かくして反撃の狼煙は上がる その9
コーティの背中側で、ケトが翼の角度を微調整する気配。動きにあわせてコーティのお腹の辺りが少し持ち上がり、最も風に乗りやすい体勢を整える。
コーティは周囲にぐるりと視界を巡らせてみた。
昨日も飛んだ王都上空。まだ朝も早い時間の今、遮るものの何もない大空は、記憶にあるものとはまた違う景色を見せてくれた。
広がる世界が、薄明の空の元に浮かび上がる。眼下に映し出されるのは、数えきれない建物たちに、高い外壁に、煙突から立ち上りはじめた煙。人々が新しい一日を迎え今日を生きていく、そんな合図。
昨日よりもずっと上がった高度なら、見える景色もまるで別物だ。城下街の南端には二本の大河の合流地点が見える。キラキラと輝く水面は遥か下、海へと続く青い道標だった。河沿いに続く曲がりくねった街道に、いくつかの宿場町。
少しずつ、少しずつ、世界が照らされていく。
「今日も、いい天気になりそう」
そんなケトの囁きが、コーティの耳朶を揺らした。
「綺麗……」
相も変わらず、コーティは自分の感想を表に出すことが苦手だ。この場にぴったりな表現を探しに探した挙句、見つけたのが「綺麗」の一言では、胸に抱く感傷のほんのわずかも伝えられない。状況が落ち着いたら、人への気持ちの伝え方を練習したいな、と思う。
それでも、これが今のコーティの本音だ。何にも邪魔されず暁の空へと呟けば、ケトも同じ言葉で応えてくれた。
「うん……。とっても、綺麗……」
世界がグンと速度を増し、コーティの周囲に風切り音がまとわりつく。胸元に収めた王印を服の上からぎゅうと握り、ルイスから受け取った王印の感触を確かめたなら、火傷するほどに柔らかい熱がコーティの胸に宿る。彼のくれた確かな証だった。
「ねえ、コルティナ」
「なんですか?」
ふと、ケトが呟く。宿敵の穏やかな声を聞いたコーティは、自分の返答が似た声色になるのを感じた。
「今のうちに、あなたにこれを渡しておくよ」
背中側から伸びてきた手。顔の脇から伸ばされた小さな手のひらに、不思議な光沢を放つ飾りに首を傾げた。
「なんです、これ?」
「時計なんだってさ。元々は遠い国の人が持ってきてくれたものらしいよ」
「はあ……」
曖昧に頷いてから、とりあえずその懐中時計を受け取ってみる。艶やかな黒、どことなく自分の黒髪と似た光沢の蓋を開けたコーティは、文字盤を眺めてから疑問符を浮かべた。
「……何語? ネルガン語?」
「ううん。ネルガンとは別の国の言葉らしいよ。でも読み方は普通の時計と一緒なんだって。てっぺんがゼロで、十二に分かれてて」
コーティはふうんと頷いて、ケトに言葉を返した。
「珍しいもの持ってますね。でも、時計ならもうあるんで大丈夫です」
「ちょっ!?」
なんで今更懐中時計なんか。そう思って当然のように断ろうとしたら、ガタンとケトの姿勢が乱れた。ケトがすごい勢いで慌て出す気配。差し出されたコーティの手はそのまま放置して、うんうん唸る声が聞こえたかと思うと、ケトが幾分か困った声を出した。
「……コルティナがもう時計持ってることなんて知ってるって。その上で渡そうとしてるの、気付いてよ」
「どうしてそんなまどろっこしいことを?」
「……」
しばらく無言のまま風の音を聞く。王都の街並みは一瞬で遥か後方に過ぎ去って、二人は大河に沿って更に南へ。直下にはいくつめかの宿場町の朝が見えた。
「昨日お風呂で話したこと、覚えてる? 名前の話」
やがて、ケトはそんなことを切り出した。
昨日の今日だから、覚えていて当然だ。ケトとライラと三人で風呂で長話をしたけれど、そういえば、ケトがコーティを本名で呼ぶ理由を聞きそびれたことを思い出す。
「マイロで、あなたをよく知る人たちに会った」
「教会に、行ったのですか?」
「巡礼者用の宿舎に泊めてもらったよ。良いところだった」
コーティはマイロの教会を思い浮かべてみた。立派な大聖堂に狭苦しい寮。朝ごはんの味は単調なオートミール。隣部屋のリネットの顔を思い出し、昔の戦友はどうしているだろうかと、そんなことを考える。
城に出仕する時、もう戻るつもりがなかったから、それこそ今生の別れのつもりで出て来たのだったか。ひょっとしたら、ケトは向こうでリネットとも会ったのかもしれない。
「この時計、あなたの幸せを願うひとから渡されたんだ。飾りのままでいるより、どうせなら役に立った方がいいって」
「……? 誰ですかそれ?」
コーティの幸せを願う人? ケトの口調からしてリネットではなさそうな雰囲気だが、心当たりがどこにもない。
「教えてあげない」
「いや、教えないって……」
「ただ、あなたを『コルティナ』って呼ぶ人だったよ」
いよいよもって誰のことか分からなくなったコーティを他所に、ケトは言葉を区切った。
「……わたしの敵は、どこにでもいる普通の人だった。ちゃんと名前を付けてもらって、でも名前を大人に奪われて、今は不思議な名前で呼ばれている人。だから、たくさんの名前を持っている」
「……」
「そういう話をいっぱい聞いて、教会のことを目で見て、それでわたし、思ったんだ。確かにあなたは≪百十四番≫目の駒だったかもしれない。けれど別の誰かにとっては『コーティ』で、他の誰かにとっては『コルティナ』……。ちゃんと名前があって、そのどれにも願いが込められてる」
名前とは、自分が自分でいるための道標。絶対になくすな。
そう教えてくれたのは、コーティの教官だったか。
「その時計は『コルティナ』を愛しく思う誰かにもらったもの。わたしにそのことを気付かせてくれたもの。だから今のわたしは、あなたがその持ち主にふさわしいと思ってる」
「……」
「そのひとの願いを伝えてもらったわたしだから、あなたを本名で呼ぶんだよ。コルティナ・フェンダート」
そこまで言い切ったケトは、目を何度かパチクリさせてから、「ふんす」と荒く息を吐いた。
「ふふん。わたし今すごい良いこと言ったと思う」
「……私には何言っているのかまるで分りませんが」
なんだかよく分からないことをまくし立てられて、結局時計を押し付けられただけな気がするけれど。
「いいのいいの」
ケトの声は、どこか晴れやかだった。
「コルティナがそれを持っていることに、意味があるんだからさ」
差し込む太陽が、漆の光沢を放つ異国の時計を照らし出しす。いつしか王都は空の向こうに霞んでいて、二人の娘が向かう南の空もまた、深い青色に彩られていた。
【お知らせ】
いつもお読みいただきありがとうございます。
本話にて九章が終了となるのですが、ここでお詫びとお知らせです。
大分粘ったのですがストックが完全に尽きました。そのため、長期の休載に入ります。
なるべく早い再開を目指しますが、ある程度書き溜めてからになるので少し時間がかかると思います。
楽しんでいただいている皆様、大変申し訳ありません。
恐れ入りますが、ご理解いただけますと幸いです。




