はじまりはベッドの上 その1
ものの見事に、王城付き使用人コーティ・フェンダートは熱を出した。
もちろん風邪などではない。当たり前である。
昏睡すること丸二日、意識混濁二日間。お医者の先生によると、どうやら高熱のせいで、意識がないままうんうん唸っていたそうだ。
運ばれてきたとき、状態はかなり深刻だったらしい。魔法開発と同時並行で進んだ、医療技術の革命。それがなければコーティは死んでいた、とまで言われた。
治癒魔法とは名ばかりの、けれど一応止血程度には役立つ魔法。人体と水の関係性が明らかになっていたからこその、薄い塩水の摂取。更には徹底した洗浄と衛生管理。それらを駆使して何とかつないだ命なのだと。
上手くいって良かった、ニ十年前なら傷が化膿して死んでいたというのはお医者様の談。
意識を取り戻した後も、試練は続いた。
とにかく動けないのである。痩せる、よりも衰弱するという表現が正しく、意識はあっちにフラフラ、こっちにフラフラ。これが果たして傷のせいなのか、熱のせいなのか、それとも痛み止めのせいなのかも分からない。気付かぬうちに妙なこと言ってないだろうな、とコーティは恐ろしい。
意識がはっきりしている時間は、窓の外を見る。コーティのベッドは窓から少し離れているから、額縁に入れられた絵画のように、世界が切り取られて見えるのだ。
この城は再建中だから、ガラス越しの視界に映るのは、本城の骨組みがほとんど。あちこちに突き立つ柱と、職人たちの姿。三年前に崩されたという≪玉座の間≫の丸屋根が形になるのはいつになるのやら。
見える景色から、少なくともコーティが寝かされているのが東の支城だということは分かった。
それも高層階で、部屋には世話係の使用人までつけてくれる好待遇。使用人の世話をする使用人なんて、本末転倒で何だか申し訳ない。
けれど認識が追いつくのはそこまで。あとはクラクラ、寝るばかり。
熱が下がりはじめたのは体が回復を始めた証拠だと、お医者様は言っていた。まだまだ油断は禁物、とにかく絶対安静で、仕事に復帰するにはもう三月くらい必要だとも。三か月もこのままかあ、冬が終わってしまうなあとげんなりしたっけ。
そんな病室暮らしに置ける一番の問題は、けれど実を言うと体のことではなかったりする。ほら、毎日嵐のごとくやってくるそれが、今日もドアを開けてやって来た。
「よう」
コーティが右手を対価に守り抜いた男。今のカーライル王国で、最も王の座に近い男。
ドアの方へと首を動かせば、出迎えた医務室付きの使用人が深々と頭を下げているのを見ることができた。
「いらっしゃいませ、王子殿下」
「ご苦労。皆、気にせず続けてくれ」
「畏まりました」
ルイス・マイロ・エスト・カーライル王子。長ったらしい名前の彼は、御年十七歳。
今日も護衛を引き連れて、彼はコーティの病室を訪れる。
「今日は起きてたみたいだな。コーティ、具合はどうだ?」
「……お陰様で、日々回復を実感しております」
コーティは横になったまま、目線だけを彼に向けた。失礼だとは分かっているが、体が動かないのだ。仕方ない。
一応、自分だってはじめの頃は、目覚めるなり部屋の中にいる王子に驚いていたものだ。けれどこうも毎日来ていれば、流石に慣れもやってくる。
そうそう、どうして自分の名前を知っているのか聞こうと思ったこともあったけれど、少し考えて止めた。王族なのだから、その気になれば名前の一つや二つ、調べるのは造作もないはず。ちなみに最初は無理やり体を起こして出迎えようとしていたコーティも、「怪我人が馬鹿な真似をするな」と怒られて以来、布団にくるまったままで話をする。
このルイス王子、とにかく面倒くさいのである。
例えば今日。彼は当たり障りのないコーティの言葉に、ふんと鼻を鳴らしてみせた。
「なるほどな。で、具合は?」
「……」
いつも彼はこれである。コーティが並べ立てる上辺だけの言葉を、彼は受け取ろうとしない。
諦めの境地で、コーティはありのままを答えた。
「……昨日よりはマシです。ですが朝晩はかなり痛みます」
「そうか」
答えるルイス王子は表情を変えずに、しかしほんの少しだけ俯いた。少しだけ気遣うような、低い声が続く。
「……すまないな」
「お気になさらず」
「なんだよ、謝り甲斐のないやつ」
謝罪の言葉をもらうのもいつも通り。コーティが気のない答えを返すのもいつも通り。
コーティには、彼がよく分からない。
王子様なんて殿上人が、一介の使用人の病室にまで、こんなに頻繁にやって来るものなのだろうか。こういう疑問は口にしたことがないし、これからもするつもりもないけれど、どうも普通ではない気がするのだ。
彼は毎日、ただ純粋にお見舞いにやって来る。
かけられるのは体を気遣う言葉ばかりで、厳しい視線は向けられない。襲撃の場にいた不審な使用人に尋問する訳でもないというのは、一体どういうことなのだろう。コーティも大抵のことは隠す気はないのだから、気になっているなら聞けばいいのに、それをすることもないなんて。
「飯はどうだ? ちゃんと食えてるか?」
「流石は王城カルネリアと実感しました。まさかパン粥すらこんなにおいしいとは思いませんでしたので」
「しっかりしたものが食えるようになったら、菓子でも持ってきてやるよ」
「……ありがとうございます」
コーティは目を閉じた。一国の王子相手であっても、薬の影響だと言えば理由もつくだろう。目を開けていたら話題を探さなくてはいけないから、面倒だ。
ルイス王子も口を閉じる。
こんな時、彼は小さな椅子をベッドの脇に持ってくる。何をしているのかと伺えば、大抵本を読んだり、部屋の机を借りて書付をしたり。椅子の一つくらい誰かに運ばせればいいのになんて思いながら、コーティも何も言わない。一刻くらいしたら彼は立ち上がり、じゃあなと言って部屋を出るのが日課になりつつあった。
王子は今日も、ベッドサイドに椅子を引っ張って来た。
彼が読み止しの本を開いて目を落とす。コーティがチラリと盗み見た表紙には「機械工学」の文字。お堅いものを読む人だと思いながら、左手で布団を引き寄せてもう一度目を閉じる。
静かだけれど、人のいる空間。居心地悪いような、そうでもないような。
一日のほぼすべてをベッドで過ごすコーティだが、驚いたことにいくら寝ても寝たりない。きっとそれだけ体が弱っているということなんだろう。
目をつむれば睡魔がやって来るのも早く、コーティがウトウトしはじめてしばらく。珍しく、彼が思いだしたように顔を上げた。
「あ、そうだ」
本から目を離さないまま、彼は言う。
「お前、復帰は再来月なんだってな」
「……はい」
お医者の先生は言っていたっけ。どうやら山は乗り切った。ちゃんと安静にしていれば、じきに傷も塞がるだろう。後は体力の回復を待って、少しずつ体を動かしましょうと。
でも、とコーティは包帯で固められた腕を見下ろすのだ。
肘の関節のすぐ下、いわゆる前腕と呼ばれる部分。その中ほどからすっぱりとコーティの腕はない。果たしてこれで、一体どんな仕事をしろと言うのか。
しかも良くないことに、コーティが失ったのは利き腕。正直に言えば、日常生活を含め、何をするにも一苦労だ。
将来を考えたところで碌な未来は描けず、けれどそれは腕があった頃から変わらないかと自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。そもそもが失ってばかりの人生だ。今更一つや二つ、なくしたところでどうとも思いやしないのだ。
「――その方向で話進めてるから。よろしく」
その声に、呆けていた視線を戻した。
半分寝ながらそんなことを考えていたせいで、気付いた時にはコーティはルイスが何か言っているのを聞き逃してしまった。失態、注意力があちこちに飛んでしまうのは、これこそ薬のせいということにしておこう。
「……申し訳ございません。今、何と……?」
目の前で眠りこけたり、話を聞いていなかったりする新米使用人。この王子、そのうち怒って「無礼者!」とか言い出さないだろうか。まあその時はその時だけれど。
そんな心配もどこ吹く風、ルイスは眉をちょっとだけ上げて、ようやく本から顔を上げた。
「ん? ああ。復帰したら俺の侍女になってもらうって話」
「はあ……」
こくりと頷いて、一拍置いて。コーティは目を剥いた。はずみで眠気が吹っ飛んだ。
「はあ?」
「だから侍女として俺付きに」
もしかして、いつの間にか本格的に寝てた? これは夢か何かか、だとしたら妙に現実味を帯びた夢だと、瞬きを数回。
「……誰がですか?」
「お前以外に誰がいるんだ」
「……」
これでも普段、コーティはコーティなりに最低限の礼節を保っているつもりだ。そう言うと周りの人は変な目をするが、それはさて置いて。普段は冷静さを自負するコーティも、流石に取り繕える内容ではなかった。
「馬鹿ですか殿下」
「馬鹿を庇って腕ふっ飛ばす馬鹿には言われたくねえよ」
二人とも全くもって口調が淡々としているからだろう。ベッドの中から放たれた暴言に、王子の後ろに控えた護衛騎士が目を剥くまでには、一瞬の間があった。
「いやいや。だって私、腕ないんですよ? 侍女にしていただいてもご迷惑おかけするだけです」
「そりゃ俺のせいなんだから。責任取るのは当たり前だろ」
彼はパタンと本を閉じる。「つーかさ」と、彼はぞんざいな口調で続けた。
「そもそも、どうしてお前は俺を責めないんだよ。片腕失ってるんだぞ、俺のせいで」
「責めてどうなるっていうんです。恨み言をお伝えすれば、殿下は私の腕をくっつけてくれるんですか?」
ルイスの眉がピクリと動いたが、コーティは気にしなかった。
「この城の使用人として私が怒るべきことがあるとするなら、殿下があの時間に自室から抜け出していたことについて、でしょう。……正規の護衛を連れもせず」
「……」
「理由は聞きません。聞いたところで納得なんてできやしないから」
側に控えていた騎士が少しだけ視線を逸らした。
腰の両側に一振りずつ剣を携えた壮年の男。見るからに護衛であろう彼は、ルイスの隣に毎日姿を見せる。
それなのに、あの夜だけは姿がなかった。何かしら理由があったことくらいは推測がつくし、それに付け込んだコーティもコーティだけど。
あんまり突っ込んで、藪蛇をつつくのも良くない。コーティはほどほどに切り上げることにした。
「……あの場に割り込んだのは私の判断です。それを不憫に思われる謂れはありません」
それだけ言って、コーティはもう一度目を閉じた。
感情を表に出すのが苦手な自分だが、とは言え腕まで失って何も思わないほど不感症じゃない。互いに面倒な身の上。このまま彼と話を続けていたら、睨みつけてしまいそうだった。
目を閉じていても分かる、腕の痛みとは全く別の痛み。三年前に生まれた胸の苦しみには、煮えたぎるなんて熱さはもうどこにもなくて、代わりに煮凝って鍋の底に張り付いたような、べたべたになった思いが口を動かした。
「……別に腕だけじゃない。この国は、どれだけ私の大切なものを奪えば気が済むんですか」
言い切ってすぐに、後悔する。だってそうだろう。彼が悪い訳ではないと知っているのに、詮ないことを言ってしまったから。
これだから感情は厄介だ。喪失感と罪悪感に傷つくのは自分じゃないか。
それに、失礼も度が過ぎた。王子の機嫌を損ねた罰として、怒られるのかもしれない。流石に処刑とかはないと思うが、現にルイスの父親はそういうことをためらいなく行う悪王だったと聞く。
そんなことを考えて、無言の時間を過ごす。何か言い返す言葉を考えているのか、いつまで経っても声を出さない王子が気になったコーティは、ちらりとその美貌を見上げてから、ピクリと肩を震わせた。
理由は簡単。彼の顔に、まるで獲物を見つけた猛禽のような表情が浮かんでいたから。
「言うじゃないか、気に入った」
「……」
「コルティナ・フェンダート。お前、やっぱり俺の侍女になれ」
コーティ、ではなくコルティナと。その時だけ、彼は誰も使わないコーティの本名を呼んだ。
気に入った、だと? 今までの話を聞いていたのだろうか。腕を奪い、今度はコーティの忠誠まで奪おうと言う男。まさしく愚王の息子にふさわしい横暴ではないか。そんな非難を込めた視線にも、彼は動じやしなかった。
流石にカチンときて、コーティはルイスの目を睨みつけた。
「……それは、私が何者かご理解いただいた上での発言ですね?」
「なんだ、自分の立場を気にしてたのか」
「当たり前です。今は友好関係にあるとはいえ、私は龍神聖教会の女、かつての敵なんですよ?」
「それこそうってつけじゃないか。喜べよ、いい報告ができるぞ、教会に」
ルイスの浅い海の色の瞳に、コーティは悟る。この男、私のことを調べた上で言っているな、と。
ならば、話は早い。驚きの収まった胸中にいつもの諦観が忍び寄るのを感じながら、コーティは囁いた。
「……私に拒否する権利などありません。どうぞお好きになさればいいでしょう」
「よしよし、言質は取ったからな」
満足げに口元を吊り上げて、彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。背もたれの両端を掴み、椅子を律義に片付けてから、ルイスは顔だけ振り向いて言う。
「コーティ。まずは傷を癒せ、命令だ」
「……言われなくとも」
そっけない返事を聞いた彼は、何故か楽しそうに部屋から出て行き。
こうしてコーティ、もといコルティナ・フェンダートは、カーライル王国王子ルイスの侍女となったのであった。