ブランカ その4
海に来て知ったこと。
風に独特な匂いが交じっている。生臭い、とでも表現すればいいのだろうか、それも少し違う気がする。もっと深くて雄大な、こういうのを海の匂いというのかもしれない。
「変な鳥だねえ」
頭上を飛び去る鳥たちは、ブランカでも王都でも見たことのない種類だ。黒みがかった羽に、白い体。みゃあみゃあ、という鳴き声が何とも特徴的だった。
「あれはウミネコですね」
「海にも猫がいるんだ?」
「ええ。鳴き声が猫に似ているから、そう呼ばれるようになったんですって」
「……似てるかなあ? ジェスは、あの声がミヤに似てると思う?」
「いや全然」
砂浜に座り込んだまま、ケトは口を開けて空を見る。
ところ変われば、住む生き物も変わる。見上げる青空自体に北との違いは見えなくとも、悠々と舞う白い鳥さえいれば、それはもうケトにとって馴染みのない景色。更には匂いが不思議な感覚に拍車をかける。
ところで、今海岸にいるのはケトたちだけではない。周囲は子供の声で溢れていて、転げまわる小さな背中たちを眺めている状態である。
朝食の後、「すみません、実は……」と言いにくそうに切り出したリネット。妙に歯切れの悪い彼女に首を傾げたケトとジェスだったが、事情を聞いて目を瞬かせることになった。
どうやら彼女は、教会で面倒を見ている子供たちの子守役をしているらしい。シスターの見習いみたいなものなのだと打ち明けたリネットは、どうやら元々チビッ子たちを海につれていく約束をしていたのだとか。
せっかく町へ出る機会があるのなら、この機を逃すこともない。頭をぺこぺこ下げるリネットに頷いて、ケトとジェスは散策ついでについてきていたのだ。
「こんなに子供たちがいたなんて知らなかった」
「教会は身寄りのない子供の受け入れ先でもありますからね」
「……孤児院と同じようなもんか」
呟くジェス。彼は父を亡くして孤児院に入ったのだから、なにがしか思うことはあって当然だろう。そしてケトもまた、両親を失った身。少なくとも、親がいないというだけでは、自分や周囲にとって特別になり得ない。
北の町でも、教会でも同じ。どこにだって転がっている、よくある話。そして、二人の前できゃあきゃあ歓声を上げる子供たちもまた、境遇は同じだ。
「なあケト」
「ジェス?」
考え込んでいたケトは、目の前に出された手に目を瞬かせた。
「いつまで口開けてんだよ。俺たちも行こうぜ、いつまでも悩んでたってしゃーねえって」
「そうですよ、はるばるこんなところまでお越しいただいたんです。ちょっとぐらい楽しんだって罰は当たりませんよ!」
「う、うん……」
そう言うジェスとリネットはもう上着を脱ぎ捨てていて、ウズウズしているのが丸わかりだ。
確かにせっかく水着なるものを借りたのだから、ここで楽しまないのも損かもしれない。そんなことを考えつつ、ケトもローブを脱ぐと上着の裾をまくり上げて、途中で止めた。
「……ジェスにお腹見せるのやだなあ」
「え」
下に水着は着て来たから、別に着替えを見られる訳じゃないのだけれど。ついでに、見られたところで減るものでもないけれど。
ジェスのその目が、なんかヤだ。
「ジェスはあっち向いてて」
「……別に見てねえし」
「ジェス様拗ねないでください。乙女心は複雑なんです」
「拗ねてねえし」
リネットがクスクス笑いながら、ジェスに後ろを向くよう促してくれた。
ふむ。リネットさんは女心の分かる、できる人だ。立ち上がってお尻についた砂をはたき落としてから、ケトもえいやっと上着に手をかけたのだった。
*
とりあえず、さっきまで感傷に浸っていた自分に言いたいことがある。
そんなことしてる場合じゃないぞと。少しは想像を働かせろと。
「ひえーっ!」
夏空の下、水が弾けてキラキラ舞う。悪ガキどもの声もキラキラ舞う。
「そっちだー! 突撃ー!」
子供たちの先頭で音頭を取るのは、何を隠そうジェスである。彼の周りでチビッ子たちがウロチョロ駆け回り、彼の指す方へわーっと突っ込む。その先にいるのはもちろんケトで。
「うわっぷ!」
海の水は塩辛い。一応知識はあったけれど、ちょっと塩をきかせすぎではなかろうか。あちこちから浴びせかけられる水しぶきに目を白黒させながら、ケトはしかし反撃に移った。
「やったなあっ!」
「みんな、ミヤ様ばっかり狙いすぎでは……、ぴゃっ!」
「わー! リネットさん!」
水を掬い上げて跳ね飛ばす。先頭の男の子は悲鳴を上げて逃げまどい、隣の女の子が一緒になって駆け巡る。その隙にケトは少しだけ力を込めて、今度は一際大きな水しぶきを放った。
「うわっ!?」
水の塊をもろに浴びたジェスがひっくり返って、周りの子供たちがそんな彼を見て笑う。どうだ見たかと胸を張ったケトは、しかしすぐにあっちこっちから猛攻撃を受けて、慌てて逃げ出した。
ブランカの近くで川遊びはしたことあるけれど、この場所は根本的に水の量が違う。
海の水は冷たくて、砂の地面は踏みしめれば形を変える。膝ぐらいの水深でも驚くほどに走りづらくて、ケトはぴょんぴょん飛び跳ねた。
最初は見慣れない二人に戸惑っていた子供たちも、少し時間が経てばこれである。いつの間にかジェスが子供たちを引っ張って、ケトや他の子供たちを追いかけまわす図が出来上がっていた。
復讐がどうとか、戦争がどうとか、国がどうとか。
最近の自分は少し悩みすぎていたのかもしれない。そんな感想すらも、片端から冷たいに水に流されていくようで、ケトはいつしか笑顔を浮かべていた。
「やったなジェス!」
「うわちょっ、少しは加減しろっ!」
「やーだようっ!」
*
「どんだけ体力あるんだ、あいつは……」
ぼやきながら砂浜に戻ってきたジェスは、冷えた飲み物の入った水筒を渡してくれたリネットに礼を言って、海の方を振り返った。
視界一杯に広がる大海原。初めて見た時は、どこまでも広がる雄大さと、どことなく地に足つかない恐ろしさの両方を感じたものだ。
けれどなぜだろう。こんな穏やかな日には、心を曝け出したくなるような、大声で叫んでみたくなるような、そんな魅力を持っているようにも思える。人間なんてちっぽけなもの、悩む必要なんてどこにもない。そんなことを言いたげな、すべてを受け止めてくれそうな深い青が目を引いた。
空は高く、海鳥が遠くで群れを成す。この海岸は町のすぐ南、半島の付け根にあるから、振り返ればマイロの町がよく見える。町はやはり随分大きく、港と思しき場所には、大きな船が何隻も停泊しているのが分かった。
帆をたたんだ大型船の膝元で、あちこち行きかっている小舟も多い。あれだけたくさん駆け巡っていて、よく衝突しないものだと感心してしまった。ひょっとしたら、船で移動する時のために、決まりごとがあるのかも。
視線を戻して、遠くから近くへ。その先にいるのは、夏の日差しを一身に浴びてはしゃぐ少女。
これでもジェスだって男の子。
日差しに輝く白い肌、しなやかな脚、ほっそりとした、けれど少しずつ丸みを帯び始めた体を、水色の水着が可憐に彩る彼女なのだ。同年代の異性に目を奪われてしまうのも、まあなんというか許してほしい。
「お二人は付き合っているんですか?」
「はあ!?」
「違うんです?」
突然の言葉にあたふたするジェス。隣で子供たちを眺めていたはずのリネットが、いつの間にかいたずらっぽい視線をこちらに向けていた。
「ち、違えし!」
「え、てっきりそうだと……。やっぱり近頃の若者は早いんだなあって思ってたのに」
早い、早いってなんだ。ブンブンと勢いよく首を横に振ると、彼女は意外そうな顔をして眉を上げた。なんでそんなに不思議そうな顔をしているんだか。きょとんとしたリネットに向かって、少年は重ねて言う。
「俺とケトは、別にそんなんじゃないから」
「ふふふっ」
「……信じてないだろ」
「今のお答えで、なんとなく分かりましたから」
少しだけ赤くなった頬を隠すように、ジェスは再びケトの方を向く。本当に、ケトはこちらの視線なんてお構いなしだ。
いつも一緒にいるジェスだから、ケトが普段、必要以上に肌を晒したがらないことには気付いている。だから中々、薄着の彼女を見る機会はない。
それはきっと、異性からの視線を気にしているから、ではないはずだ。
彼女が怖がっているのは、大人の目、周囲の目。彼女を≪白猫≫としか見ようとしない、そんな人間たちの目。それが分かってしまうジェスだから、何もできなくても側にいてやりたいと思う。
「あいつは多分、そこまで深く考えてないよ。……まだ、子供だ」
「そうですか? ミヤ様がまだ十三歳だって聞いて、私驚いたんです。とても大人びているように見えて」
「……ケトの周りがそうさせたんだ。大人の間に分け入らなくちゃ、あいつは誰も守れなかったから」
ミヤ、という偽名にはいつも違和感があった。だから、周囲を気遣う必要のない時には、ちゃんと本名を呼んであげたいと思う。
打ち寄せる波の音に混じって、鈴の鳴るような高い声が聞こえる。「きゃあ!」とはしゃぐ少女の声は、最近の暗さを吹き飛ばしているようにも思えた。そういう時の彼女がただの子供であることも、ジェスはよく知っている。
「ミヤ様は幸せ者ですね。これほどまでに想ってくれる人が、すぐ傍にいるのですから」
「だから、そんなんじゃねえってば。……世の中が、ケトに厳しすぎるんだ」
あの襲撃に負けてから、ケトは何かを考え込むことが多くなった。
きっとあの黒い襲撃者に何かを言われたのだろう。それこそ、ケト・ハウゼンという人間の、根幹にかかわる何かを。いつもはすぐに相談に来るケトが、まだジェスに何も言ってこない。それだけで、少女の苦悩も推し量れるような気がした。
世の中、力だけではどうにもならないことが多い。いつの間にかしがらみに雁字搦めにされているケトを見て、ジェスはそれを実感した。
彼女が一体、何をしたというのか。王都に来させられて、何故か命を狙われて、傷つけられて、いつしか国からケンカを売られている。ケトは何も悪くないのに、取り巻く世界が彼女を放っておいてくれない。
「力には責任が伴う」
「え?」
「枢機卿の私兵として洗脳されていた私たちが、戦後よく聞かされた言葉です。一度力を手にしてしまった以上は、どのように使うにせよ、もしくは使わないことを選択するにせよ、己が選んだ道と向き合わねばならないと」
リネットは静かに目を閉じた。
「教皇様はおっしゃっていました。ミヤ様が持たされた力は、人ひとりに背負わせるにはあまりに大きすぎるもの。心の優しいお方だからこそ、周りと分かち合わねば潰れてしまうと」
その言葉には同意したい。彼女の力は、一人の少女にとってあまりにも重すぎる。人ならざる異能を得てしまった時点で、ケトに普通の人生は歩めない。
確かに三年前、姉を救いたいその一心で、少女は力を使うことを選んだ。そして時を同じくして、少女が自分の力を語る時、複雑な顔をするようになった。
「昔、ケトの姉さんが言ってた。ケトの力が、ケトを殺す呪いになる。いつか力に殺される日が来る。そのいつかからあいつを守りたいんだって。……最近少しだけ、それがどういうことか分かった気がするよ」
ジェスは思う。
人の恐ろしさからケトを守れるのは、同じ人の温かさだけ。その土台を姉が作り上げたからこそ、こんな状況でもケトははしゃいでいられる。
大人たちが築き上げた人の輪は、時として国一つとも渡り合う力を持つ。国の仮想敵の役目を押し付けられた少女。彼女を守る人達の中には、ちゃんとジェスだっているのだ。
「やっぱ、すげえよな。大人って」
「そうですね、私はいつまで経っても大人になれる気がしません」
彼女らしいあんな笑顔を、少しでも沢山見たい。力なんて欠片もないジェスだけれど、今も昔も思うことは変わらない。
気になるあの娘を守れるように、自分は少女に寄り添い続けよう。水着なケトに視線を奪われながら、少年はそんなことを思った。




