我儘王子と側仕え その1
それから二か月と半分が過ぎた頃。王都は春も盛りの、そんなとある日。
コーティはようやく、病室を脱出することができた。
「……これは酷い」
早朝の空が色付きつつある、今の時刻は六時過ぎ。
今日から新米使用人改め新米侍女となるコーティは、割り当てられた自分の部屋で深々とため息を吐いた。少し体を動かす度に関節がギシギシ鳴る。まるでさび付いた戸棚の蝶番みたいだ。
日課のお祈りを簡単に済ませた後、病室に比べると大分簡素な、それでいて必要十分な柔らかさのベッドの上で、少しばかりの柔軟運動。両足を広げてぐうっと伸ばして、真ん中目掛けて上体を倒す。
「いたたたた……」
全然伸びなくて悲しい。怪我する前は顎が軽々と地面についたのに、今や見る影もなかった。足だってこんなに細くなっちゃって。元の体に戻るまで、相当頑張らなくてはいけないようだ。
体の硬さに心が折れたので、柔軟運動は早々に切り上げて着替えることにする。部屋に備え付けられている小さな戸棚へ歩いて行って、中をまさぐった。
片腕侍女の第一の関門、着替えである。
キャミソール状の下着は問題なし。靴下も苦労はしたものの、爪先に引っかけてなんとかなった。続いて黒の襟付きワンピース。ボタンが前にあって助かった。
が、そこまでだった。
侍女服の白のエプロン。これが曲者なのだ。
エプロンである。だから後ろに手を回して、紐を丁寧に結ばなくてはいけないのだ。片手だけ、それも利き手じゃない方の手だけで。もちろん見栄えだって気にされることだろう。綺麗な蝶結びは、果たして今の自分でできるのだろうか。
「う、ぐぐぐ……」
しばらく左手を伸ばして、駄目。恥も外聞もかなぐり捨てて、ベッドの上でゴロゴロしても、駄目。挙句の果てには妙な筋肉を使ったせいで、左手をつってしまった。
「……つぅっ!」
唇を噛んで痛みに耐える。
なんて情けないんだろうか。かつては精鋭になるべく訓練を受けていた自分が、今や朝の支度すら一人ではできなくなってしまったなんて。散々転げ回った挙句、諦めてボフンと毛布に頭を突っ込んでいたら。
「んあー」
向かいのベッドで、布団の山が身じろぎした。
この部屋、相部屋なのである。つまり、反対の壁際にはもう一つベッドがある。
王城の寮に住み込みで働く者たちには、本来なら狭いながらも一人一室割り当てられる。けれど新人はしばらくの間、同期と相部屋で暮らすことで集団生活に慣れるのだとか。
コーティがこの城に来て、おおよそ三か月強。そのうちほとんどが病室暮らしだったから、この部屋はほとんど使っていない。同室の子だって、ライラ・バッフェという名前をなんとか知っているくらいだ。そんなに話した記憶もないけれど、コーティとは違ってとても可愛らしい同期だったと記憶していた。
「もーあさかー……」
完全に寝ぼけた声が布団の山から聞こえてきた。もぞもぞ、もぞもぞ。毛布が動くけれど、中身はなかなか出てこない。代わりにやっぱり声だけ聞こえてきた。
「やだー。しごとやだー。むりー」
「……同感です」
「ほわっ!?」
毛布のミノムシから変な声が聞こえて来たけれど、それはそれとしてコーティも憂鬱だ。
仕事をすることで、自分が何もできなくなってしまったことを更に思い知らされてしまいそうで。左手一本で、何処までやれるんだろうか。しかも職務はあの王子のお付きときた。命令を受け入れたのがコーティの選択とは言っても、これで憂鬱にならない方がおかしいのだ。
コーティは相変わらず布団に突っ伏したままで、顔だけ彼女の方に向ける。横倒しの視線の先、布団がむくりと持ち上がったと思ったら、寝癖でボサボサの頭が飛び出した。
「……聞こえてた?」
「はい。ばっちり」
「ほわあー」
またしても奇声を上げて、ライラは再び布団にもぐりこんだ。
「そ、そうだった。コーティ戻ってきてたんだ……」
なるほど。しばらくコーティが病室暮らしだった、それはつまりライラが一人で部屋を使えていたということ。
「……すみません、バッフェさん。せっかくの一人部屋だったのに」
「何を言うか!」
がばり。今度は布団が跳ね上がった。寝癖の酷い彼女の蜂蜜色の髪が、もっさもっさと揺れる。
「あたしがどれほどこの日を心待ちにしていたことか!」
寝ぼけた半目のまま、ライラはぐっと拳を握る。
「同室だからこその、朝晩のおしゃべり大会! このライラ・バッフェがコーティの恋路を全力で応援するときが来たのよ!」
「は、はあ……」
朝から元気な同期だ。コーティなんて、起き抜けから半刻はどう頑張っても大声出せないのに。
「いやホント、一人でおはようとおやすみ言うの寂しいんだからね? みんなおしゃべりしてる中、あたしだけ一人で眠るなんて。……ぐすん」
「それは何と言いますか……すみません」
こちらが困っているのが分かったのだろう。ライラはポケっとコーティを見つめた後、こらえきれなくなったように噴き出した。
「もう、そんなに困った顔しないでよ! ちょっとからかっただけじゃない」
「いえ、あの……。それならいいんですけど」
「コーティったら真面目さんね!」
響く声で、彼女は笑う。普段はあまり、騒がしいのは得意じゃないけれど。憂鬱な今はそれくらいの方がありがたかった。
「あの、バッフェさん」
「ライラ」
「え?」
「呼び方。ライラって呼んでよ。あたしもコーティって呼ぶからさ」
床に降りて、にいっと白い歯を見せて笑う彼女。コーティも「分かりました、ライラ」とシーツに押し付けた頬を縦に振ってみた。
「では。……その、ライラ」
「うんうん。なあに、コーティ」
「えっと、着替えを手伝っていただけませんか?」
*
「そっか、なるほどね……。それはつらい……ううん、つらいなんてもんじゃない」
「確かに、思った以上に不便ではあります」
「ごめん。あたしは正直、想像することしかできないよ。だから多分、その辛さを全部は分かってあげられないし、簡単に分かるって言っちゃいけないと思う」
コーティのすぐ後ろから、ライラの声がする。
髪を梳いてもらうなんて、はじめての経験かもしれない。修道院ではいつも適当な紐で束ねるか、そのまま真っ直ぐに垂らすだけだったから。
器用に手を動かす同期。髪を引っ張られる感触はほとんどなく、それなのに鏡越しのコーティの黒髪がどんどん形を変えていく。そういえば会ったばかりの頃、彼女には兄妹がいると聞いたことがあった。もしかしたら手慣れているのかもしれない。
「だから、せめてあたしにできることは手伝わせて。遠慮はなし。絶対に」
「……」
「返事は? コーティ」
「……はい」
こんなに素直な子だっただろうか。
怪我する前の一週間を思い返してみたけれど、ライラがこんなにグイグイくる子だった印象はない。それとなしに聞いてみると「あの頃は緊張でガチガチでした……」という回答が帰って来た。
「コーティは美人さんだからねえ。それにあたしったら、最初の頃はお城にも皆にも身構えちゃって、ごめんね。……よし、出来た!」
「ありがとうございます。……あ」
揺れる侍女服の右袖から視線を上げ、鏡に映った自分の髪に目を瞬いた。見たことのない形にまとめられていることに気付いたコーティの後ろで、ライラは何だか誇らしそうだ。
「ふふん。化けましたぜ、つやつやな黒髪の素敵なお嬢さん」
「すごい……」
「おさげも緩く結べば堅苦しくなくてかわいいでしょ。コーティに似合いそうだって思ったんだけど。……うんうん、これは想像以上!」
編んでもらったおさげを揺らして、コーティは鏡を見る。左を見て、右を見て。首を動かすたびに黒のおさげが揺れる。こちらはフワフワのブロンドを靡かせて、ライラはコーティの前に回り込んだ。
「それからこっちも、ね」
彼女はそっと、侍女服の右袖を手に取った。フラフラと心許なく垂れ下がっていた布地を優しく動かす。
「ここを、こうして……。ほら、出来上がり」
所在なさげに揺れていたコーティの右袖。それがくるりと一つ結びで結わえられていた。さらにその上から、さくらんぼ色のリボン。
「そんなリボン、どこから……」
「似合うでしょ? ほら、かわいい」
いつだってかわいくいたいじゃない? と笑った同僚。
その表情が、先程まで寝癖でボサボサだった顔とは全く別に見えた。きっとほら、窓から差し込む朝日のせいだ。コーティは少しだけ、眩しい同僚の笑顔を見上げた。