負けられない その7
「ごぼっ、ゴホゴホッ」
神様はどうやら、コーティを寝かせてもくれないらしい。意識を飛ばしていたのはほんの数秒か。容赦なく水が鼻と喉を焼き……ああもう痛いのは嫌だ、コーティは目を見開いた。
「げほっ、げほっ……けほっ……、うう……」
口からは言葉の代わりに水と呻き声しか出ず、けれどコーティはなんとか体を起こすことに成功した。途中でちぎれてしまった右腕は動かず、重い頭は上げるのも一苦労。頭から、体中から、血とも水ともつかない液体が零れ落ちた。
それでも、まだ生きている。まだコーティは動いていて、一面の青の中に、憎き仇の姿を捉えることができる。全ての手札を晒し尽くしたコーティの手元には、ただ一つボロボロの体だけが残されていた。
グラグラ揺れるコーティの目と鼻の先。石畳が点々とえぐれた向こうに、奴がいる。コーティは立ち上がりつつあって、奴は倒れ伏している。今はもう、それだけあれば十分だ。
「……≪白猫≫」
彼女は噴水の石段に首を預けて、ピクリとも動かない。……いや、胸がかすかに上下している。
コーティと違い、一切減速せずに地面へと突っ込んだ≪白猫≫。普通の人間なら原型すら留めていられないような勢いで叩きつけられたはずなのに、奴は人の形を保ったままで息がある。もう驚きもなかった。
重い体を引きずって、何度も意識を遠のかせながらも、宿敵の元へ。広場に薄く張った水は、仰向けで倒れてさえいれば、鼻にも口にも入ることはない深さだ。彼女が水を飲んで死ぬことはないだろう。
決着は己の手で付けられる。それが、コーティには何よりも嬉しかった。
「はあ……はあ……はあ……」
少し離れたところに、くず鉄の塊が堕ちていた。端から糸が力なく垂れ、破断した骨組みと外板の間には水が溜まっていて。左手で拾い上げると、中から溜まった水が零れ落ちて水面に波を立てた。
「ぅあ……」
呻く。
ルイス様、申し訳ありません。せっかくいただいた腕を、私はもう壊してしまいました。あれだけ使いやすいようにと、激しい戦闘にも耐えられるようにと、丹精込めて作っていただいた最高の右腕だったのに。
魔導銃の根元を掴んで、傷だらけの銃身を見つめる。大丈夫、コーティはちゃんと覚えている。装弾数は六発、撃ったのは五発。
接合部のボルトがすべて破断し、ただの板と化した魔導盾を置き去りにして。残弾一の連装銃を左手に抱えて、一歩、また一歩と奴の元へ。
澄んだ水がそこだけ赤く濁る只中で、≪白猫≫は虚ろな瞳を彷徨わせていた。コーティが近づくことに気付いたのだろう、顔がほんの少しだけこちらを向く。
意識があるということは、奴は自分の最期を理解した上で死ぬということ。ああ、なんだか神様にお礼を言いたい気分だ。
「……わたしも、殺すんだ」
「そのために生きてきたんです。そのためならなんだってします」
「ママもパパも、おまえたちはそうやって殺したんだね……」
彼女の目元で光るのは、広場に満ち満ちた水の雫が跳ねたものか、それとも……。
「わたし、普通に暮らせれば、それでよかったのに……」
「貴様に普通の人生なんて、歩ませない」
その額に、照準を。
ケトは涙を零しながら、静かに目を瞑った。
「ごめんなさい、シアおねえちゃん……」
コーティはそれ以上何も言わず、機関部に直接魔法を展開して。
そして、ただ、銃声。
放たれた弾丸は、目にもとまらぬ速さで宙を駆ける。
そうして次の瞬間には、侍女の銃をその手からもぎ取っていた。
*
「やらせない」
大股で、ジェス・リゼルは青の世界を突き進む。
銃口から細い煙をたなびかせる小型の魔導拳銃を捨て、水を激しく蹴立てながら、真っすぐに少女の元へ。
「やらせない」
彼が持つ短銃身の魔導銃は一丁だけじゃない。いちいち弾を込め直すなんて面倒なことはしていられないと、外套の下に計四丁をぶら下げている。銃床のないその一つを片手で無造作に構えて、発砲。
「ケトは、俺が、やらせない」
命中精度なんてたかが知れていた。侍女の手元を擦過するにとどまった二射目は、けれど彼女の足をよろめかせる。きっと状況についていけてないのだろう。女の左手は、銃を抱えたままの形で固まったままだ。
ぼんやりとした視線をこちらに向けた刺客の女。酷い有様で、あちこち破れ果てた侍女服の首元に、修道着の残骸が辛うじて引っ掛かっている。そのほとんどが血と汚れに染まり、更には右腕は途中からすっぱりと見えず。そして今、最後の武器すら失った彼女は、それでもその手に魔法陣を紡ぎはじめる。
ふざけるな。何をする気だ。ジェスの腹の中で膨れ上がる怒りは、大切な少女をこれほどまでに追いつめた侍女に対するものか、それとも大事な時に傍に居られなかった自分自身に向けたものか。
いずれにせよ、どれも重要ではない。今必要なのは一つだけ。
「お前……そこのお前!」
背中に手を回し、彼は慣れ親しんだロングソードの柄を握る。初夏の日差しを浴びて、父の形見の鉄剣が、きらきらと乱反射の光を放った。
「ケトに一体、なにしやがったあッ!」
思い切り振りかぶった剣の腹を、ジェスは迷わず侍女の体に叩き込んだ。
碌に抵抗も見せず、コーティはその一撃で弾き飛ばされる。彼女はそのまま水しぶきを上げて地面へと倒れ込んだ。あとはもう黒い侍女には一瞥もくれず、ジェスはすぐさま振り返る。
「ケトッ!」
駆け寄って、抱き上げた少女はボロボロだった。
それでも彼女は微かに目を開き、震える口を動かす。力なく彷漂っていた視線が少年を捉えた瞬間、銀の瞳が泣きそうに歪んだ。
「ジェス……」
「喋んなくていい、すぐに助けてやるから!」
「ごめ……なさ……」
吐息をついた彼女の体から力が抜けて、だらりと垂れ下がった腕が小さく水を跳ねあがらせた。
翼は相も変わらず目に見えず、けれど触れた感覚でこちらにも傷は多そうだと判断したジェスは、とにかくこの場から離れることを決めた。少しでも彼女に痛みを感じさせないよう、細心の注意を払う。壊れ物を扱うような丁寧さで翼を小さな体に巻き付けてから、体の下に潜り込むようにしてケトを抱え上げた。
体を起こした拍子に、彼女の腕がジェスの顔に触れる。いったいどれほど血を流したのか。水が幾筋も体を伝う冷たさに怯み、更には頬に血がべったりついてしまって、拭いたいけれど拭えない。脈動と共に流れる血は、ジェスの口の端からも入り込んでくる。鉄に例えるにはあまりに生々しいその味に、鼻腔に広がる血の匂いに、ジェスは心底ゾッとした。
自分は今、取り返しのつかないことをしている。本能が耐えきれずにあげた悲鳴を無視して、彼は血を浴びながら立ち上がった。
「くそっ……」
周囲を仰げば、遠くからこちらを覗く人だかり。
この広場に水が溢れたのは、突然の地鳴りが人々を驚かせた直後のことだった。まさにあっという間の出来事。何事かと誰もが足元を見る横で、噴水がぱたりと水を止め、踝の高さにまで水が浸み出してきた時にはちょっとした騒ぎになった。明らかな異変に、居合わせた人が慌てて離れていくのは当たり前。噴水広場は今や実質無人に等しい。
結果、広場の中に人は立ち入って来ず、しかし誰もが広場に注意を集中させている状態。
そんな中で、ケトは光の柱と共に飛び出してきた。銀髪の≪白猫≫、その伝説はあまりに有名で、たとえ距離があったって、その姿と≪白猫≫を結び付けるのに、そこまでの時間が必要とは思えなかった。
「……急いで離れないと」
ケトの怪我が気になるものの、とにかく今はジェスができる範囲のことをするしかない。応急処置、次に信頼できる人間の元に身を隠して、本格的な治療を。
ケトを休ませるにしても、逃走するにしても、王都から離れるべきであることだけは確かだった。状況が大きく変わりつつあると、既にジェスは認識している。
幸いにも……いいや当然と言うべきか、ジェスにはいくつか当てがあった。
妹の危機に、姉が手を打っておくのは当たり前。奥の手を使う判断はジェスに委ねられているのだ。
耳元で、弱々しい吐息をつく彼女の温もりを確かめて、足に力を込めた。大丈夫、ケトはそんなに柔じゃないさと自分に言い聞かせる。
「……ェス、ごめ……」
「なんで……なんでお前が謝るんだよ、ケト……!」
悪いのはジェスなのに。目を離してしまったジェスの方なのに。
甘かった。ケトは強いからと、油断をしすぎた。
この子はまだ十三歳。ジェスから見たら二歳も下で、本当の意味では冒険者にもなれない女の子。
ふと、昔自分と少女が人攫いに攫われた時のことを思い出してしまった。あの時もケトは泣いていて、自分はそんな彼女を二度と泣かせるものかと誓ったはずなのに。
頭を使え、気合を入れろ。今のケトを守れるのは、自分しかいないのだから。
「悪いけど、勝手に動くからな!」
周囲には、ケトを襲った刺客の仲間がいるかもしれず、国の人間がいるかもしれず。追手は多いはずだが、だからと言ってやりようがない訳じゃない。
とにかく、広場からの離脱を図る。全てはそこから……。
「……まって」
後ろで、必死に体を起こそうともがく侍女の声は無視をした。
左手を地面について、なんとか起き上がろうとして。失敗して、しぶきを立てて倒れ込んで。先程からそんなことを繰り返している女に割く時間はどこにもないのだ。
「まって……。殺させて……」
「黙れ」
「だめです……。私、そいつを殺さないとだめ……」
彼女の立てたさざ波が、ジェスのブーツをほんの少しだけ濡らす。地面で溺れる侍女の、最後の足掻きだった。
「やっとここまで来たの……。だから殺さないと、私じゃなくなっちゃうの……」
呪詛にすらならない、悲痛な声だった。朦朧とする意識の中で紡がれた、意味の通らない呻きだった。まるで縋るような響きで、けれど聞き入れる義理などどこにもなかった。
「……お前にケトは殺せないよ。俺たちが、殺させない」
静かにそれだけを言うと、コーティ・フェンダートはとうとう泣き声を上げた。
「ゆるさない……! ぜったい、殺してやる……!」
「……」
「まって、まってよお……っ!」
慟哭が遠ざかっていく。やがて起き上がることすらできなくなった女が、意識を失いつつある女が、こちらにちぎれた右手を伸ばしていて。
しかしその手が、何かを掴むことはない。ただ置き去りにされるだけ。
「……」
ジェスは少しでも人の少なそうな細道を選んで飛び込んだ。どよめく群衆が怯えたように開けた道を、脇目もふらずに突っ切る。路地が見えたらすぐに駆け込み、進路を右に、続いて左。できるだけ狭く、けれど行き止まりを避けて駆け出す。
憎しみの声に耳を傾ける余裕はない。ジェスはケトと、生き延びなければならないのだから。
そう、この状況なのだ。逃走経路の選び方だって工夫する必要がある。例えば建物と建物の間にロープを張って、洗濯物を干している道なんかが好都合か。庇の大きな家も素晴らしい。少年は空を何度も見上げては、身を隠す場所を探した。
先程から少年が伺う度に、建物で細く切り取られた向こうの青空から、ちらちらと空を旋回する影が見え隠れしている。
これは今回の襲撃と何か関係があると見るべきか、先日の≪鱗の会≫の口封じに繋がっているのか。いずれにせよ、空から見られていては逃げようがない。どこかで新地下水道に隠れる必要があった。先程の地鳴りの時に浸水していなければいいのだが。
――空に襲われるなら、空を消してしまえばいい。空に逃げるなら、空を奪ってしまえばいい。
≪龍の少女の物語≫だったか。昔、ケトが姉に買ってもらっていた絵本の一節を思い返して、まさにその通りだ、なんて感想を抱く。視界を遮ってくれる場所を探しながら、少年は毒づいた。
「ちっくしょう、なんだよあれは……!」
遥か上空から、彼らを見下ろす影。それはここからでもよく見えた。
空を舞う姿には、大きくて広い翼が二つ、尻尾一つがくっついている。長い首の先にはこれまた細長い頭が繋がっていて。
はじめて遭遇する異形であっても、疑う余地はなかった。
あれを人は龍と呼ぶ。ジェスはそのことを、一目見ただけで確信していた。
※一旦の決着。明日明後日は更新せず、次回は3/30(水)に投稿します。




