負けられない その2
あの時もそうだった。
中身が半分以上残っているレモネードのカップを見下ろして、ケト・ハウゼンは考える。
今から三年前の秋。十歳の誕生日を迎えた次の日に、ギルドの地下で食べたオムレツがそうだった。
味がしない。代わりに胸騒ぎばかりが大きくなって、黄色い塊を無理やり飲み込んでから、急いでカウンターに向かったのだ。けれどいつもの場所に姉はいなくて、気付いた時にはすべてが遅かった。
廃王女エルシアが、その身を表舞台に晒した日。
そして、ケトが己の力を思い知ることになる、その最初の一日のことである。
それから起きたことは、今や本人たちの手を離れ、≪傾国≫と≪白猫≫の伝説となって語り継がれている。
突如姿を見せた、第二王女エルシア。彼女は王都を巻き込んで城を壊し、当時の王を殺す寸前までたどり着いた。それは確かに事実を含みつつも、誇張され、その裏の事情を全て切り捨てた語り草だ。
稀代の悪女。自らがそう評されるようになることまで含めて、姉の作戦だった。それはもちろん、ケトだって理解している。
けれどやはり、ケトは酷い話だとも思うのだ。
あの戦争の裏側で起こったこと。人が人を憎み、利用し、手駒を用いて敵を滅ぼす陰謀。その果ての戦争に巻き込まれただけの身としては。
姉はただ、ケトを守ろうとしてくれただけ。義理の姉妹二人で寄り添って、慎ましくも穏やかな日常を送りたかっただけ。
それなのに、力を我が物にしようとする者たちが向こうからやってきた。彼らは揃って平穏を打ち壊し、大切な人を傷つけ、苦しむ二人に魔の手を伸ばした。
だから、立ち向かったのだ。
エルシアは、悪人に攫われそうになったケトを守るために。
ケトは、悪人に殺されそうになったエルシアを守るために。
それのどこが悪なのか。悪は向こうじゃないか。酷いことをしたのはそっちじゃないか。
なのになんで、自分は正体を隠さなくてはいけないのか。フードを目深に被って、偽名を使わねばならないのか。心の奥底でそう思う自分がいることを、ケト・ハウゼンは否定できない。
視界を遮る布越しに、少女は朝日の差し込む王都ギルドのロビーを見渡してみた。
冒険者ギルドとしては一番忙しい時間帯だ。掲示板には職員が所狭しと依頼書を張り付け、後から後から入ってくる冒険者たちも、稼ぎのいい依頼を見つけては、我先にと飛び出していく。
場所は違えど、北のギルドでも見られる光景である。もちろんこちらの方がずっと賑わっているけれど、それは都会と田舎の差だ。
ふるふると首を振った。
先日の作戦からこの方、ケトの神経はピリピリしっぱなし。こちらも気疲れしてくるのだが、自分に巣くう龍は、あちこち注意を散らかして、いらない感覚ばかり送ってくる。
先日、目の前で消された≪鱗の会≫。その生き残りが、何者かの手によって惨殺された。そんな報告を聞いたからだろうか、なんだか嫌な予感が止まらないのだ。
もう一度ロビーを見渡して、ついでにため息も一つ。一体何だというのだろう。この妙な胸騒ぎは。
「どうした、ミヤ嬢?」
「ええと……」
丸テーブルの向かいで、コンラッドが訝し気な顔をしていた。ジェスもなんだか心配そうだけど、今の自分はそんなにひどい顔しているんだろうか。
飲みかけのレモネードには結局口をつけることなく机に戻した。ケトは辺りを見渡して……。って先程から何度キョロキョロしているんだろう。途中で止めて、変わりに目を閉じる。
常に自分へ向けられている視線は、建物の内外にいる≪影法師≫のものだ。正直やりづらい気もするけれど、裏を返せば、狼藉者がケトの元までたどり着こうとするならば、この護衛を突破する必要があるということ。その難易度はとんでもなく高い。それこそ先日の≪鱗の会≫の一件のように、力任せに魔法で焼き尽くしでもしない限り、ケトにすら破れない警護だ。
ギルドの窓から外を見上げてみたものの、シミ一つない青空には、異物の入る余地など欠片も感じ取れない。
仕方ない、とケトは肩をすくめた。これだけ神経を尖らせているのに、異変は察知できないのだ。気のせい、で片付けるのも良くないが、結局こういう日は部屋に籠るに限る。
きっと大丈夫。朝の喧騒の中ならば、例え少女が重そうに椅子を引いたところで、普通の冒険者たちは見向きもしないのだから。心配そうな顔をした二人に向かって、ケトは囁いた。
「わたし、今日は部屋にいるね」
「それは構わないが……」
「なあミヤ、心配事あるなら言えよ?」
「ありがと。大丈夫だよ、部屋で休めばすぐ治るから」
ケトが苦笑を向けていると、隣でジェスも立ち上がった。
「俺も行くよ。コンラッドさん、申し訳ないけど……」
「承知した。俺もすぐ隣の部屋にいる。何かあったらすぐ言ってくれ」
会話を聞きながら、ケトは机に立てかけて置いたロングソードを取り上げた。小さな腕を目いっぱい伸ばして、ソードベルトにロングソードの鞘を括り付ける。振り回す分には苦労しないのに、普段持ち歩くときのこの剣は、相変わらずケトにとって長すぎる。
二、三回傾きを調整していると、彼らの腰かけるテーブルの傍を、一人のギルド職員が通り抜けていった。白と紺の男性用制服を見送りつつ、忙しい時間なのにカウンターに居なくていいんだろうかとケトが不思議に思っていたら。
「……待ってくれ、ミヤ嬢」
視線を戻した先で、コンラッドが手元の紙片を見つめていた。
やっと気付いた。先程の職員は、恐らくギルドに紛れ込んだ≪影法師≫なのだろう。特徴的な制服に負けて印象に残りづらい男の後ろ姿を見送りながら、ケトはコンラッドの言葉を待つ。
「またか……。まったく、殿下はどういうつもりで……」
やがて聞こえた声は普段より少しばかり低く、けれど切羽詰まったものではない、まるで苦言のようだった。
「どうしたの? コンラッドさん」
「いや、それが……」
唸るように呟いて、紙を懐にしまい込む隠密。彼が立ち上がりながら、小さな声で囁きかけた時に。
「ミヤ嬢、すまないがもう少しだけここに……」
ざわとギルドの空気が揺れた、ような気がした。同時に龍の感覚が一点を指し示す。ケトが視線を動かしたその先には、勢いよく開く正面扉。カウンター前の喧騒が止んだ。
ざわめきが、囁きへ。一人、また一人と冒険者たちの視線が入り口に向く。それに気付いた者は、周囲にその異変を伝え、人から人へ、驚愕と動揺の波が広がっていく。ある者は立ち上がり、別の者は思わず入口へと足を向ける。
コンラッドの言葉も、途中で途切れていた。ケトはジェスと顔を見合わせて、二人で人だかりを見つめてから。
一拍置いて、少女はただでさえ大きな銀の目を、零れんばかりに見開くことになる。
「こんちはー!」
人々の視線の先、ギルドに響き渡る、何とも能天気な挨拶。その声の主は、ケトにも見覚えがあった。
「あれって、もしかして……」
「聞いていないぞ。この間のことと言い、城の護衛は何をしてるんだ」
いかなる事態にも動揺しないはずの≪影法師≫にしては珍しく、コンラッドはうんざりしたような声を漏らす。その隣で、ケトは客人を見た。
ルイス・マイロ・エスト・カーライル。この国の王子様が、何故かギルドの入り口で声を張り上げていた。
いつぞや、ケトは王城の庭で一度だけ挨拶をしたことがあったっけ。流石に顔くらいは覚えていた。癖の付いた髪質にどことなく自分の姉の面影を見ながら、そういえば姉の弟なんだな、とケトは変な感想を抱いた。
ケトの姉にとっての弟。何ともややこしい関係性だ。であればケトにとっても兄妹になるんだろうか、とか自分でもよく分からないことを考えてしまい、小さく首を振る。
しっかりと王子らしい、豪奢な服に身を包んだ彼。いつまでも外套を被ったままのケトが言えたものではないが、何だか暑そうな恰好だった。
「悪いな二人とも、少し様子を見てくる。ここを動くなよ?」
「はーい」
ポカンと口を開けて人だかりを眺める二人に一声かけてから、コンラッドがカウンターの方へと歩き出す。残されたケトの隣で、ジェスが戸惑いを声に乗せて呟いた。
「あれって≪我儘王子≫じゃないか?」
「うん。なんで王子様がこんなとこにいるの?」
「いや、俺に聞かれてもなあ……」
眺める少女の視線の先、驚きに集まりつつある人々の間を進む王子は、あちこちを物珍しそうに見回している。というか、彼の周囲に護衛らしき人が誰もいない。突然一人で入ってきた王子様には、ひょっとしてお付きの人とかいないんだろうか。
そんな疑問に答えるかのように、両開きの重いドアが再び勢いよく開かれる。
どやどやと駆け込んできた騎士たちが、「殿下!」と声を響かせる。慌てふためいた声色に、「やっべ、追いつかれちゃった」と、軽薄さの滲む声が答えていた。
数人の騎士は脇目もふらずにロビーを突き進み、その中の一人が王子のすぐ側へ。流石に周囲には聞かせられない話だったのだろう。王子の耳元に顔を近づけてコソコソと交わされる会話だが、ケトの耳なら当たり前のように聞き取れる。
「な、何されてるんですか! 」
「えーと、散歩?」
「い、いやいやいや! 誰にもお伝えせずにこんな、大問題ですよ! もしかしてまたコーティさんでも誑かしましたか?」
「コーティ? あいつは体調悪いって言ってたから、今日は寮に戻らせたけど」
「それも初耳です……!」
「で、いつも口うるさいお目付け役がいなくなったしさ、こんな機会そうそうないじゃん。っつーことで、お判り?」
ケトは、えー、と口の中で呟きを飲み下す。
盗み聞いた内容からすると、王子は本当にただ抜け出してきただけのようだった。怒りとも焦りとも呆れともつかない、必死の形相を浮かべる騎士がとにかく戻るように促しているけれど、彼は全然聞こうとしない。それどころか、入り口とは逆側の、カウンターに向かって歩き出しているようだった。
「……とりあえず、座るか」
「そうだね」
流石にこの状況で部屋に行く訳にもいかないので、二人で椅子を引っ張った。座るにはロングソードが邪魔になるけれど、今は外すつもりにもなれないから、窮屈さを我慢して横に流すしかない。カウンターの前で騒いでいる王子から意識を離さず、ケトは飲み残しのレモネードに手を伸ばして。
けれど、少女がカップに口をつける前に、横から囁かれる声があった。
「ケト・ハウゼン様でいらっしゃいますね?」
振り向いた先、そこには黒髪の女性が立っていた。




