もう一度、彼の元へ その9
「行け、≪五本指≫ッ!」
コンラッドが煙幕弾を投げつけたなら、小さな箱の中で魔法が起爆し、狭い通路に真っ白な煙が一気に噴き出していく。同時にコーティは石の床を全力で蹴り飛ばす。煙幕が視界を遮る直前に、コーティは通路の奥に陣を張る近衛隊の位置を確かめた。
「続け、総員突撃ッ!」
後方でコンラッドの声。通路の左端に寄って駆け抜けるコーティの横を、幾筋もの光弾魔法が煙の中へと抜けていく。まるで視界の効かない霧に突っ込んでも、前方のあちこちから悲鳴と応射の音が聞こえ、闇雲に放たれた光が、次々と煙を突き破る。
既に魔導銃の出番はなかった。見栄えばかりで装弾に時間のかかる銃より、威力が低くても連射の効く光弾魔法の出番。コーティが前面に張った防壁で幾発かが弾け、驚くような勢いで瓶の浄水を空にしながらも、足だけは止めてなるものかと歯を食いしばった。
「来るぞ、かかれッ!」
自分の前と後ろで声が弾け、男たちが狭い通路を走り始めている。こうなってしまうと、もう遮蔽物を取っての射撃戦なんて状況ではない。剣と剣、魔法と魔法。こんな閉所で煙幕を使ったのだ。白兵戦にもつれ込ませるしかないと判断するには十分なのだろう。
煙の中に、突然男が現れた。コーティは気にせず魔防壁ごと突っ込む。防壁が剣筋で削られ、コーティはそのまま男を叩き潰す。今度は右側をすり抜けていく光槍魔法、その隣でコーティも光弾魔法を乱射。白煙の中に吸い込まれるように消えた光が何かに当たる音。数発が直撃したのか、よろめいている男を床に蹴り倒す。
「敵はどこだ!?」
「扉を死守しろッ!」
すぐ傍で声。コーティは姿勢を下げて体を滑らせる。ざあっと流れる石の床をお尻の下に感じつつ、腰元に携えていた魔導拳銃を両手に握りしめた。
霧の中、やっと扉を目視する。死守を命じられたであろう近衛騎士が数人、こちらに剣を向けていて、それもコーティには予想済み。
下げていた姿勢から一気に伸びあがり、立ちはだかる男の股間に渾身の蹴りを叩き込む。潰れた悲鳴が床に倒れるよりも早く、コーティは右手で発砲、左手も続ける。左右で頽れる男が二人。右から奇襲、コーティは撃ったばかりの銃把で殴りつけ、その後ろで放たれようとしていた魔法は、拳銃自体を投げつけて照準を逸らす。
しかし相手も黙ってはいない。コーティの位置を把握したのだろう。ちらと向けた視線では煙しか見えないが、戦士の嗅覚が、幾人もの敵の、なりふり構わずこちらに突っ込んでくる様を察知していた。
「モタモタするな、≪五本指≫!」
けれどこちらも同じだ。煙幕を割って現れた敵の前には横合いからコンラッドが滑り込み、コーティの前に立ちふさがる。交わされる剣と剣、そのまま押し込んでいく。
「貴様の敵は中だ! とっとと突っ込め!」
「了解!」
誰かが落とした銃剣付きの魔導小銃を拾い上げながら、コーティは技師から渡されていた小さな箱を取り出す。表面の薄紙をもぎ取るように剥がしてから、錠と扉の端の間に叩きつけた。片面に塗られた粘度の高い機械油が鉄扉に張り付き、小型の魔導爆弾を接着させる。
「≪五本指≫が突入する気だ! やらせるな!」
「突入を支援しろ、≪五本指≫を死守だ!」
戦士たちの怒号が空気をかき回す中、コーティはがむしゃらに呼びかけた。
魔法よ魔法、私の魔法。どうか、願いを聞き入れて。
彼にもらった無数の可能性の中から、私は私の未来を選んだの。過酷な道になるだろうって、そんなことは分かってる。これからも、悩み、惑い、苦しみ続けることは分かってる。
それでも、私が選んだこれからを。彼と共に歩むこれからを。
「こじ開けてみせろおおおおおッ!」
コーティの両手に、暖かな光が満ち満ちて。
牢獄の鍵が、弾けた。
*
頑丈な鉄の扉を突き倒し、大量の煙と共に飛び込んだ瞬間。
開けた視界、たなびく煙。見える先には二人分の影。片方が、もう片方の首に剣を突き付けていて。
ああ、ああ。もう……あなたって人は!
何をしているんですか、私の王子様!
迷わなかった。
片手で剣を突き付けた側が動く。長身の男、開いたもう一方の手で展開した魔法が光を放つ。こちらが防壁を張っていることを予測したのか、足を狙っていたようだった。けれど一緒に入り込んだ煙が光槍魔法の照準を狂わせる。
ブーツを掠めた光槍魔法はまるで気にならなかった。
部屋の奥に敵が陣取っているのは分かっていたから、真っすぐには突っ込めない。追撃の光弾魔法がいくつも暴れまわる中を、コーティはジグザグに駆け抜けた。
飛び上がり、壁に足を突いて、ベッドの木枠を足掛かりに。部屋を跳ねまわる侍女、周囲を跳ねまわる迎撃。光弾の一発が肩を掠めるも、その程度では何も揺らがなかった。
目まぐるしく動く視界の中、ようやく会えた彼の顔はちゃんと見えている。驚きに見開かれたターコイズブルー、彼の瞳は淡い海の色。
彼の元へ、その一心が体を動かした。
「止まれ! さもなくば……」
「さもなくば何だッ!」
彼に剣をつきつけている敵の声。銃剣を構えた侍女は、押し被せるように叫んでいた。
まるで盾にするように、主が前に突き出されている。今の敵の言葉が、コーティの動きを止めるための脅迫だということは分かっている。聞いてしまえば、コーティは動けなくなる。
だから、今だけは誰の言葉も聞けない。勢い一つを武器にして、その距離を縮める番だ。
「口を閉じろッ! 守るどころか盾にするなど、騎士の風上にも置けませんよ!」
主の体の横から突き出された手に光が集まる。コーティも光を集める。これだけ激しく動いているのだ、細やかな照準なんてつけられるはずがない。ならば!
敵の手の内で極限まで高められた魔法。それが撃ち放たれる直前、コーティは足元に魔法陣を展開する。おさげを靡かせ、ぐんと上がる体。頭を擦りそうな天井を感じつつ、爪先の下を魔法の熱が焼き焦がしていった。
魔導銃を振りかざす。この一瞬が勝負だった。
敵がわずかに動揺を浮かべる。少しだけ王子から体を離し、選んだのはやはり握った騎士剣での迎撃。コーティもまた、ぴたりと向けた剣先で敵を狙った。
「マティアス様ッ!」
「コーティ君か!?」
刃と刃がぶつかり合う。火花を飛び散らせながら、互いが互いの名を呼んだ。
マティアス・ディ・ファールラフェッテ。ルイスを守る≪近衛隊≫の隊長にして、暗躍していた内通者たちの長。
コーティは確信していた。彼は今日この日、ルイスの側にいるのだろうと。コーティの知っている近衛隊長は、そういう人だから。
力と力が拮抗する。着地した足を踏ん張らせつつも、コーティは小銃を掴んだ右手を動かして力の向きを変えた。ずれる刃、ガリガリと軋む音が一際大きくなり、銃身をたわませるコーティは時期を図る。
「まさか君とは……!」
騎士剣が動く。刃が微かに滑り、銃口に当たる金属音。このままでは押し切られると分かっていたが、コーティは気にしなかった。
無茶な負荷をかけたまま、発砲。騎士剣の端にひびが入り、金属の破片が飛び散った。
すぐさま銃把を手放して、コーティはすかさず左手を体の前にかざした。
次の瞬間、重い蹴りが腕に食い込んだ。多少の痛みは覚悟の上で、あえて正面から受け止める。案の定吹き飛ばされるコーティは、しかし足が地面を離れる寸前に右手を振り回し、隣の肩を抱き込んだ。
「うわっ!?」
耳元でルイスの声、それがもう嬉しい。
両手が使えるって本当に便利だ。片手で受け止めて、もう片手で引き寄せる、今のコーティにはそういうことだってできるのだから。
彼に触れてしまった。なんだかこのまま引っ付いてしまいたいのだけれど、今は少しばかりお預けだ。攻撃を受ける力を利用して、ルイスをこちらに引き寄せることができた。これでもう、マティアスはルイスを人質に使えなくなる。
ぎゃっ、と呻いたルイス。彼からしてみれば、突然腕を引かれた上に一緒に倒れ込んだのだからさぞ驚いたことだろう。
緊急時だ、多少の無礼は許してもらおう。この程度ではもう、コーティはためらわない。上辺だけ取り繕っているようでは、この人に追いつけやしないのだから。
「コーティ!? どうして……!?」
「決まってます!」
ルイスの肩を離し、自分だけ転がって距離を取る。こうなってしまえば、マティアスは王子を攻撃しない。それが、コーティの知るマティアスという男だった。
予想通り、追撃の魔法はコーティの至近で弾けた。体をひねっても掠めた光はとても熱く、コーティは歯を食いしばった。
「……ッ!」
広がる視界に、マティアスの剣筋。コーティだって流石にそれくらいは読んでいて、あらかじめ決めていた方へ飛びのく。髪の数本を散らしながら、コーティは展開の速い光槍魔法で時間を稼いだ。
体勢を整えて、両手を腰の後ろに持って行く。二振りのナイフを抜き放ち、滑らかな動作で構えた。
「助けに来ましたよ、ルイス様!」
「多少の妨害は覚悟していたつもりだったのだがな……!」
マティアスも既に両の剣を握っていた。早くも突っ込んできた片方のロングソードを左手のナイフで受け止めて、滑らせながら懐へ。刃と刃の間で火花を飛び散らせるも、しかし騎士は侍女の間合いに入らせてはくれなかった。まるで鞭のように鋭い斬撃。銀のきらめきが残像を残し、歯を食いしばって受け流す。
「しかし、これは予想していなかった、よ!」
コーティの顔面目掛けて突き出される長剣、寸前で右手のナイフを叩き込む。もう一振りの剣は、短剣で刃の根元を押さえ込む。
甲高い金属音を聞きながら、互いが互いの武器を受け止めた状態で、体当たり。歯を食いしばる二人の視線がぶつかりあった。
「なぜだッ!」
「負けないために!」
すぐに互いが両手に力を込めた。
飛びずさったのは体の軽いコーティ。先に動くのも、すばしこいコーティ。ナイフは握ったまま、左手で牽制の光槍魔法を投げつけて、騎士から遠ざかるように部屋を駆ける。
ロングソードとナイフでは、あまりに間合いの差が違い過ぎる。まともにやり合えば押し切られるのは明白で、けれどコーティはあえてこの武器を選んだ。
自分に重い剣はいらない。魔法と道具と、そしてこの体自体が武器になるのだから。
騎士の手から撃ち放たれた光槍魔法が、コーティの張った魔防壁を右から左に横切っていく。壁を傾けて、体は左へ流す。打ち付ける圧力がずらされたなら、捻じ曲げられた魔法が右の壁に焼け跡を残した。続く照射が接近を試みる侍女を追い、飛び散るのは互いの魔法の残滓。
「なぜです! なぜ、裏切った!?」
「それが分からないようなら、今すぐ攻撃を止めたまえ!」
「やめるのはそちらです! 推測を事実と思い込む程、今の私は馬鹿じゃいられない!」
マティアスが動きを変える。重みのある、しなやかな動き。彼の動作を阻害していたルイスがいなくなったからだというのは、コーティにも痛いほど感じ取れた。
「ならばまず現実を直視したまえ。君が考える程、国は単純ではないのだよ!」
「現実!?」
「我が国が弱小国であるという現実だ!」
緩いおさげを激しく揺らし、攪乱の光弾魔法を乱射しつつ突貫。剣の腹で魔法を受け流したマティアスが腰を落として待ち受ける。騎士の剣の間合いの直前、コーティはブーツの底を光らせた。
「うやッ!」
跳ね上がったコーティは、かざされる剣の腹に向かって片手でナイフを叩き込む。その勢いを利用して一気に体を反転。天井に足を向け、ナイフを軸にくるりと宙返り。
頭上を剣の風圧が横切っていく。ひやりとする感覚を残しつつも敵の後ろを取ったコーティは、間髪入れずにナイフを振るった。マティアスは視線を向けず、片手のロングソードを肩にのせるように動かす。刃が阻まれる甲高い音に怯むことなく、手元でくるりとナイフを回した。逆手から順手に持ち替えた刃を、こちらに振り向こうとする騎士の顎へと振り上げる。マティアスはまるで動じず、直前で首を傾けただけで回避。そのままがら空きになったコーティの体を捉えようと一歩を踏み出した。
ずいと迫った敵、彼の左手のロングソードが視界の外で切っ先を光らせているのは知っている。だからコーティは退かない。前へ、一歩でも、前へ。
左足に衝撃波の魔法陣。魔法で一気に加速させた体を騎士へと叩き込み、同時にマティアスの首筋を狙った。
「甘い!」
がっしりとした体からは予想もできないほど素早い動き。コーティの突撃を最低限の姿勢変更で受け流した近衛が、次の瞬間、右手の剣を勢いよく振るう。コーティが咄嗟にナイフをかざせば、衝撃、体ごと弾き飛ばされる。
「ぐッ!」
「君には分かるまいよ。復讐に目を曇らせた女には!」
壁に打ち付けられ、息が詰まる一瞬。
それでも目は閉じない。前を見るのを諦めるのは、死んでからでも十分間に合う。星の瞬く視界の中で、迫る刃を転がって回避。コーティは無理な姿勢のままで衝撃波を撃ち放った。体を逸らしたマティアスの左肩で炸裂。大柄な騎士の体が一瞬浮き上がり、降りて来たところを狙って足払いをかける。
マティアスが数歩後退。その隙にコーティも立ち上がり、武器を構え直す。
どう戦う、どう攻める。頭を巡らせながら、コーティは同時に問いかけた。
「そうおっしゃるマティアス様には、何が見えているんですか」
「誇るべき産業もなく、地理的な利点もない田舎国家。それがカーライルなる我らの王国だった。他国から見ても、わざわざ攻め滅ぼすだけの旨みがない。だからこそ、カーライルは長年国家としての体裁を保って来られた。これが、つい十年ほど前までのカーライルの話だ」
息を整えつつまっすぐに見つめた先で、マティアスはロングソードを握った手をだらりと下げていた。
「それを崩したものがある。何か分かるかね?」
「……」
少し前までのコーティだったら、「知るか」の一言で一蹴していたであろう質問だった。
けれど、今のコーティは、それではいけないことを知っている。彼の隣にいたいなら、きちんと向き合うべきことだから。
「……魔法。そして、それを用いた技術革新による産業の急速な発展、でしょうか」
「その通りだ。水という無限の資源が、そのまま力に転用される理論。そんな呪いが、この国で生まれてしまった」
魔法。呼びかけたら答えてくれる、素直で裏切らない、コーティのお気に入り。呪いと揶揄するには明らかに紐解かれすぎた現象を、近衛騎士は憎々し気に口にする。
「はじめは大層なものではなかった。傷つき流れ着いた龍を調べ、体内に摂取した水を瞬時に高温高圧の状態まで変化させる仕組みがあると解明した、それだけのはずだった。……本当はそこまでで満足すべきだったのだ」
「……」
「損失となる光と熱……それも厄介だが、もっと良くないものがあった。液体から気体に変化する際の、形態変化だ。我々は、その圧力を物理的な機構に組み込んでしまった。その結果が、今の異常な産業革命」
コーティは短剣を握った義手にチラと視線をやった。
魔法の圧力と金属の機構を組み合わせて、人の腕にする。そんなことができるなんて、少し前まで想像もしていなかった。
「行き過ぎた技術は、己を増長させるものだよ。こんな何もない国が分不相応な力を手に入れてしまったら、それに振り回されるのは当然のこと。それが≪傾国戦争≫の正体……そして同時に、強国がそれに気付くのも必然」
後ろでルイスが俯いている。コーティにはそれが分かった。
「ネルガンの侵攻は偶然などではない。来たるべくして来たものだ。己の力をちらつかせ、益を吸い取ろうとする強国の傲慢。……良い機会だ、聞いてみようか。そんな相手に対して、コーティ・フェンダート、君ならどう対処するかね」
騎士は侍女を見る。目を逸らさず、こちらに諭すように。
どう対処、などと言われてもコーティには分かる訳がない。けれど、自分がルイスの立場にいたらどうしただろう、そう考えることなら受け入れられる。だから、コーティは凡人の思考を言葉にしてみた。
「……方法は二つ、思いつきます」
こちらの話を聞かない侵略者が来るとして、どうするのが正解か。具体的な方法とまでは行かなくとも、コーティの頭でも導き出せる回答を口にしてみる。
「一つは、己自身もまた強くなること。魔法技術があるのだから、それを転用し、自国が襲われないような……もしくは襲われても抵抗できるだけの力を得る」
もっとも単純な答えを言葉にした瞬間、コーティの頭の中で何かが結びついた。
「……そうか。前の戦争で、この国はそれを否定したのですね」
「その通りだ」
三年前の≪傾国戦争≫は、魔法開発の主導権争いが発端になったという。
ルイスの父、前王ヴィガードが当時掲げたのは、まさに魔法技術による産業革命を基幹とした国策だった。その現象の武力転用による魔導艦隊構想と、それを前面に押し出した植民地政策。……魔法の有無は別にして、考えてみれば、今のネルガンとよく似た思想をしている。
しかし前王は進め方を間違えた。あまりに強引な手法は、典型的な独裁者の思考を体現するものとなり、当然反発する者が出て、戦争になった。
結果は、今が示す通り。過去の過ちを教訓にして、この国は強くなることよりも誠実であることを選んだのだ。
「……ああ、つまりは」
騎士の思考をなぞった侍女は、気付けばほんの少し眉を下げていた。必然、もう一つの回答にたどり着いたからだった。
「己が強くなれず、しかし相手が待ってくれない。侵略者への反抗が滅亡を意味するのであれば、最初から取り入ってしまた方がまだ良い、と?」
「もっと直接的に言ってくれて構わない。私は強者に媚を売ったとな。……はじめから協力的であれば、ネルガンから多少の譲歩を引き出す可能性は残る。少なくとも、敗戦後に無条件降伏などという最悪の事態は免れるよ。国の名もまた、残る」
コーティの息が震えた。
国を知る立場に立った男の悲哀。国体の存続だけを望んだ武官の、どこまでも現実的な思考に、ある種の納得と同情を抱いてしまったからだった。
「それが例え、ルイス殿下にとって許せることでないと分かっていたとしてもな」
誰も、何も変わらない。
勝てないから、いちゃもんをつけたルイス。勝てないから、媚を売ったマティアス。
どちらが正しい、なんて問題ではない。いかに国を守り残すか、王子も近衛もそれだけを考えていたのだ。
「コーティ・フェンダート。君が今ここにいることを、私は喜ぶことと捉えたい。……どうせネルガンは交渉に集中している。本音を話すなら今しかないのだろう」
悲しい、とコーティは思った。悪者なら悪者らしく振舞ってくれたらいいのに。これでは、誰も救われないじゃないか。
「殿下を連れて、市井へ降りろ。身を隠し、機を見て国から離れるのだ」
「……どういうことです」
「私とてルイス殿下のお命が奪われるのを見たくない。だから私は準備をした。殿下に、一人の男として生きていただく道……その用意ができている」
後ろでギリと音がした。ルイスが歯を噛みしめた音だと分かった。
「二度も主の暗殺を見過ごしておいて、今更それですか」
「まったくの正論だ。殿下にも断られたよ。……しかし、前回と明確に違う点が二つある。一つは、今日の≪六の塔≫にネルガンの人間の息がかかっていないこと。そして、ここまで侵入してきたのが外部の駒でなく、君であること。……こんな機会は二度とない。神を信じない私が言うのは滑稽だが、神の思し召しとはこういうことを言うのだろうな」
「……もし断れば、ルイス様はどうなりますか?」
「ネルガン特使暗殺の濡れ衣を着せられ裁判を受ける。処刑されることまで確定だな。それは君とて本意ではないはずだ」
唇を噛むコーティの前で、マティアスの腕が上げられた。悲壮感すらも飲み下して、近衛騎士は剣をコーティに向けていた。
ちらりと後ろに視線を向ける。ルイスが動けずへたり込んでいる理由も、ちゃんと理解してしまった。
彼が市井に降りて身を隠す。それは、もしかしたらコーティにとっても喜ばしい道なのかもしれないと、そう思う。王子でなくなれば、彼が誰かに傷つけられることもなくなる。正体を知られない限り、穏やかな人生を過ごせる。そういう選択肢が、コーティの前にあった。
「……マティアス様のお考え、確かに伝わりました」
侍女がそう答えると、騎士の表情は少しだけ緩んだように見えた。そして、後ろに庇うルイスの顔が歪むのもまた、コーティには見なくても分かってしまった。
だから、コーティは言葉を繋ぐ。
「ですが、お断りいたします」
「なぜだ。……いや、そうか。わたしも気が急いたようだ」
マティアスの目が、鋭く細められる。コーティがそうするように、彼もまたこちらの真意を見ぬこうとしていた。
「君は最後の最後で≪白猫≫への復讐を殿下に邪魔されたのだったな。救出に来たのかと思ったが、こちらの早とちりか。君は自分を利用した殿下へ復讐を……」
「自分が自分でいられない辛さを、私はよく知っているから」
馬鹿なことを言い出した騎士を、コーティは遮る。
「させませんよ」
「……」
「わたしの答えはこうです。マティアス様、ルイス様に対してそこまで考えていただいたこと、礼を言います。おかげで、私が考えつかなかった道もまた、確かにあったのだと、気付くことができました」
「ならば……!」
「なればこそです。その選択は、人の心を殺すこと。人に己を傷つけさせるものだって、どうして分からないんですか。……私ですら、彼が泣きそうになっていることくらい分かるのに」
「考えたまえ。これは個人の問題に留めておけるものではない。国の存亡にかかわる大事だ」
ああ、それこそが思考を止める言葉だ。そんな感触を確かめながら、コーティは一歩を踏み出した。
「それ、あなたの選んだ国の話でしょう。私の国は違います」
「……なんだと?」
もう一歩、前へ。
「あなたのご提案、お断りします。心を殺してまで縋るこれからを、私は未来と呼ぶつもりないです」
「心だと? それが何になる。現実を見たまえ、夢を見るのも大概にしないと己の心に殺されるぞ」
「ええ、ええ。それも正しいのでしょう。……ですが、心を無視してしまったら、それこそ私たちは人形です。心だけでは周囲を滅茶苦茶にしてしまうように、論理だけでは誰もが冷たくなってしまう」
大きく息を吸った。
主の前で、騎士の前で、侍女は背筋を伸ばす。
「だから私は、一人の国民としてお答えします。私はあなたに負けられない、と」
「……直情的で短絡的に過ぎるな。威勢だけよくても、心だけでは何も変わらん」
「確かに心は無力です。けれど、心を伝えようとする意志には力が宿る。私は私の敵から、それを学んだ」
主と過ごした半年、主と別れたひと夏。そこで受け取った熱を胸に。
不敵に笑い、コーティは金属の右腕を構えた。
「マティアス・ディ・ファールラフェッテ侯爵閣下。私の王への反逆行為を、悔い改めるつもりはありますか?」
「……残念だ。君を殺したくはなかった」
視線の先で、マティアスが悲しそうに殺意を向けていた。




