はじまりはベッドの上 その3
三年ほど前、この国で戦争があった。
開戦の理由は技術開発の主導権争い。一方は国王率いるカーライル王国が待ち構え、もう一方では枢機卿率いる教会が剣を振りかざした。
まあ、このご時世だ。戦争なんて別に珍しくもない。魔法という未知の存在こそあったものの、互いに策略を巡らし、人と人が戦った、言うなれば普通の戦争だった。
特筆すべきことと言えば、開戦から丸一日経たないうちに終戦を迎えたこと。そして国王と教会双方が共倒れになって終わったこと。
そしてとんでもない化け物が現れて、国を滅茶苦茶にして去っていったこと。それくらい。
すべてはこの化け物が発端だ。
こいつらがいなければ、王子が刺客に狙われることも、コーティがあんなところで刺客とやり合うこともなかったはずだ。
そしてまた、教会と国が互いに歩み寄りを見せることも、教徒を国の城で働かせることになることも、誰も思いつきすらしないだろう。
うん。もう、何と言うか。この国のすべてが、今とはまったく異なる形で進んでいたに違いない。
少なくとも今、病室で寝ているコーティ・フェンダートはそう思う。
「ん……」
苦労して重い瞼を持ちあげながら、部屋の中に人の気配を感じ取る。これでも昔は戦闘員。起き抜けに気配を探るのは習慣みたいなものだ。
そうっと身体を起こす前に小さく吐息を吐く。ほんの少しだけ、体のだるさが抜けているような気がした。
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
「……いえ」
声が掠れた。コーティはサイドテーブルに置いてあるカップに手を伸ばそうとして、無意識に上げかけた右腕を途中で止める。ありもしない腕で、一体どうやってカップを持ち上げるつもりなのか。口元がそうと分からないくらい、歪な弧を描いた。
すぐ傍に佇む女性は、そんなコーティに気付いたのかもしれない。そっとカップを取って、コーティの左手に握らせてくれた。
「……けほっ」
「ゆっくり飲みなさいな。ほとんどの場合、水は逃げないのだから」
不思議なことを言う人だ。水が逃げる、だなんて。
人肌まで温められた水は、ほんのりと甘く、柑橘が少し香った。至れり尽くせりの待遇に、コーティはなんだか複雑な気分。喉の調子を確かめて、そっと声を出す。今度はちゃんと、喉を通る空気が震えてくれた。
「ロザリーヌ様……」
「少し顔色が良くなったかしらね、コーティ」
見上げた女性は静かに微笑んでいた。深紅のドレスに明るい茶髪が映える。どことなく芯の強そうな女性だという印象は、コーティがはじめて会った時から変わらない。
ロザリーヌ・ロム・ロジーヌ。北西の領地を治めるロジーヌ伯爵家が嫡女。出自に難のある教会出仕者の身元引受人であり、対外的にはコーティの上司、という位置づけだ。
彼女の名声はコーティだって知っている。
三年前の戦争において、化け物の暴走を止めた才女。なんでも、かの悪名高き廃王女すらも欺き、その手に実権が握られるのを阻止したのだと言う。今のこの国が一定の平穏を維持できているのは、ひとえにロザリーヌの活躍があったからこそだという評価を、至る所で聞く。
彼女の後ろには優男が一人。従者の制服を見事に着こなす彼は、発言の必要がないから黙ったままだけど、主の隙を見てコーティにヒラヒラと手を振っていた。
そんな才女が、コーティに向かって眉を下げていた。
「最近、体を動かす練習を始めたそうね。お医者の先生に聞いたわ」
「はい。少し安心しました。一番最初は一生寝たきりかもしれないと言われていたので」
「……ええ。私もホッとしたわ」
ロザリーヌは椅子から立ち上がり、深々と頭を垂れる。その動作の端々から気品が感じられて、やっぱりお貴族様なんだな、と思う。
「コーティ。改めて、あなたに心からの感謝を」
「……」
「この城に来たばかりで右も左も分からなかったでしょうに、殿下の暗殺をよく阻止してくれました。……あなたはこんなことでお礼を言われるのを好まないでしょうけれど、それでも言わせてほしいの」
褒められるようなことは何もしていない。コーティは自分の目的のため、襲撃を利用しただけなのだから。
起きられるようになってからようやく始まった聴取で、コーティは言える範囲の事実を全て、調査官に伝えていた。協力的な姿勢が功を奏したのか、調査官から声を荒げられることもなく、至って紳士的なやり取りが続いて。それで、コーティにとっての王子暗殺未遂事件は幕を閉じていた。
残されたのは重い体、残されなかったのは自慢の利き腕。いくら目的のためとはいえ、本当に馬鹿なことをしてしまったと後悔しきりだ。
「私は身内の恥を抑えただけです」
「それは私たち国の仕事。それなのにあなたの働きに助けられた。挙句取り返しのつかないものまで奪ってしまって……。本当に、謝罪のしようもないわ」
一応、南の修道院を出るときに、コーティは教皇様から直々にお願いされたのだ。
戦争からたったの三年。今は国と教会双方にとって大切な時。かつての戦争を乗り越え、互いが手を取り合う礎として、ようやく実現した人材交流だからこそ、なんとしても友和の道を導きたいのだと。
もちろん命を張っての要人警護なんて、一言も命じられてないけれど。
言いたいこともたくさんあるでしょう、と続けられた言葉を聞き流す。
ロザリーヌはきっと良い人なのだろう、とは思う。けれど、とんでもなく根性がねじ曲がっているコーティにしてみれば、その謝罪は迷惑でしかない。
「いいえ、お気になさらないでください。……それで、ここにいらっしゃったのは?」
いつまでも塞ぎ込んでいるつもりはないのだ。これでも人が傷つくことには慣れていて、今回はそれがたまたま自分の番だっただけ。いつかは来る日だった。
淡白なコーティの反応に、令嬢はちょっと悲しそうな顔をした。その後で彼女は表情を変える。
「お見舞いに来た、では納得してくれそうにないわね?」
「そんなにお暇ではないでしょう?」
「……いえ、様子が気になっていたのは本当なんだけれど。まあ、一つ相談があったのは確かね」
ロザリーヌがコーティのベッドの端にゆっくりと腰かける。何とも憂鬱そうな様子だった。
「先日、私の元にルイス殿下が来られたわ」
「……」
「あなたを侍女に欲しい、ですって」
「……馬鹿なんですか、あの王子殿下は」
言葉を取り繕わず、コーティは眉をひそめた。
まさか彼が本気だとは思わなかったのだ。
自分はこれでも教会の人間だ。それをお付きに欲しいだなんて、王子自身がよくても周りの人が許さないだろう。それを現在進行形で実感しているのであろうロザリーヌも、案の定苦笑いを漏らしていた。
「殿下は頭の良いお馬鹿なのよ。本当、始末に負えないわ」
それを機に、女性は口調を変えた。
「どうする? コーティ、受けるかどうかはあなたの判断に任せたいと思うの」
「……王子殿下直々のご命令に、私ごときが嫌と言えるのですか?」
「あなたの働きにはそれくらいの価値がある、少なくとも私はそう思う。だからもしもあなたが拒否するのであれば、私が殿下を説得するわ。それで仮に殿下の不興を買ったとしても、あなたやあなたの周囲に実害が及ばないようにすること、このロザリーヌ・ロム・ロジーヌの名において保証しましょう。逆もしかり。受けたいと思うのであれば、諸家からの反発はこの私が抑えるわ」
コーティは目を瞬かせる。これはもう病室どころの騒ぎじゃない。この国の殿上人からの命令に選択肢が与えられるなんて、好待遇ここに極まれりであった。確かにそれなり以上の地位についているロザリーヌだからこそできる対応なのであろうが、そもそも雲の上の人が庇ってくれること自体があり得ない。
ただまあ、そこまで言ってもらっておいてどうかとも思うが。コーティにとって、これは悩むまでもなかった。
「受けます」
即答する。
自分には信条などありはしない。そんなもの、三年も前に崩れてしまった。今更自分がどうなったところで、別にコーティにとっては大した話じゃないのだ。
であれば、自分は彼の近くに居るべきだろう。コーティが唯一求めているものは、彼の傍なら手に入る可能性が高いはずなのだから。
「あら……、意外だわ」
「そうですか?」
「コーティはこういうの、嫌がると思っていたから」
今度はロザリーヌが目を丸くする。
普段は釣り目がちな彼女だが、こうすると一気に愛嬌が増す気がする。かの偉大なご令嬢に失礼な物言いかも知れないけれど、顎に手を当てて考え込み始める才女を見て、コーティはそんなことを思った。
「では、その方向で進めましょうか。……そうね、本当は侍女になるなら家名が必要なのだけれど……。いえ、むしろ≪影法師≫待遇に入れてしまうとか……? 仕事は頼まないにしても、その方が表向き私との接点を作りやすいかしらね」
何やら呟きながら、ドレス姿の令嬢はそこで器用にウインクを飛ばして見せた。
「あの殿下の専属は大変でしょうから、気が向いたらすぐ愚痴を言える環境は必須よ。ええ、下手に家名なんか取ると、うるさいお方々がいるからね。≪影法師≫という名目でねじ込んでしまいましょう」
「はあ……」
よく分からないけど、コーティだって≪影法師≫は彼女の家が抱えている隠密、国の裏側の象徴であることくらい知っている。
それにコーティを入れようか、とか言っていないだろうか。大丈夫なんだろうか。
「これでも私はある程度の物言いができるから。あんまり酷い我儘は突っぱねてしまいなさい」
「……」
「ルイス殿下には私から伝えておく。あなたを殿下仕えの侍女として正式に雇用する方向で承認を取るわ。第三者からの監視が必要という名目で、後見に私がつけば異論もないでしょう。定期的に報告に来させるからと言っておけば、あの殿下も拒否しないわ」
訳の分からないことを一通りまくし立て、そこで彼女は笑った。なんだか貴族らしからぬ、いたずらを思いついたような悪い微笑みだった。
「せっかくの機会だから、殿下のこと、思う存分振り回してやりなさいな。あの子は困らせてやるくらいが丁度いいの」
「いえ、あの……」
「あなたには難しいかもしれないけれど、やってみなさい。上司としての命令よ」
「はあ……」
言いたいことだけ言ってから、ロザリーヌはベッドから立ち上がった。部屋の水差しを取り上げて、コーティのカップに水を注ぎ足してくれたので、ありがたく頂戴する。
カップに口をつける新米侍女を見て、彼女は満足そうに頷いた。
「ではコーティ、お邪魔したわね」
「いえそんな……」
「少し休みなさい。人間には、ゆっくり考える時間も大切なんだから。……ほら、行くわよローレン」
そんな不思議な助言を残して、コーティの上司は従者と共に去って行った。