1話
隣と背後が海に囲まれたこのアロースタリーズ国は、大きくも無く、小さくも無い国で長年他国と争う事も無く穏やかな気候に穏やかな国民性、戦争の恐怖に襲われる事無くこの国の国民達は平和に、緩やかに過ぎて行く日常に感謝をしながら暮らして来ていた。
アロースタリーズには、建国から続く四つの侯爵家と、王族が降嫁した事により公爵と言う爵位が授けられ、脈々と続く一つの公爵家があった。
貴族達も国同士の戦争は無いが、時たま領地を襲う獣や賊の討伐に自分の私兵を持つ程度で、のんびりとした国に、のんびりとした国民性で長年大きな事件など発生していなかった。
だが、この国の中心部でその穏やかな日常が突然破られ、穏やかで平和であった均衡が突如として崩れた。
「──すまない、リスティアナ……!」
「……殿下、もう一度仰って頂けます?」
騒ぎは、この国で四家しか無いメイブルム侯爵家で起きた。
リスティアナ・メイブルムはプラチナブロンドの美しい髪の毛を編み込み、上品な髪留めで止め、ピンクサファイアのような可憐な瞳をぱちくり、と瞬かせた。
きゅっ、と吊り上がった目尻が、勝気で性格が厳しめな印象を持たせてしまうが、本人の性格は全くの真逆で、とても穏やかでおっとりとした性格である。
由緒ある侯爵家の娘と言う事で、マナーや勉学にとても通じており、高位貴族としての矜恃は持っている。
顔立ちが派手な為、初対面の人間やあまり親しくない人間には誤解される事が常ではあるが、リスティアナはさして誤解される事を気にしてはいない。
だが、リスティアナは自分の美しい顏をきゅっ、と歪めると目の前で地面に土下座でもしてしまいそうな勢いで頭を下げるこの国の王太子──そして、自分の婚約者であるヴィルジール・オリン・アロースタリーズに困ったような視線を向けた。
ヴィルジールが、ガバリと顔を上げると艶やかなリスティアナと同じプラチナブロンドの髪の毛がふわり、と風に靡く。
ヴィルジールの瞳は悲壮感たっぷりに細められていて、だが、その瞳の奥には僅かな喜び、歓喜の感情が垣間見えてしまい、リスティアナはそっと瞳を細めた。
「申し訳、ない……っ、リスティアナに不満なんて無い、私は一年後に控えていた結婚を楽しみにしていた、この気持ちは本当だ……! だが……っ、それが、出来なくなった……、婚約を……解消して欲しいのだ……」
「……」
辛そうに、だが何処かほのかにヴィルジールからは喜びが透けて見えてしまい、リスティアナはじっ、とヴィルジールを黙って見詰めながら口元を扇子で隠す。
この場には、リスティアナだけでは無く、この侯爵家当主であるリスティアナの父親も居て、使用人達も同席している。
婚約者同士、二人きりの際に話を切り出しては来なかった事から、この婚約解消に関しては陛下の許しも出ているのだろう。
陛下の許しが出ているからこそのこの場での婚約解消の申し出。
リスティアナは、自分から離れたソファに座っている父親の体が小刻みに震えて居る事に気付いて、ヴィルジールからそっと視線を外した。
「──殿下は、我が娘が王太子妃となる為に長年努力していた事を、知っておりますな……?」
父親の肩がふるふると震えているのを見て、リスティアナは父親が怒りで体を震わせている事に感謝する。
(これで、あっさりとお父様がお認めになってしまったら……私怒りで自室にあるあらゆる物を割って、破壊し尽くしてしまう所でした……)
「も、勿論……それは充分理解している、メイブルム侯爵……。リスティアナが長年努力してくれた事は、理解している……。私も、リスティアナを慕っている、いた、んだ……っ」
「──それなのに……何故そのような愚かな事を……!」
ヴィルジールの言葉に、とうとう我慢の限界が訪れたのだろう。
リスティアナの父親は怒りに打ち震えながら腰を下ろしていたソファから勢い良く立ち上がると声を荒らげる。
ともすれば、手を上げてしまいそうな程激昂した父親に、ヴィルジールは「ひいっ」と情けなく声を上げて尻もちを着くような格好になり、そのままずりずりと後退して行く。
リスティアナの父親は、ずんずんと足音を鳴らしながら怒りに任せるように吠えた。
「来年っ、結婚と言う時期に……! 何故殿下は他の令嬢を身篭らせたのか!!」
ひいい、と情けなく後退して行くヴィルジールに、リスティアナは色々な感情が込み上げて来てしまい、目の前がじわり、と涙で滲む。
「何故──……」
「リ、リスティアナ……?」
リスティアナがぽつり、と声を零すと自分の父親に恐れ戦いていたヴィルジールがはっ、としてリスティアナに視線を向ける。
そうして、リスティアナを見た瞬間ヴィルジールは驚きに目を見開くと惚けたようにリスティアナを見詰めた。
ほろほろ、とリスティアナの瞳からは耐えきれなかった涙が雫となり、ぱたぱた、と床へ零れ落ちて行く。
涙に濡れたからか、まるでピンクサファイアのような瞳からは留まる事無く涙が零れ落ちており、リスティアナは辛そうにきゅう、と眉根を寄せると戦慄く唇を必死に引き結ぶ。
王太子妃になるため、数年様々な事を学んだ。
この国の国母となるのであれば、感情を表に出しては行けない、どんなに自分自身に辛い出来事が訪れようとも、それを周囲に悟らせてはいけない。
王妃に、そう優しく教えられた事を思い出してリスティアナは何とか細かく息を吐き出すと、自分の感情を落ち着かせようと瞳を閉じた。
吐き出す吐息が、悲しみで震えてしまうがきっと離れた場所に居るヴィルジールには気付かれていないだろう。
ヴィルジールは、美しくハラハラと涙を零していたリスティアナにぼうっ、と見蕩れていたが自分に近付いて来ていたリスティアナの父親に鋭い視線を向けられて咄嗟にリスティアナから視線を逸らす。
そうしている内に、リスティアナも幾ばくか落ち着きを取り戻したのだろう。
すっ、と瞳を開くと先程まで涙の膜が張っていた瞳には既に涙は無く、覚悟を決めたような表情でヴィルジールに向かって唇を開いた。
「今更……何故、と殿下にお聞きしても詮無きことでしょう……。殿下の想う方との間に新しい命が宿ったのであれば、殿下の仰る通り婚約を続ける訳には行きませんね……」
「……リスティアナ、いいのか……?」
リスティアナの言葉に、すかさず父親が声を掛けて来るが、リスティアナは困ったように眉を下げて微笑むと小さく頷く。
「殿下の仰る通り、私達の婚約は解消致しましょう」
「──リスティアナ、すまない……っ」
リスティアナの言葉に、ヴィルジールは何度も何度も謝罪の言葉を告げると、次いで礼を述べる。
リスティアナは、ヴィルジールと婚約を結んでから、今までの事を思い出す。
婚約者として顔合わせをした時、どこかお互い気恥ずかしくてぎこちない挨拶をした日の事。お茶会で初めて一緒に庭園を散策した事。学園で、卒業間近のヴィルジールと入学したてのリスティアナが隠れてこっそりと逢瀬をした事。
様々な思い出が頭の中を巡る。
けれど、それは全て捨てて消し去らなければならない思い出だ。
リスティアナは、最後にヴィルジールと視線を合わせて笑いかけると、唇を開いた。
「殿下、お慕いいたしておりました。どうか、想う方とお幸せになって下さいね」
「──……っ、」
ヴィルジールが何か言葉を告げる前に、リスティアナは美しいカーテシーでもって頭を下げると、さっとヴィルジールから顔を逸らし、そのまま背中を向けて部屋の扉の方へと早足で向かって行ってしまう。
ヴィルジールが何か言葉を掛けようとして、口を開いたまま腕を伸ばしたが、当然その腕はリスティアナに届く筈も、言葉を発していない為、声も届く筈も無く、扉が閉まる音が静かな部屋に虚しく響いた。
室内に残されたヴィルジールは俯き、リスティアナの父親は鋭い視線をヴィルジールに向けた後、話を進める為に再度ソファへと向かい、腰を下ろした。