夏の終わりに その3
目的地は、森の切れ間にあった。
「おー。前回来たのって先々月だっけか。草も大分伸びちゃってるなあ」
「夏だからねえ。もういい時間だし、今からやっても今日中には終わんないね。ここで一泊かな」
「元々そのつもりだったからな。晩飯は少し手の込んだものにしようや」
前を歩く冒険者たちの背中を追いかけながら、コーティはそっと辺りを見渡してみる。
村、とも呼べないその場所は、ごくごく小さい集落。
いや、その表現も正しくはないだろう。コーティは夏風に身を委ねて、草木の匂いを吸い込んだ。
周囲一面が、夏草の海。その間からひょっこり顔を出す石は建物の基礎で、かつてこの場所に家が建っていた名残らしい。丈の高い草を覗き込まねば、そんな苔むした石すら分からず、今やすべてが緑に埋もれていた。
北の町の更に北。山の中腹ともなれば通る風もひんやりしていて、コーティは薄手の上着を羽織っていた。出発前に受付さんからもらった助言のお陰で、荷物に紛れ込ませたものだった。
山中にある集落への道案内と、その道中の護衛。期間はおおよそ七日、多少前後する可能性あり。
体の傷が癒えた後、乗り気ではない駆け足のお陰で少しはまともになった体。ようやく受付さんからお墨付きをいただいて、教えてもらいながら左手で書いた依頼書は、予想以上の反響を受けることになった。
どうやらコーティが行きたい場所は、この町の冒険者が定期的に訪れるそうだ。半ば一種の恒例行事になっていると聞いた時には、コーティはどう反応していいのか分からなくなってしまった。
周囲には聞こえないように、密かにため息を吐く。依頼書には、確かに募集人数二名と書いた記憶があるのに、この状況はどうだ。
「じゃー、俺たち荷物置いてくるから。ナッシュ、手伝え。おいミド、お前こっちな」
「重っ! ……ったく、相っ変わらずオドネルさん人使い荒いんだから。……あ、サニーちゃん、井戸の蓋開けて様子見てきてくれる?」
「りょーかーい! じゃコーティ、ガルドスさんと先行ってて」
「え、ええ……」
「草刈り鎌忘れちゃだめだからね!」
渡された草刈り鎌を左手で受け取り、気圧されたコーティはコクコク頷く。隣の大男も荷物を下ろしていて、加えてワイワイガヤガヤと言葉が飛び交えば、コーティとしては呆気にとられるしかない。
右肩をぐるぐる回し調子を確かめる大男に、こっそりコーティは聞いてみた。
「……この町だと、依頼書に二人以上って書くと、十人ついてくる仕組みなんですか?」
「いやまさか。多分依頼内容がこれだからだろうな。ま、どうせ大半は勝手について来ただけだし、君が気にする必要はないさ」
この数日、好き勝手言う冒険者たちのまとめ役を担っていた大男は、預けた荷物が運ばれていくのを見守ってから、コーティの方に振り向いた。
なんでもこの人、あの受付さんの旦那らしい。多分二十四歳で、もうすぐ一児のお父さんになるそうだ。
「さて、君の依頼にある目的地はこの先だ。準備は?」
「問題ありません。ガルドスさん」
頷いて、ガルドスと名乗った大男に促されるように、コーティは集落の奥に目を向けた。
風がさざめき、簡単にまとめただけの黒髪を揺らすと、知らず緊張している己を自覚させた。こんな気分になるのは久しぶりで、なんだか戸惑いを隠せない。心臓が無理やり動いて血を流し始めたような息苦しさに、コーティは震えそうだ。
「……ねえ、ルイス様」
あなたは、これを私に伝えたかったのですか?
もはやあらゆる繋がりが立ち消えてしまった王子に、コーティは心の内で問いかける。
「行こうか」
「……はい」
自分だって、何も感じなかった訳じゃない。何も考えなかった訳じゃない。
おおよそひと夏。コーティが過ごしたのは、無気力でありながらも、自堕落にはさせてくれない不思議な時間。そんな生活の中であっても、向き合わねばならないものがあるのだと、思い知るようになったから。
この先に、きっと一つの答えがある。
コーティは、夏の終わりに、その場所へと踏み出した。
*
風が青い葉を揺らす中に、ポツンと佇む小さな石碑。それがコーティの終着点だった。
「……」
コーティは口を噤んだままで、ガルドスも何も言わなかった。
祈りの言葉は、口に出してはいけない気がした。
かつて龍神聖教会が引き起こしたスタンピード、その犠牲者の墓。そこに教会の言葉を手向けるのは、とても横暴なことだと思うから。「龍神様のご加護を」だなんて、自分は口が裂けても言えない。
死者へ手向ける言葉を、自分はこれしか知らない。命を終えた存在に永遠の安寧を願う言葉は、一つあれば十分だって、そう思っていたけれど。
……せめてブランカでの言い回し、勉強しておけば良かった。ケト・ハウゼンは、あの子は一体どんなふうに祈るんだろう。
小さな石碑の表面に、左手を伸ばした。はっきりと刻まれた凹凸を、そっと撫でる。
「……下手な字です」
もうコーティは知っている。あの子が泣きながら、二度と会えない父と母を思いながら、この碑を掘ったのだと。
平らな石に刻まれた文字は、ハウゼン姓の二つの名。それがあの少女の両親の名前。コーティたちが引き起こした襲撃の犠牲者。
あの少女は、自分が今こうしていることを知ったら、どう思うのだろうか。もしも逆の立場だったら、きっと許せないに違いない。加害者が被害者の墓の前で許可もなくひざまずくなんて。酷いことをしている、という自覚は痛いほど持っていた。
「墓の後ろに建物の基礎石があるの、分かるか? ……そこがケトの家だった場所だ」
大男はコーティの後ろで、静かに佇む。
「この墓を建てた頃は、まだ家の原型を残してたんだ。だから本当は綺麗にしたかったんだけどな。……襲撃の時に柱をいくつかやられてて、その年の雪に耐えられなかったらしい。俺たちが補修に来られたのは、戦争の後だったから。その時にはもう、潰れちまう寸前だった」
きっと悲しみながら、片付けたのだろう。今のその場所は、石の土台しか残らず、背の高い草とその向こうの森だけが見通せる場所。もう何もないそこに、コーティは小さな家を想像してみる。
きっと、小さな平屋だった。二階はあったんだろうか、庭はあったんだろうか。
両手を組もうとして、右手がなくて。だからコーティは、ただもう一度目を閉じる。自分には本当に、これくらいしかできなかった。
かつて、自分は枢機卿の説いた世界を信じ、その手駒となって戦った。
かつて、彼女は家族を失い、≪傾国≫に拾われて戦った。
――答えてよ、人殺しッ!
死闘の最中に聞いた叫び。あれはまさしく彼女の悲鳴だった。コーティよりも三つも年下の女の子が、怯えながら、怒りながら、それでも立ち向かおうとしていたのだ。
今更知ったところで、何も変わりはしない。分かっていても、胸が痛い。
苛立ちとやるせなさを、半ば八つ当たりのようにぶつけた自分には、言えることもできることも、何もないのだ。
「三年前、君の教官を殺したのは、俺だ」
そして、後ろからかけられた声もまた、一つの答えだった。予期せぬ言葉のその意味を、コーティは確かに理解して、一拍遅れて目を見開いた。
「奴は……≪十三番≫は塔の上で、シアとケトを撃ち殺そうとしていた。だから思い切り突っ込んで、塔から叩き落とした」
「……」
「もちろんそれで死ぬような、柔な敵じゃなかったよ。そこから奴の意識をこちらに引き寄せるのにも苦労した。動揺させるのも並大抵のことじゃなかった」
残された左手で、胸元をギュッと握った。
後ろの大男のことを、もうコーティは知っている。彼はガルドスと言って、多分二十四歳で、あの受付さんの旦那さんで、もうすぐ父親になる予定で……。
「どうして、それを私に……」
「君が知りたがっていたことだから」
低く、しっかりとした大男の返答に、コーティの何かが壊れる音がした。
「私に殺されるとか、思わないんですかッ!? もうすぐ父親になるのに!」
振り返り、射殺さんばかりに睨みつけた先で、けれどガルドスは背を向けてしゃがみこんでいた。一体何を、と思ったのも一瞬のこと。彼が細い道にはみ出していた雑草を抜いているのだと分かって、コーティは今度こそ言葉を失う。
「殺されるつもりはないよ」
どこまでも静かに、教官の仇はそれを言う。
「君は片腕で、町に義手を置いてきていることも知っている。武器はナイフの一振り、あとはその草刈り鎌か。動きは速そうだが、ケトに稽古をつけてやったのは俺だ。すばしっこい相手は得意なんだ。警戒すべきは魔法と、≪鋼糸弦≫ってところか。まあ、俺も今は魔法を使えるし、≪鋼糸弦≫の相手は昔嫌って程した。動きの癖は掴んでいるよ。そして寝首を掻くにしても、ここには人が多すぎる」
「その程度のこと、いくらでも!」
「……何より、君からはもう棘を感じない。だから話した」
彼の大きな手が、草の根元を掴んで引っこ抜く。根っこについた土を払い落とす背中を見ていられなくなって、コーティは下を向いた。右手が酷く痛み、左手で袖をギリギリと握りしめる。
何を言えばいい。仇に向けた呪詛の叫びは、そのすべてを≪白猫≫にぶつけてしまった。この胸に抱えた苦しみは、手を差し伸べてくれた王子様に全て伝えてしまった。
……何もない。もう、コーティには何も残っていない。
「……教えてください」
「どんなことでも」
「教官は、最期に何とおっしゃっておられましたか」
大男の手が止まった。
痛々しいほどの沈黙。答えを聞くのが怖くて、答えを聞けないのも怖い。ひたすら息が苦しいのに、上手く呼吸ができなくて。そんなコーティの代わりに、風を受けた夏草がざわめいてくれた。
「何も」
たった一言。それは恨み言でも、絶望の叫びでも、悲鳴でも、信念を貫く言葉でもなかった。簡潔で、何も伝えてくれない、けれどそれが真実だった。
「何、も……?」
足元が崩れ去るような気がした。
「何ですか……。そんなの……」
それじゃあまるで、教官がただ死んだみたいじゃないですか。
あれだけのご意思があって、あれだけのお力があって、あれだけの未来があった方なのに。最期が、そんな答えだなんて。認めない、私には認められない、私は絶対に……。
考えられたのは、そこまでだった。再び響いた仇の声が、コーティの知りたいことを紡ぎ出す。
「俺が、奴の名前を聞いたんだ」
答えに続きがある。それが分かった瞬間、コーティの、すべての思考が止まった。
「え?」
大男が立ち上がる。くるりと振り向いて、コーティの視線をまっすぐに受け止めた。
「奴のこと、識別番号が十三だってことは分かってた。でも、それはどう考えたって本名じゃないだろう。奴も人間だ、名前で呼ばれてしかるべきだ。それを、まるで人のことを順番にするみたいに……。教会のそういうところに、俺はずっと腹が立っててな」
彼は懐かしそうな、けれどどこか寂しそうな微笑みを浮かべていた。
「でもまあ、奴も俺なんかに教えるほど誇りを捨てちゃいなかったんだろう。……結局は鼻で笑われて、それきりさ」
「……ぅ」
「だから俺は、未だに殺した男の名前すら知らない」
「……うぅ」
「君は知っているのか? なら、どうか彼を想う時には、その名を呼んであげて欲しい」
それが、とどめだった。
「……ぅ、ああ……」
体中から力が抜けて、とうとうぺたりとへたり込む。生い茂る草が、地面に打ち付けたお尻を柔らかく受け止めてくれて、コーティは青い空を振り仰いだ。
「あああ……」
教官。
胸が痛い。腕が痛いです。痛い、痛いです。心が、私が、痛くて、悲しくてたまらない。
私は今日、思い知らされました。思い知ってしまいました。
教官。
あなたは最期まで、誰にもそのお名前を教えなかったのですね。私に教えてくれたその名を、他の誰にも伝えずにいてくれたんですね。それがこんなにも嬉しくて、こんなにも切ないことだなんて。
教官。
ごめんなさい、ごめんなさい。私はもう、ケト・ハウゼンに、この町の人間に、刃を向けられません。父親代わりのあなたを殺した奴らだと言うのに、これまで私を突き動かしてきた熱が、もう欠片も湧いてこないのです。
伝わってしまったんです。彼らも、彼女たちも、私と何一つ変わりなく悲しいのだと、確かに思い知ってしまったんです。
「うあぁ……」
ねえ、私の教官様。
あなたは私を恨みますか。あなたは私を軽蔑しますか。……許してなんて言えません。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
私はこの夏、宿敵の故郷で思い知りました。あなたの仇は、私の敵は、誰かを想うことのできる人たちなのだということを。
うなだれるコーティの向こうで、大男は再びしゃがみこんでいた。「……馬鹿だな、あいつ。こんなに想ってくれる人がいたのに」と、背中の向こうから確かに聞こえたような気がした。
墓石の前、コーティはただ夏の空を仰ぐ。
自分だけが知っている彼の名前を、何度も何度も心の中で呼びながら。




