我儘王子と側仕え その4
呆れて二の句も告げない、というのはこのことか。
コーティはじっと王子の瞳を見返す。ターコイズブルー、だったか。その色は故郷の港の水色に似ている。そんな宝石のような瞳から繰り出されたのは、全てを台無しにする言葉。
しばし考え、コーティは口を開く。
「……質問を、お許しいただけますでしょうか」
「いいぞ。つーか、今後も一々許可を取る必要はない。何だ」
彼の目に、妙な光が見える。まるでいたずらっ子のような瞳。あえて言葉にするなら、何かを期待しているような色。ひょっとして、何かを試されているのだろうか? だが何を?
「人払いをしたのは、このためですか」
「ああ、そうだ」
「私を側仕えにしたのも、このためですか」
「その通りだ」
淡々と答える王子に向かって、そのまま声色を変えずにコーティは続けた。
「考えてみたのです。もしも私が今のご命令を拒否したならば」
「へえ?」
「殿下の不興を買い、これまで通りの城仕えなどできなくなる。元々私は敗戦の徒で、国と教会の友好のために遣わされた人間。だから私は断ることもできず、為すがままであるだろうと、殿下はそう考えられたのではないですか」
「……余計なことまで頭が回るな。思い込みが激しいのは面倒な証拠だぞ」
どの口が言う、とコーティは思う。敬意など、目の前の男に払う価値はなかった。
「……最低ですね」
「だから言っただろう、大馬鹿者だと」
体を離し、王子はくるりと振り返る。コーティに半身を向けながら、彼は応接机の端にゆっくりと腰かけた。その背中に、コーティは小さく悪態を吐いた。
「……下種め」
「聞こえているぞ、侍女」
「聞こえるように言いましたから、殿下」
不遜極まりない言葉も見事に流されてしまえば、コーティは深々とため息を吐くしかない。いっそ怒り出してクビにでもしてくれたらいいのに。いや、それはそれで困るか。
しかしいずれにせよ、答えは考えるまでもない。どれだけ睨みつけたところで、彼の欲望への回答は最初から決まっているのだ。心持ち肩を落し、コーティは静かに口を開いた。
「では、こちらからも一つ条件があります」
「へえ、俺に条件?」
彼は腕を組む。その声には面白がっている響きがあった。
「腕を捧げ、更にこれから自らを捧げようと言うのです。私も少しくらい我儘を言っても良いかと思いまして」
「……お前、抜けてる割に肝が座ってるよな。嫌いじゃない、言ってみろよ」
正直に言おう。これは、コーティ・フェンダートにとって絶好の機会だった。
「終わった後で構いません。望む情報を、私にお与えください」
面食らったように、ルイスが目を瞬かせていた。
「情報? 何の?」
「それさえいただけるなら、私は地の果てにでもあなたに付き従う僕となりましょう」
これ以上、彼の疑問に答えるつもりはなかった。そんなことをしてしまえば、すべて台無しだから。
勢いが大切だ。すかさずコーティは次の行動に移る。
左手を背中に。ライラにせっかく結んでもらった白エプロンのリボンをほどき、床に落とす。そのまま黒いシャツのボタンに手を伸ばした。ボタンを嵌めるのは難しかったが、外すだけなら案外簡単だ。さくらんぼ色のリボンごと左手で右袖を引っ掴み、思い切り肩を後ろにそらす。収まっていた右腕が抜けたので、次は左袖。袖の先端を口に咥えて……。
「お、おいおいおい!」
左腕を一気に引っこ抜く。随分なよなよしくなってしまった細腕。肌が真っ白なのは、きっとしばらく日の光を浴びていなかったせいだ。
「なんですか。服を脱げと言ったのは殿下でしょう」
「お前なあ……!」
話の途中で脱ぎ出したらびっくりするだろうが、と呆れた顔で言われた。
この下種男、本当にどの口が言う。人間の屑め。
「この腕では上手く着替えられないんです。終わったら服を着直すのを手伝ってくださいね」
「それは別に構わないけど……、ってそうじゃねえよ」
エプロンと黒ワンピースの上半身がはらりと垂れ落ちた。
こうなってしまえば、コーティの上半身を守るのは頼りない下着一枚だけ。体の線に沿った形だから、これを脱ぐのもちょっと厄介。
「うわ馬鹿! 下着は脱がなくていいんだよ!」
「ご自分で脱がすのがお好みですか。流石殿下、下種いですね」
「あー違えって! 悪かった、からかったのは謝るってば」
「……?」
下着の裾を思い切りまくり上げた状態で、コーティは動きを止めた。いくらなんでも、彼の様子が変だと気付いたのだ。
先程まで偉そうにふんぞり返って腕組みしていたはずの≪我儘王子≫が、何故か怖気づいたように顔を背けている。
なんだなんだ。これからコーティの純潔を奪おうとする下種野郎にしては妙に手慣れていないと言うか、戸惑っていると言うか。チラチラ向けられる視線を感じつつも、見返してみると彼の耳は真っ赤だ。
「……ここから一体どうしろと?」
「いいから早く腹隠せ」
顔を下に向ける。左手でたくしあげつつある下着の裾から、ほっそりとした白い腹が見えた。一応、余計な贅肉はついていないはずだ。そもそも一時は骨と皮しかなかったから、健康体に戻りつつある、というところか。
人に体を晒すような趣味はない。とりあえずは、これ幸いと左手を離す。
「あーもう、調子狂うな……」
王子の言葉にはたと気付く。そうか、もしかして。
「下着は着けたままが趣味……?」
「だから違えって!」
途方に暮れて、ルイスをじっと見つめる。頬の赤みがとれないままの彼は、執務机を回り込んで引き出しを開けていた。何かを用意するカチャカチャという音が、静まり返った室内に響く。
「まさか道具を使うのが……」
「分かった、分かった。もう何とでも言え」
なんとか落ち着きを取り戻したのだろう。彼はコーティではなく手元に視線を落としたままで答える。せめて何か言って欲しいものだ。コーティだって、本当は異性に肌を晒す羞恥心で死にそうなんだから。
「さて、次だ」
顔を上げたルイス。もう半ば諦めの境地で、コーティはその言葉を聞いた。
「目を瞑ってもらうぞ、侍女」
*
暗闇の中、自分の息遣いが妙に大きく聞こえた。きっと何も見えないせいだ、そうに違いない。視界が塞がれている分、聴覚に神経が集中しているのだ。
密室。男の部屋、二人きりで、上半身は下着一枚。
いくら何でも酷い。どんな趣向がお好みなのかは知らないが、コーティはこの男のことを一生軽蔑するだろう。
「俺が良いと言うまで、何をされても目を開けるなよ、侍女」
「……はい」
先程よりも声が近づいていた。こちらに王子が寄ってきているのが分かって、コーティの心臓がバクバク鳴り出す。
「……」
「……」
目を開けていなくても分かる。彼は今、自分の目の前にいる。
意外と優しい手つきで、彼はコーティの右腕に触れた。ちぎれた腕の先端。枯れ枝のように肘の関節の少し下で途切れた腕の先に、他人の体温と手の感触。カチャリと、近くでまた金属音が鳴る。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、気持ち悪い。ぶわと泡立つ鳥肌に、奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
例え目的のために必要なことであったとしても、生理的な嫌悪感があるのは仕方ない。何事もはじめてとはそういうものだ。
そうだ。はじめて魔物を切り裂いた時も。訓練ではじめて泥水をすすった時も。
そして、はじめて人を殺した時も。
きっと慣れる。いつだってそうだ、誰だってそうだ。
壊れた平穏だって、いつしか日常になるんだ。必要ならば、人間は自分を守るために正当化だってできる。
大丈夫。今のコーティには明確な目的がある。そのためなら、どんなことだって耐えられる。
「あっれ、変だな。どうなってんだこれ」
「……?」
何度も何度も自分に言い聞かせて、コーティが覚悟を決めているのに。彼はなかなか腕以外に触ろうとしない。一体何をしているんだろう。目を閉じているから何も分からないが、流石に妙だ。
と言うかそもそもこの感触は何だ。明らかに肌の感触じゃない。右腕にかぶさるのは、柔らかい布のような、それでいて重たい剣のような。
「ちょっと失礼。……おいコーティ、どさくさに紛れて目開けたりするなよ」
「あ、開けませんって。……わっ!」
遠慮の欠片もなく、突然右腕を引き寄せられた。その拍子に右腕がズキ、と痛み、思わず顔をしかめる。
「悪い。痛かったか」
「な、何をして……」
「痛くないならいいから黙っとけ」
「ちょ、ちょっと……!」
遊びのない、酷く真面目な声。違和感がどんどん大きくなる。どうなっているんだ、この男は何をしているんだ。
ガチャリ、パチン。カチャカチャ、カチャン。金属音はいよいよその種類を増やし、まるで職人が何かを組み立てているような作業音ばかりが部屋に響く。
「うし。後はここをこうして……」
彼の手が動いた。右手から、右肩へ。随分と火照った熱い手、嫌悪感は相変わらず、戸惑いはいよいよもって増すばかり。
右肩に何かを引っかけられた、そのままギュッと締められた。何かが垂れ下がったみたいに、グンと右腕に増す重み。コーティにはもう意味が分からない。
「こうで……」
ガチャ、パチン。ガシャン。だから何の音だこれは。右腕が重たい。酷く重たい。
「こうだ!」
彼の声に喜びの色が乗った。
「よしよし。良いぞコーティ、目を開けろ」
恐る恐る、怯えながらも目を開くと。
「!」
目の前に、ルイスの顔があった。くっきりした目鼻立ち、亜麻色の癖っ毛。瞳は綺麗なターコイズブルー。その瞳孔に映る自分の顔まで分かる距離。
「わ、悪い!」
「いえ……」
思わずドキリと跳ねた心臓。彼もまた、驚いたように仰け反って離れる。そのまま少しばかり照れたように、彼は顔を背けて笑った。
「……色々触って悪かった」
「え? あの……」
「腕、見てみろ。気に入らなきゃ外していい」
彼に促されて、コーティは視線を落として。
はっ、と息を飲んだ。
自分の右腕。すっぱりと切り落とされた右腕。切れ味の悪い包丁で叩き切られたような、悲惨な有様の断面は記憶に新しい。橈骨と尺骨を叩き割られている様は今なお脳裏に焼き付いて離れない。そうして無残に失った右腕に。
金属の腕がついていた。
正確に言えば、それは腕とは言えない代物。
腕の先端に被せられた接続部、その金属の外板は騎士の鎧を連想させる野暮ったさだし、そもそもがコーティの本来の腕より一回り長く、太い。外板の端に止められた何本かの革ベルトは、長く伸びてコーティの右肩と体に引っかけられている。
何より、指があるべき場所についているのは、二枚の薄く平べったい金属板だけ。これでは二本指、にすらならない。果たしてこれで何か掴めたりするのだろうか。それすらも怪しい、心もとない板切れ。
けれど。確かにそれは、腕だった。コーティの、右腕だった。
「これ、は……?」
息が震える。下着姿を男に晒している羞恥心も吹き飛び、左手で金属の腕にそっと触れてみる。
「すまん。まだ試作品もいいところなんだ。機構にも無駄が多いし、重いし、把持力も調整できないし、なにより格好が悪い。指っつーかこれじゃもはや板だし」
「どこで、こんなものを……」
「作ったんだよ、俺が」
とにかくお前の復帰に間に合わせようと思ったんだ。ルイスは言い訳をする口調でそう言った。
「あ、え……?」
「もう少し時間をくれ。並列伝達機構の小型化に大分手こずっているんだ。だが、なんとかしていつか五本指にしてやるから。不格好なのが嫌なら、普段は外しておいてたまにつけてくれるだけで良い。……いやまあ、こうして作ったんだから色々試して欲しいって言うのも本音なんだが」
「いえ、あの……」
「だけどさ、実際難しいんだよこれが。特に手首の関節なんか、本当にこれはすまん、今はまだ手動でしか曲げられないんだ。手先で掴む動作との両立がどうしても上手くいかなくて、どっちの自動化を優先させるか悩んだんだ。掴むのと曲げるの、どちらが重要かと言ったら、多分だけど掴む方だろ?」
王子が一気にまくしたてる。よく分からない言葉の羅列を、流れる濁流のように、とめどなく。
それでもって、彼は一切コーティの方を見やしない。まるでいたずらした後にバツの悪さを誤魔化す子供のようだ、とそんなことを思いつつ。けれど、コーティはそれどころじゃなくて。
「つーかさ、ここまで精密な機構になると、現行の加工精度では間に合わないんだ。歯車二つの噛み合わせだけで、問題は山積みだ。結局今回は既存のものを削ってすり合わせてる。この方法ならある程度は理想の動きに近づけられるから。とはいえこれだと時間がかかって仕方ない、何か別の方法があれば……」
まるで王城の庭にある噴水みたいに、蛇口から噴出する水のように。
とにかく、意味の分からない言葉を並べ立てていたルイス。そんな彼がようやくコーティの顔に視線を戻した瞬間、その青い瞳を見開いて声を途切れさせた。
「……そこまで、嫌だったか?」
「えっ……?」
彼の声が一転した。気弱な、探るような声。どうしてそんなことを言いだすんだろう、と呆然としたままのコーティが見返していると。
「だってお前、泣いてるから……」
「……?」
頬に触れる。
無意識に上げたのは、やっぱり利き腕、コーティの右腕。手には何も感じず、ひんやりとした冷たい金属の感触を頬に伝えただけだったけれど。コーティは確かに、自分の右手で顔に触れることができた。
本当だ。
自分は今、泣いている。心細そうな顔をした彼の目の前で、泣いている。
「これは、その……。あれ、なんで……」
「……無理はしなくていい。そもそもお前から腕を奪った男の罪滅ぼしだ。嫌なら外してもらって構わないから」
「違う、違うんです」
言う端から、どんどん涙が零れ落ちて。
どうして。幼い頃ならともかく、この数年泣いたことなんてほとんどなかったのに。
戸惑う一方で、けれどコーティには頭のどこかで、その理由が分かっていた。
「……嬉しくて」
そう。
ただ、嬉しかったのだ。自慢の右腕が戻ってきたことが。
不格好な義手は、もちろんこれまでの腕とは似ても似つかない。反対の生身の左手と比べてしまうと、長さすら揃っていない。まだ動かし方すらも分からない腕だけれど。
これは紛れもなく、コーティの失った右腕だ。
「……そうか、なら、良かった」
なんだかほっとしたようなルイスの声が、静かに部屋に響く。彼の方を向いているはずなのに、彼の顔を見ているはずなのに、コーティには彼の表情が見えない。
どんどんぼやけて、彼の髪の亜麻色しか、見えなかった。