動き出す世界 その9
コーティがベッドの住人になって、ほぼ半月。
脱臼に加えて筋まで痛めた右腕は、未だに肩から布で吊られたまま。けれど、他の傷は大分治ってきた。裂けた額も、火傷と捻挫をした右足も、刃が掠めた脇腹も、破片が刺さっていた跡も。体は毎日綺麗な布で清められる上、清潔な包帯に、お腹にやさしいけれど滋養のある食事。
これだけ至れり尽くせりなのだ。傷口が膿む心配などどこにもなかった。
それなのに、コーティは動く気になれない。
何かがぽっかりと抜け落ちたような、そんな脱力感。コーティは今日もベッドの上で、もぞもぞと掛け布を引き寄せるだけ。
外はきっと騒がしいのだろう。時折病室の外でもバタバタと足音が聞こえることもある。
いつ来るか、と身構えていたのに、尋問官はいつまで待ってもやってこなかった。あれだけの騒ぎを起こしておいて、まさかお咎めなしなんてことはないだろうと身構えているのだから、早く来て欲しい。
だるい。酷く体がだるい。
そんな停滞した日々、その唯一の楽しみは。
「具合はどうだ、コーティ」
ああ、今日も来てくれた。
ほうっと彼にバレない様に、安堵のため息を吐いてから、コーティは身を起こした。微笑みながらルイスに返す答えは、毎日同じだ。
「お陰様で、日々回復を実感しております」
右腕を失った時と同じ台詞だ。あの頃と違うのは、自分の声色。コーティの返事に、もう棘はない。
「……ありがとうございます。額の傷も、この分なら跡は残らないみたいです」
「脱臼はちゃんと直さないと癖になるぞ?」
「大丈夫です。存じておりますから」
彼が来てくれた時にだけ和らぐ、コーティの惑い。それは、半年前と比べてまるで変わった二人の関係を表している。
きっと忙しいのだろうに、ルイスは毎日ちゃんと来てくれる。ベッドサイドに椅子を引っぱって来て、コーティと話をしてくれる。
「お医者の先生から聞いたよ。もうそろそろ起き上がってもいいってお墨付きが出そうなんだってな」
「……え、ええ」
「良かったじゃないか、もう少しの辛抱で戻れるぞ」
本当は、昨日の時点で言われていた。大分回復しましたね、少しずつ体を戻しましょうか、と。
コーティはあいまいな返事をして、そのままだ。≪白猫≫に挑むために鍛えた体は、多分もう見る影もないのだろう。持ち上げる左腕が、日に日に細くなっていくようだ。
「……コーティ?」
歯切れの悪い返事をしたのが気になったのだろう。ハッとして見上げると、ルイスが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫か? まだ痛むとか……」
「痛みはないのですが、なんだか怠さが抜けなくて……」
彼の雰囲気が緩む。その顔に安心したような笑顔が灯った。
「あー、それ俺も分かるわ。布団に入ってると起きるのすっげえ怠くなるよなあ。……な、コーティも理解できたろ? だから、今度から布団を無理やり引っぺがすのナシな」
コーティは素直に頷けなかった。
きっと彼が言っているのは、冬の朝、布団の温もりが恋しくなるとの同じ種類の怠さ。コーティだって人間だ、その辛さは知っている。
けれど、今のこれは違う。なんとなくそんな感じがする。
これでもコーティは、早く元に戻らなければと考えているのだ。ルイスがこれだけ毎日、コーティの元に通ってきてくれていると言うのに、いつまでも寝てばかりじゃいられない。
そして、もしも王子の立場が危うくなっているのならば、コーティはすべてを話さねばならない。自分が王子を利用したのだと。悪いのは全てコーティただ一人なのだと。ルイスは被害者、全ての責は自分にあるのだと。
けれど考えてみれば。本当に危ない状況なら、ルイスはそもそもお見舞いになんて来れないだろうし、すなわち彼が何かを上手く取りなしてくれたのではなかろうか。
だから、コーティが起き上がって体を慣らしさえすれば、もう一度侍女服の袖に腕を通せる可能性だって残っているかもしれないのだ。
それを願い、勇気を振り絞って、彼に伝えたはずのコーティ。早く元気になりたい、そのはずなのに。
「……」
なのに、怠さが邪魔をする。
ベッドに深く沈み込んで、まんじりともせず過ごす日々。コーティの傷がそれほどまでに酷かった、というのは少し前までの話で。今なら少し体を動かすことくらいできるはずなのに。
一体どうしてしまったんだろう。
罰せられる訳でもなく、殺される訳でもない現状。もしかしたら本当に侍女に戻れるのでは、なんて思ってしまう。それは理想の未来のはずなのに、その未来にコーティ自身が付いていけない。この状況に、そして適応できない自分に、どうしても戸惑いを隠せない。
全ての感情を燃やし尽くしてしまったから?
それも違う、と心の中で否定する。だってコーティは未だに≪白猫≫を殺せていないのだから。本懐を遂げていないのに、燃え尽きている場合じゃないだろう。
つらつらとそんなことを考えていたせいだろうか。気付いた時にはコーティはルイスが何か言っているのを聞き逃してしまった。
なんて失態だろう。彼の大切な言葉を聞き逃してしまうだなんて。どんな雑談だって、彼の口から出てくる言葉は、今のコーティの心の支えになってくれるのに。
「あっ……。申し訳ございません。今、何と……?」
「おいおい、聞いてなかったのかよ……。珍しいじゃないか、ボケっとしてるなんて」
「ご、ごめんなさい……」
彼は静かに、それでいて気の抜けたように笑った。
「コーティさ、しばらくブランカに行ってみないか?」
「……」
ブランカ。彼の言葉を口の中で繰り返してから、かちりと頭の中で意味が繋がる。
瞬間、コーティは目を剥いた。はずみで怠さと言葉が吹っ飛んだ。
慌てて飛び起きて、口をパクパクさせて、彼の方へずいと身を乗り出す。
「ル、ルイス様……!?」
「おお、どうしたどうした……?」
驚いた顔をしてルイスがのけぞる。彼の青い瞳に映る自分は酷い顔をしていたけれど、そんなことはどうでも良くて、彼の袖にしがみついて。
やっぱり、やっぱり……! ずっと抱えていた不安が、悲しみが、諦めが、形となって口から転げ落ちた。
「私やっぱり、もうルイス様のお側にはいられないのですか……!?」
一拍置いて、自分が口にした言葉の意味に気付く。
「あっ……!?」
慌てて口を閉じたけれど、頭のどこかで既に遅いと分かっていて。彼の青の目がじわじわと見開かれていくのを、コーティは呆然と見守るしかなかった。
「コーティ、お前……」
「あぁ……」
互いに硬直したまま見つめ合う。火が出たように顔が熱くて、なのに彼の目から視線が外せない。
馬鹿だ、自分は歴史に名が残るほどの大馬鹿者だ。後悔はどんどんと増して、いたたまれなくなって。
今のは駄目だ。自分と彼の関係を壊す言葉だった。
何か言わねば。取り繕わなければ。焦れば焦るほどに言葉は絡まって、ああだから、自分は不器用なんだとコーティはうんざりして。亜麻色の癖っ毛、青の瞳。いつからか見惚れしまうようになった彼の唇が動くのを見て、絶望的な気分に陥った。
「び……」
彼が目を何度か瞬かせる。その瞳に映った女の顔が、コーティには醜くく思えた。
「ビビったぁ!」
「……へ?」
「すげえ顔してんぞお前。なんだどうした。そんなに俺の侍女でいたいだなんて、随分殊勝な心掛けじゃないか」
「あ、そ、それは……」
「いやあ主冥利に尽きるっつーか? やっぱ俺の類まれなる有能さが眩しいっつーか? 普段ツンツンしてるコーティがこれだぜ? やっぱ才能あるよ俺。な、コーティもそう思うだろ?」
とんでもなく酷いことをまくし立てられている。それが分かったものの、だからこそ、コーティは自分を必死に持ち直すことが出来た。致命的な一線を越えてしまう直前で、何かを回避できた感覚に、安堵の息を吐く。
きっと、彼も分かってやってくれたんだ。コーティは酷く寂くなって、けれどそれと同じくらいの感謝を彼に抱いた。
「な、何言ってくれてやがるんですか。自惚れも甚だしい。……ルイス様の側でなければ私の目的は達成できないんです。お給金もいいですし、ルイス様が一番、その辺りの事情はご存じでしょうが」
互いに少しだけ早口になって、気まずさを隠すかのような軽口と悪口の応酬。
いつの間にかルイスの袖を握りしめていた左手からも力を抜くことができて、コーティは前のめりの体を元に戻した。
「……あれ、何の話してたんだっけ?」
「ブランカがどうとか、馬鹿なことをおっしゃるせいでこうなっているんですが」
「ああ、そうだったそうだった!」
コホン、と一つ咳ばらいをして、彼はその目で言う。
ほら、元通りだろ? 大丈夫。主と侍女で、元通り。
「≪白猫≫だよ」
「≪白猫≫……?」
「逃しちゃったけど、もう一息だったじゃないか。奴は倒せるってことが分かったんだから、もう一度計画を練り直して、今度こそ確実に仕留めよう」
話について行けずにポカンと口を開けたコーティを他所に、ルイスは言葉を続ける。
「コーティがこないだ話してくれたけど、奴が妙なことを言っていたらしいじゃないか。あれから俺の方でも資料を漁ってみたんだけど、≪白猫≫の両親と故郷の記述なんてどこにもなかった」
「そ、そうなんですか……?」
「ああ。だから、ブランカだ。……あの北の町が≪白猫≫の本拠地だってのは、暗黙の了解で伏せられているけど、誰だって知っている。そこまで行って、奴の正体を突き止めたいのさ」
コーティはとりあえず口を閉じて、でも目を瞬かせることしかできない。
考えれば自然なこと、なのだろうか。確かに自分は≪白猫≫に傷を負わせ、追い詰めることが出来たのだから。今度こそ、と思うのは当たり前。奴に秘密が残されているというなら、それが分かれば作戦も立てやすくなる。
……自分は今まで、そんなことすら考えていなかったんだな。今更になってそれに気付いた。
「本当なら、俺もこんな城逃げ出してさ、ブランカに遊びに……げふんげふん、調査に行きたいんだけど、流石に無理だし」
それはそうだ。お忍びで城下町に降りるのとは訳が違う。王子が何日も城から抜け出すことなんてできやしない。彼の言いたいことがようやく腑に落ちて、コーティは確かめるように言った。
「それで、私が調査を……?」
「ああ。仕事の方だけど、城の使用人には条件付きで長期休みが取れる制度がある。理由は俺の方でどうとでも弄れるから、コーティ一人なら抜け出すのも簡単なはずだ」
当のコーティはまだ立ち直れていないすらいないと言うのに、彼の方が次を見据えているなんて。それが何ともおかしくて、思わず苦笑を漏らしてしまった。
「変ですよ。ルイス様が私よりも先に乗り気になるなんて」
「……こういうことを言うのは良くないって、弁えているつもりだけどさ」
見上げた先で、彼が目を輝かせていた。
「正直に言うよ。俺、すっげえドキドキして、ワクワクしたんだ。俺たち非力な人間でも、あれだけの強大な存在に対抗できる。俺の技術がコーティの技量と重なって、決して敵わないはずの敵への活路を開ける。……こんなこと、最近まで考えもしなかったのに」
「……ルイス様」
胸が何故か、きゅっと締め付けられるような気がした。
なんだか不思議だ。この人はこんなに嬉しそうに笑う人だっけ。
「コーティのお陰だ。ありがとう。俺はもう一度、向き合ってみる気になれたから」
「……そんな。それを言うなら、私こそ」
ああ、本当に。あなたに、生きる理由を否定されなくて良かった。私はそう思ってしまうのです。
だから、他の誰でもない、あなたが言うのなら。
「……ブランカ、行きます」
「うん。頼む」
「頼まれました」
例えひと時の間でも、彼の側を離れることに戸惑いはあるけれど。きっとこれは、決して悲しい別れではないから。
「コルティナ・フェンダート。ブランカでの≪白猫≫調査、しかと拝命いたしました」
「うむ、くるしゅうない」
「……もう。なんですか、それ」
互いに硬い言葉は似合わない。彼もおどけた調子で笑っていたから、コーティも久しぶりに微笑むことができた。




