潮風には血の香混じりて その2
誰もが呆気に取られていた。
マイロ中心街の隅々にまで届いた悲鳴は一つだけじゃない。何かが呼び水になったみたいに、町が混乱の色に染められていく。今なお人々の間を縫ってこちらまで届いてくる叫び声が、徐々にいくつもの怒号に変わっていく。どんどん声が重なり、一気に、まるで鳴り喚く鐘の音のように、打ち寄せる波のように、迫る危険を知らせていた。
「な、何でしょう……?」
続いて、リネットの声をかき消すかのように、異常を肯定する大きな物音が響いた。ガラガラと何かが崩れる空気の震え、知っている音だ、とケトの記憶がその正体を探し当てる。三年前の戦争でも聞いたことのある、建物が破壊される音だった。
振り向いた先で、鳥の群れが一斉に飛び立つ。ウミネコたちが騒々しくがなり立てて、群れとなって港から陸の方へ飛んでいくのを見上げた。
「ただ事じゃないぞ……!」
一行の中で唯一帯剣していたジェスが、すかさずロングソードの柄を握った。
いつの間にか、彼らを取り囲む人の流れが変わっていた。
先程の飛び立った鳥と一緒だ。誰かが異変を知らせて、皆が揃って危機から遠ざかろうと動き出す。何が危ないのかすら分からないまま、それでも周囲の流れに乗って、誰もが内陸へと走り出す。
ドン、とケトの肩に誰かがぶつかった。驚いて見上げた先には知らない男の顔。男は少女をちらと見ただけで何も言わず、連れていた子供の手を引いて人混みに消えた。
「わっ……!」
「ケト!」
そのまま人の波に押し流されそうになったケトの手を、ジェスが咄嗟に掴んで引き留めてくれた。慌てて握り返して、引き寄せられるままに壁際へ張り付く。アキリーズやリネットに混じって、店のガラスにへばりついて異変を探す。
周囲の混乱の声の中に、別の音が混じった。甲高い破裂音が複数。それから、何か人ではないもの唸り声。リネットがはっとしたように叫んだ。
「銃声……!」
「ちくしょう、こんなに人の多いところでか!?」
そうだ、今のは発砲音だ。昼間の繁華街で、誰かが何かに銃を撃っている。
(ねえキミ。逃げるか戦うか、した方がいいんじゃないかい?)
頭に響く龍の声。この妙な声だけは、今何が起きているのかを正確に理解しているのかもしれなかった。その隣で、向こうから逃げてきた男が転びかけて、ジェスが咄嗟に手を貸していた。
「何があったんだ!?」
「龍だよ、龍が襲って来やがった……!」
「龍……!?」
「いいから逃げろ!」
それだけ言って、男が人混みの中に消えていく。
時を同じくして、通りの向こうがパッと輝いた。いつしか悲鳴は嵐のように吹き付けていて、その中でケトはじっと向こうを凝視する。魔法の発する青白い光によく似た、けれどもっと粗野な色の光だった。
「……ッ!」
直後、一際大きな爆音。向こうでいくつもの思惟が消えた。
他の誰にも共有できない感覚を得た少女は、思わず一歩を踏み出し、けれど足がそこで止まる。
「ミヤ様ッ!」
自分の腕を、リネットが掴んでいた。
「どこに行かれるつもりです!?」
「守らなくちゃ!」
すっとリネットの目が細まった。
「駄目です! ミヤ様が戦ってはいけない!」
「離してっ!」
「なりません。何のためにここでこんな格好をされているか、忘れていないでしょう!?」
「リネットさん!」
ぐっと引き寄せられかけて、ケトは咄嗟に腕を振り払った。再び聞こえ出した銃声、けれど今度は統制の取れていない、まばらなものだった。
「今も人が死んでるんだよ!? わたしがどうとか、言ってる場合じゃない!」
「あなたが戦えば、本当に戦争になる! それは龍神聖教会にとって、許せることじゃないんです!」
「現実を見てよ! 戦争ならもう起きてる、すぐそこに襲われている人がいるの。何もしないのは、酷いことだよ!」
なおも追いすがろうと手を伸ばすリネット。その手を潜り抜けようとした時に、横から声がかかった。
「……リネット。ケト様は、我が教徒ではありませんよ」
「ですが教皇様!」
「元より、人は誰もが自由であるべきもの。異なる意志を持つ方の、自由を侵害する権利など持ちえません。彼女がどうしてもと望むなら、何人たりとて阻めないのです」
教徒が教皇へ、睨みつけるような視線を向けていた。周囲の悲鳴が何かの箍を外したのか、敵意を隠さないリネットに少なからず動揺したケトは、しかし握りしめられた手に視線を落とした。
ケトの手を掴んで引き寄せたジェスが、教徒たちに落ち着いた視線を向けていた。
「ケト、修道着を返そう」
「え?」
「龍神聖教会は戦わない、そう決めたんだろ? なら、そのローブを借りたままで戦うのはマズい」
白いローブの下に隠し持っていたダガー。その柄に向かわせていた手を止めて、ケトはジェスを見上げた。まっすぐにケトの目を見据えた彼が、しっかりとした声で続ける。
「俺たち、教会に守ってもらったんだ。たとえこれで正体がバレちまうとしても、これくらいの恩返し、するべきだろ」
「……うん。そうだね」
教皇に阻まれたリネットの、傷ついたような顔は見ないふりをした。
一つ深呼吸を挟んでから、ケトはそっと体を動かす。身に馴染んできた白いローブのフードを外し、袖から腕を抜く。途端、思い出したかのように照り付けはじめた晩夏の日差し。遮るもののなくなった空に、銀の髪がさらりと靡いた。
「ありがとう。本当はお洗濯とかしてから返したかったんだけど……」
簡単にたたんだそれを、アキリーズに手渡す。ケトをまっすぐに見た教皇は、悲しそうに首を振った。
「いいえ。……戦えぬ我らを、どうか笑ってください」
笑えない。龍神聖教会を知ってしまったケトには、もう彼らを笑うことなんてできやしない。
「……ありがとう、アキリーズさん、リネットさん。できるだけ遠くへ」
何か言いたそうに、しかし口を噤んだリネット。それを最後に視界の端に捉えてから、ケト・ハウゼンは翼を広げる。隣で剣を抜いたジェスが、低い声を出す。
「ここは人が多すぎる。空から先行してくれ。ただし、誰と龍が戦っているのか分からない以上、とにかく慎重に。すぐに追いつく、下手に手は出すなよ?」
「分かった。どうにもならないようなら、せめて町の人たちの殿につくよ」
「そうしよう。行くぞケト!」
一足先に走り出したジェスが、人の流れに逆らって飛び込んでいく。その背中は追わずに、少女もまた、地面を蹴った。




