雨音、外套を突き抜けて その3
時刻はもうすぐ夕暮れ時。侍女は、主不在の執務室で近衛隊長と向き合っていた。
「……どういうことですか」
「今日はこのまま帰りたまえ」
「ルイス様へ、こちらをお届けするようにと頼まれているのです。席を外されたのであれば、せめてどちらに向かわれたかだけでも……」
マティアスの表情は変わらない。代わりにすっと、長い右腕を差し出された。
「それはこちらで預かろう。私から届けておく」
「どうされたんですか、様子が変ですよ。そもそもこの時間に、ルイス様に会議なんて予定……」
そこでコーティは言葉を止める。内心の動揺を隠しながら、小さく息を吸って長身の騎士に向き合った。
「≪鱗の会≫の襲撃、今日なんですね」
「君が知る必要のないことだ。寮に戻れ」
皺交じりの目元が緩むことはない。ぞくりと肌が泡立ち、コーティもまた、意識しなくとも自分の声色が変わるのを感じ取った。
「ルイス様はどちらです」
「護衛体制は万全だ。君の出る必要はない」
「私はルイス様の専属侍女です。主に危険が迫っているのに手をこまねいていることなんて出来ません。ルイス様から許可はいただいています。先日だって、ルイス様がわざわざ私の部屋までおいでになって……」
「そんなことは知っている」
コーティから一歩詰め寄って見上げた近衛の顔。けれど彼は一切の反論を寄せ付けない声で答えた。
「そもそも教会の残党の襲撃など、君は私がそのような狼藉を許すとでも思っているのかね。問題はない、任せたまえ」
「教えていただけないなら結構です。他の方に聞いて探すまでです」
彼の無表情を見て、コーティは肩を落とした。マティアスはどうあがいてもコーティを帰らせたいらしい。これ以上埒が明かないならばと、コーティはくるりと踵を返そうとした。
「やめないか!」
「わっ!?」
がくんとひっぱられ、部屋の扉に踏み出した足がつんのめった。驚いて振り向けば、かつてなく厳しい目をしたマティアスがそこにいる。掴まれた義手を振りほどこうと力を込めたコーティは、けれど向けられた敵意に思わず抵抗をやめた。
「いい加減、君自身が疑われていると認識したまえ!」
「……え」
「以前の聴取の内容は、私とて聞いている。先日の襲撃の前に≪鱗の会≫に接触し、得た情報を元に襲撃に乱入。その時の功績を元にルイス殿下の懐に入り込み、唯一の専属侍女として常に殿下の傍にいる女。これだけ条件がそろっているなら、疑わない方がおかしいと思わないか」
凍り付いたコーティの前で、彼は一瞬だけ顔を歪めた。
「仮に前回の襲撃が下準備で、本命が今回だったら? 君の正体が、彼らの先兵として送り込まれた、こちらの警戒を削ぐための内通者だったら?」
「な、内通者だなんて、そんなことあり得ません。私は……!」
「では今ここで、君が隠していることを話してくれるか?」
「……!」
今度こそ絶句したコーティの前で、マティアスが白いものの混じった髪を揺らした。
「……言えないだろう。君はそういう人間だ。なにかしらの思惑を持って殿下に近づいた人間だ」
「マ、マティアス様……」
「君を傷つけてしまうと理解はしている。が、我らは国に忠義を誓う身、人の心は時として邪魔になる。……これでも私は君を気に入っているのだ。だからどうか、君の事を信じさせてほしい。王家の護衛として、そして一人の同僚として」
今度こそ、引き攣る息は隠せなかった。普段はそこまで気にすることのない腰の両脇の剣が、騎士の姿を威圧的に見せているような気がした。
自分が疑われていることに、何と返せばいいか分からなかった。だって、コーティには反論できない理由がある。ショックを受ける一方で、当然だと納得する自分もいるのだから。
当たり前の話なのだ。
確かにコーティは今回の件とは無関係で、純粋にルイスを守りたいという意思の元で動いている。
けれど、それはあくまで今だけ。
コーティが目的を果たすということ。≪白猫≫を殺すということ。それはすなわち、国の要人の暗殺と同義。秩序を乱すと言う意味では、この国自体を敵に回すのだろう。王子を誑かしたと言う意味で、王子を守る者達を……それこそマティアスのような人間への敵対になるのだろう。
別に今がそうでないと言うだけで、本質は何も変わりはしない。そういう意味では、近衛騎士の疑念は間違っていて、そして適切だった。
「……ルイス様に、このことは?」
「話していない。これは私個人の判断だ」
「……ルイス様は、必ずお守りいただけるんですよね?」
「もちろんだとも」
こちらに敵を見る視線を向ける騎士を見て、どうして表情を変えようとしないのかも理解して。忍び寄って来る諦観の感情。ついと目を伏せ、侍女は自嘲の笑みをこぼした。
仕方あるまい。別にコーティ一人、いたっていなくたって警備体制には関係ないのだ。ルイスに危機が及ぶことなど、ありはしないだろうから。
「……かしこまりました。マティアス様」
「コーティ君」
「こんなことを言うのは失礼かもしれませんが……」
マティアスが手から力を抜いたのだろう。がっしりした手が義手から離れる。そんな右手を左手と組みあわせて、侍女は頭を下げた。
「……どうか、ルイス様をお願い致します」
「我が忠義に誓って。すまないな」
「マティアス様も、どうかご無事で」
踵を返してドアの方へ。ああそうか、ルイス以外の男の人と二人で密室に閉じこもっていたのは初めてだな。そんな考えで気を紛らわせながら、扉を開けたコーティはもう一度騎士を振り返った。
「……それでは、また明日」
「ああ。コーティ君、また明日会おう」
閉じられつつあるドアから見えた騎士の表情は、やっぱり伺い知れなかった。
*
どうにも最近、コーティの雰囲気が変わったように思う。
それを断言できるほどではないのは、ライラ・バッフェが以前のコーティをそこまで深くは知らないから。
王城で働き出し始めてほんの数日でいなくなり、腕を失くして戻ってきた同室の新米使用人。
コーティとどう接すればいいのか分からず、最初はライラも戸惑ったものだ。当時の彼女は壁を作っていたように思えたけれど、恐らく互いに王城に慣れていなかっただけなのだろう。そんなことが分かるようになったのも最近のこと。
転機となったのは、いつぞやの休みの夜のこと。
ルイスに呼び出された後、夜遅くまで帰ってこなかったコーティ。日付が変わるころ、ようやく静かにドアを開けた彼女からは、なんとなく刺々しさが抜けていたような気がした。
一体何があったのか問いただしてみたけれど、コーティは「なんでもありません」とはぐらかすばかり。
いつもはそれらしい言い訳をつくってくるくせに、その時ばかりは妙にきっぱりと言い切ったものだから、ライラは思わず笑ってしまった。多分だけれど、コーティも動揺していたのだろう。ああ、王子と何かあったんだろうなあ、と察するには十分だった。
ちなみに翌朝。彼女は他の同期からの質問に、しれっと「王子の面倒に付き合わされていた」と答えていた。焦っていたコーティを見たライラはきっと運がいい。
意外と天然で、そして毒舌家。頭の回転は悪くない癖に、人の感情には疎い。
なまじ器用なせいで、他者の助けを借りる機会が少なかったのかもしれない。人との交流が苦手なのがよく分かるから、それはそれでかわいかったり。
そんなコーティのことを、その晩ライラはベッドでゴロゴロしながらちらと窺ってみた。
「……コーティ、どうかしたの?」
「いえ、別に何も」
窓辺に佇む同僚が、どことなくしょげているように見えるのはライラの気のせいだろうか。コーティは確かに普段から無口だけれど、今日に限っては声に覇気がない。
椅子を窓際まで引っ張って腰かけた彼女は、背中を心なしか丸めて外を眺めている。夕食前に帰ってきてから、彼女はずっとこの調子だ。
何を見ているんだろう。夕方から降り始めた雨脚は、今や嵐と呼んで差し支えないものになっている。そんな夜の庭なんて、見て面白いものでもないだろうに。
「……」
どうにも放っておけなくて、けれど何を言えばいいのか分からない。悩んだ挙句、ライラは無難な事を聞いてみた。
「……お風呂行く?」
「もう少ししたらそうします」
椅子に腰かけた彼女は絵になるけれど、物憂げな様子は心配だった。確かに今晩はちょっと特殊かもしれないけれど、それでも彼女の緊張感は少し変だ。
「班長の話気にしてんの?」
「え、ああ……。そうではないのですが……」
コーティにしては珍しく、今日の夕食は静かにとれたのに。いつもの質問責めを受けることもなく、けれどコーティも心ここにあらず、と言った雰囲気。代わりに周囲のテーブルで話されていたのは、夕食前に、班長から使用人たちに届けられた指示のこと。
――今晩の大雨で、王都沿いの大河が氾濫する可能性がある。皆、くれぐれも寮から出ないように。
これまで聞いたためしのない指示に食堂はざわめきに満たされたものだ。いつもコーティの周りに見える人の輪も今日ばかりはできず、使用人たちは顔を見合わせながら食事を済ませるほどだった。
コーティも不安なのだろうか。あんまりそんな風に見えないのも事実なのだが。
「雨、すごいね」
「……ええ。こちらの雨季はいつもこうなんですか?」
「いや、なかなかないよ。まあすぐ弱まるとは思うけど」
「そうですか」
どことなく影のある微笑みを浮かべて、また窓の外に視線を戻したコーティ。ライラは起き上がってコーティの傍に歩いて行った。
「大丈夫だよコーティ。まだ慣れない場所だから不安かもしれないけど、それこそ海の方が嵐すごいって聞いたことあるくらいだしさ」
こちらの心配が伝わったのかもしれない、コーティが表情を心なしか緩めたように見える。
「そうかもしれませんね。向こうはこちらと違って海がありますからね。高波の時はいつも大騒ぎになって……」
言葉が途中で途切れる。しばらく続きを待っていたライラは、けれどいつまで経っても話してくれないコーティへ視線を向け、微動だにしない彼女を見た。
ようやく彼女が口を開く。先程とは似ても似つかない、確かめるような囁きを聞いた。
「……そうだ、慣れない場所」
「コーティ?」
「この城は、あの人達にとっても慣れない場所のはずなんです。なのにどうして……」
窓の外、どこかここでない場所を凝視したコーティ。呆気にとられるライラの視線の先で、その横顔を青白い光が照らし出したのはそんな時。時間にして数秒、空の向こうの光が夜を照らし続けていた。
「雷……にしては長いね、なんだろ」
「……」
空を見上げてみたものの、特徴的なゴロゴロと言う音は聞こえず、続く雷もやってこない。窓の外を眺めたり、コーティを眺めたり。あっちにこっち視線をやりながら、再びコーティの方を見たライラは思わず息を飲んだ。
「……どうして気付かなかったの」
「コーティ?」
「ルイス様が危ない」
先程とは別の意味で、コーティの様子がおかしくなった。先程までの大人しさはどこにもなく、代わりに特徴的な黒い目が爛々と光っているような気がする。
立ち上がって、彼女はスタスタと備え付けの棚へと向かう。引き出しを開けて、しゃがみこんだりして、一体何をしているんだろう。戸惑いながら彼女の肩越しにそっと覗き込んだライラはぎょっとした。たくし上げたお仕着せのスカートの下、彼女は白い太腿に細いベルトをくくりつけ、そこにナイフを忍ばせようとしている。続いてコーティは服の上から別のベルトを巻きつけた。腰の左側に小さな箱があるけれど、一体何の道具だろう。
「そ、それ何? なんか変だよコーティ」
「別に、どうもしてません」
酷く冷たい、氷のような声だった。彼女がこんな声を出せるなんて、と怖くなった。
けれど、ふと思い出す。
働き始めたばかりの頃、ライラはよく使用人仲間から言われたものだ。えー大丈夫なの? 教会の人って敵じゃん。寝ているうちに殺されちゃうんじゃ……。
入寮して最初の一週間。これでもライラは本当に緊張していたのだ。もしも噂通りの人だったらどうしよう、戦争で白い修道着を纏っていた、恐ろしい敵の兵隊みたいな感じだったらどうしよう、と。
蓋を開けて見れば、彼女は思いのほか苦労人で。片腕を失くして戻ってきた翌朝の、ベッドの上での困り切った表情にほだされた訳だが。
そんなコーティの豹変は、まさに突然だった。上げた目線は、まるで彼女が携えているナイフのように鋭い。不用意に近づけば突き刺されそうな冷たさをライラだって感じ取っていて、だけど。
「嘘だよ」
ライラの口からはそんな言葉が転がり落ちた。こんなコーティに、見覚えがあったから出て来た言葉だった。
それは彼女が右腕を失う日の晩、まだ会話もぎこちなかったあの頃。消灯時間を過ぎた後で、コーティがそっとベッドから抜け出したことに、ライラは気付いた上で見逃した。
ああ、やっぱり教会の人って悪いことするんだなあ。そんなことを思ったあの日の自分の頬を引っぱたいてやりたい。嫌われるのが嫌だったライラは、ドアが開く音に背を向けて寝たふりを続けた。結局その晩彼女は戻ってくることもなく、ライラはいつの間にか寝入ってしまったのだった。
翌朝起きて、ライラは心底たまげたものだ。
だって、昨晩王子様が殺されかけた、なんて言うじゃないか。しかもその場に居合わせた新米使用人が庇って、その子は今も生死不明らしいと。
もしもあの時、自分が声をかけていたなら。そうしたらコーティが腕を失くすことはなかったんじゃないか。そう思っていることはライラが胸の奥にしまい込んでいた秘密、そのはずだった。
「ねえコーティ、あの時と同じだよ」
「あの時……?」
「あなたが、殿下を助けに行った日。今のコーティは、あの日とおんなじ目してる」
彼女が短く息を吸う。微かに肩が震える。その一つ一つの動作で、ライラの推測が確信に変わる。
やっぱりだ。彼女はまた、何かを知っていて、何かをしようとしている。それも間違いなく危険なことを。そう思ったらいてもたってもいられなくなって、ずいとその左腕を掴んだ。
「教えて。コーティ、何に気付いたの?」
「……言えません」
「危ないこと、そうなんでしょ?」
「……それは、まだ分かりません」
歯切れの悪い彼女の答え。鋭さに戸惑いが混じって、揺らぐ黒の瞳。ああ、コーティはやっぱり不器用で。ライラの前でそんな顔をしたりして。
だから、それが答えだった。
掴んだ手に力を込めれば、彼女の表情に微かに驚きが混じる。ライラの掴んだ左腕に、振りほどこうとするような、微かな力が籠るのを感じ取る。
「……ライラ。離してください」
「嫌だ。コーティがまた危ない目に会うかもしれないのに、手を離してなんかいられないよ」
今度はライラが息を吸い込む番だった。ぐっとお腹に力を込めて、息を詰め肩を怒らせ、黒髪の同僚を睨みつける。
「あたしも連れてって」
「……え?」
「何をするのか知らないけれど。あたしも一緒に行く」
「危険です」という予想通りの言葉に、「なおさらだよ」とすかさず答えた。
「左手まで失くしたら、どうすんのさ」
「そんなヘマは……」
「ルイス殿下、泣くよ?」
泣きませんよ……。そう答えた彼女に見える困惑の色。細い眉がほんの少し下がっただけで、いつものコーティが戻ってきたような気がして、ライラは更に詰め寄った。
「……戦闘になるかもしれません。そんなところにライラを連れてはいけない」
ほら、睨みつければ襤褸を出す。物騒な言葉に胸がざわつくも尻込みするほどの理由にはならず、ライラ・バッフェは蜂蜜色の瞳を光らせた。
「これでもあたしの兄さんは騎士でさ。ここで逃げたらバッフェ家の恥だ」
※次回は2/21(月)の更新になります。




