毒舌家とご主人様 その9
コーティの書く文字は、言っては悪いがだいぶ酷い。元は右利き、左手でペンを握ることなんてなかったから、一朝一夕で上手くなるはずもないのだ。ペンを机に置いてから、コーティはびっしりと文字を書き込んだ紙を見つめた。
「それでも、読めるようになっただけマシだな」
「……」
窓の外を見上げると、残念ながら雨模様。こんなお休みの日は引きこもるに限る。
それでも、日課の駆け足は済ませて来たのだ。いつも通りの時間に起きて雨も気にせず走っていたら、渡り廊下を通りかかったヴァリーさんにとんでもない目で見られた。気を遣われながらもやんわりと注意されたので、今日は早めに切り上げて、お湯を使わせてもらったところである。
なんて恵まれているんだろう。使用人寮の風呂は、掃除中を除けばいつでも使っていいことになっている。これぞまさしく龍神様の思し召し。
まあ、入ってみればその理由が分かる。この城で湯を得たいと思ったら、わざわざ作らなくても蛇口をひねるだけで済むからである。修道院ではお湯を火で沸かして水と混ぜて、お風呂に満たす当番まであったのに。
便利過ぎて戻りたくなくなる。流石この国の中心だ。
ちなみにライラはお出かけ中だ。何もこんな雨の中行かなくても、と自分を棚に上げて思うコーティだったが、どうやら彼女は城下町にある実家に行っているらしい。彼女には兄妹が何人かいるらしく、顔を見に行くのだとか。
そんな訳で暇を持て余したコーティは、ずっと後回しにしていたことに手を付けることにしたのだが。
「この短期間で随分上達したじゃん」
「ホントなんなんですか、この王子」
どうして休日の侍女の部屋に、王子が遊びに来ているのか。
「いやあ暇でさあ」
「暇でさあ、で来る場所ですか? 女子寮ですよここ」
部屋に備え付けられている書き物机に向かって少し。コンコンと窓が外から叩かれた時には何事かとも思ったが、正直こんなことになるとは思っていなかった。訝しみながら窓を開ければ、壁に沿って整えられている小さな生垣の影から、雨避けの外套を被った王子がひょっこり顔を出したのである。
目を真ん丸くしてから、何も言わずに窓を閉めたコーティは悪くない。
その後なんやかんやあって。
無事侍女の部屋に侵入した彼は、コーティが書き上げた報告書をつまみ上げて今に至る。
「恥ずかしいんで返してください。見るならもう少し字が上達してからにして」
「雑じゃなければ問題なし」
「問題大ありですよ。それとどうしてルイス様は馬鹿なんですか?」
「うーん? 今日って安息日じゃん。だから俺も王子はお休みってことで」
もはや会話が成り立っていない。コーティはとにかく思いつくだけの暴言をまくし立ててやったが、彼はどこ吹く風。意味の分からない返答で全て躱した。
「護衛の方、ついていらっしゃるんでしょう?」
「抜け出すってマティアスにだけ声かけて来た。なんかすげえ目で見られたけど、コーティの所っつったらすげえ目のまま送り届けてくれた」
「嘘だあ……」
どうしてですかマティアス様。あなた、私と殿下が悪だくみしてるの知っているでしょうに。この国の人間は揃いも揃って危機意識どうにかなっているんじゃないんですか。
姿を見せない近衛隊長に対しての罵詈雑言を無言で喚き散らしてから、コーティは肩を落とした。
「…………お茶、飲みますか?」
「おーありがと!」
ニコニコしている王子を、普段は不在の同期が使っている椅子に座らせて、部屋の隅へ。朝、まとめて淹れておいた紅茶をポットからカップに注ぐ。
「めちゃくちゃ渋いな……。冷めてるし」
「どこぞの地方では、招かれざる客に冷めた茶を出す風習があるそうですね」
「オー、うちの侍女は物知りだなあハハハ」
片言で言ってのけたルイスはだらりと椅子に凭れ掛かって、コーティの文字の練習成果を熱心に見ていた。その椅子はライラのもの。自分の椅子に王子が腰かけたと知ったら、彼女はどんな反応をするんだろうか。
「ロザリーヌに報告書出してんのか」
「……まあ、この間はじめたばかりですけど」
以前の食事会のように大仰ではなくても、コーティはロザリーヌに日々の仕事の報告に行くことがある。まあ向こうも忙しいので、場合によっては報告書を渡すにとどめることもあるけれど。後は単純にコーティが左手を使いこなせるようにする練習も兼ねている。元が右利きだから、中々慣れないのだ。
コーティをからかいながら紙をめくったルイスは、しかし読み進めていくうちに妙な顔をし始めた。まあ当然のことではあった。その報告書に書き連ねた内容は、王子にとって衝撃的なもののはずだから。
「お前、これ……」
「……」
まるで余裕をなくした彼が、無言で顔を背けた侍女を見る。
「ほとんど俺についての愚痴じゃねーか!」
「……」
「お前、腹の中でこんなこと思ってたのかよ!」
彼の方を見られやしない。だって、なんだか捨てられた子犬みたいな顔をして、椅子から身を乗り出したりしているから。
「…………ふふっ」
もう駄目だ、耐えられない。肩が震えないように必死にこらえていたけれど。吐息が口の端から漏れてしまった。
「おいコーティ!」
「ふふふっ。なんて顔してるんですか、もう」
「笑うんじゃねーよ! なんだよこれ、『魔法の話だけ長すぎて疲れます』って!」
「自業自得です。人が書いてるもの勝手に見るから」
口元を手で覆って笑うコーティの前に、報告書が突きつけられる。いや別に、見せつけなくても自分が書いたのだから内容は知っているのに。せっかくなのでコーティが紙の束をひょいと掴み取ったら、彼はもっと慌てた顔をした。
「あ、お前っ! まだ途中までしか読んでないんだから!」
「ルイス様に読ませるものじゃありません」
彼の腕をかいくぐり、報告書を両腕で抱きかかえる。「読ませろ!」と手を伸ばして来た彼を軽くいなしつつ、コーティは自然と表情が緩むのを隠せない。
「……本当に、仕方のない人ですね」
目の前で、ルイスの表情がぴたりと固まった。その瞳の青に、自分の顔が映る距離だった。
「コーティ、お前……」
なんだか少し不思議だ。自分はちゃんと笑えるんだって、こんな顔で笑うんだって、笑顔のままちょっと驚いているコーティがいる。
「私をわざと怒らせようとするなんて、今度は何を企んでいるんですか?」
彼が言葉に詰まった。
「……なんで」
「分かりますよ。休日にわざとこんなところまで来て、人のもの勝手に読んだりして。ルイス様のことです、絶対何かお考えがあってのことに決まってるでしょう?」
頬をほんのりと赤らめた彼に、そっと囁いた。
「う……」
更に赤みを増す彼の顔を見ながら、言葉にならない呻きを聞きながら、コーティはじっと彼が立ち直るのを待つ。こちらに伸ばされた手が向かう先を失ったように見えたので、とりあえず欲しがっていた報告書を渡してみる。
「……ちくしょう。してやられた」
「やっと一泡吹かせてやりました」
無言の時間の後、普段よりも幾分低い声色で呟いた彼。受け取った紙の束をブスッと見つめて裏返し、膝の上に置く。なんだか少し悪いことをしてしまったかなと、ちょっとだけ申し訳ない気分。
「今更取り繕う必要なんてないでしょう? ≪白猫≫討伐まで私は裏切れないんですから」
「そういう問題じゃない」
「で、何を話しにいらしたんですか?」
諦めたように肩を落とし、ルイスはようやく視線を上げる。そこにはもう揶揄うような色はどこにもなく、ただ落ち着いた素の主の姿だけがあった。
「……お前、明日からしばらく、使用人に戻れ」
「なぜです?」
「理由を言いたくないから誤魔化そうとしたんだよ。分かれ」
「私は聞きたいです」
途方に暮れた目でこちらを見られても、今更引き下がるつもりはないのだ。多分、彼の中で何かの天秤勘定をしているのだろう。じっと視線を合わせて圧をかけていたら、彼はふいと横を向いた。
「≪鱗の会≫が動き出すらしい」
「……それは」
「恨みを買っている覚えはある。今度も狙いは俺だろう。執務室とか寝室とか、俺が普段いるところの警備体制を敷き直すことになる。いずれにせよ危ないんで、とりあえず次の休日までは俺の側にいない方がいい。……本当は今日、それを伝えに来たんだ。さっきああは言ったけどさ、実際今でも外では護衛が何人も雨に濡れてるよ。だから……」
「ルイス様」
主が目元を歪めながら笑う。そのまま変なことを言おうとしたのを察して、コーティは声を被せた。
「そのお話、詳しくお聞かせ願えますか?」
「俺はコーティをこの国のごたごたに巻き込みたくない。今、コーティの主としてそういう話をした」
「≪白猫≫を倒すまではお傍に居ます。盟約をそう簡単に破らないでください」
間髪入れずに言い返した。目を丸くしたルイスはしばらくして、声は出さずに口を動かす。小さな動きではあったが、侍女には分かる。彼は今、自分の名前を呼んだ。
「……≪白猫≫以外はどうでもよかったんじゃないのかよ」
「はい。ですから、その鍵となるルイス様の危機を放置はできません」
「俺にはいくらでも護衛が付く。そういう星の元に生まれたんだ。だから別に、コーティがいてもいなくても……」
「であれば、私一人加わったところで大差ないでしょう?」
今日の自分は、侍女のお仕着せを着ている訳ではない。それでも簡素な普段着のまま、侍女は王子の前に片膝をついた。右手を胸の前へ持ちあげて、頭を垂れる。
「己の油断は敵の剣と同等の脅威である、教官の教えです。例えルイス様に護衛が沢山ついていらっしゃったとしても、私はその程度で安心するつもりはありません」
途方に暮れた瞳に宿る複雑な感情。憤りと、諦めと、苛立ちと、けれど一瞬だけよぎる嬉しそうな色。そう、彼はいつだってそうだ。コーティの主は深い瞳をして、単純な我儘を言う。
やがて思い出したかのように、彼はモゾモゾと座りなおし、ふいと顔を背けた。
なんだろう。どことなく、義手をくれた時の彼に似ているような気がする。
自信のなさそうな、なんだか恥ずかしそうな様子。表情は見えないはずなのに、なんだか拗ねているような、頼りなさそうな表情をしている、そんな気がしてしまう。
……もしかして、昔の彼はこうだったのかな。そんな根拠のない考えが浮かび上がってきて、コーティは戸惑った。変だ。気弱な少年像は、≪我儘王子≫に似合わないのに。
「で、明日も私、いつもの時間に伺いますが。よろしいですね?」
またしても沈黙。コーティと目線を合せようとせず、けれど再び聞こえた言葉はいつもの調子を取り戻しているように聞こえた。
「あーもう、分かったよ。……ちぇっ、なんなんだこの頑固な侍女は」
「聞こえてますよ、ルイス様」
「聞こえるように言ったからな」
侍女はクスリと微笑む。きっと彼は目論見が見破られたことが恥ずかしいのだろう。その耳が真っ赤なことはもちろん分かっていたけれど、侍女はあえて気づかないフリをした。




