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理想の貴方はソファの上に

作者: 蛹乃林檎


「冗談じゃないわ!」


 遠くカモメの鳴き声が聞こえる昼下がり。

 窓の外に広がる青空の晴れやかさとは正反対に、リリィは酷く憤りながら、クローゼットからお気に入りの服を引っ掴んでは小さな旅行鞄にグイグイ詰め込んでいく。


「でもそんなに悪い話じゃないと思うけどなぁ」


 その後ろで、遊びに来ていたエマは長椅子に腰掛け足をぷらぷらさせながら呑気な声を出した。

 親友よ貴女もかと、こちらの話をまるで聞かず式の日取りを決め始めていた両親を思い出してリリィは振り返った。


「どこがよ! 一から十まで全部悪いわ!」


「そうかなぁ? 何処の誰ともしれない、うんと年上のおじ様の後妻に入るとかよりいいんじゃない?」


「それならそれで、有閑若夫人として悠々自適にやるからいいわ。なのに、よりにもよってどうして幼馴染のトーマスと婚約なんて話になるのよ! 冗談じゃないわ!」


 バンッと大きな音を立てて、リリィは旅行鞄を乱暴に閉めた。


 今朝方丁寧に巻いた髪を振り乱してまで憤っているのは他でもない、幼馴染トーマスとの婚約を勝手に決められていたと知ったからだった。


「いいじゃない。トーマス優しいし、小さい頃はよく遊んでくれてリリィだって懐いてたし、なんだったら憧れてたじゃない」


 そう言われてしまってリリィは、そりゃぁね、と歯切れ悪く返答する。


 小川の浅瀬で水遊びをしたり、原っぱで一緒に寝そべったりした幼き日々。

 あの頃は確かに彼の中に理想を見ていたのだ。


「そりゃぁ、年上で面倒見の良い人だったから、す……好きではあったけど、でもそれは子どもの頃の話よ。だって今のあの人、私の理想とかけ離れてるんだもの、婚約なんて……絶対に嫌だわ」


「理想って——」


「もちろん勇敢に姫を救い出す王子様、もしくはピンチに駆けつける騎士様よ」


 理想の相手に思い馳せ、夢見る瞳で天井を見上げたリリィに苦笑しながら、エマは、まだそんなこと思ってたんだとお茶を啜った。


「夢見る乙女ね。でも、いくらリリィのお父様が大商船団を誇る豪商って言ったって、地方の庶民にそんな出会いないって」


「あら、そうかしら。通わせてもらってる都会の高等学校は上流階級の御子息御息女が多くいらっしゃるのよ? 十分にあり得ると思わない? 百万歩譲って王子や騎士じゃなくてもいいわ。私の理想に限りなく近い頼り甲斐のある有望な方なら」


 詰め終えた旅行鞄を扉の前まで持って行き、今度は肩掛け鞄に日用品を詰めながらリリィはふふんと鼻を鳴らした。

 その様子に、エマはうーんと小さく唸る。


「有望って言うなら、トーマスだって都会の学校に通ってたし、今は王都で勤め始めたって話じゃない。凄いことだよ、こんな田舎の地方都市から王都勤めなんて」


「王都勤めって言ったって、きっと港の人夫とかでしょ。所詮田舎のオレンジ農家の息子だし……あんなダラーッとした人、まともに勤められてるはずないわ」


「ダラーッと? 頼れるお兄ちゃんってイメージだったけど」


 幼き頃の記憶を辿るように斜め上を見あげたエマに、あなたは知らないのだわ、とリリィはまた一つため息を吐いた。


「エマ、人ってね良くも悪くも変わるものなのよ。特に刺激の少ない田舎から、急に誘惑だらけの都会なんかに行っちゃうとね。簡単に堕落しちゃうの。トーマスもそう。昔は、まぁ、かっこよかったけど……今は軟派でだらしない男に成り下がったんだから」


「……そうなの? イメージ湧かないな」


「あなたはずっと前に隣町に引っ越して、最近のあの人を見てないから知らないのよ」


 ふぅん、と納得行かなそうな声を出すエマにそう言って、リリィは詰め終えた鞄を肩にかけると、よそゆきのつば広帽を被って姿見の前でくるりと回った。


 フレアスカートが華やかに広がり、たっぷりとフリルのあしらわれた襟元のリボンもひらひらと舞う。

 これなら田舎者と笑われることは、まずないだろう。


「ねぇ、本当に行くの?」


 自身の装いに満足気に微笑んだリリィを、親友は鏡越しに覗き込む。

 不安げな表情をしている彼女に、心配性ね、とリリィはスカートの広がりを意識しながらもう一度回って向き直った。


「もちろんよ。王都まで出向いてトーマスに婚約解消を宣言してくるわ。父様と母様が勝手に決めたんだから、こっちだって勝手にしてやるのよ」


「ご両親に黙って一人で行くなんてやっぱり危険だよ。トーマスにだって連絡——」


「大丈夫よ、田舎者が働いていそうな所に声をかければ、きっとすぐ見つかるでしょ」


「そんな、大体の人と顔見知りな田舎じゃないんだから……」


「行くったら行くの。こんな婚約受け入れられないもの。向こうだってきっと承諾しかねてるわよ。都会で自堕落して約束なんて忘れちゃったんでしょうから……」


「約束……?」

 思わず呟いた言葉を拾われてしまって、リリィは慌てて打ち消すように言葉を継いだ。


「とにかく! 行ってくるわ。ついでに理想の王子様と出会ってくるから、上手くいったら当分戻ってこないかも……暫くお別れね、エマ。手紙書くわ」


「……気をつけて。上手くいったら王都のなんとかってパティスリーのバターサンド送ってね。上手く行かなくてもお土産によろしくね」


「わかったわ、じゃぁね!」



 親友に偽装工作をお願いして、リリィはこっそり部屋を抜け出す。そして使用人の隙を見計らい、自宅を飛び出して海に向かい走った。


 港町全体を見渡せる丘に建つ自宅から、港までの下り坂を疾走する粧し込んだ娘は目立つことだろう。

 大抵の人とは顔見知りなのだから尚のこと。


 両親に連絡がいかないうちにとリリィは急いで町中を走り抜け、出港に向け準備する人夫を労うふりをしつつ荷に紛れて商船の一つに乗り込んだ。


「なんとか乗り込めたわね」


 倉庫に積まれた樽の隙間に収まってリリィは一息つく。

 動き出した船が再び止まれば、そこはもう王都だ。都会中の都会である。


 仕事に出向く父にくっついて一緒に行ったことも数度はあるが、一人で行くのはもちろん初めてだ。

 大勢の人と珍品名品が集まっていて、整えられた華やかな街並みにはお洒落な店が立ち並ぶ。

 記憶を反芻しただけでわくわくと胸が躍る憧れの地。


「素敵な物も出会いもたくさん待ってる王都。そこで暮らせたらきっともっと素敵な自分になれると思うわ。そう、田舎にいた頃とは別人かって思うくらいに、きっとね。それは、もちろんわかるわ。だけど……あんな変わり方ってないと思う」


 そうぽつりと漏らしたリリィの脳裏に浮かぶのは、だらしなくソファに寝そべったまま動かないトーマスの姿だ。


「昔はかっこよかったのに。私が水辺で流されかけた時には飛び込んで助けに来てくれて、木から蛇が落っこちてきた時には、すぐさま私を背に庇って追い払ってくれたくらい勇敢で優しかったのに」


 転んで膝を擦り剥けばおぶってくれて、雨が降れば上着を傘代わりにしてくれた。

 姫を守る騎士のように優しく頼れるトーマスへ、リリィはずっと憧れを抱いていたのだった。


 ところが、都会へ生活拠点を移した彼は変わった。

 ごくたまに帰っては来たが碌に出歩きもせず、ずっと部屋で寝ているのだ。


 珍しく居間にいると思っても、服はだらしなく着崩して靴どころか靴下も履かず、ソファに寝そべっているだけなのだ。

 髪はボサボサ髭もそのまま、とにかく全身で気怠さを表現している彼に、リリィは子どもの頃から抱いていた恋心を打ち砕かれた気分だった。


「……リリィのことをずっと守っていけるような力をつけて迎えに来るよって。私はあの約束信じて待ってたのに……」


 都会の華やかさの裏にある怪しさに絡め取られて、トーマスは変わってしまったのだ。

 

 真摯で優しく頼りになったトーマスはもういない。


 都会の寄宿学校に通うことが決まった日に交わした約束など、とっくに忘れたことだろう。


 まぁ、子どもの頃の幼い口約束を十六になった今ですら信じていた方がおかしいのだろうが、とリリィは自嘲した。


「でも、もういいの。私も変わるわ。この王都で理想の人を自力でみつけて、思い出なんて忘れて幸せになるんだから」

 

 そのためにもこの婚約話を早く白紙に戻そうと、リリィが改めて意気込むと俄に外が騒がしくなった。港に着いたようだ。



 乗り込んだ時と同じく荷に身を隠しつつ——見つかり騒ぎになりかけながらも——船を下りたリリィは、波止場から王都の街並みを見渡した。


 太陽の光を撥ね返して輝く連なる白亜の建物群、その向こう側に遠く聳える王宮の尖塔。

 港を出てすぐの広場では大規模な市場が開かれて、並ぶ日除けの屋根の下からは賑やかな声があがる。

 広場の奥の大階段を上った先には小洒落たティールームが軒を連ね、洗練された装いの人々がオープンテラスで優雅にお茶を楽しんでいる。


 田舎では目にしない、行き交う人の多さとお洒落さたっぷりの光景にリリィの胸の高鳴りは止まらない。


「なんて素敵なの! 絶対理想の人を見つけてここで暮らしてやるんだから!」


 早速あの変わり果てた男と縁を切るため港の人夫達に聞き込んでみるが、誰も心当たりがないという。


 端から、日雇い人夫でもして日銭を稼いでは使い果たしていると決めつけていたリリィは早々に困り果ててしまった。


 あまりの変わりようにショックを受けてトーマスに関する話題を耳に入れないようにしていたのが仇となり、最有力と目した職場に知らないと一蹴されては他に見当もつかない。


 エマの忠告が今さら耳の奥で痛みだす。


「……なによ軟派な田舎者が、他に何処で雇ってもらえるっていうのよ。農家の息子のアドバンテージで青果店とか? それともお洒落なカフェの給仕? まさかね」


 あのだらしない姿が洗練された街の風景に溶け込んでいるところを想像できない。

 一瞬浮かんだ考えを鼻で笑い飛ばして、リリィは大階段を中心とした華やかな中央通りを逸れ細い路地へと足を向けた。


「観光向けじゃない寂れたお店の店番くらいならあの人でも務まるかも……それとも王都で働いてるなんて真っ赤な嘘だったりして——」


 何処にいるのかと注意を向けながら、段々と狭く舗装も甘くなっていく路地を行く。

 

 増築したものかそもそもの歪みか、両側の建物の壁は上に行くにつれ崩れてきそうなほど通路側にり出していて、ついには頭上を塞いでいる。

 なけなしの空をも奪われた狭い路地は圧迫感が物凄い。


 真昼間だというのに光を遮られたために薄暗く、寂れて汚れた路地は都会の怪しさが満ちていた。


「……流石にこんなところにはいない気がする。うん、いない」


 路地の醸し出す荒んだ雰囲気に、足が竦みだしたリリィはそう言ってクルッと踵を返した。


「おっと」

「きゃっ!」


 振り向くと、目の前には見知らぬ男が二人立っていて危うくぶつかりかけた。

 背後にぴったりと付いていたような距離感は不審を抱かせるに十分だ。


「な、なんですか、あなた達……」


「いやいや、こんな綺麗な服着たお嬢さんが、一人で裏通りにいるんで何事かとね」


 舐めるような目つきでリリィを見回し、下卑た笑みを浮かべる男にさらに不審が募った。

 これは、きっとまずい。


「随分と上質そうな服だなぁ。大きな鞄まで提げて、お嬢さん旅行かな? 何処から来たの、一人じゃ危ないよぉ」


「……あなた方に関係ありませんわ。私、大階段に戻りますの、どいてくださる?」


「それなら一緒についていってさしあげますよ。この裏通りは柄の悪い者も多いし、入り組んでますしね」


「一本道じゃなかったかしら、結構よ」


「そんなことは無いですよ。一見通れなそうな細道だってね、ほら」


 そういうと男はリリィの腕を素早く掴んで、建物の間の細い脇道へと引き込んだ。


「——きゃ」

 突然引き摺り込まれたリリィは叫ぼうとしたが、声になる前にガバッと後ろから大きな麻袋を被せられた。


「な、なに——!」

 急に視界を遮られ状況を整理するのが追いつかない間に、被せられた袋ごとぎゅぅっと身体を締めつけられる。

 

 縄で縛られた。


 そう気づいた時には遅く、リリィは動かせなくなった身体を男に担ぎ上げられていた。


 もしかしなくとも人攫いだ。


「いや! 出して離して!」


「無闇に裏通りなんて歩いちゃなんねぇってことだ、世間知らずのお嬢さん」

「一人で無防備にしてたら拐ってくださいって言ってるようなもんだぜ」


「さて売るが早いか、強請るが得か……」

「どうせ田舎もんだろ、服に着られちまってる。さっさと売っちまおう」


「離してぇっ! 誰か!」


 必死に叫ぶが息苦しさで思うように声が出せない。

 抵抗しようにも縛られているので、袋からはみ出た足先をわずかに動かせるのみだ。

 このままでは売り飛ばされてしまう。


 ああ、やはりエマの言う通り一人で都会に来るなどと無謀だった。トーマスにもきちんと連絡していればこんなことには——。


 誰か助けて、と自身の無謀を悔やんで涙が滲んできた時、突如として大きな声が響いた。


「お前たち何をしている!」


「まずいっ! 王国兵だ!」

 リリィを担ぐ男達が動揺した声を上げ、慌てたように走りだした。


「待てっ!」

「逃さんぞ!」


「くそっ! こっちもかよ!」


 背後から、左右から、追ってきているのだろう複数の足音とガシャガシャいう金属音が入り乱れる。助けが来たのだ。


「だめだ囲まれる!」

「捨ててけ! 逃げるのが先だ!」


 追い詰められたのだろう男たちがそう言ったかと思うと、直後リリィは空に放り投げられた。


「え⁈ ちょ、離せって言ったけど、急に投げるのは——」

 

 何せ縛られているし何も見えないのだ。受け身の取れようはずもない。


 せめて顔から叩きつけられるのは回避したいと身を縮め、来たる衝撃に歯を食いしばると、ドサッと背中から何かの上に落ちた。

 しかし痛みはやってこない。


「ご無事ですか⁈」

「え⁈」


 代わりに至近距離から声が降ってきて、リリィはようやく背と腿あたりを支えられて身体が浮いていることに気づいた。

 地面に叩きつけられたとばかり思っていたが、この声の主が抱きかかえる形で受け止めてくれていたのだった。


「下ろしますよ、今ほどきますので」


 そう言って受け止めてくれた人はそっとリリィを下ろすと縄をほどき始めた。


「あ……ありがとうございます……」


 リリィはお礼を口にしながら、攫われかけた恐怖や難を逃れた安堵とは違うドキドキが胸に広がるのを感じた。


 男性に抱きかかえられるなんて初めてのことだし、何よりピンチに颯爽と現れて救ってくれた人である。

 まさに追い求めた理想の人という気がしてならず、この運命的な出会いに高揚が止まらない。


「大変な目に遭いましたね、もう大丈夫ですよ」

 

 そう言って縄をほどき終えた男性は麻袋を取り外そうとする。

 視界を遮っている布を取り払う様は、さながら花嫁のヴェールを捲る場面を想像させてますます鼓動が早くなる。


 攫われかけたところを、あわや大怪我となるところを、救ってくれたこの人こそ自身の探し求めていた理想の相手では。

 平常心でないことは重々承知しているが、それでもそう思えてしまって胸の高鳴りが抑えられない。


 理想的な振る舞いの男性との理想的な出会いに期待でいっぱいだ。


 リリィは目を閉じ、来たる運命的な瞬間に思い馳せた。


「お待たせしました。どこかお怪我は——」


 瞼越しに光が差し込んで、リリィはそっと目を開ける。

 開けた視界の先には、ついに現実となる理想の世界が広がって——


「……あれ! リリィ⁈」


「——え⁈ トーマス⁈」


 被せられた袋が取り払われると、目の前に現れたのは王国兵の格好をした幼馴染トーマスだった。


「何してるのあなた⁈」


「それはこっちのセリフだよ。なんで王都のそれも裏通りなんかに……おじさんは?」


「い、いないわ、一人で来たんだもの」


「一人⁈ なんでまた……喧嘩でもしたの?」


「喧嘩っていうか、だって勝手に決めるから……それより! 何してるのトーマス。なんなのその格好? まるで王国兵みたいよ」


「みたいって、それが僕の仕事だよ。王国兵……といっても下っ端だけど。聞いてない? 手紙も送ったと思ったんだけど」


「お、王国兵? 嘘よ、だって、王都勤めの兵士なんてエリートよ。田舎の農家の息子がなれるわけ——」


「いやぁ、大変だったよ。やっぱり都会の学校は座学も実技も段違いに厳しくて。毎日毎日、頭はパンク寸前、身体はバキバキでさ。せっかく休暇で故郷に帰れても碌に動けないくらいにくたくただったよ」


「え……」

 リリィはソファでだらしなく寝そべっていたトーマスの姿を思い出す。

 あれは都会の悪しき部分に染まり堕落した姿ではなかったのか。


「ずっと寝っ転がってたのはそういう……?」


「ごめんごめん、リリィにもだらしないとこ見せちゃってたよね。あまりにキツいから家に帰ると気が抜け過ぎてさ。でもたまにでもゆっくり休めたから、今があるんだけどね」


 そう言ってニカッと笑ったトーマスの顔は、リリィのよく知る昔と変わらないものだった。


「……私てっきり、トーマスは都会で悪い物に染まって変わっちゃったんだと思ってた」


「失礼な。そりゃぁ、リリィを構う余裕も見せられなくて手紙も碌に送れなかったけど、僕はずっと頑張ってたんだよ。だってリリィは都会に憧れてたし、約束したからさ」


 そう言ってトーマスは頬を赤らめると恥ずかしそうに視線を逸らした。


「騎士に……とは行きそうにないけど、どんな危険があったって君を守っていけるようになって迎えに行くってね」


 照れ臭そうにはにかんだトーマスはリリィの思い出の中の彼と何一つ変わらなかった。

 あの頃の約束を今も守っていてくれたトーマスに、リリィは涙が溢れそうになる。

 かつて理想とした人は、今も理想の姿のままだった。


「トーマス……」

「さて、調書を作らなくちゃいけないから、悪いけどリリィ一緒に来てくれる?」


 狭い路地の向こう側から先ほどの悪漢を捕らえた仲間の兵士が戻って来るのを見て、トーマスはリリィに手を差し出した。

 いつだって優しく手をひいてくれたあの頃と変わらないトーマスに、リリィは微笑んで手を伸ばした。


「ええ」


「どうかした? 急にご機嫌になって。ところでどうして王都に来たの?」


「決まってるでしょ、婚約者の仕事ぶりを見に来たのよ」


「一人でわざわざ? 危ないよ」


 いいかい裏通りはね、と危険を説くトーマスに、リリィはくすっと笑ってから腕を絡めて寄り添った。


「トーマス、守ってくれてありがとう。でも無理しないでね。騎士じゃなくたって、兵士でもなくたって、例えソファに寝そべってたって何でもいいの。だって、何をしてたってあなたはあなただし、そんなあなたが私の理想の人だもの」




お読みくださってありがとうございました。

またどこかでお目に留めていただけることがあったら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[一言] トーマスは堕落して無かった! それどころか助けてくれたね! もう疑っちゃダメだよ〜(笑)
[一言] 面白かったです。すれ違いにならなくてよかった、本当に。一度離れたからこそ気づくものがある。そしてまた新たな1ページを加えることも。幸有らんことを。
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