もう一度、彼の元へ その11
体の芯を揺るがし、心の底まで動揺させた激震。耳鳴りを起こさせるほどの轟音。
床にへたり込むルイスもまた、例外なくその余波を受けた。小さな石の破片がいくつも体に打ち付けて、たまらず両手で目を庇う。瞼を強く閉じても、向こう側で輝く光は容赦なく視野をちらつかせた。
「……!」
周囲を騒がせたそれらが、ようやく収まりはじめたころ。
恐る恐る開いた目に映るのは、驚く程に柔らかな外の明るさ。先程の攻撃的な閃光とは打って変わった穏やかな光は、恐ろしい嵐が過ぎ去ったことを象徴しているようだった。
崩れた壁からパラパラと。最後の欠片が吹き散らされた後、残ったのは静寂のみ。
「けほっ、けほっ……」
心を蝕み続けた重荷が、とうとう限界を超えてしまったみたいだった。感覚が麻痺したように、怖いという感情が働いてくれない。目の前で繰り広げられる惨状に、心も体も、もうついていかないのだ。だから、体中の力が抜けて、うなだれててしまうのも当然のこと。
もう嫌だ。動きたくない。考えたくない。
こんな、どうにもできない国なんて。こんな、どうにもならない自分なんて。外から差し込む明るい世界も、ルイスの元までは照らそうとはしない。自分のいるところは冷たい影のままで、あの暖かさを感じる資格もないのだろう。
そんな灰色の世界の中で、けれど一つだけ動くものがあった。
「ルイス様」
崩れた床の端に這いあがって来た娘。ルイスは首だけ回して、のろのろとそちらを見上げた。先程の大胆な戦闘機動から、パタパタとお仕着せの前掛けを手で払う繊細な仕草へ。俺は化かされているのかもしれないと、そんなことを思った。
「お怪我は、ございませんか?」
重いブーツの音とは裏腹に、彼女の動作は軽やかだ。日差しを全身に浴びたその姿が、少しずつ近づいて来る。埃にまみれているのに輝きを失わない黒髪、いつものお仕着せに、いつもの黒い瞳。
耐えきれなくなって、ルイスは口を開く。
「止まれ」
自分で言っておきながら、足音が止まったことにルイスは少しだけ驚く。彼女はちゃんと、ルイスの命令を聞いてくれた。……もう、そんな必要もないくせに。
「守ってくれたことには、礼を言う」
「……ルイス様?」
「だが、言ったはずだ。お前はクビだと」
もう、限界だ。誰にも近寄って欲しくなかった。
「なぜ来た。こんなところで何をしている?」
「……」
「俺のこと、恨んでんじゃないのか? お前の気持ちに付け込んで、復讐の段取りまでつけておいて。なのに本当は、俺の方が利用して捨てたこと。……もう全部知ってるんだろ?」
先程、コーティがマティアスと交わしていた会話は、もちろん聞いている。彼女の叫びの文脈に、ルイスの所業を恨む言葉はなかった。
だがどうして、その言葉を信じられようか。
他の誰よりも、コーティ・フェンダートという一人の人間の悲哀を知っている自分なのだ。この半年、コーティが耐え忍んできた苦しみを余すところなく見聞きしていたはずの自分なのだ。
戦いの熱に踊らされる中での発言を、そっくりそのまま鵜呑みにするなんて、ルイスはもう、そんな馬鹿なことはできなかった。
≪白猫≫襲撃こそ、コーティ・フェンダートが命を懸けた悲願。
教官の仇を殺し、あの戦争に決着をつける。それだけのために、彼女はどんなことだってやってのけた。右腕を失うことも厭わず、かつての敵の息子に頭を垂れる屈辱に耐え、我儘にだって付き合ってくれた。
「言い訳のしようもないよ。俺さ、こうするしかないって思って、カッコばっかつけてさ。……お前のこと、傷つけるって分かってたのに」
「……」
「襲撃の時、最後の最後で≪白猫≫を水に沈めたろ? ああすればお前が奴を追撃できなくなると思ったんだ。だから最初から、コーティを勝たせるつもりなんてなかったんだ」
国を守るためには致し方ないことと、そう割り切っていたルイスは何も分かっていなかったのだ。
地上へ脱出した≪白猫≫に、コーティが最後まで食らいついていたこと。重症を負ってもなお、立ち上がったこと。けれど果たせず、倒れ伏した彼女が叫んだこと。
――やっとここまで来たの……。だから殺さないと、私じゃなくなっちゃうの……。
ルイスは、その悲鳴を直接耳にした訳ではない。すべてが終わった後に騎士団が持ってきた、無機質な調査で知っただけ。
それでも、普段の丁寧さすらも忘れたその口調だけでも、ルイスを慚愧の念に駆らせるには十分だった。途中まで手を引いていた迷子を、知らない場所に放り出してしまったような気持ちになった。
「酷い話だよな。お前の悲しみを教えてもらっておきながら、俺がお前を裏切っていたんだから。……そこまでして強行した策も、今じゃこのザマだ」
刻一刻と悪化する状況。自分にはもう王族の力もなく、沈みゆく国の象徴として見せしめにされる未来しか残っていない。
マティアスは自分を逃がす気だったようだが、ルイスはそれこそ許せない。
常に王族であれ。父が自分に施した教育、洗脳と言ってもいいそれは、しかし王族としての心構えと言う点では間違っていなかったのだと、ルイスは今もなおそう思う。国が消えるなら、自分だけどうして生き残ることができようか。それが国の主としての責というものだ。
心の中が滅茶苦茶だった。王族としての不甲斐なさ、一人の男としての不甲斐なさ。ごちゃ混ぜになったそれが、無力感と合わさって少年を苛む。そうして最後のとどめは、ずっと一緒にいた近衛騎士に刺されてしまった。
こいつでは駄目だからと。近衛が国のためを思って行動を起こした内通の事実。彼がルイスを王子として認めていなかったという現実。ただ裏切ってくれた方が、何倍もマシだった。
かつんと響いた足音が、ルイスの意識を目の前に戻させる。
先程まで足を止めていたはずの彼女が気付けば目の前に立っていて、だから、二人の距離はあと三歩。
「なあ、コーティ」
かつん。あと、二歩。
「俺だって、そこまで察しが悪くはないつもりだ。……もう打つ手はないよ、万策尽きた。コーティを裏切り、国を滅茶苦茶にして、そうして俺はこの国と一緒に終わる」
あと、一歩。
俯けた視界に、戦闘用に補強されたブーツが入り込む。それは彼女が戦ってまでこの城に帰って来た証だ。それは駄目だ。せめて、コーティだけは傷ついて欲しくない。
「だからはっきり言わせてもらう。お前に、もう利用価値はないよ」
突然、上から右手が降りて来た。
無遠慮に伸びて来た義手は、迷わずにルイスの喉元へ向かう。複雑な金属音を立てて五本の指が閉じ、胸倉を掴まれる形になったルイスは、そのまま有無も言わさず引き上げられる。
力の抜けた体は素直に従い、侍女服のスカート、白いエプロン、左肩のマントと、その向こうで揺れるおさげが次々に目に入った。
「今度こそ、ここから離れろ。邪魔だ」
抜け殻の顔で嘲笑い、彼女の顔に焦点を合わせた瞬間。
「ごっ!?」
まるでとどめと言わんばかり。渾身の力で引き寄せられて、ルイスは思い切り頭突きを食らった。
骨と骨がぶつかる衝撃、そのあまりの力強さに脳が揺れ、視界には一斉に星が飛び散る。鼻骨が潰れたように痛み、恥も外聞もなく悶絶する。
けれどコーティは離してくれない。もう十分痛いのに、むしろ襟首を掴む力は強まるばかり。義手を互いの体で挟んでいるものだから、ルイスの胸骨を金属の外板がごりごり圧迫してくる。ぶつかった衝撃でどこかを切ったのか、口腔に血の味が広がっていった。
痛い。叫びたいのに体が言うことを聞いてくれない。
どうして声が出ない。どうして悲鳴が塞がれる。とにもかくにも苦しくて、涙の滲んだ目をカッと見開いた。
その途端、飛び込んできたのは彼女の顔。たとえいきなり頭を叩き込んできた女であっても、ああ本当にかわいいな、なんて思ってしまう自分は、どうやら本格的に男として駄目らしい。
きめ細やかな肌、長いまつげ。瞼を閉じているせいで黒い瞳は見えないけれど、久しぶりに見たその顔に目を奪われてしまって。
……というか、あれ? なんで?
そこで、ようやく疑問を抱いた。
俺は今、何をされている? 襟首を掴まれ、立たされて、頭突きを貰って、それで……。
「……?」
なんで俺、コーティとキスしてるんだろう。
「……んっ」
彼女の吐息が顔をくすぐった。
痛みを発していたはずの唇に広がっていく、この柔らかさは何だ。口腔に広がる血の味に混ざっていく、この甘さは何だ。伏せられた目、切なげに寄せられた眉、紅に染まる頬。彼女から目が、離せない。
二人の距離は、もうなくて。
はじめてのキスは、彼女と自分の、埃と涙と血の味がした。
ちゅ、と音を立てながら、やがてコーティの唇が離れていく。
それを呆然と見送ったルイス。口元をすうと通り抜けた空気に、不思議な冷たさと熱の残滓、そこはかとない名残惜しさを抱き、そんな自分に戸惑いながらも濡れた彼女の唇が開くのを真っ白な頭で見た。
「あなたが好き」
コーティは言う。
「見栄っぱりなのに、実は臆病なあなたが好き。いたずらばかりで、人を驚かせずにはいられないあなたが好き。責任感があって、裏ではずうっと考え続けているあなたが好き。我儘なくせに、優しいあなたが好き」
蕩けた笑みで、恥ずかしそうに、嬉しそうに。
血の滲んだ唇が、溢れんばかりの好意を紡ぐ。
「私の悲しみに、心の底から寄り添ってくれた。そんなあなたが、大好きです」
「……え?」
「だから、ここまで来ました」
何も考えられなかった。彼女の言葉が分からなかった。
コーティが、自分を好き? それはいったい、どういうこと?
「勘違いされるのも、逃げられるのも嫌です。なので、はっきり言いますね」
こちらが訳も分からず混乱しているのに、彼女はそんなルイスを放っておいてくれない。
「間違いなく、これは恋です。だって今の私はこんなにも、身も心もあなたに抱かれたい」
恥じらいと、色気が彩る恋情の声。依然として理解は追いつかず、けれどルイスは自分の頬に一気に熱がたまるのを感じた。
なんだそれ、なんだそれ。なんて言えばいい? なんて返せばいい? 分からない、分からない。
「……ふ、ふざけるな。俺はコーティを利用したんだ。復讐を……お前が生きる理由まで利用した最低のクソ野郎なんだぞ……!」
「ええ、ええ。確かに、ルイス様の隠し事を知った時には腹が立ちましたとも。傍に居て良いって言ってくれたくせに、本当は約束を守るつもりなんてこれっぽっちもなかったなんて。本当に酷い人」
「そ、そうだよ。俺はコーティに、嘘をいくつも……」
「優しい嘘でした。私の復讐が成し遂げられられることはない。そう仕組んでもなお、私のこれからを考えてくれた嘘でした」
意味が分からなくて、彼女の目の前で首を振る。違うと言う。
コーティをブランカに追いやったのは、一種の贖罪のようなものだ。散々使い潰しておきながら、このまま自分の側において謀殺されるのを見たくない。そんな現実的な理由で言い訳をしていただけだ。それを優しいだなんて、そんな評価はあり得ない。
なのに、コーティは聞き入れてくれなかった。
「あのね、私、自分には復讐しかないんだって、ずっと考えていました。命を捨ててでも成し遂げなくてはいけないんだって、思い込んでいました。……でも、違ったんですよ」
こちらの胸倉を掴んでいた彼女の指から力がすっと抜けた。まるで本物の腕のように、コーティの意志を受けた義手が動く。女性らしい繊細な仕草で、彼女は右手を自分の胸元に当ててみせる。
「本当に伝えたいこと……復讐って言い訳で覆ってしまっていたこと。それは確かに、別にあったんです」
憂いを帯びた微笑みを見せた彼女は、ルイスから視線を逸らそうとしない。こちらは恥ずかしくて仕方ないのに。
「≪白猫≫を襲った後、それはもう、抜け殻みたいになっちゃいましたよ。思い描いていた復讐に限りなく近づけたはずなのに、全然心が晴れなかったから。そんなはずない、私はあいつに一矢報いたんだって考えようとしたのに、これぽっちも上手くいかなくて。代わりに思い浮かぶのは、何故かあなたの顔だけ。もう何もかも分からなくなって、悩んでしまって」
「それは俺が、復讐の邪魔をしたからだ。そのせいで、コーティは≪白猫≫を逃がすことになって……」
「いいえ。たとえあの時ケト・ハウゼンを殺せていたとしても、何も変わらなかったって断言できます」
コーティは、そこで笑みの種類を変える。気負いのない苦笑。自分自身に呆れていて、それでいてそんな自分を認めている。そんな顔だった。
「だって私、本当は話を聞いて欲しかっただけなんですから」
「え……?」
「ルイス様ならご存じの話です。……戦後、教会が悪の象徴として語られるようになってしまったこと。正しいと信じていたのが実は悪いことで、だから捕虜になって街の復興に従事するのが当然だったこと。私だって教官を殺されたのに、その悲しみも憎しみも、敵だから、戦争だからで片付けられてしまったこと」
手駒として洗脳された彼女にとって、己の全てを否定された経験。出会った時から、その惑いとやるせなさが彼女の言動の端々から滲み出ていたことを、ルイスは確かに知っている。あの頃のどこか投げやりな態度はすべて、コーティの負った傷を示していた。
「どうせ誰も分かってくれない。だって私は敵だから……。そうしてどんどん卑屈になっていって、誰も信じられなくなって、一人で突っ走っていた頃ですよ。私がルイス様に出会ったのは」
「……」
「もちろん最初はあなたを信用しませんでした。取り入る相手としてあなたを選んだのも、なんかちょうどよく襲われてくれた偉い人だったから、それだけです。運よく襲撃の計画があるらしかったので、ならそれに乗じて恩を売ってやろう、そうすれば私を無下には出来ないだろう、そう考えました。利用するだけしたら捨てて、≪白猫≫の居場所に向かうつもりでいました」
歯に衣着せぬ言い方で、ずけずけと並べ立てたコーティ。
「……それなのに、あなたは驚くほどに手を貸してくれましたね。こちらが気後れしてしまうくらいに」
彼女がルイスの傍に居てくれたひと時を思い出しているのだろう。噛みしめるような声色だった。
「一度だけならまだしも、それが続けば、流石の私だって思います。少しは事情を話さないと、ルイス様に申し訳が立たないなあって。……それではじめて、私は私のことを私の言葉で、他人にお話しました。それこそが本当に求めていたことだなんて、あの時は欠片も思わずに」
それがいつのことを指しているのか、ルイスにはすぐに分かった。
夏前、二人で城を抜け出した時。ルイスがコーティを振り回して、コーティのお洒落にこっそり視線を奪われていた日。街の噴水の端に並んで腰かけて、色々なことをおしゃべりした。
あの日の自分も、今みたいに視線は彼女に釘付けだったっけ。くりくりした真っ黒な瞳は、ルイスを惹きつけてやまない女の子の目だった。
それと同じ瞳……否、輝きを増したとさえ思える瞳が、打ちひしがれたルイスの前にあった。
「だから、いざ≪白猫≫を襲うって時にはもう、自分の願いを叶えてしまっていたんですよ。私が必死に伝えた心を、ルイス様がちゃんと受け取ってくれた。本当はそれだけで十分だったんです。こっちの機嫌を取るわけでもなくて、行き過ぎた同情をするわけでもなくて、むしろ私の依存心を指摘しながら、その上であなたは私の悲しみを認めてくれた。……私が、私でいて良いんだって言ってくれた」
コーティが伝えてくれた辛さを、ルイスははっきりと覚えている。
あまりに幼稚で、あまりに悲痛なやるせなさ。迷い子が拗らせた依存心に呆れつつ、けれどそうならざるを得なかった境遇に悲しみを覚え、その上でルイスは言葉を返した。
復讐を肯定したい奴なんてどこにもいない。けれど、彼女はそれを望んでいて、それを叶えてやりたいと願ってしまう自分もいて、そんな切ない感情すら利用する自分に打ちのめされながら。
自分が自分でいることをやめるな。確かに伝えた、素直なルイスの心だった。
「そんなの、恋しちゃうに決まってるじゃないですか」
「っ……」
「大好きなあなたが危ない。あなたが向き合うこの国が危ない。私がここにいる理由、変でしょうか?」
ようやくじわじわと実感が湧いてきて、顔の熱が収まらない。
「だけど、俺はもう……」
「私、≪白猫≫の町で、たくさんのことを知りました。ケト・ハウゼンのこともそうですが、あなたの苦労も、あなたの重責も。そしてあなたに危機が迫る理由も……とても一人に背負わせるものじゃないって思いました」
呆然とする。そんな言葉が彼女の口から発せられるなんて、欠片も想像していなかったから。
黒の輝きに、今までなかった深さを見る。人の数だけ蔓延る思惑、国と国の論理、強者と弱者の宿命。それらを理解しようと努めはじめた意志を表す、射干玉の瞳だった。
「だから、それこそマティアス様のおっしゃった通り、ルイス様を連れて無理やり逃げるのも悪くないとも思いました。でも私は我儘なので、そのくらいじゃ満足できません。……街に降りたあなたは、きっとあなた自身を傷つけてしまうのでしょう。そのことが分かる私は、だからこう聞きます」
どうして、どうして。どうして俺のことなのに、そんなに自信を持って言えるんだ。声は掠れて出てこない。
「ねえ、ルイス様。あなたは何を望みますか。どんなこれからを、選びたい?」
「これ、から……?」
「はい。あなたが何と言おうと、私はあなたの侍女。大好きな主の願いを叶えるためなら、どんな苦難も恐れない」
それは、本当だったら男を奮い立たせる言葉だったのかもしれない。
けれど「これから」という漠然とした響きと、ここにいる彼女の非現実さは、ルイスにとってあまりに眩すぎた。
「……ごめん、コーティ」
歯を食いしばって、震える息を吐く。
顔を伏せたのは、彼女の顔を見ていられなかったから。
「これ以上、俺を揺さぶるのはやめてくれ」
「……ルイス様?」
酷いことを言っている。その自覚は痛いほどにある。それでも、止められなかった。
「せめて、最後に恰好くらいつけさせろよ」
「どういうことですか?」
「俺はこれから死にに行くつもりだ。この国と一緒に。もう、どうしようもないんだ」
コーティの表情が固まった。俯いていても、それくらいは分かった。
「だって、こんな弱い国に何ができる。こんな、俺のせいでバラバラになっちまった国で」
先程まで鳴り響いていた鐘の音は止まっている。扉の外から響いていた戦闘音も、散発的なものが残るだけ。近衛とコーティの協力者との戦闘は膠着状態にもつれ込んでいるのだろう。でなければ、扉から誰かが入ってきて当然だから。
「やっぱり俺、国王には向いちゃいないらしいや。こんなことなら、親父の独裁の方がまだマシだったよ」
普段なら絶対に言わないことなのに。そう思っても、今だけは止められなかった。
溢れ出したのは、王子の名が聞いて呆れる、一人の少年としての怯えの感情だ。なんて情けない奴だろう。告白してくれた娘の前で、その好意を否定する泣き言なんて。
「……ルイス様」
「コーティだって、今は熱に浮かされているようなもんだ。……俺には分かる。お前もマティアスと同じように、いつか俺に愛想をつかして、俺を裏切るんだ。だってこんな臆病者が国の顔を気取ってるんだから……。一時の勢いに惑わされるな。少し距離を置いて、ゆっくり考えてみろ。俺をまだ主と認めてくれるなら、これが最後の命令だ」
半分泣きそうになりながら、ルイスは絞り出すような声で言った。
千年の恋も冷めるに違いない、そんな台詞だった。恥ずかしい、穴があったら入りたい、その自覚もあった。こんなもの、屑で救いようのない、ダメ男の言い分でしかない。涙で歪んだ視界を瞼で覆って、我儘を吐き出しただけ。
問題の根本が、捻くれ者の自分にあることも分かっている。すべては自分の至らなさの問題だ。我儘の皮を被って逃げ続けた挙句、自分はとうとう袋小路に入ってしまったらしい。
幼い頃から付き従っていた近衛騎士の裏切りが、ルイスの箍を外していること。為すすべない無力感が、全てを諦めさせていること。だから今の自分が平常心ではないこと。それもちゃんと客観視できているくせに、臆病者が止まらない。
「馬鹿……」
コーティの声。言いつけの通り、先程の熱が幾分か抜けた、静かな声だった。
「馬鹿ですよ、ルイス様って。いえ、知ってはいましたけど」
その評価も当然だ。そう言われても仕方ないことを、自分はしている。
「私がいつか愛想をつかすかもって、いつか裏切るかもって。そりゃもうその通りですよ」
あまりに軽い口調で、とんでもないことを言われたような気がする。いや、そう言わせたルイスが指摘できるようなことではないけれど。
「だって私、つい最近まで自分の気持ちすらまるで分っていなかったんですよ? ようやくその辺りに整理がつけられたってところで、そんな現実味のない話されても。まあ、そのうち裏切るかもしれないですね、としか言いようがないです」
「……そう、だろう?」
ほら、コーティだってそうだ。身勝手な失望と一抹の安堵に、ルイスは大きく息を吸う。
「もう俺、裏切られるのは嫌だ。こんな家に生まれたってだけで、どいつもこいつも俺をそういう目で見やがって」
コーティを睨みつける。ずっとくすぶっていた癇癪に火がついたような気がした。
「その結果がこれだよ。マティアスを見ただろ? あいつ俺が不甲斐ないからって裏切りやがって……。こっちが上手くできないからって、俺を裏切るなよ……! 勝手な理想を俺に押し付けるなよ……! お前だってそうに違いないんだ、どうせ役に立たない奴だって分かったら俺を捨てるんだろ!?」
もう自分で何を言っているのか、分からなくなっていた。ただ、溜め込んでいた苛立ちが、そのまま塊となって噴き出しただけ。どうだ、自分はこういう男だ。流石にコーティも愛想をつかしたことだろう。そうでいてくれ、そうであってくれなければ困る。
だってルイスはもう、これ以上コーティを好きになりたくないのだ。
「……」
微かに聞こえたコーティの吐息。傷つけたことは、それだけでルイスにもちゃんと分かった。この後に及んで我儘の仮面を被った意味、コーティならきちんと理解してくれているはずだと信じた。
「ブランカに戻れ。お前の居場所はここじゃない」
そうして、決定的な言葉を突き付けた瞬間。
なぜか、ルイスは顔の両脇を思い切りひっつかまれていた。ぐいと上を向かされ、首が悲鳴を上げる。
「ああもうっ!」
そうして無理やり広がった視界には、噛みつかんばかりの彼女の怒声。黒い瞳を爛々と光らせ、両手でルイスの頬を持ち上げたまま、彼女は叫ぶ。
「いいですか、ルイス様! 私を見なさいっ! 今あなたの前にいる、この私を!」
「……!?」
「あなたが救った女です。あなたに救われた女です。ここまでしておいて、今更そんな態度が通じるとでも!?」
見たことのない、コーティの顔だった。
「ふざけないでよ、馬鹿にするのも大概にして!」
「ちょ……」
「ちゃんと見てっ! 私は今ここにいるの! なに勝手に過去の女にしようとしてるんですか。そんなの、この私が許すはずないでしょ!?」
コーティは怒っていた。きちんと向き合おうとしないルイスに怒っていた。
「私を見て! あなたに恋をした女の、こんな恥ずかしくてはしたない顔を!」
乙女そのものの台詞を吐く彼女は、しかし黒い瞳でこちらを睨みつける。
はじめてだ、と驚く。この娘のこんな顔を見たのは、後にも先にもありはしない。こういう表情も見せるんだって、彼女の新しい一面に呆気にとられた自分がいる。
「いいですかルイス様。言っておきますが、あなた私の理想からびっくりするほど離れてますからね!?」
「え……」
「私の好みはもっと大人な男性です。こっちが信じきって、依存して、甘えても、ちゃんと受け止めてくれるような……包容力っていうんですか、そういうのがある人。ルイス様、全然ダメじゃないですか!」
あまりに真正面から放たれた毒舌。そのあまりの切れ味の良さは、抱えていたやるせなさごとルイスの胸をグサグサ抉ってくる。
「信じると騙してくるし、甘えたいのに甘えられてるし、猫被ってなんにも教えてくれないし。依存した結果、あの手紙で私がどれだけへこんだことか……。私も自分が信じられませんよ! こんな人を好きになっただなんて……!」
なんだかもう、消えてしまいたい。男の尊厳をズタズタにされて、傷つかない野郎はそうそういないのだ。
けれど情けない男の自覚があるルイスには、逃げることもかなわない。涙目を何度も瞬いて、口元に力を込めたルイスは、けれどそこで視界に映り込んだコーティの表情に言葉を失った。
「それでも……っ!」
ようやく気付く。
肩を怒らせ、眉を吊り上げ、瞳を歪めて、真っすぐにこちらを見て。そんな激怒の後ろに見えるのは、ただただ切ない、そんな想い。
もうそこに、諦めていた彼女の姿はどこにもない。命を燃やし尽くした抜け殻の影なんて欠片も残っていない。紛れもなく、一人の女の子がそこにいた。
「それでも足掻くあなただから、好きになったんです。誠実に他人の悲しみに寄り添おうとしてくれるあなただから、好きになったんです」
「コ、コーティ……」
「不器用なのに頑張るあなただから、私は恋をしてしまったんですよ?」
器用な手先が自慢の不器用なコーティは、迷いなく言い切る。
ルイスがこうしたのだと。ルイスがコーティを変えたのだと。
「あなたがいたから、複雑すぎる人の世を知ろうと思えた。その中で私が私でいる意味に気付けた。……私を騙して復讐を邪魔した? はっ、その程度の裏切りでグダグダ言ってんじゃないですよ」
「……!」
「裏切られたくない。そう願うのならば、これからもずっと、あなたを私に伝えなさい。あなたが諦めない限り、私もあなたに伝え続ける努力をしますから」
「何を、言って……?」
「私が直情的で短絡的な人間だって、分かってるでしょう? 隠し事には気付けないんです、伝えてくれなきゃ分からないんです」
そうしてへにゃりと笑ってみせた彼女は、紛れもなく恋する乙女そのもので。
「だから、伝えてくれさえしたら、私はあなたと二人で悩むことができる。教えてくれさえしたら、私はあなたと二人で苦しむことができる。今の私は、そうしたい」
「コ、コーティ……?」
「なんにも特別なことなんてない。あなたの立場なんか知ったこっちゃない。だから話して、私に伝えて。これまでの私とあなたがそうであったように。今の私とあなたがそうであるように」
「なんで……」
「だって、人と人って、そうして歩み寄っていくものでしょう?」
どうしてそこまで。傷つけられて、悲しんだだろうに。苦しんだだろうに。
「なんでだよ……」
そんなふうな顔をして、埃と汗にまみれた顔で笑ったりして。
「なんでお前、ここまで来たんだよ」
もう隠しきれない涙声に、彼女は柔らかく笑ってこう答えた。
「だって私、あなたが好きなんだもの」
ああもう、ああもう。駄目だ。もう駄目だ。
逆立ちしたって、自分はこの娘に勝てそうにない。その言葉が伝えるコーティの心は、ルイスの意地を優しく解きほぐしてくれるような気がして。
もしかして、強がらなくてもいいのかな。強がる必要、ないのかな。
そんな考えはすぐに違うと気付いた。だって、コーティはそんな生易しい人じゃない。もう彼女の前で強がったって、なんの意味もないのだ。
「私はもっとあなたを知りたい。あなたにもっと私を知ってほしい。そんなこれからは、お嫌ですか?」
強引に手を差し伸べられて、隠していた重荷を持ち上げられてしまったような、そんな感覚。
戸惑う。戸惑っている間に、彼女に手を取られてしまう。その手の感触が、ウジウジと続けようとする言葉を断ち切っていく。
ああもう、なんだこれ。何をどう言い訳すればいい。この滅茶苦茶な心の内を、どう表現したらいい。
落ち着け。俺は今混乱している。この期に及んで客観視する自分が、ひねくれたことを言う。
これほどに揺らぐのは、コーティの言葉に絆されているからだ。好意を抱く女性に告白されて舞い上がっているだけなんだ。こんな自分を認めてくれた、その喜びと一時の欲に動かされようとしているだけだ。
さっき自分で言ったじゃないか。これは一時の熱に浮かされているだけ。だから、受け入れるなんて馬鹿のすることだって。
「……コーティ」
「はい」
でも、それでいいんじゃないのかな。
「俺、情けない男だよ?」
「大丈夫、知っています」
「自分に自信なんて持てない。人を疑ってかかる臆病者で、格好つけようとしてばかりで……」
「はい。へたれ具合は相当なものだって、私が保証します」
だって言い訳も癇癪も抜きにして、他の誰でもない彼女に聞いてみたくなってしまったのだ。
「……そんな俺が、最後に悪あがきをするって言ったら、手を貸してくれるか?」
やっぱり腑抜けた、伺うような、蚊の鳴くような、情けない声しか出なかった。
だというのに、彼女の笑顔が花開く。愛おし気に目を細められる。それだけでどうしてか、ルイスも嬉しくなってしまう。情けない自分が嫌になって、それと同じくらい体の芯にふわりと暖かな熱が生まれる。
「その言葉を、待っていました」
そうして手を引き寄せられて、思わず前に出て。近づく距離、伏せられる瞳。
今度はルイスも目を閉じて、そうすれば意識が彼女の柔らかさに埋め尽くされる。ありとあらゆる言い訳が今度こそ押し流されていく。
ああ、ああ。俺は死ぬまでこの女性に振り回され続けるんだろうなあ。
漠然と抱く予感は、きっと当たるはずだ。そんな自分も悪くないと、素直にそのことを認めてしまっているのだから。唇同士が離れた後で、はにかむ彼女に目を奪われているのだから。
「あなたの言葉、いくつか訂正させてください」
「え……?」
「この私が、最後になんてさせません。あなたが起こすのは、これからをつくる革命です」
キスの余韻に頬を赤らめる彼女はそんなことを言って、やっぱりルイスを振り回す。
ちょっと待って欲しい、なんて言葉を聞いてはくれないことは分かっている。男としての尊厳なんてもうズタズタで、けれどそんなもの何の意味もないと受け入れていて、彼女の言葉に尻を叩かれて、癒されて。
戸惑う、戸惑う。もう訳が分からない、難しいことなんて考えられない。
ただただ、コーティが愛おしい。今はそれだけ。
ここからどうすればいいのか分からない、そんな泣き言も彼女なら聞いてくれるのだろうか。間違いなく、受けとめてくれるのだろうと、素直に信じる自分がここにいた。
「策があります。私とハウゼンが紡ぐ、この国を傾ける策です」
「……え?」
笑顔のコーティが、ルイスの手を引いた。
導かれて、日差しの中へ。一歩を踏み出せば、想像よりもずっと眩しい世界にルイスは目をぎゅうと閉じた。
「準備だって、私頑張ったんですよ?」
恐々と瞼を開けて、世界が自分の目を焼かないことを確かめる。やがて再び像を結んだ視界。崩れた床の端に立つ自分たちは、壊れた塔の壁から青い空を見上げていた。
そうして映る外の世界が、ルイスに鳥肌を立たせた。
「なん、だ……?」
崩れた瓦礫の向こう。遮るもののなくなった世界では、崩壊した城壁の守備隊が悲壮な騒ぎを起こしていた。コーティが右手で一点を示し、促されるように視線を向かわせる。
慌てふためく騎士たちの中に、銀の閃光が一筋、稲妻のように走り抜けていた。それが何か、見間違うはずがない。奴が、≪白猫≫が、龍の少女が空を翔けている。
「何をしたんだ、コーティ……?」
視界の奥には少女、暴れ狂い悪夢を作り上げる。
視界の手前に侍女、王子を導き外の世界に連れ出す。
どう考えても、自然に作り上げられた状況じゃない。多分、きっと、この光景を作り上げたのはコーティだ。呆けた頭でも、それだけはなんとか理解できた。
「従属でもなく、蹂躙でもない。そんな第三の選択肢を求めていると聞きました。≪白猫≫襲撃は、その計画の一部だったと聞きました」
「……それは、でももう失敗して……。だから、全部無駄で……」
「無駄なんかじゃない。だって、おかげで私はあなたに会えたんです。ケト・ハウゼンという少女を知れたんです」
きらめく瞳が、こちらの目を覗き込む。艶めく唇が、彼女の願いを紡ぎ出す。
「そんな今だからできることがあります。あなたと、私と、後はあいつで。だから――」
ただでさえ赤い頬が、更に熱を持つのを感じる。囁く彼女から、目が離せなかった。
「どうか私に手を貸して。これからもあなたの隣で歩ませて」
情けない、ただそう思った。好きな娘にここまで言わせておいて、これで応えなかったら男じゃない、と。
「……コーティ」
心の底から感謝を込めて名前を呼べば、目の前の彼女が頬を染める。恥ずかしそうな彼女があまりに可愛らしくて、ルイスはもっと、そんな彼女が見たいと思う。
「ありがとう。ここに来てくれて」
国がどうとか、立場がどうとか。それは昔も今もルイスにとっての一生の枷。気にせず生きるなどという選択は端からなく、だからずっと付きまとう重責だった。
そんな自分の、ありのままを知ろうとしてくれる人がいる。それだけでなんだか心強く感じるのは、自分が単純な人間だからだろうか。
まあでも、男なんてそれで十分だ。細かいことは全部放り投げて、今ならそう思えるルイスがいる。だから、その言葉を、ルイスは気負いなく口にすることができた。
「俺も、ずっと前から君が好きです……なんて、今更すぎて笑われるかな……?」
このひと夏、彼女は何を経験したのだろう。このひと夏、彼女はどんなことを考えたのだろう。
知りたい。もっとコーティとおしゃべりをしたい。もっとコーティと仲良くなりたい。ルイスの心に浮かぶのは、どこまでも素直な望みばかり。
情けない告白に目を見開くコーティは、やがて心の底から嬉しそうに頬を染める。
「えへへ」とはにかむその笑顔が、紛れもなく、これからと呼びたい未来の入り口でルイスを待っていた。
【お知らせ】
いつもお読みいただきありがとうございます。
次話から九章に入るのですが、更新頻度を変更します。
(月・水・金の週3回予定)
ストックが厳しくなりつつある&なかなか執筆の時間が取れない状況が続いていまして……。申し訳ありません。
次回は6/27(月)投稿予定です。




