動き出す世界 その7
「こ、これが……!」
ケトは大きく口を開けた。ついでに目も見開いた。
フードを被っていないお陰で、風が髪を撫でるのが心地よい。馬車の幌をめくれば、バサバサと分厚い布がはためき、銀の髪がさらりと靡く。人のそれより敏感な嗅覚をくすぐるのは、はじめて嗅ぐ独特の匂い。生臭いような、塩辛いような、なんだか強烈な匂いだ。
北の町とも、王都とも違う、異質な風だった。包帯に巻かれた翼でも、風がまとわりつくのが分かるとなんだかウズウズしてしまう。
隣で身を乗り出すジェスも目を細めていた。鼻の頭を掻いて「すげー」と胸を張っていた。
夏の空は高く、真っ白で山みたいな雲が濃い色を彩っている。照り付ける太陽の日差しはどこまでも眩しく、きらりと反射した光に何度も目を瞬かせた。
「これが、海……!」
ケトが見つめる遥か先。空の下に見慣れた土の地面は存在せず、代わりに広がるのは一面の青。
あれが全部水だなんて、何回聞いても信じられない。それもどうやら、ただの水ではなく全部塩水なのだとか。なんなら、昨日の野営の夕食で出て来た野菜スープよりもしょっぱいらしい。
ガタガタ振動する馬車の振動にも慣れたもの。流石にお尻が痛くなってきたけれど、ずっと体を休めていたんだから仕方ない。お陰で傷の治りもかなり良いのだから文句はなかった。
「こんな場所があるなんて……」
ただただ圧倒されるケトの隣で、ジェスが突然こちらを向いて、ニヤッと笑った。
「うーみだああああああっ!」
「うひゃあっ!?」
突然耳元で大声を張り上げられたものだから、ケトはびっくりしてコロンと後ろに転げてしまった。包帯を巻いたままの翼がペチと床を叩いたが、思ったほど痛くなかった。包帯、そろそろ外してもいいかも。
「いきなり大声上げないでよ……」
「悪い、悪い」
起き上がりつつ、ケトは目をぱちくりと瞬かせた。御者席から振り向いて、こちらに手を伸ばすジェス。その顔には、最近見かけることの少なくなった、いたずら坊主の色をのぞかせていて。
差し出された手をケトが掴めば、彼は力強く引き起こしてくれた。
「ほら、ケトも叫んでみろよ」
「え?」
「あんまりだんまりしてると、そのうち声が出なくなっちゃうぞ?」
体を休めなくてはいけないのだから、声を出す機会が減るのは当たり前だ。そう言おうとして、けれどケトはふと思う。確かに最近、王都のギルドに引きこもったり、馬車の中で寝ていたりと、自分は大声と無縁の生活を送っていたっけ。
少女は少年の焦げ茶の瞳を見返してから、彼の手に力を込められるのを感じ取って、おずおずと口を開いてみた。
「う、うーみー」
「そんなんじゃ聞こえないぞ!」
「うーみー!」
「もっと大きく!」
大きく息を吸ったジェスが、自分の腹に手を当てて叫ぶ。
「うーみだあああああああっ! ほらっ!」
促されるまま、ケトも大きく潮風を吸い込んだ。目をギュッとつむって、両手を口元に添えて、お腹に力を込める。
「うーみいいいいいいいっ!」
「でっけえええなあああああああ!」
「おっきいねええええええええええっ!」
一度大きな声を出してみたら、びっくりするほどすっきりして。澱んでいたお腹の中にすうっと風が通るような気がして。
ケトは心の底から、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
*
わあわあ騒ぐ二人の後ろ姿を、アキリーズは飽きずに眺めていた。ずっと叫び続けているからか、ジェスの隣の御者がなんとも言えない顔をしている。うるさいけれど、それを口にするほど野暮ではないのだろう。
御者には後でお礼を言っておこう。遮らないでくれてありがとう、と。
潮風に銀の髪を靡かせるままで、身を乗り出して大声を上げるケトは、少しだけ無邪気さを取り戻したように見えるから。
アキリーズは≪白猫≫ケトのことを詳しく知らない。
もちろんあの戦争の裏側を知る者として、いわゆる白猫伝説が多分な誇張を含んだものであることは知っていて。だから広く語られている通りの化け物であるなどとは、微塵も思っていない。
王都を出てからの数日、彼女を見ていて抱いた印象――それこそ第一印象とも言っていいだろう――は、随分と大人びた子だ、というものだった。
彼女が取り乱していたのは、意識を取り戻す直前、錯乱して少年に縋りついていた時だけ。その後はじっと黙り込んで、何かを考えこんでいるように見えた。
包帯を取り換える時も、薬を塗る時も、それは変わらず。ただ唇を引き結んで痛みに耐え続けていた。少しは嫌がる素振りを見せるかとも思ったのに、それもない。
そう言えば、彼女は目覚めてすぐ、アキリーズの目をじっと見つめていた。心を読み取ると噂されている銀の瞳で警戒するのは当然だろう。癖なのかもしれない。
だが、そんなもの、アキリーズに言わせれば何も特別な物じゃない。
人は他人の感情を推察したがる。その瞳の動き、眉の角度、口角、力の入れ具合。一言で言ってしまえば顔色をうかがうことくらい、誰だってするのだ。
それはアキリーズも同様。もちろん、全てを推察することは難しく、表情を隠すことを覚えた人間に騙されることだってあるけれど。
人として言うならば、ケト・ハウゼンはそれほど器用ではないらしい。話すときに合わせたケトの銀の視線は、アキリーズの心を読み解こうとする一方で、何よりも雄弁に物語っていた。
――自分の身の程は知っている。
人を超えた力を受け入れ、必要とあらば利用することを厭わない少女。けれど同時に、彼女は忌避している。普通になれない自分をこれ以上なく理解している。それが影となってその目に現れる時がある。
例えば包帯の巻かれた翼を撫でる時、酷い裂傷の右手を見る時、彼女は決まって硬い顔する。それが傷が痛むからではなく、むしろその逆、傷の治りが人とは思えないほどに早いからだろう。
そんな彼女が、しかし一皮むけばこれだ。
馬車から落っこちないように、少年の肩にしがみつきながら。眦を緩ませたり、馬車の揺れにギュッと目をつむってみたり。その小さな口からは、絶えず可憐な声が響く。
はしゃぐ彼女こそが、ケトという少女の素の姿らしい。十三歳、未だ庇護されるべき年齢の彼女は、はじめて見る海に心を躍らせる、ただの女の子だ。
付け加えるなら。どうやら少女はまだ、ある面で歳以上に子供らしい。
ほら、恥ずかしげもなく、少年にあんな風にしがみついたりして。ジェスはどうやらケトよりも一歩先を進んでいるらしく、背中から回された腕と顔の近さに硬直している。どう見てもどぎまぎしているようだった。
もう少ししたら、ケトも同じように、無邪気に触れ合うのが恥ずかしくなる時が来るはずだ。それまでに、そしてそれからも、沢山の思い出を築けるといい。孫を見るような視線で、老人はそんなことを思った。
「そのために、乗り越えるべき壁は多い。辛いでしょうな……」
懐から数通の手紙を取り出し、鈴の封蝋を見つめた。
終戦直後から続けられている文通には、≪傾国≫の廃王女が共に戦った人たちへの親愛の情を示す役割が一つ。
そして、彼女が大切な人を守る武器としての役割が一つ。
彼女は情報を掴んでおきたいのだろう。そして同時に、自分が傾けた国の行く末を見届けなければとも思っているのだろう。
廃王女は、事情を知る者に自分の心を隠そうとしない。かつてはとにかく猫を被っていたらしいが、妹に怒られてからは必要な時以外止めたのだと。だから素直に想いを書き綴る。元々早い頭の回転に、自身の腹黒さと、一人の女性としての感情を添えて。
そんな彼女からの手紙に、気になる記述を見たのは、数か月ほど前。
信じられないことに、妹を旅に出すらしい。彼女自身も同行しようとしたらしいが、事情が事情だけについていけないのだと。
だから、守って欲しい。廃王女の願いはどこまでも一途で、今もなお変わることがない。
侍女からの襲撃を受けてから、≪白猫≫が王都を脱出するまで、わずか半日。
意識を失ったケトを助け出したジェスは、王都脱出に≪影法師≫コンラッドの力を頼り、同時にヴァリーという侍女頭の手を貸りてありったけの治療を施したそうだ。彼らもまた、廃王女と関わりの深い人物。だからこそ、すぐに対応できたらしい。
龍神聖教会の教皇アキリーズに声がかかったのはその直後だった。元々、教会と国の交渉役として王城に滞在していたことが功を奏した形だった。
彼の役割は、王都脱出の足となることと、隠れ家を提供すること。
ケトはしばらく身を隠す必要があるらしい。ブランカに帰したいのは山々だが少々事情が変わったのだと、眠るケトを連れて来たヴァリーはそう言っていた。
ケトを襲った襲撃者が、アキリーズも良く知る人間だったこと。にもかかわらず、それでも今の教会を信じてくれたこと。その信頼には答えねばならないだろう。贖罪と感謝の意志も込めて、アキリーズは細心の注意を払って王城を辞して、それから二日経つ今、街道に揺られているのだ。
アキリーズは馬車の向かう先に視線を向けた。
国の最南端にして最大の港町、マイロ。ここの修道院には同い年の子供たちも沢山いる。銀髪というべきか、灰色と言うべきか、似たような髪質の子に心当たりもある。教会のローブで姿を隠してしまえば、いくら目立つとは言えバレることもないだろう。
なんたって、≪白猫≫は教会にとって悪夢の象徴であり、今もなお最大の敵なのだ。それがまさか修道着を纏って子供に紛れ込んでいるなどと、一体誰が想像すると言うのだろう。
万が一の時のための隠れ家。廃王女が提案しなければ、アキリーズとて考えつかなかった場所だ。話を聞いた時には、思わず笑ってしまったものだ。




