ブランカ その2
意外にも、と言ったら失礼かもしれないが、ギルドの地下食堂で準備してくれたスープは想像よりずっとおいしかった。余計な飾り気のない、とても素朴な野菜スープ。ベーコンが味に深みを出していた。
残り物でごめんねえ。恰幅のいい地下食堂の主が、お盆を抱えて階段へと消えていく。パンとチーズ、それから昼の残りのスープを手際よく温めてくれたその人は、どうやらちょうど明日のお昼の仕込みをしていたそうだ。
ロビーの丸テーブルを一つ借りて、コーティはスープを口に運ぶ。
ここまで案内してくれた妊婦さんは、コーティの真向いで、机に手を添えながらゆっくりと椅子に腰かけていた。普段はカウンターの中に椅子を置いて定位置にしているらしいのだが、今は客がいないからこれで構わない、と笑う。
「あの、お代を……」
「気にしないで、どうせお昼の余り物だったし」
名前を聞いてみると、彼女は少し考えた後でこう言った。
「そうねえ。受付さん、とでも呼んでちょうだいな。お客さんからもよくそう呼ばれるの」
「……受付さん、ですか?」
「それらしく見えないのは許してね? 本当は制服を着なくちゃいけないんだけど、ほら、今はこのお腹だから」
軽く肩をすくめて、受付さんはおどけてみせる。夏も真っ盛りだというのに、この北の町は随分過ごしやすい気温だ。窓から覗く路地裏は、宵闇の紫に沈もうとしていた。
「あの、では、受付さん」
「なあに?」
「この近くの宿屋を教えてくれませんか? とりあえず、寝るところを確保したくて」
城の使用人は、数ある仕事の中でも高給取りだ。コーティとてそれは例外ではなく、侍女としての給金はそれなりに入っていた。誰もが羨む仕事にふさわしく、しばらく宿代に困るようなことはないだろう。
もちろん、と頷いてくれた女性にホッとしながら、コーティは小麦の味の濃いパンをかじった。片腕ではパンをちぎれないコーティを見ながら、受付さんもまた木のカップに口をつける。中身はどうやらホットミルクらしい。
「みゃー」
「あら、貴方もミルク飲みたいの?」
「みゃー」
どこからか猫が一匹寄ってきて、受付さんのカップを見つめていた。受付さんがカップを差し出すものの、猫はふいと首を背けてコーティの方へ。あくびをひとつして、今度は食事をするコーティを見上げる。猫と視線を合わせてから、コーティは食事に戻った。
元々、コーティは口数が多い方ではない。受付さんが何も言わないのをいいことに、黙々とスプーンを動かした。ロビーは静かで、人影もない。よほどのことがない限り、夜になるまで依頼を続ける人間なんていないから当然かもしれないけれど。
やがてコーティが食事を終える頃になると、受付さんは机の上のカンテラに手を伸ばした。瓶を一度外して水の残りを確かめてから、つまみを回して明かりを灯す。
「便利よね、魔導ランプ」
「……」
「少し前までは、わざわざ蝋燭を点けて回っていたのに。今ではつまみ一つでこんなに明るいんだもの」
食後のお茶をすするコーティに、受付さんは続ける。その足元であくびを一つしてから、猫はのそのそと丸くなった。
「きっと今に、もっと便利なものができるんでしょうね……。馬のいらない馬車とか、火のいらないオーブンとか。それこそ、私なんかには想像もつかないものまで」
ぼんやりと灯るランプをかざして、彼女は眩しそうに目を細める。
「コーティちゃんは王都から来たんでしょう? 向こうはもっとすごいんじゃない?」
「ええ……。信じられないほど、向こうの生活は便利でした」
図書館には本が山ほどあって、気軽に借りることができた。ライラと行った糸屋街には綺麗な洋服が溢れていた。ルイスと二人でおしゃべりをした噴水からは水が止めどなく吹き上がり、水は蛇口をひねれば出て来た。
けれど、便利さを挙げるのだとしたら……。そこまで考えたコーティは、声を詰まらせて右の袖が揺れるのを見た。
肩から吊り下げられている腕は、完治するまでまだかかりそうだ。だから当たり前だけれど、今の右手に義手はない。代わりにスプーンを握りしめた左手に、自然と力が籠った。
「でも、どれだけ便利になったって、悩みは消えない……」
不便さを噛みしめながら呻いて、もぞもぞと座りなおした。
コーティが破壊した上水道の機械室は、一朝一夕で出来上がるものじゃない。幾年もの歳月を費やして作り上げたものなのだと、以前使用人仲間から聞いたことがある。
それをたったの一撃で……。ポンプの破壊だけならともかく、機械室に大量の水を引き込んだのだ。復旧は果たして現実的なのだろうか。
国を統べる者たちが、苦労した末に勝ち得た利便性。それすらも犠牲にしたにもかかわらず、復讐一つ遂げられない自分が、酷く不甲斐ない。
……私、こんなところで何を気にしているんだろう。もう彼の傍にはいないのに。もう自分は侍女じゃないのに。
どれだけ便利になったところで、使う人間がコーティではどうしようもない。使われる道具だって浮かばれないだろう。
もごもごと呟いたそれは、結局ただの独り言。ただ口から漏れてしまった嘆きに過ぎない。だからこそ、それに答えが返ってきたとき、コーティは心底驚いた。
「あら、当たり前のことを言うのね」
「え……?」
「だって便利になったのよ? これまで以上に沢山のことができてしまうなら、それはつまり、使い方をちゃんと決めなくちゃいけないってことでしょう?」
さも当然と言う顔で、事も無げに彼女は続けた。
「それってすっごく難しくて、恐ろしいこと。沢山の可能性から一つを選ぶ責任が生まれるから、その重圧を一人では背負いきれない人もいる」
「……」
「けれど立ち止まることも許されない。それはそれで、何もしないってことを選ぶのと同じだから」
猫が「みゃあ」と一鳴きして、毛づくろいを始める。その様子を見ながら、受付さんは続けた。
「なあんて、こんなことをわざわざ言葉にする暇人はいないけれどね。それでも、みんな心の底では分かっていて、だからこそ焦って選ぼうとするんでしょう」
「……何を、選ぶのですか?」
「自分が進む道。言い換えるなら、道具の使い方ってところかしらね。だから当たり前、便利さに悩むのは当たり前。コーティちゃんは何もおかしなこと言っていないわ」
呆然として見上げた受付さんに、どこか超然とした雰囲気を感じるのは何故だろうか。
なんだろう。これと似た色を、どこかで自分は目にしたことがあるような気がして。記憶を探ってみるけれど、思い当たるものはうまく見えてこない。
何とももどかしくなって、気付けばコーティは口にしていた。
「私、≪白猫≫のことを知りたくてここに来たんです。そのはずなんです」
自分の声に気付かされた。
そういえば、≪白猫≫の話なんて、今まで誰にもしたことがなかったんだ。それこそルイスを除いて。
身を焦がすような炎があの襲撃の日を境に消えてしまったことに、今のコーティは戸惑っている。じゃあなんでここに来たのかと聞かれたら、コーティはこう答えるしかない。ルイス様が乗り気に見えたから、と。
彼に言われたことだから、なおさら為したい自分がいる。……こんなの本末転倒だ。ルイスの言葉は、コーティの望みがあって初めて成り立つものなのに。
「私は奴に復讐したくて、それは教官の敵討ちのためで……。私の主様にまで手伝っていただいて、この間は奴をあと一歩のところまで追いつめたんです。でも……」
耳の奥で響く叫び声。あの地下で聞いた、ケト・ハウゼンの絶叫。
――どうして襲ったの!? どうして殺したの!? どうして傷つけたの!?
「奴は言うんです。悪いのは私たちだって。私たちがいなければ、奴は力なんて振るわなかったって」
――返して。ねえ返してよ。早く、わたしの大切な人を返して!
「私とおんなじことを、言うんです」
――そっちこそ、みんなに謝れッ!
「もっと、強い人だと思っていました。もっと動じない人だと思っていました」
ようやく追いついた≪白猫≫の娘。憎しみをぶつけたかった相手に、あろうことか同じ憎しみを叫ばれた。
それが、ただの言葉ならまだよかった。けれどあの戦場で、血を流す少女が突きつけた悲痛な声は、コーティにその感情を、心の底から思い知らしめていた。
「私が何もしなくても、奴は苦しんでいたなんて……」
奴を苦しませたかった。嫌な思いをしてくれたなら、それでよかった。復讐とは元来そういうものだろう。
けれど、自分が何もしなくても、奴がもう悲鳴を上げていたとしたら?
そう思ったら、酷くむなしくなってしまって。奴はまだ生きているというのに、殺さねばならぬと言う決意が鈍ってしまって。
「私、本当になにしてるんだろう……」
こんなに頑張って、色んな人に助けてもらって。それでなお、自己満足の充足感すら手に入れられないなんて。
挙句、胸に残ったのはすべてを失った喪失感。ようやく見つけた寄る辺すら捨てた自分への嘲笑。
「慌てなくても、いいんじゃないかしら?」
「……え?」
思考の迷路を彷徨うコーティに、そっとかけられた声。それが、ごちゃごちゃのまま突き進む考えを止めた。
「そんなに疲れた顔をしているんだから、いい考えが思い浮かばないのも当然よ。コーティちゃんは何もおかしくない」
おかしくないと、彼女は先程と同じ言葉を繰り返した。それが、なぜか妙に癪に障った。
「つ、疲れてなどいません。私はここに来る前、ずっと休ませてもらっていたんです。こんなところで止まっていたら、あの方に本当に申し訳が立たない!」
おかしくない、だなんて。そんなはずない。自分はおかしいのだ。復讐にとりつかれた狂信者なのだ。そうでなければ、自分ではないのだ。
「なんとなくだけれど、コーティちゃんが何かに安らぎを覚えていたってことは分かる。だから私の目には、貴女が今の状況に悲鳴を上げているように映るのよ」
謎かけのような言葉。この人、何を言っているんだかさっぱりだ。
「難しい言葉で言われたって分かりません、何をおっしゃりたいんですか」
「貴女の悩みは何も特別じゃないってこと。ただ、自分の心と、想いを伝える方法が分かっていないだけのように見える」
受付さんが栗色の視線を動かす。静かに、コーティの黒い目を見つめた。
「多分だけど、貴女が本当に伝えたいことは別にあって、それを≪白猫≫で覆っちゃっているだけなんじゃないかしら」
「伝えたいこと? 一体私が誰に、何を伝えたいって……」
「やあね、そんなの会ったばかりの私に分かるはずないじゃない。ただ、それっぽいこと言っただけ」
彼女はそんなことを言って、にっこり笑みを浮かべる。
「この町はケトにとって大切な場所よ。私も含めて、あの子を見守る者は沢山いる。≪白猫≫を知るのに、これ以上ない場所だと思うけれど」
「……それは」
「王都からのお客さんなんて珍しいから、みんな喜んで教えてくれると思う。ああ、そうそう。さっきの復讐云々は言いふらさない方がいいからね、念のため」
「よろしいのですか? こんな私が、ここにいて」
栗色の瞳に、まるで吸い込まれそうだった。胸の内を全て見透かされたような気がして、知らずコーティの背筋が震える。
けれど、見上げる彼女の表情はどこまでも柔らかい。受付さんはその双眸を緩ませ、まるで妹を見るかのように微笑んだのだった。
「それは私が許可を出すことじゃない。貴女が選ぶことよ。何か言い訳が欲しいのなら、そうねえ。ちょっと仕事を手伝ってもらいたいかも。最近、お腹が重くて辛い時があるの」
受付さんの表情を、魔導ランプの柔らかな光が照らす。コーティはしばらくその顔に見とれてから、慌てて頷いたのだった。




