負けられない その1
「ルイスっ!」
悲鳴のような声の直後、パシンと甲高い音が城の一室に鳴り響いた。
ルイスは平手打ちされた頬に右手を当てる。ジンジンと疼く痛みに耐えながら、ずれた視線を正面へと向け直した。
彼の前にあるのは、怒りに頬を染めたエレオノーラの姿。弟と同じ蒼色の目に涙まで浮かべて、じっとこちらを睨みつけている。
想像していたこととは言え、普段の平静を失ったその表情に、心のどこかがじくりと痛んだ。
「どうしてなの。どうしてそんな!」
「……姉上なら理由は分かるだろ?」
「あなたこそ、自分がしようとしていることを分かっていないじゃない!」
この部屋には自分と姉王女のエレオノーラ、そして若宰相アルフレッドの姿があるのみ。だから、この場で外聞を取り繕う必要はなかった。今ルイスが伝えた内容も、姉の激高も、間違っても公にできるものではない。こうなると分かっていたから、ルイスは前もって人払いをかけたのだ。
だからこの部屋で何が起きたか、他の誰も知ることはないだろう。王女が王子を平手打ちしたなんて醜聞も、姉をそこまでさせたルイスの策も、ここにいる三人だけの秘密。
「姉上……」
淑女の中の淑女。社交界でそんな風に噂される姉だけれど、弟はよく知っている。彼女もまた、王族の重圧に必死に耐える一人。国の主にふさわしくない取り乱し方だったが、一皮むけば人間そんなものだ。同じ自覚を持つルイスは、落ち着いてエレオノーラ王女の目線を受け止めた。
「いいや、分かってるさ。だからやるんだ」
そう言えば、自分はエレオノーラと姉弟ゲンカというものをしたことがない。今の話の中身は置いておいて、普通の姉弟みたいな経験をしているのは、なんだか不思議な気分だ。ちょっと嬉しいような、泣かせてしまったという意味で、とても申し訳ないような。
「考えてもみてくれよ。他に誰が、こんなことをやれるって言うんだ?」
「そういう問題じゃないわ! ねえルイス、あなたが次期国王なの。私は何度もそれを言ってきたじゃない!」
「ああ。だから、これが次期国王としての最後の仕事だ。……この国に未来が残せるんだから、俺はそれをすべきだ。そうだろ?」
ここまで来て、我儘を気取るつもりはなかった。
「未来ですって? 誰も幸せにならない未来を残して何になるの!?」
「それでも、亡国の道が回避できるなら他に選択肢はない」
「≪傾国≫を……エルシアを、あなたは敵に回す気?」
幾分低くなった声で紡がれたのは、≪傾国≫の廃王女その人の名前。ルイスにとってもう一人の姉であり、かつて国を混乱に陥れた稀代の悪女。彼女の名は、ルイスにとっても特別な響きを持つ。
動じてはいけない。正しいと信じて、自分はここまでやってきたのだ。今迷えば、国が惑う。
「姉貴には既に交渉済みだよ、姉上」
落ち着いて返せば、エレオノーラは目を見開く。掴みかからんばかりに前のめりになっていた姿勢が崩れ、そのまま椅子の上にへたり込んだ。
「……嘘。まさかあの子にも、今の話を?」
「むしろどうして今まで伝えなかったんだってのが俺の意見。そもそもネルガンが先に≪傾国≫へ接触を試みたんだ。だからこそ、姉貴だって≪白猫≫をわざわざ王都に寄越したんだぜ?」
そこで黙り込んでいたアルフレッドが口を開く。酷く重い声色だった。
「……教会残党だけでは、ケト嬢を呼び覚ます事態になり得ない。それこそ海の外の異邦人が≪白猫≫に目をつける可能性がある、くらいの言い訳がないと、従妹殿も動かないだろう」
「そして、カーライルに提示された不平等条約には、≪白猫≫に関する条項すらある。向こうだって、もう無関係じゃない」
「ネルガンだって≪白猫≫のことは本気じゃないわ。そんなの言うまでもないことじゃない! その点を通すつもりは向こうにもなくて、ただ私たちに圧をかけることが目的で……!」
泣きそうな顔をしたエレオノーラから視線を外し、目を伏せてルイスは続けた。あまり、姉の傷ついた顔は見ていたくなかった。
「姉貴はいくつかの条件付きで、俺の案を認めてくれた。……あの人はこっちの事情を分かってくれてるよ。全て実現可能な範疇だ」
「……嘘よ、信じないわ。それってつまり、あのエルシアが、大事な妹が傷つくことを承知したってことじゃない。あり得ない」
ちょっとだけ、ルイスは答えに窮する。ほんの少しだけ、息が苦しくなった。
ケト・ハウゼンに直接的な危害を加える。その一点において、ルイスは≪傾国≫との約束を破ることになる。いくら善後策を考えているとはいっても、≪傾国≫がどう出るかは読めない部分も多かった。
「正確には少し違う。姉貴は≪白猫≫を行方不明にさせることを了承した、俺にできたのはそこまでだよ」
ルイスが≪傾国≫へ交渉を始めたのは、去年の秋も終わる頃だったか。
西の大国から、こちらへ接触があった。エルシアからそんな書簡が届けられ、国の重鎮が慌てふためいている最中のことだった。助言を求めたルイスの手紙に、丁寧な回答をくれたのが最初だったか。
やがて、幾度かのやり取りを経る傍らで、ルイスがまったく別の作戦を考えついたのが春の話。もっと言えば、専属侍女コーティがルイスに忠誠を誓った直後のことだった。
……ああ、本当に隠し事ばかりの人生だ。本当に嫌になる。
己の全力をもって、≪白猫≫を傷つけること。それは誰にも言っていない、ルイスとコーティだけの秘密。
同時に、どれだけ手を尽くしたところでルイスとコーティでは≪白猫≫に勝てないこと。それはコーティにすら伝えていない、ルイスだけの秘密だ。
それでも、自分の真意だけは、今ここで伝えることができた。
秘密を抱え続けてきた重圧。そこから解放された安堵と、多くの人を巻き込んでしまった罪悪感。それはきっと、自分にとっていつまでも残る傷となるに違いない。
「破る前提でエルシアと約束を結んだってこと……? それじゃあなたは……」
「俺だって、あの人との約束を違える危険性は分かってるつもりだ。でもさ、じゃあ俺たちに他に何ができるってんだ? カーライルとネルガン、これほどの国力差じゃ、正攻法でネルガンを押さえることなんてできないじゃないか。不平等な条件を突き付けられてからほぼ半年。煮え切らない態度でやり過ごすのも限界だ」
視界の端で俯くアルフレッドは、その辺もちゃんと理解しているだろう。今の平穏は、ネルガンがカーライルを舐め切っているからこそ続いているものなのだと。
「このままじゃ、俺たちはネルガンの圧力に屈する。マジで連中の植民地になっちまうぞ?」
「……」
「なあ姉上、分かるだろ? 既に俺たちは、体内に内通者っていう猛毒を抱えちまってる。毒の正体が分かったところで、俺たち張りぼての王家からは何も手出しできない、それも明らかだろ。そんなクソみたいな状況で、俺たちは国を守らなくちゃいけないんだ。……≪白猫≫本人は別としても、姉貴陣営は事情を知ってくれている。なら後は、俺と≪白猫≫の問題だ」
コーティ・フェンダート。≪白猫≫復讐に全てを捧げる娘。その執念が、ルイスに活路を与えてくれた。
だから事を為すまでは、コーティの目的をルイスという道化で庇い続ける。それがコーティと結んだ盟約の中身だと言うことは、残念ながらコーティ本人にも言えていない。
「……ルイス、あなたはどうなるの?」
その問いを受けることは、十分想定内だった。
だから答えずに、王子はただ微笑んだ。もちろん、その笑みの理由が分からない姉ではない。酷く傷ついたような表情が、その証拠だった。
「……エルシアだけでなく、ルイスまで犠牲にしろって、あなたはそう言うの……?」
「犠牲だなんて思う必要はないよ。むしろ姉上に滅茶苦茶迷惑を掛けちまうのが申し訳ないくらいだ」
仕方ない、と。きっと今の自分の目は、そう言っていることだろう。≪我儘王子≫には似合わない、けれど臆病なルイス少年らしい気弱な顔で、王子は王女に頭を下げた。
「頼む。俺の意図を理解した上で、後を任せられる人が必要なんだ。それができるのは、王位継承権を持つ姉上しかいないんだよ」
「わ、私は女王になれないって何度も……」
「今更何が問題なんだ。……姉上が本当は正妃の子ではないってこと? 中々子供が出来ねえからって、親父がお手付きにした侍女との間に生まれた子だってこと? それを正妃の実子と偽っていること? それを苦にした正妃が……俺のお袋が病んで田舎に引き籠っちまってること?」
「ル、ルイス……」
「それさ、全部姉上のせいでも何でもじゃない。そんなもん、俺がすぐに些細なことにしてやるよ。エレオノーラと、エルシアと、ルイス。俺たち三人とも母親が違う、そんなことで姉上はもう苦しむ必要なんてないんだ」
破滅にしか繋がらない道。コーティは、≪白猫≫への復讐をそう表現していたっけ。
それを聞いた時、ルイスは言い得て妙だ、と思ったものだ。自分と彼女が手を携えて歩む道は、最初から終着点が決まっているのだから。
姉の目尻から、また一粒涙が零れる。一番傷つけてしまうのは、最も辛い道を行くのは、後に残されたエレオノーラなのだと、それも分かった上でルイスは話をする。
「私、そんなこと、望んでなかった……」
「ごめん」
「……謝らないでちょうだいよ」
「それも、ごめん」
何度も目をしばたたきながら顔を伏せた姉に、ふと思い出す。
いつだったっけ。馬鹿みたいな冗談を、姉と一緒にしたことを思い出したからだった。
「……俺は機械屋で、姉上はお店の売り子さん。そんな、普通の暮らしがしてみたかったよ」
「ルイス、やめて。お願いよ……」
「生まれが生まれだったからこんなことになっちまった。……ホント、苦労するよなぁ。姉上も、姉貴も、俺も」
俯き、目元を手で覆った姉。アルフレッドが席を立ち、すすり泣くエレオノーラの肩を抱きしめる。
姉は自分と違う。一人ではない、良い人が側にいてくれるから。
末っ子には、それだけで十分だった。
*
その日は、はじまる前から彼女の雰囲気が違った。
新米使用人ライラ・バッフェ――もう半年も使用人をやっているのだから、いい加減新米も卒業かもしれないが――いずれにせよ彼女は、窓がそうっと閉じられる音に目を覚ました。
「んぅ? コーティ……?」
もぞもぞと頭だけ布団から出して、安眠を妨げた物音に目を向ける。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
闇の中、窓際に立つ人影を魔導カンテラがぼんやりと照らしていた。こちらが身じろぎする音が聞こえたのだろう。いつも通りの落ち着いた声色に、ほんの少しだけ申し訳なさそうな色が混じる。
「もう朝ぁ……?」
「いえ、もうしばらくは夜のまま、ですね」
戻ってきた夜に紛れて、ライラは光る一対の黒い目を見る。ようやく思考が追いついてきて、目を何度か瞬かせた。
ああ、そうか。ライラと同室の彼女は……。
「また抜け出してたんだ……」
「すみません」
ほんの数日前から、またしてもコーティの雰囲気が変わった。上手く言葉にはできないものの、ライラにはそれが分かる。
普段は真面目な同僚から伝わってくる、適度な緊張感。癖なのだろうか。二本指の義手の関節を、左手で弄ることが増えた。
そして夜中。コーティはライラにも内緒で抜け出すようになった。
問い詰める気には、どうしてもなれなかった。この間王子が襲われた時には、一も二もなくコーティへ詰め寄ることができたはずなのに、今は何故かそれをするのが酷く怖い。
あの時と明確に違う点を上げるとするなら、彼女の目だろうか。何も聞かないでほしい。バツの悪そうな顔にはそう書いてあって、それだけでライラは尻ごみしてしまう。たった一つ、ライラがそれを問いかけてしまっただけで、自分と彼女の関係に決定的な溝が入ってしまいそうな気がしてしまって。
だから自分は何も言えない。黙って部屋から抜け出す彼女を、目を閉じたまま送り出すだけ。
でも、同時にライラは怖くなる。
最近のコーティの表情、これを一体何というのだろう。どこかに清々しさすら感じさせる、透き通った表情を見て、ライラは震える。元々どこか達観していた彼女だけれど。それがたどり着くところまで行ってしまった、とでも言おうか。
今という一瞬を過ごす度、彼女が少しずつ遠ざかっていく。そんな予感が止まらなくて、ライラはなんだか怖いのだ。
「あの、一つだけお願いしてもいいですか?」
「うん……?」
コーティの悪行に、ライラが気付くのは今日がはじめてじゃない。これまではライラが声をかけても気にせず、二、三答えてベッドにもぐりこむはずのコーティ。けれど珍しく、今夜の彼女は椅子に腰かけると、はにかみ顔を見せた。
「髪を、結んでほしいのです」
「え?」
「その、いつものおさげにしてほしくて……」
すっかり眠気が抜けてしまって、ライラはそっと体を起こした。やはりカーテンの隙間から朝の光は伺えず、コーティが言う通り、鳥が鳴き出すのはもう少し先だと知った。
断る理由はなかった。静かにベッドから出て、新米使用人は戸棚から櫛を取り出す。「髪のリボン、何色にする?」という質問に、「黒で」と落ち着いた音色が夜を揺らした。
「黒……?」
「ええ。人を悼むには、良い色ですから」
一瞬だけ、棚を探る手が止まる。けれど、唇を噛んで無理やり誤魔化した。引き出しの奥底を探って、一本だけ持っていた式典用の黒いリボンを取り出す。いくらお洒落に疎いコーティでも、今まで選んだことのない色だった。
「すみません、こんな夜中に起こしてしまって」
「ううん、いいよ」
今から髪を結ぶことの意味。黒の髪に、黒のリボンを結ぶことの意味。
もう普段通りではいられないのだと、もう隠すつもりはないのだと。言外にそう伝えるコーティに、ライラは踏み込まざるを得なくなった。
「また、抜け出すの……?」
「はい。ちょっと野暮用がありまして」
彼女が座る椅子の後ろに立って、簡単にまとめられただけの髪をほどいた。烏の濡れ羽色。そんな表現が、どこか憂いの帯びた黒髪にはよく似合うと思う。髪を撫でる手に葛藤が伝わってきて、ライラはコーティが話し始めるのを待った。
「……ねえ、ライラ」
「うん」
「私、しばらく帰ってこられないかもしれません」
さくりと、滑らかな黒髪に櫛を通す。
「……何をするの?」
「言えません。私がここに来た目的を遂げる、とだけ」
「危ないこと?」
「はい」
悪びれる素振りもない声色が、ライラには恨めしかった。
「……なんで。なんで今、あたしに言うの。どうせ止めても無駄なんでしょ? 分かってて言うのは卑怯だよ……」
自分でも思っている以上に、責めるような口調になってしまった。
ライラにコーティは変えられないと、今更ながらに思い知る。幾度となく合わせた視線、どこかに思いつめた危うさを湛えたその黒い瞳に、かける言葉が見つけられないのだ。
「本当は止めたいんだよ……?」
「それでも、私は今日のためにここに来たのです。最後に友達の笑った顔が見たい。そんな我儘を、どうか聞いてはくれませんか?」
笑えだなんて滅茶苦茶だと、まるで泣き笑いのような声が出た。
「……ホント、我儘だよ」
「ええ。どうやら主に似てしまったみたいで」
黒喪色のリボンを結び終えれば、コーティは侍女のお仕着せを纏ったまま立ち上がった。「ありがとう」と囁いた友達は、見たこともない表情でふんわりと笑う。窓から抜け出す彼女の右手にいつもの二本指の義手は見えず、ただ侍女服の袖だけが揺れていた。
彼女の温もりを残したカーテンに、取り残されたライラは呟いた。
「ごめん……。笑えなくて、ごめんね。コーティ……」
後年、筆頭侍女ライラ・バッフェは言ったそうだ。
あの時の彼女が浮かべた表情こそを、世間では死相と呼ぶのだろう。その拒絶に踏み込めず、その暴挙を止められなかった自分に、本当は誰かに仕える資格などありはしないのだと。




