールも、数ヶ月にも及ぶその大規模な模擬戦闘訓練に参加したのだが、そこで今回の婚約解消に至る「間違い」が起きてしまったのだった。
リスティアナの父親──オースティン・メイブルムは深く溜息を吐き出した後、ヴィルジールが出て行った部屋の扉を憎々しげに睨み付けた。
「──模擬戦闘訓練に行っていたと言うのに、なんと言う事を……」
呆れて物も言えない、といったように緩く首を振るとオースティンは自分の目元を手のひらで覆った。
ヴィルジールが話した通り、模擬戦闘訓練の場で怪我人の手当を行う医療班として参加していた貴族の令嬢と懇意になり、体の関係を持ったと言うのであれば何と愚かな事だろうか。
オースティンは部屋の扉の側に控えていた執事に調べ物を頼む為に声を掛けた。
◆◇◆
リスティアナがヴィルジールに婚約の解消を申し出られて二日後。
学園へ向かったリスティアナを見送った後、父親であるオースティンは先日執事に頼んだ調べ物の報告書に目を通していた。
「──殿下のお相手の令嬢は、リスティアナと同じ学園の生徒なのか……!?」
オースティンは報告書に記載されている文字を急いで追って行く。
ヴィルジールが妊娠させてしまった令嬢は、リスティアナと同じ貴族学園に通う令嬢で、名前はナタリア・マロー。マロー子爵家の令嬢で、年齢はヴィルジールの一つ下、リスティアナの一つ上の十八歳と言う事だった。
学園の卒業試験──資格を取る為に医療班として模擬戦闘訓練に参加し、そこで怪我を負ったヴィルジールを手当てする事で何度も顔を合わせる内に、と言う事らしかった。
平和な日常に慣れていた人間が、戦闘訓練で非日常の世界に放り出され、極限の生活の中でお互いに気持ちが芽生えてしまったのだろう。
「──いや、本当に芽生えたのか……」
オースティンはぽつり、と呟いた自分の言葉に不安になりリスティアナが署名をした婚約解消の書類を取り出すと、急いでその書類を完成させる為に侯爵家当主である自分の名前も署名する。
「これを、ヴィルジール殿下宛に急ぎ届けてくれ」
「かしこまりました、旦那様」
執務室に控えていた執事に書き上げた書類を渡すと、婚約解消の手続きを早めてしまった方が良いだろうとオースティンは考える。
「──一時の感情の昂りで婚約者が居ながら他の女性に手を出す者には、娘を幸せになど出来ん……。殿下が正気に戻る前に手続きを済ませねば……」
ぽつりと呟いたオースティンの言葉は、誰も居ない執務室に静かに響いた。
◆◇◆
時は少しだけ戻り、リスティアナが学園に到着して馬車から降りた時。
リスティアナは、沈む気持ちを何とか自分の中で折り合いを付けて学園へと登園していた。
学園が休みの二日間、あれだけ涙を流したのだ。ヴィルジールへの想いも、涙と共に流して少し心の中がスッキリとしている。
いつものように学園の建物内へと進んでいたリスティアナは、後方からざわり、と人々のざわめく気配を感じてついつい無意識に振り向いてしまった。
「──……っ、」
振り向いた先に、目にした光景にリスティアナはひゅっ、と息を飲み込む。
リスティアナの視線の先にいるこの学園の生徒達は、何故? と言うような戸惑いや困惑の籠った視線でその光景を見て、そしてリスティアナの姿を見付けると気まずげに視線を向けて来たり、好奇の目で見て来たりと、視線に遠慮が無い。
リスティアナの視線の先では、王家の紋章が付いた豪奢な馬車から、ヴィルジールが姿を表し、次いで馬車から姿を表した令嬢に慈しむような視線を向けて手を差し出している。
王太子であるヴィルジールの婚約者であるメイブルム侯爵家のリスティアナは、顔立ちの美しさや家柄の良さでとても目立つ存在である。
婚約者のヴィルジールとも関係は良好であった為、貴族の子息や令嬢からは羨ましそうに、憧れの視線を向けられていた。
だが、それが今。
リスティアナに向けられる視線は困惑や、戸惑い、そして好奇の視線に変化しており、リスティアナはその視線に晒され続ける事が耐えられなくなり、踵を返すと急いで学園の建物の中へと入って行った。
リスティアナはその場から逃げるように建物内に入り、教室へと向かう。
「──何故、殿下がここに……っ」
リスティアナは、先程自分が見た光景が信じられずに唖然としながら小さく呟く。
教室に向かう途中の廊下で突然ぴたり、と足を止めたリスティアナに周囲の生徒達は怪訝な視線を向けてくるが、リスティアナには今その視線を気にしている余裕は無い。
「殿下は、既に学園を卒業されていらっしゃるのに……、──あっ、」
そこまで考えて、リスティアナは小さく声を上げると廊下にある硝子窓から先程の学園の正門の方向へと顔を向ける。
そこには、ヴィルジールが先程の令嬢を気遣うように手を貸しながらリスティアナが居る建物内へと歩いて来ている姿が見えて、リスティアナはきゅっ、と自分の唇を噛み締める。
「殿下は、ご自分のお子を身篭っておられるご令嬢を心配なさって学園の登校に付き添われたのですね……」
小さく小さく呟いたリスティアナの言葉は、廊下を歩く他の学園生の耳に届く事無く静かに霧散した。
リスティアナが教室に入ると、リスティアナの友人達が挨拶をしにやってくる。
その光景はいつもと変わらない光景なのだが、挨拶にやってくる友人達の表情が幾許か強ばり、リスティアナを気遣うような表情を浮かべている友人も居て、リスティアナは苦笑しながら挨拶を返した。
あのような目立つ場所に、この国の王太子が姿を表し、婚約者であるリスティアナでは無く他の令嬢と同じ馬車に同乗などしていては悪目立ちしてしまう。
ただでさえ、リスティアナとヴィルジールはこの国で羨望の眼差しを集める婚約者同士であったのだ。
そのヴィルジールがリスティアナでは無い女性と共に馬車から降りて来て、他の女性をエスコートする姿などを見られてしまえば周囲の人間は多いに混乱するだろう。
ヴィルジール自身、自分が目立つ容姿で国民の憧れを一身に集める身分だと言う事をもう少し自覚してもらいたい。
(でないと……こうして私にも周囲から視線が集まってしまう……)
リスティアナはふう、と小さくため息を吐き出すと自分の所に集まった三人の友人に薄らと微笑みを浮かべて唇を開いた。
「騒がせてしまい、申し訳ないわね……"私は"大丈夫よ。気遣ってくれてありがとう、皆」
普段通りの凛としたリスティアナの姿と声音に、友人である令嬢達はほっと安心したような表情を浮かべると、それぞれリスティアナに声を掛けて自分の席に戻って行った。
だが、三人の友人の内1人だけがそのままリスティアナの元に残り、納得がいかないような表情を浮かべてリスティアナに尚も言葉を紡ぐ。
「──リスティアナが気にしなくとも、学園生には動揺が走るわ……殿下は婚約者を差し置いて何をしているのかしら?」
「……コリーナ、王家と縁の深い人に聞かれてしまったら不敬だ、と言われてしまうわよ?」
「あら、だって本当の事ではなくて? リスティアナも何故大人しく教室に来たのよ、自分の婚約者に手を出す令嬢に釘を刺せばいいじゃない?」
コリーナの言葉に、リスティアナはついつい苦笑いをした。
コリーナは、王族であり見目も麗しいヴィルジールに他の令嬢が無理矢理迫っているように見えているのだろうが、実際は全く違うのだ。
「──コリーナ。今日、授業が終わったら私の邸に来ない? 美味しいお茶を飲みましょう?」
「──っ、! ええ、分かったわ。ふふ、二人でお茶をするの楽しみね」
リスティアナの言わんとしてることを理解したのだろう。
コリーナはこの場では無く、リスティアナのメイブルム侯爵家で「お話しましょう」と言う意図をしっかりと汲み取ってにっこりと笑顔を浮かべると頷き、リスティアナに優雅に手を振ると自分の席へと戻って行った。
リスティアナの友人であるコリーナ・フィリモリス家は、リスティアナと同じくこの国に四家しかない侯爵家の人間だ。
リスティアナとも同い年で、同じ爵位の家の子供と言う事もあり、幼少期から遊び相手として交流をしていた。
リスティアナにとっても気遣う事なく言いたい事をそのまま素直に言葉にして伝えられる貴重な友人だ。
(コリーナ以外の……二人の友人にはまだ話さない方がいいわね)
他の二人の友人は、伯爵家と子爵家の令嬢である。
今回のリスティアナとヴィルジールの婚約解消の一件もきっと直ぐに周囲には知れ渡るだろう。
きっととても気遣わせてしまう事になる。
(今日のお茶会で、コリーナに相談してみましょう……)
リスティアナが心の中でそう決めると、タイミング良く教室の扉が開き、午前中の授業が始まった。