雨音、外套を突き抜けて その5
新米侍女と使用人が城の寮を抜け出す、少し前のこと。
城下街を上空から見下ろして、バルヘッド・パラコーダは嫌な夜だと顔をしかめていた。
元々夜はそれほど好きじゃない。視界が効かない暗闇では接近する敵影を見失うことがあるからで、それはバルヘッドのような任務に就く人間の共通認識だ。
特に今日みたいな雨に煙る夜は最悪だ。今も視界に広がるのは白く霞がかった闇。まったく、何の冗談だ、と文句の一つも言いたくなる。
敵地の首都、雨天の単独夜間飛行。彼の今の状況を表すならそんな言葉が適切か。生半可な技量で飛べる空ではなく、だから今夜の任務に、わざわざ隊長のバルヘッドが選ばれたもの、ある意味必然だった。部下に任せるには、この空は少々荷が重すぎる。
顔を濡らす雫の不快さに耐えながら、彼は体を傾けて眼下に視線を向けた。
城塞都市の一角、背の低い粗雑な建物が並ぶその辺りは、見下ろしてもあまり裕福な印象は見受けられない。町の中心部には設置が進んでいる魔法の街灯も、ここには影も形もない。
そんな細い路地を進む集団がいた。
今夜の主役、≪鱗の会≫の面々である。数は十六、いずれも白い修道着姿で進む一行は、異質を通り越していっそ不気味な有様だ。雨に濡れた姿は、ある種の亡霊にすら見える。
とは言え、どうやら彼らがそれなり以上の訓練を受けた手合いだという情報は確かなようだった。
細道の多い区画の中、≪鱗の会≫は人通りの少ない路地を選んで東へ進む。夜闇に紛れ、建物の影に身を隠しながら、道を渡るときは静かにそっと、数名ずつ。もちろん後方への警戒も怠っていない。
ある程度目的地に近づいたら、今度は地下に潜る予定らしい。あらかじめ張られている騎士団の警戒網にわざと引っ掛かり、盛大に騒ぎ立てる。陽動作戦と言えば聞こえはいいが、これもまた一種の特攻になるのだろうかと、バルヘッドは口に出さずに思った。
敗戦の徒。精魂尽き果てた、ならず者の集団。それを見るのは、はじめてのことではない。
目指すべき思想も失い、ただ破壊をまき散らすことしかできない復讐者たち。ほんの少しの同情と、悲しいものを見る目を逸らし、バルヘッドは彼らの頭上を旋回するために、幾度となく手綱を引いた。
彼に与えられた任務は、彼らの監視と、いざという時の後始末。
損な役割が気に入るはずもなく、とは言え心躍る任務なんてものがそうそう存在する訳もなく。バルヘッドは、何も考えないようにして、相棒を駆って夜の空を回り続けた。
≪鱗の会≫の先頭を進んでいた女が足を止めていた。その先にある小さな納屋が、地下への入り口になっているそうだ。
この何の変哲もない建物の一階に、地下へとつながる竪穴が存在する。縄梯子をつたえばそこはもう旧地下道、城へ忍び込む通路に繋がる。
どうか早いところ、彼らには地下の穴倉にもぐってもらいたい。自分の眼下で死に急がれるなんて悪い冗談もいいところだ。そんな声すらも雨音にかき消される夜が、今も眼下で進んでいて。
白いローブが建物のドアを開ける様が、バルヘッドの目からも良く見えた。
*
ケトの耳元で、龍が囁く。
≪鱗の会≫が近づいているのは知っていた。数はそれなりに多く、十六名。男もいれば女もいる。そのいずれも、修道着の下にはいずれも武器を隠し持っているはずだった。
扉を開けたのは女性の教徒だった。
こちらを認めた目が大きく見開かれる。まさか先客がいるとは思わなかったのだろう。咄嗟に右手が剣の柄を握り、途中で止まった。
「子供……? どうしてここに……」
後ろで困惑の声を上げた教徒がいる。気付かれないまま襲い掛かられでもしたら嫌なので、少女は早々にフードを取っ払ってしまうことにした。
広がる視界に映る、教徒の顔。やっぱりこの髪は目立つらしい。こちらが何者か気付いたらしい教徒から、どよめきの声が上がった。口をポカンと開ける男に、思わず一歩後ずさる若者。先頭にいた女は動くことこそなかったものの、隠しきれない動揺はちゃんと龍の感覚が捉えていた。
「こんばんは」
「まさか、≪白猫≫の娘……?」
軽く頷いて、少女はそっと扉の敷居を越えて外へ。空から降り注ぐ雨粒が、滑らかな銀髪を濡らしはじめた。
「なぜだ。なぜ≪白猫≫がここに……。城にいるのではなかったのか?」
「ええっと、わたしに用があるって聞いたから来ただけなんだけど?」
城にいる? なるほど、コンラッドが言っていたように、≪鱗の会≫は偽の情報に踊らされているようだ。
彼らの中にケトの人となりを少しでも知っている人間がいたなら、きっとすぐに気づくはずだ。ケト・ハウゼンにとって、王城は因縁浅からぬ場所。必要がなければ絶対に避けるはずだということを。
初対面の彼らではあるが、なんともお粗末な情報を掴まされたものだ。
雨に濡れる夜の片隅で、少年少女と教徒たちが睨み合う。白ローブたちが我に返るまでの、決して短くない沈黙をやり過ごす。ようやく驚きを飲み込んだのだろう、先頭の女が口火を切るまでケトは微動だにしなかった。
「驚きました。確かに≪白猫≫とは話をしたいと思ってはいたのですが……。まさかそちらから出向いてくれるとは」
「わたし、追っかけまわされてるのは好きじゃないの。特にあなたたちは怖いから。驚かせたなら謝る」
「いいや、むしろ僥倖です。≪白猫≫の娘にここまでご足労いただいたこと、感謝します」
「……どういたしまして?」
彼女の後ろで他の教徒が動く。散開、そして警戒。
まあ、伏兵に備えるのは当たり前だ。それに狭い路地とは言え、人通りが全くないとも言い切れない。彼らが揃って警戒の目を周囲に巡らせはじめたのが、ケトには手に取るように分かった。
「それで? なんでわたしを狙うのか、ちゃんと教えてくれるんだよね」
「もちろんですとも。……どうでしょうか、ここでは濡れてしまいます。部屋の中で話しませんか?」
少年が、ケトの隣から一歩前へ歩み出る。背中に小さなケトを庇うように、ジェスが口を開いた。
「……知らない人に囲まれるのはごめん被る」
「君は?」
「うちのケトのお守り役」
「なるほど。……では他の者は外で待たせましょう。私もここに剣と魔導瓶を置いていきます、これでいかが?」
確かめるように向けられたジェスの視線に、ケトは小さく頷いた。
「分かった、いいよ」
それだけ言うなりケトは踵を返し、ジェスも後に続く。後ろの女は剣と魔導瓶を外して部下に預けてから、二人の後に続いて部屋の敷居をまたいだ。
*
案の定よく分からない番号を名乗った後で、女教徒はケトに意外な言葉を投げかけた。
「色々と話したいことはありますが、その前に。……まずは君に謝罪をさせてほしいのです」
「謝罪?」
首を傾げるケト、睨みつけるジェス。二人並んで、崩れた棚の近くで、戸口の前に佇む女に視線を向ける。
「三年前、我々が君の町を襲ったことに対して。そして私は君に差し向けられた追手の一人でもありましたので、それも」
「……本当に今更だよ」
「それでも、です。大義のためとはいえ、まだ幼い君に恐怖を抱かせてしまった。それは今でも後悔しています」
「ケトも俺も、それをまだ許しちゃいないんだけどな」
硬い声で唸るジェスの隣で、ケトも白ローブをじっと睨みつける。
もしかして、揺さぶりをかける気だろうか。ケトを彼らの陣営に引き入れたがっているのだから、機嫌を取ろうとしているのかもしれない。
「承知はしています。しかし、この謝罪は我々にとって一つのけじめでもあるのです」
「随分、自分勝手なんだ」
「その苦言、龍神様の名に懸けて、心に刻み付けると誓いましょう。君の許しがもらえるのなら、我らの財と誠意をもって罪に報いる用意もあります。……ですが」
白ローブの女は、柔らかな笑みと共に両手を広げて見せた。
「どうか今宵、我々に恥を重ねることを許してほしい。≪白猫≫の娘よ、君に頼みがあるのです。どうか、我らに力を授けてはもらえませんか。この国に正しき道を進ませるために」
フードの下に垣間見える、どことなくうつろな笑み。龍の目で視れば、彼女がこの状況を心底喜んでいるのが分かるからこそ、その異常性が目に付く。
「この国の王を殺せ。枢機卿閣下が死の間際まで、そうおっしゃられていたことをご存じですか?」
「知らないけど。そもそも前の王様は≪六の塔≫にいるじゃないか。もう悪いことなんてできやしないよ」
その言葉に、女教徒が口角を更に吊り上げた。
「城には、奴の息子がいるではないですか!」
「……えっと?」
「ルイス・マイロ・エスト・カーライル。今この国でもっとも王に近い男。元々ヴィガードの手駒として産み落とされた奴は、奴の傀儡になるべく教育を施された子供。偏った思想を持つのも当然のこと」
芝居がかった動作で、女教徒は朗々と声を紡ぐ。ケトにはその仕草に見覚えがあった。
枢機卿カルディナ―ノ。彼もまた、他者を扇動する時には、歌うように声を張り上げていたっけ。もしかして、意識して真似をしているのだろうか。
「それは殺さねばなりません。我々は王子を亡き者にし、ヴィガードの怨念からこの地を解放したいのです」
「……何を言ってんだ、こいつ?」
思わずと言った雰囲気で呟いたジェスに全面同意だった。
一応、コンラッドから助言は受けていた。襲撃者は枢機卿の亡霊、理解できないことを喋るだろうが放っておけと。確かにその通りだ。これでは会話なんて成り立ちやしない。こちらの言葉なんか端から聞くつもりはなさそうだ。
「心配することなどありません。真の解放への賛同者は、実は沢山いましてね。それこそカーライルなど比較にもならぬ最強の軍事力すらも、我らに力を与えてくれる。そこに君が加われば、それこそ敵など無いに等しい。枢機卿閣下の望む世界を作り上げることも夢ではありません!」
「賛同者? 軍事力……? 一体何の話を……」
「お喜びください。彼らは君にも会いたがっているのです」
話の流れがおかしい。一方的にまくし立てられて戸惑うケトにも、それだけは分かった。
「彼らは素晴らしい。王城に侵入する道筋をいとも簡単につけてみせました。……我々の動きが国の隠密に知られていることは承知の上、今頃城内では我々を迎え撃つ準備を整えているのでしょうが、彼らは更にその裏をかいているのです。……君だから言いますが、既に同志が一人城に入り込んでいてね。これからさぞかし賑やかなことになるでしょう」
「あなたたち、まさか最初から囮になるつもりだったって言ってる……?」
コンラッドが天井裏で目を見開くのが、ケトには視える。もしかして目の前の教徒は、≪影法師≫すら出し抜いていると言っているのだろうか。
どんどん不穏な空気が増していて、ケトは戸惑った。なんだ、この嫌な空気はなんだ。人の話と周囲の状況、どちらにも感覚を凝らしてしまうと、逆に両方中途半端になってしまうのは、ケトが一番よく知っている。
「もちろんですとも! 必要とあらばこの命、いかようにも使い捨てる準備は……」
「……そこまでにしてもらおうか」
だから、全く異質な声が乱入した時、ケトは必要以上に肩を震わせてしまった。
部屋中の視線が、一斉に入り口の方を向く。それは女教徒とて例外ではなかった。
「……何をしているのです。他の同志と警戒に回ったはずでは?」
「警戒? 今更貴様らに気を回す価値もない」
乱入者の纏う白いローブは、他の教徒と変わりない。というより、外にいたはずの≪鱗の会≫の一人のようだ。声質から男だと判断はついたものの、それ以上は何も分からず、入り口からゆっくりとした足取りで部屋の端まで向かう乱入者を、揃ってケトたちは見つめた。
男が軋む音を立てて窓を開ける。途端、雨の音が部屋中に広がった。
「話し過ぎだと言っているんだ、愚図め」
「……何を?」
「≪白猫≫がここにいる時点で計画が失敗していることが分からないか。その上、≪影法師≫なんて面倒な連中に包囲されている状況で、よりによって知られてはならない情報をペラペラと口にするとは」
男の手には魔導カンテラ。その明かりを頼りにして、ケトは乱入者のフードの下に目を凝らす。覆面越しの無表情が見て取れた。
「口は災いの元というだろう。貴様らは自分に利用価値がなくなったらどうなるか、想像すらできないのか」
「何を言っているのです! ≪白猫≫との交渉はこちらでやりますから、早く警戒に戻って……」
「……救いようがないな。これはもう使えないか」
男の口調には呆れすら見えず、底冷えするような声だけが響く。突然の暴言に言葉が出てこない様子の女教徒に向かって、無感情な呟きが飛んだ。
「消えろ、狂信者」
男が、カンテラを握った右手を無造作に雨の元に突き出せば。
何の前触れもなく、何の脈絡もなく、何の躊躇もなく。
彼らを、光の奔流が押しつぶした。




