二本の指では、掴めない その9
侍女の仕事というものは、本来大半が地味である。
そんな当然の事実が新鮮に思えることこそが、最近のおかしさを端的に表していた。
服を脱がされたり、会議に首を突っ込んだり、模擬戦をしたり。これが果たして侍女の仕事なのだろうか。体のいい便利屋さんみたいな毎日で、あっちこっち振り回されている記憶ばかりが積み重なっていく。
そんな自分に苦笑しながら、バケツの水にただよう布巾をコーティはひょいとつまみ上げた。
絞る。
右手の義手、指替わりの金属板をカチリと音を立てて閉める。布巾は板と板の間に挟み込んで固定し、左側の手で思い切りねじった。残念。布巾は義手の金属板の隙間からすっぽ抜けていった。ビチャっと水が跳ねて顔をしかめる。
「……やっぱりうまく掴めませんね」
「把持力が弱すぎたな、それ」
ポタポタと水の滴る布巾をぶら下げる侍女を、ルイスが横目で眺めていた。
コーティは気にせずもう一つ持ってきた空のバケツに雑巾を押し込んで、魔法陣を展開した。
「うん、いい感じです」
「……戦闘用の魔法じゃねーのかそれ」
「……あんな使い方あります? 時折、自分の頭の固さが嫌になってくる」
王子と近衛隊長が向こうで何かぼやいているが、何も答えずもう一度布巾をつまみ上げる。
吸収の魔法を撃ち込んだ布巾は、完全に乾いたわけでもなく、かといって水が滴ることもなく、非常に良い水加減であった。戦闘技能もなかなかどうして役に立つ。
「仕方ないでしょう? この腕、まだうまく使いこなせていないんですから」
「いや、そうじゃなくて。まあいいか……」
早速出窓の上を布巾で拭き始めたコーティをちらりと見て、ルイスは諦めたように机の上の図面に視線を戻した。無言で掃除をするコーティ、無言で図面を見つめるルイス。マティアスも何やら書き物をしている。
何だかゆったりとした時間だ。コーティがこの間まで寝ていたあの病室みたいで、この数日の慌ただしさが嘘のよう。まだ寝込んでいた頃、ルイスはよく見舞いに来ては本を読んでいたっけ。
静かだけれど、人のいる空間。居心地悪いような、そうでもないような。
書類のページをめくる音。布が出窓の上を撫でる音。インク壺にペン先が当たる音。春の日差しが差し込んで、掃除をする侍女を照らす。
「……もう少ししたら、雨期が来ますね」
「雨は嫌いだ」
独り言のつもりだったのに、執務机の方からそんな声が返ってきた。
「どうしてですか?」
「じめじめするじゃないか。日が遮られたら憂鬱だ」
侍女は、ふうん、と気のない相槌を一つ打つ。
「それでは、お好きなものは?」
出窓を拭き終わり、隣の棚へ。何冊か無造作に積み上げられている本を手に取る。「カーライル王国憲法」の表題の上にはうっすらと埃。濡れた布ではなく、ハタキでそっと撫でる。
その隣に連なる「魔道具機構便覧」、「魔導銃圧力弁の形状実験 中間報告」、「並列魔導伝達機構についての研究と実践」辺りは、コーティが図書館にお使いに出されて借りて来たものだ。なんでも新しい義手の参考にしたいらしい。
「機械いじり。それから魔法」
彼の答えもまた、見事に予想の範囲内である。機械は知らないが、魔法についてはコーティも同感だ。
「私も魔法好きですけどね。素直で」
「コーティのは運用特化だろ。俺は魔道具の仕組みとか機構が気になるのさ。……つーか素直って。魔法に対してそんな感想抱く奴がいるとはなあ」
本の隣に置いてある籠に目をやる。蓋が半開きになっていたので覗き込むと、中には金属のガラクタが山ほど入っていた。そっと手を伸ばし、籠からはみ出していた鉄板を持ち上げてみる。微妙に湾曲しているけれど、こんなに硬い金属、一体どんな方法で曲げているんだろう。
「どうすれば効率よく力を取り出せるか。どうすればより小さく機構をまとめられるか。ワクワクするじゃないか」
「なるほど?」
案の定よく分からなかった侍女が曖昧な相槌を返すと、彼はふと紙から顔を上げて呟いた。
「……機械は良いよ。人間のように裏切ることがないから」
ペンの先が瓶に当たって、かつん、と軽く音を立てた。
「機械の場合、失敗には必ず明確な原因がある。例えば強度が不足しているとか、配管の取り回しが良くないとか。もしも理由が分からないなら、それは単に己の理解が追いついていないだけってことになる。……でも、人間だとそうはいかない。金とか、出世とか、名誉とか。後は個人的な好き嫌い。そういうあやふやなもので溢れている」
彼はふと図面から視線を外した。端に転がしてあった王印を手に取って、ポーンと放り投げては掴み取る。部屋の隅っこでマティアスが渋い顔を向けているのはなぜだろう。その印章がとんでもなく大切なものだから、そんな理由だけではないような気がした。
「そんなもんどうやって予測しろってんだ。人に人の心は読めない。仕方なしにこれと決めて信じていたりすると、手痛いしっぺ返しを食らったりする。……だから嫌いだ。国をいじるより、機械をいじってた方がずっといい」
コーティはガラクタを籠の中に戻してから、そっと蓋を閉じた。こちらの籠には埃が積もっていなかったけれど、丁寧にハタキで拭っておく。
きっと彼が、憲法の本よりもガラクタの詰まった箱の方を良く触ることの証拠だろう。それが今の会話で分かってしまったから。
「……はじめて、気が合うと感じました」
「なんだ、気付いてなかったのかよ。お前ホント鈍いなあ」
俺とコーティは、よく似てるよ。どことなく嬉しそうに言ってから、ルイスは図面に視線を戻した。
「あと、俺に物怖じせず、ズケズケ悪態つくところ。この城にはそういう奴が少なくてな」
「……私、そんなにズケズケ言ってます?」
確かにたまに失礼なことを口にしているが、それは王子が馬鹿なことを言い出した時だけにしているつもりだ。思い当たる節はそこまで多くない。
首を傾げていたら、ルイスと、それから何故かマティアスまで、こちらに呆れた顔を向けていた。
「マジか、もしかして自覚なしかよ……? いいかコーティ、そこは変えるなよ。命令だ」
「……畏まりました?」
後はもう、静かに掃除をしたり、本を読んだり。
少しだけ、居心地の悪さが消えているような、そんな気がした。




