彼のことが、掴めない その3
ロザリーヌは、部屋に入るなり深々とため息を吐いた。
たおやかな腕を包む手袋を無造作に脱ぎ散らかして、ベッドへと放り投げる。従者によく叱られる無作法だが、昔から止められない癖の一つだ。
思うがままソファに飛び込んでから、いつも後悔するのだ。
一回腰かけてしまうと、どうにも体が動かない。ドレスを脱いで、化粧を落として、湯船に浸からないといけないのに。全部済ませてから、思う存分ゴロゴロすれば良かった。
「はあ、やれやれ……」
「相変わらずおっさんみたいな掛け声ですね」
「おじ様方の間で駆け回っていれば、こうもなるでしょう」
体から力を抜いたまま顔だけ上げて時計を見れば、針はもう夕食時をすっかり過ぎていた。どうしよう。仕事中につまんだ軽食だけでは物足りないが、今食べるとまたコルセットがきつくなりそうだ。
「座ったら? ローレンも疲れたでしょう?」
「フォークすら持てないお嬢と一緒にしないでくださいな。元々の体力が違いますって」
「んなっ、せっかく心配したのに」
顔に血が上ったのは、別に怒っているわけじゃない。お昼で過ごした二人のひと時、ロザリーヌがフォークを持たなかった時間を思い出してしまったからだ。
「……いいじゃない、誰も見てないときくらい。巷で流行る『あーん』をやってみたかったのよ」
「そうですね、明日もやりますか」
「恥ずかしいからしばらくはおあずけよ」
ポンポンと隣の座面を叩くと、ローレンは何も言わず腰かけた。
本来であれば、従者が主の隣に腰かけるなどあってはならないこと。しかし、この二人の間にそんな常識は通用しない。
部屋には自分と彼の二人きり。けれどドアは閉ざされたままだから、見えないところで従者との関係を噂されるのも仕方ないだろう。でも、ロザリーヌは気にするつもりもなかった。言いたい奴は言っておけばいいのだ。見合いの手紙は仕分けが面倒な程入っているが、どれも受けるつもりはない。
どうせ自分はどこぞの有名な家の御曹司と結婚するつもりもないのだ。
≪影法師≫を司るという役目がある以上、特定の家と深い繋がりを作りたくないというのがその建前。お陰で、幼い頃から兄のように慕っていた平民出の従者と良い仲になれるなら、それはそれで悪くないと言うのが本音。渋い顔をするのは、きっと領地から出たがらないお父様だけだ。
夜、執務室から私室に戻った後、才女が肩の力を抜くことができる貴重な時間。
「疲れたわ……」
「今日も頑張りましたね、お嬢」
「いい加減、名前で呼んで頂戴よ」
「ご当主様に許可をいただいてからなら、いくらでも」
唇を尖らせながらも、ロザリーヌはローレンの肩に頭を預ける。彼は彼で、優しく引き寄せて髪を撫でてくれて、その大きな手に重みをかけた。
魔導艦の建造時期の前倒し。本城の再建の凍結。それらの原因となる西の大国の使者の対応。国内の不穏な動き、水面下の情報戦。あれやこれや、あれやこれや。戦争が過去のものとなりつつあるとはいえ、依然として問題は多い。
まったく。全部放り出して逃げ帰ってしまった友に、文句の一つでも言ってやりたいところだ。
しばらくの間、彼の手のぬくもりを感じながら、物思いにふける。複雑に結わえられていた長い髪はいつしかほどけ、彼は手櫛でその先端を柔らかく梳いていた。彼は髪を下した方が好みだと知っているので、ロザリーヌは好きにさせておく。
ふと、机の上にある手紙の束が目に入った。その中の一通の中身を思い出した。
「……コーティ、大丈夫かしらね」
「どうすかね、一人で抱え込みそうな雰囲気はありますけど」
≪我儘王子≫唯一の専属侍女。きっと気苦労も多いだろう。
先日、王子がコーティを連れまわして階下を練り歩いたという噂はロザリーヌの耳にも入っていた。まるで侍女のお披露目でもしているかのような、一周回って堂々としている王子の言動。周囲の使用人たちのやっかみに晒されなければいいのだが。
「でも、相談したいだなんて。あの子、ちゃんと言ってくれて一安心だわ」
いっぱいいっぱいの日々を過ごしているのだろう彼女から、ロザリーヌ宛てに手紙が届いたのが今日の朝のこと。予想通りと言うべきか、思ったよりも早かったと言うべきか。コーティの方からロザリーヌと話したいと言ってくれたのは、少し嬉しかった。
満足気な彼女を見て、ローレンも口元に微笑みを浮かべていた。
「なら、昼飯でも一緒に食ったらどうです?」
「……それは暗に、私にちゃんと昼食を取れと言っているのかしら」
「めんどくさいからって、なんでもかんでもパンに挟むのはいい加減やめましょうよ。『あーん』のし甲斐がない」
「うーん、そうは言うけれどね……」
特に用事のない日の昼食なんて、腹が膨れればいいもの。簡単につまめれば十分だと思うのだが。
明るいブラウンの髪の先をいじる彼の手の感触を確かめながら思う。仕方ない、明日はちゃんと食べるとしますか。全くの別件ではあるものの、食事関係の仕事で意見を求められていたことだし。それと合わせれば、きっとちょうどいい機会だ。
「……ねえ、ローレン。明日朝一で、あの子に声かけてくれる?」
「お任せを。ちゃんとカワイ子ちゃんを口説いてきますよ。……いてて、言葉の綾ですってば」
口を尖らせて、従者の頬をつねってやった。もちろん力はそんなに入れていないから、彼もなんだかくすぐったそうだ。
「でもお嬢。その前にちゃんとお風呂入って、ちゃんとベッドに入ってくださいよ? 今度ソファで寝たりしたら、今度こそ置いてきますから」
「分かってる、分かってるわ。……その前に、もうちょっとだけこのまま。ね?」
「はいはい、どうぞ気のゆくまで」
くすくす微笑んで、親愛なる従者にもたれながら、ロザリーヌは目を閉じた。
*
コーティが遠慮がちにドアを叩くと、向こう側からすぐに「どうぞ」と声が返ってきた。
西支城の二階、城の中庭が見下ろせる広々としたバルコニーを訪れていたところである。こんなところに来るのは、侍女も初めてだった。普段は確か、名のある家のご令嬢方が集まって、お茶会だか何だかを開く場所ではなかっただろうか。
「失礼します」
開かれたドアから踏み入れた瞬間、太陽が投げかけた日差しに目を細める。時刻は正午、お天道様もてっぺんで笑う時間。
流石は城のバルコニーである。コーティが想像するような、いわゆる洗濯物を干すような張り出しなんかとは格が違う。草花に彩られたその場所自体が、まるで一種の庭園のようだ。
何より注意を引いたのは、その香り。王城の中ですれ違うご令嬢方と言えば、決まって華やかな香水の香りを漂わせているもの。ところがこの場所に漂うのは、自然な花の匂いだ。なるほど、こんな場所でお茶を飲めたら確かに楽しいのかもしれない。
季節は春も終わり頃。新緑はその色を深め、雨期の手前の日差しに向かって葉を目いっぱい伸ばしている。
その中央にあるテーブルに、令嬢が腰かけていた。侍女を迎え入れてくれた長身の従者が、恭しくその隣に立って、主に何事かを囁く。
「あら、もうこんな時間なのね」
コーティの顔を見て目を真ん丸にした令嬢は、トントンと書類の束を整えてから立ち上がった。彼女はこんな場所でも仕事をしていたらしい。
「よく来てくれたわ。突然呼び出しちゃってごめんなさいね」
「いいえ、私からお願いしたのですから……。お呼びいただきありがとうございます」
「ふふ。それは良かった。……ねえローレン、用意はできていて?」
「もちろんですとも、お嬢」
ロザリーヌの隣に佇む従者に目を向けた。今朝、ルイスの執務室へ行く途中のコーティに声をかけて来た男である。
ローレンと名乗っていた、随分な優男だ。気品あるロザリーヌにいつも付き添っている執事らしく、その所作は優美の一言に尽きる。言葉を交わしたことこそないものの、彼女の後ろに必ず控えている顔だった。確か使用人仲間の間でも人気だったはずだ。
彼からの言付けは、お昼にバルコニーまで来るようにというもの。
コーティから話をしたいとお願いしたのはつい昨日だ。てっきり数日は待つつもりでいたのに、早速場を整えてくれたあたり、流石と言うべきか仕事が早い。それは非常にありがたい。
「あの、これは……?」
ちょいちょい、と手招きするロザリーヌに合わせて近くへ寄る間に、従者は従者で端に避けていたカートを押して戻ってきた。被せられていた蓋を取ると、現れたのは、それは見事な料理の数々。
「あら? ローレン何も言わなかったの? お昼食べましょ、お昼」
コーティは首を傾げる。
「……どなたかとの会食の給仕をご所望なのですか?」
ロザリーヌはくすくす笑うと、首を横に振ってみせた。
「違うわコーティ。あなたが食べるのよ。これを、あなたと私とローレンの三人で」
「はあ。……え?」
「ほら、早く座って頂戴?」
一拍置いて事情を理解して、コーティは頬を引き攣らせた。ああ、まさか。
「あの、私は侍女ですよ……?」
「あら、侍女としての自覚が出て来たみたいで嬉しいわ」
「そうではなくて……」
ロザリーヌはなんだかとても楽しそうだし、ローレンもニコニコ笑っている。一介の侍女がどうして、伯爵家の跡取りと飯を食べることになるのか。絶対おかしいではないか。
「……考えが甘かったようです。ようやく殿下の執務室から抜け出せて、今日は分不相応なことしなくて済むなあ一安心、なんて思っていたのに……」
思わず空を仰いで、ああ、今日の空も真っ青だ、と現実逃避。向かいでロザリーヌが口をへの字に曲げていた。
「流石に殿下ほど常識外れを演じているつもりはないんだけど……」
「いやあお嬢。残念ながら人のこと言えない思いますよ?」
「ちょっと、それってどういう意味よローレン!」
「そのまんまの意味ですって。コーティさん、自信もって大丈夫です。あなたの感覚は何もおかしくありません」
一気に砕けた空気にコーティは目を白黒させるしかない。
そういえばライラから聞いたことがあったっけ。ロザリーヌ様と従者は絶対好き合っているはずだって。確かに二人の間には主従を超えた信頼関係が見える気がした。
「いいじゃない。私だってたまにはかわいい女の子とお話したいのよ?」
「お嬢、おっさんみたいなこと言うのやめましょうね」
「うっ、今のは素だったわ」
とは言いつつ、彼女は拗ねたような目でコーティを見つめてきた。
「誰にだって裏を探り合う貴族の世界から離れて素直になりたい時くらいあるの。もちろん噂にならないように、ローレン以外には今日のこと知らせてないし。……どうかしら、私と一緒にお昼食べるのは駄目?」
眉を下げて、首をほんの少し傾けて。そういう表情はズルい。
元より拒否できる立場でもないのだが、ロザリーヌはちゃんと他の使用人の視線を考えてくれていたみたいだった。その心遣いはありがたい。同期からの質問責めは本当に厄介だと、最近身に染みているので。
「いえ、あの……。驚いただけであって、お食事をご一緒させていただくのはむしろ光栄なのですが……」
「うんうん、そうでなくちゃっね。早速準備するわよ、ローレン!」
「私も同席しますし、そんなに肩肘張る必要ないですって」
なんだかかの有名な才女の化けの皮が剥がれた気がする。わざわざ自分から立ち上がって、上機嫌で皿を並べ始めたロザリーヌを見ながらそんなことを思う。
ライラの憧れだったはずの、気品溢れるロザリーヌ様は一体どこに行ってしまったのだろう。流石に何があったか言うつもりはないけれど、今日部屋に戻ったらライラの認識を直してあげたほうが良さそうだ。




