これから その4
2022/6/12 追記
扉絵を掲載しました(作:香音様)
ズキリと右腕が疼き、コーティは目を開けた。
ああもう、幻肢痛にはいい加減うんざりだ。眉根を寄せて不快感の塊に耐えながら、軋んだ体を動かして、コーティは真っ暗な部屋を見渡した。
意識がはっきりしてくるにつれて、痺れるような不快感もどんどん強まる。右腕だけじゃなく、体の節々までもが痛いのは、長い時間、ベッドの側板を背にしてうずくまったままだったからだろう。
いつの間にか眠ってしまったようだった。明かり一つ灯らない部屋は、まるで真っ黒なインクを零したみたい。
今は何時だろうか、それもよく分からない。
私、どうしてここにいるんだっけ?
ルイスが画策した≪白猫≫襲撃の真意。そして、その裏にあった敵の正体。
コーティが気付こうとしなかった真実を告げられたのは、まだ日が落ちる前だったはずだ。その現実感のなさと、けれど今という状況が押し付けるあまりの重さに耐えかねたコーティは、逃げるようにエルシアの元を後にしたのだ。
……そうか。私は性懲りもなく≪白猫≫の部屋に戻って来て、明かりもつけずに地べたに蹲っていたのか。挙句に、こんなところで寝ちゃったりして。
「……馬鹿みたい」
思い出すのは彼のこと。主の側で過ごした半年間のこと。≪白猫≫への復讐に狂うコーティが、侍女服を着て、彼のお付きとして澄ました顔をしていた日々の記憶。
あの頃、私はどうしていたっけ。毎日毎日、我儘王子の我儘に振り回されては、「仕方のない人ですね」なんて言って。よく呆れ顔を向けていたのだったか。
……仕方のない奴はどちらだ。そう詰ってやりたい。
人嫌いの王子が近づけた唯一の侍女。まことしやかにささやかれる噂に、夕食の場での同僚からの質問責めに、困った顔をしてみせながら内心まんざらもなかった自分。噂を鵜呑みにして、彼のことを理解できるのは自分だけだ、なんて心のどこかで思ったりして。
「……」
なんておめでたい奴だろう。思い返してみれば、顔を真っ赤にして頭をかかえたくなるような図々しさ。烏滸がましさに気付きもしなかった澄ました顔を、よくもまあ彼に向けられたものだ。
お前は彼のこと、何にも分かっていないのに。
お前は彼のこと、何にも分かろうとしなかったのに。
復讐以外は全て捨てた。そんな自分に酔っていた自分が、今では許せなかった。
もっと周りを見たらどうだ。お前の周囲には悪意が渦巻いていて、彼は必死に立ち向かっていたんだぞ。弱音を吐くことも許されず、我儘の仮面を被って、たった一人で。
それすら知ろうとしないで、こちらから歩み寄ろうともしないで。それなりに良好な主従関係を気付けていたなんて、勘違いも甚だしい。
「……私の馬鹿」
私、どうしてここにいるんだっけ?
決まっている。彼が庇ってくれたからだ。
≪白猫≫襲撃がもたらす混乱。彼が必要としていたのはそれだけのはずで、だから鉄砲玉となった駒の後始末なんて、本当は適当でも良かったはずなのに。それこそ、使い捨ててくれたらよかったのに。
けれど今、コーティはブランカにいる。罰せられることもなく、狙われることもなく、匿ってもらっている。
それもすべて、ルイスのお陰。
彼はコーティに害が及ばぬように、コーティを守る算段をつけてくれた。それどころか、成し遂げられなかった復讐にけじめをつけられるよう導いてくれた。だから今、コーティはここにいる。
「……ルイス様の、馬鹿」
ルイスの敵はどこまでも強大で、失脚しかけていた彼は対抗しきれなかったのだと聞いた。
何者かが引き起こした異国の大使暗殺。その濡れ衣を被せられて、ルイスは投獄されたのだという。
元々、≪白猫≫襲撃の罪で失脚しかけていた王子だ。二度目の醜聞となればもはや庇う方法もなく、今や城の牢獄≪六の塔≫に収監されているらしい。エルシアの推測では、ネルガン側はルイスの身柄を手に入れたいのではないかとのこと。
それもつきつめれば、すべてカーライル併合への圧力のため。
王都では食い止めようと動いている者もいるそうだが、途方もない戦力差と、開戦も辞さない強硬姿勢を前にしては成す術がないのだという。
「私には、関係ないと思ってた……」
よく考えれば、知るきっかけはいくらでもあったのだ。
例えば、一度目の王子への襲撃。コーティが腕を失った、あの冬の終わりの出来事。
あの時、ルイスが護衛もなく一人で歩いていた理由を、自分はどうして聞かなかったのだろう。ネルガンの特使との一対一での非公式会談に臨む道中にいたのだと。そんな話を聞いていたら、もっと何か警戒できていたのだろうに。
そして二度目の暗殺未遂。何者かの手引きで侵入した≪二十三番≫は、コーティの復讐心に気付いていた。あれのお陰で≪白猫≫襲撃の計画を前倒しすることになったのは確かだったが、どこから情報が漏れたのか、コーティは最後まで知らなかった。
……信じられるだろうか。内通者の正体に加えて、その裏にネルガン側の手引きがあったこと。ルイスはそこまでおおよその見当をつけていたらしい。それに感づいた敵が、ルイスを脅すために襲った。お前の寝首など簡単に搔けるのだとでも言いたげに。
別に襲撃だけじゃない。
彼がよく引っ張り出されていた会議は、ネルガンへの対抗策として期待されていた魔導船団の運用策定。その拡充のために本城再建の予算は凍結されたって、コーティだって聞いていたはずだ。西の大国との交渉が難航しているという話は、一使用人であるライラですら知っていた。叙勲式で話しかけられたネルガンの特使一行、ルイスの側仕えであるコーティのことをよく知っていた。
「ばか……」
その全てを見逃した結果がこれだ。
ルイスのお陰で、ようやく過去に整理をつけられて、そのことに心からの感謝を覚えて。ありがとうって、いつかそう伝えたいと、新しい願いを抱くことができたはずのコーティは。
結局今も、地べたに蹲って、動けない。
「もう、やだぁ……」
掠れた響きは、いつしか泣きじゃくる女の子の声に変わっていた。
膝と膝の間に顔をうずめて、恥も外聞もなく、えずきながら嗚咽を漏らす。自分の至らなさと罪悪感、己に対する失望に押しつぶされたままで。
得られたはずの何かを、全部自分で捨ててしまった大馬鹿者。守られ、導かれておきながら、この不甲斐なさ。宿敵の部屋の床にへたり込んで、両膝を立てて丸まって、このまま一生蹲っているのだろう。
だって、私はすべてをなくしたのだ。大切なものを、また、一つ残らず失くしたのだ。
かつて抱いた憧れも、復讐という生きる目的も、予期せず見出した忠誠心も。自慢の右手も、尊敬する教官も。そして、傍に居たいと願うことのできたはずの主人も。
もう、私には何も残っていない。本当に抜け殻になってしまった。何もない、何も、何も――。
「みゃー」
不意に。
げしと、後頭部を何かに踏みつけられた。背にしていたベッドの上から乗り移って来たのか、それは四本足で、順にコーティの頭に足跡を残す。両膝の間にうずめていたコーティの頭を踏み台にして、白い影が目の前の地面に降り立った。
「……何を、してるんですか。ミヤ」
「みゃー」
あまりの傍若無人さに、体中を満たす憤りが重なり、コーティは顔だけ上げて猫を睨んだ。
ミヤ。≪白猫≫の偽名と同じ響きを持つ、ギルドで飼っている白い猫。
どうしてこんなところにいるのだ。こんな夜更けに、人の頭を踏みつけるなんて。ケト・ハウゼンはこの猫と仲がいいらしいから、よく来るのだろうか。窓もドアも開けた覚えはないが、いずれにせよ躾がなっていないことは確かだ。
人の頭を踏んづけたことを気にも留めず、猫はトコトコと部屋を歩き回る。途中で何度か立ち止まっては、じっとこちらを見つめている。「なんでお前しかいないんだ」と、そんなことを言われているような気がするのは考え過ぎか。
「みゃー」
「……失せろ、今はお前の相手をしている気分じゃない」
猫に人の言葉は分からない。
だからなのか、苛立ちがそのまま表れたコーティの声も聞かず、ミヤはぴょんと小さな机の上に飛び乗った。
そこに置かれた小さな籠。猫はしばらくじっと見つめてから、ずれていた蓋の隙間から、あろうことかモソモソと入り込み始めた。
「ちょ、ちょっと!」
コーティは慌てて立ち上がった。
今の今まで動く気力すらなかったはずなのに。抜け殻の動作としてはあまりに素早いものだったが、この時ばかりはへたり込んでなんていられなかった。そのはずみで目元に溜まっていた涙がボロボロ頬を伝ったが、そんなことは重要じゃなかった。
なんてことしているんだこの猫。その中身がどれほど価値あるものか、知りもしないで。
どうやら居心地のいい姿勢を見つけようとしているらしい。モゾモゾ、モゾモゾ。籠が揺れ、カチャカチャと中で金属同士のぶつかる音も聞こえる。
「早く出ろ。本当に、お前って奴は……」
「むみゃー」
「なんなんですか。一人にしてほしいのに」
脇腹を持とうかとも思ったが、片手では難しいと諦める。代わりに猫の首根っこを左手でつまんで持ち上げた。
「フシャー」
「威嚇するな。お前が悪いんです」
とりあえず、でろんと伸びた猫を机の上にどかす。ミヤからの非難の視線を浴びながら、コーティはごしごしと目をこすった。
「ぐすっ……もうほっといてよ」
どうして猫は、こういう狭いところが好きなのだろう。
そのままだとすぐに猫が入り込みかねないので、一旦場所を変えることにする。中身の重さに苦労しながら、ベッドの上に籠を移動させる。ミヤはひとしきり鳴いた後で、入らせろと言わんばかりに一緒にくっついてきた。
「待て。待てってば……!」
「みゃー」
籠の中に手を突っ込んで、中身をベッドの上に出すことにする。箱の縁に前足を置いて眺めるミヤを押しとどめながら、コーティは中身を丁寧に取り出した。
一番上に入っているのは、二本指の義手。
掴む力の調整できない、けれど手によく馴染む、慣れ親しんだ鉄の腕。
これを貰った日のことを、コーティは決して忘れないだろう。服を脱がされて、とても怖かった。やがて、これが失った右手の代わりになるのだと気付いた時には、心の底から驚いたものだ。
そう言えば、あの時も自分は泣いてしまったんだっけ。そのせいでルイスをびっくりさせてしまったことも、ちゃんと覚えている。ほんの少し前のことが、今ではとても懐かしく、愛おしく、そして切ない。
「みゃ」
まだだと言っているだろう、このクソ猫。言葉にする気力はなく、コーティはずずっと鼻をすすった。
二つ目の義手は、原型をとどめていない。
破断した義手の基礎骨格と、その先に辛うじて繋がっている潰れた六本の銃身。≪鋼糸弦≫の糸は伸び切ったままで、義手の周りにぐるぐる巻かれている有様。外板はあちこちがべっこりとへこみ、リベットがところどころはじけ飛んでいる。魔導盾は完全に脱落してしまい、それ単体で見ればただの分厚い板だ。その端に磨かれていたはずの刃も、今は何か所も刃こぼれしていて、元の輝きを取り戻すことは二度とないだろう。
それは、コーティがケトに勝つための義手。
指すらもすべて省かれた、人の形を捨てる義手。存在すべてが武器で、敵を殺すことだけを目的とした腕。
――これ以上、コーティが戦わなくて済むのなら、こんな腕はない方がいいよ。
死闘の後、病室でそう呟いていた彼の声を、コーティはよく覚えている。その言葉の意味を、なんとなく理解し始めている自分がいる。
彼はこれをつくる時、どんな気持ちでいたのだろう。優しい人だ。指すらも捨てて戦いに駆り立てる腕なんて、必要に迫られなければつくるはずがない。きっと悩んだに違いない。罪悪感を抱いたに違いない。彼がそういう人だってことも、今のコーティにはよく分かる。
「ぐすっ……ほら。空きましたよ」
ミヤの視線を感じながら、コーティは三つ目の義手を持ち上げる。待ってましたと言わんばかりに滑り込んだ猫から意識を外し、コーティは手の中のそれに視線を落とした。
それはまだ、コーティが一度もつけたことのない義手。彼が最後にくれた贈り物。
五本指。人の手を模った、見慣れた輪郭の新しい腕だ。本来の腕より二回りは大きく、手に持てばずしりと重く、中には機構が所狭しと詰まっているのだと分かる。だから、五本全ての指と手首が魔法で動く、そのことも想像に難くない。
彼がこんなものを作ってくれていたなんて、コーティは全然知らなかった。それはまあ、最初の義手を貰った時に「いつか五本指を」と言ってくれたことは覚えているけれど。
≪白猫≫に対抗する武装義手への希望なら、コーティにしつこいほど聞いてきた癖に。五本指のこと、何にも言ってくれなかったじゃないか。
この義手をくれたという事実。
それだけで、彼が自分をただの駒として見なかったことくらい、分かってしまうのだ。
……こんな女、放っておいてくれればよかったのに。どこまで律義なのだろう。コーティのご主人様は。
ベッドの上にペタリとへたり込んだまま、左腕だけで義手を抱き寄せて、そっと頬ずりしてみた。泣いて火照った体には、ひんやりしていて心地よくて、もっと力を入れて抱きしめる。
右腕の負傷が治ったにもかかわらず義手をつけなかったのは、別に忘れていたからじゃない。
抜け殻になった自分に、技術の結晶である義腕を使う資格など、ありはしないと思ったからだ。コーティ・フェンダートという人間は、本来王子殿下から賜ったものを身につけられる類の人間ではないのだと、そう考えていたからだ。
「ルイス様」
名前を呼ぶたびに、切なさがばかりが募る。
「ルイス様、わたし、どうすればいいんですか……」
きっと、多分、おそらく。自分は、大丈夫……だと思う。
すべてを失くすのも、二度目でしょ? 私は失うことに慣れているの。ほら、石のように固まった心には覚えがある。二度と癒えることのない、心の傷に心当たりもある。
また一人ぼっちになっただけ。教官を亡くした時に味わった絶望が、もう一度やって来るだけ。何もかもを失った片腕女がどうなったところで、問題なんてありはしない。世界にも、この国にも、明日はちゃんとやってくる。
……まあ、世界がどうなろうと、この国がどうなろうと。
今も泣きじゃくったままのコーティは、二度と立ち直れないだろうけれど。
「……これから、なんて、クソくらえ!」
ふと、魔導盾の周囲に取り付けられた刃に視線を奪われた。
首元を一突き、いいかもしれない。人間の急所の位置はよく知っている。頸動脈を一気にスパッと、楽になれそうだ。
それは、決して悪くない考えに思えた。
今更この世界に未練なんてない。向こうには教官もいらっしゃる。あちらでまた会えたら、それは幸せなんじゃなかろうか。
「……」
でも、流石にこの場所で死ぬのは良くないかな。せっかく迎え入れてくれたエルシアに申し訳が立たないし、この部屋の持ち主であるケト・ハウゼンも迷惑するだろうし。
どこか人のいないところに行って、それからこの悪夢を終わりにしよう。きっと楽になれる。こんな酷い世界に居続けるより、ずっとマシだ。
ぐずぐず鼻を鳴らしながら、泣き腫らした目を左袖でごしごしこする。ちくしょう、自分には涙をぬぐう右手もないなんて。
自慢の手だったのに。褒めてもらいたくて、頑張った右腕だったのに。
死に場所を見つける。どうして今まで思いつかなかったんだろう。とりあえずこの涙をひっこめて、日が昇る前に町を出る。北へ向かって山に入って、そこで……。
大きく深呼吸しようとしたら、しゃっくりのように痙攣する息に邪魔されてしまった。酷いや、コーティはもう呼吸すら上手にできなくなっちゃった。
とにかく、見つからないうちにここを出よう。ノロノロと動いて、ベッドに手をつこうとして。
その拍子に、コーティはふと、腕の中の腕に気付いた。
「……」
この義手、どうしよう。
自分一人で逝ったとして、これはどう処理する?
ここに置いていこうかとも思ったが、なんだか抵抗があった。これはコーティがもらったものだ。最期まで一緒にいたい。じゃあ土に埋めて、その上で死のうか。でも、ルイスがせっかく作ってくれた魔法の腕なのに、もったいない。コーティのせいで一度も動かないまま、土に埋もれて錆びついていくなんて、彼にも腕にも申し訳が立たないや。
だって。
だってこれは、コーティの大切な――。
「あ……」
それは、最後の最後で気付いた、ちっぽけな発見だった。
「大切なもの、まだあった」
これは腕、コーティの右腕。
奪われたもの、なくしたもの、捨てたもの。そんなものに溢れたコーティが手に入れた、唯一手元に残っている、大切なもの。
これは腕、彼がつくってくれた宝物。
腕すらも失ったコーティに、もう一度、誰かの手を握る喜びを教えてくれたもの。目尻に溜まった涙が一粒落ちて、外板を伝っていく。そんな義手に、コーティはじいっと見入ってしまった。
なんだか義手が暖かいように思えた。きっとコーティの体温が伝って、じんわりと鉄の腕に熱を移しているのだ。
「ルイス様……」
この義手の製作者、その名前をもう一度呼んでみる。切ない気持ちばかりが先に立ち、慣れ親しんだ絶望が忍び寄ってくる。せっかく見つけた大切な人なのに、コーティはまたしても失って――。
「違う……」
違う。失ってない。だって彼はまだ生きている。牢獄に囚われて、審判の時を待っている。
「ルイス様」
これは腕。コーティの右腕。
こうやって抱きしめていてもいいけれど、一緒に死んでもいいけれど。そもそも、腕ってどうやって使うものだっけ?
「ルイス様」
腕ってとっても便利なものだ。
ものを書いたり、誰かに手を振ったり、フォークを持ったり、布巾を持って拭ったり。時には魔法に向かう先を教えたり、剣の柄を握って刃を振るったり。
それだけじゃない。腕って色んなことができるのだ。触れて、触って、掴んで、握って、コーティには想像もできないような、すごいこと、新しいことだって。
「……」
人はそれを指して力と呼ぶのではないのか。誰もが当たり前のように持つ、とてもとても便利な力ではないのか。
これは腕、自慢の右腕。
ならばこの腕は、コーティが手に入れた、何かを為すための力ではないのか。
――だって便利になったのよ? これまで以上に沢山のことができてしまうなら、それはつまり、使い方をちゃんと決めなくちゃいけないってことでしょう?
ブランカに来た時、エルシアにそんなことを言われた。あの時はよく分からないまま聞き流した言葉だったけれど、今ならその意味が、よく分かる。
ここにまだ腕があるというのなら。せめてこの腕の使い方くらい、自分は考えなくてはいけないんじゃないだろうか。それが力を持つ責任だ。一度も使わないなんて選択をしたら、コーティは本当にルイスに向ける顔がなくなってしまう。
――君が殿下と何を企んでいるかは知らないが、これだけは約束してもらいたい。……授けられた知恵と、これから教える力を、必ずや適切に振るうと。
城にいた頃、ルイスを守る近衛騎士に、そんなことを言われたことがある。
コーティはもう、半年前の自分と違う。知恵と力、そして悲しいことを悲しいと感じる心に、胸の痛みを表現する言葉。それはきっと、ルイスがいなかったら手に入れられなかったものだ。
――その時、主に対してどう接するのか。……諫めるのか、従うのか、それとも別の方法を考えるのか。選択一つで未来は変わります。大仰な言い方をしますが、主に近しい私たちの、存在意義を問われることになるかもしれません。
城の端、慰霊碑の前で、ヴァリーからもらった主と従者の心得。誇れる主に仕えられた幸運と、コーティの心を受け止めてくれたルイスへの感謝を、はじめてはっきりと自覚したあの時。
主の考えを厭う時、とあの時の侍女頭は例を出したけれど。それでは、こういう場合はどうだろう。
例えば、主が危機に陥っている時。
いつだったか。噴水の縁に並んで座って、コーティに向き合ってくれた彼が言う。
――曲げるな。お前がお前であろうとすること、それと向き合い続けろ。
もう一度だけ、問いかけてみる。
私、これからどうすればいいんだろう、と。
「わ、私……」
今はこんな、宿敵の部屋でみっともなくすすり泣くだけの抜け殻だとしても。あの愛おしい日々で得たものが、消えた訳じゃないから。胸の内を、こんなにも温めてくれるものだから。
「……負けたく、ないです、ルイス様」
コーティは知っている。今抱えている悲しみの果てにあるものを。すべてを諦め、自分の殻に閉じこもった未来を。
このままでは、それが間違いなくやって来る。ルイスが、悲しい結末を迎えることになる。
ルイスが守ろうとしたこの国が、蹂躙され、侵略され、消えてしまう、そんな未来がすぐそこに迫っている。
「……負けたくない」
それは、駄目だ。
コーティは知っている。残された者の辛さを。苦しみ続ける毎日を。笑顔を忘れた日々を。色褪せた空を見上げて、二度と戻らない幸福を思い浮かべる時間を。
何のために、自分がいるのか分からなくなる。それは、悲しいことだから。
「負けたくない」
もう十分に、悲しんだでしょう? もう十分に、嘆いたでしょう? それをまた、繰り返すの?
それは嫌。絶対に嫌。そんなことにはさせたくない。
「負けたくない……!」
ルイスと出会って始まった日々は、この義手だけじゃなくて、もっと沢山のものをくれたんじゃないのか。こんな理不尽に、負けないだけの力をくれたのではないのか?
反骨心というにはあまりに痛々しく、復讐心と呼ぶには向け先も分からない。そんな感情に翻弄されながら、けれど脳裏に彼の笑顔がよぎった瞬間、コーティは動いた。動かずにはいられなかった。
「う、うう、ううううあああああああ……ッ!」
意味もなく叫び、体を跳ね上げる。
途端に上がる視界、ビクリと体を震わせこちらを見る猫。いつのまにか明るさを増しはじめた外の色が、ベッドの上に散らばった金属に光を投げかける。涙越しの視界に、それはきらきらと乱反射して映り込む。
「ねえ、コーティ!」
体が重い。右手が重い。それでも、腹の底から湧き上がりはじめた熱が、留まる気配を見せてくれない。炎のようにこみ上げた灼熱を声に変えて、腹の底から怒鳴り散らした。
「お前は……私は、ほんとうに、このままで良いんですか!?」
ただそれだけの奇行で息を切らしながらも、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、コーティは後から後から噴き出てくる勢いに身を任せる。ぐつぐつと煮えたぎる血潮が、うねり、滾り、溢れ出し、やがてそれが自然と言葉を形作っていることに気付くのは、もう少し後のこと。
今はただひたすらに、呻きながら、喘ぎながら、じたばたと暴れるだけ。
「もうあんなのは嫌なんでしょう……!? どうなるか知ってる癖に、腑抜けてる場合じゃないでしょう……!?」
熱に浮かされたまま、コーティは何故か手を振り回す。
じたばた、じたばた、藻掻いて、藻掻いて、藻掻き続けて。
そこでようやくコーティは、五本指を右腕の先に嵌めようとしている自分がいることを知る。
「わ、私っ……」
義手が熱い。その熱が全身に広がって、コーティを焚きつける。
それはまるで金属の骨格のように、コーティという人間の真ん中に筋を通してくれたような気がした。
「私はぁ……っ!」
ねえ、ルイス様。私の王子様。
あなたが最後に授けてくれたこの熱を、私は一体何と呼べばいいのでしょう。
信頼とか、感謝とか、尊敬とか、忠誠とか。月並みな言葉はいくらでもあるけれど。それらが絡み合い、ごちゃごちゃに混ざったままの、濁流のような勢い。それを感じたのは、はじめてのこと。
こんな気持ちの呼び方は、不器用なコーティにはまだ分からない。
それでもこれは、人を前に進ませる熱なのだと、コーティの本能はちゃんと理解しているから。
右手の先で、五本の指がざわめく。
何度だって、聞くよ。
誰かの痛みを知る私。私の悲しみを抱えた私。
私は、これから、どうしたい?
「負けたくない!」
私は、この手で、何をしたい?
「負けられない!」
決して癒えぬ悲しみを、本当の意味で理解し、涙と共に喚き散らした後の、汗さえ冷たく感じるその瞬間。
開き直ったまっさらな心で、コーティは叫んだ。
「私はもう、負けられない!」
敵は何だ。それすらも言葉に表すのもこれからだけど。今は細かいことなんて気にならない。壁があるなら一つずつ片付けていけばいいだけ、膝を折る理由にはなりやしない。
だって負けられないのだ。私の王子に仇なす不届き者に。
だって負けられないのだ。繰り返されるはずの痛みに。
だって負けられないのだ。この世の悲しいことすべてに。
コーティは死ぬ気で体を動かした。ドクンドクンと唸りをあげる血潮が、それでいいよと背中を押してくれる。もっと前へ、もっと先へと、無我夢中で藻掻き続ける娘を突き動かす。
そうだ。負けを認めるのはまだ早い。
コーティはまだ生きていて。
これからと、この腕と、この熱があるのだから。
部屋に差し込む秋の朝日が、朝の支度と呼ぶにはあまりに無様な、それでいて意志に満ち溢れたコーティの姿を照らし出していた。顔は涙でぐしゃぐしゃで、ほつれた髪を振り乱した娘の奇行に驚いているのだろう、猫が目を丸くして逃げていった。
それでも、泣き腫らして真っ赤になった目に宿る、これまでになかった光は、どこまでも前を向いていて。
もう一度、やってみよう。
今度こそ、悲しみに負けないために。
*
新しい一日が始まろうとしていた。
北の町の片隅で、侍女コーティ・フェンダートは深々と朝の空気を吸う。
肩の後ろでは、緩く編まれたおさげが揺れていた。自分で挑戦するのははじめての髪型。失敗してはほどいて、上手くいかなくて編み直して。そんなことを何度も何度も繰り返した、努力の結晶だった。
ライラに作ってもらう髪型に比べれば、そこかしこに粗が目立つけれど。それでも、コーティははじめて、自分の両手で髪型を作り上げることができた。
路地裏に吹き抜ける風が、白と黒の侍女服を揺らす。
一着だけブランカに持ってきた侍女のお仕着せは、久しぶりに身に着けると、自然と気分を引き締めてくれる。腑抜けた自分に渇を入れてくれるような、揺らがぬ芯のような頼もしさが、背中を後押ししてくれるような気さえした。
教官との思い出から得た、やるせなさ。
王子との日々が宿らせてくれた、胸の奥の熱。
そのどちらにも恥ずかしくない自分でいたい。だったら背中なんて丸めている場合ではないのだ。侍女はしっかりと顔を上げて、背筋をしゃんと伸ばて、小ぢんまりした建屋の入り口の前に立つ。
ブランカの町の、冒険者ギルド。そのドアノブに手を伸ばせば。
カラン、コロン。ベルの音が、明るい音色を立てて迎えてくれた。
後ろ手に扉を閉じて、コーティは尋ね人の姿を探す。
朝もまだ早い時間だ。けれど既に、カーテンはタッセルで端にまとめられていた。少しだけ開けられた窓からは朝日が差し込んで、舞い散る埃がキラキラと輝く。とある少女が身長を刻んでいる立派な柱の隣では、まばらに張られた依頼書たちが受け手が来るのを静かに待っていた。
その先にあるカウンターを伺う。尋ね人の姿は、まだ、ない。
少し早すぎたのかもしれない。この場所が冒険者たちで賑わうのは、もう少し日が高くなってから。北のギルドの看板娘が定位置にやってくるのも、もうしばらく先のことだろう。
まるで、時間の流れが止まっているような、そんな場所で。
けれど、ここからもう一度動き出す。そんな決意を伝えに訪れた、そんな場所で。
「あ……」
「え……」
侍女は、その人を見つけた。
彼女は丸テーブルの一つを陣取って、じっとこちらを見つめる。
自分は戸口の前に立って、じっと向こうを見つめる。
滑らかな銀の髪。年齢からすると少しばかり低い身長……いや、前に見た時よりも背が伸びているかもしれない。そして、全てを視通す色を湛える瞳には、今ばかりは零れんばかりの驚きを乗せていて。
「コーティ・フェンダート……?」
「ケト・ハウゼン……?」
涙に暮れた夜の向こうで。
そうして腕一つを抱えた侍女は、逃げるしかなかった少女と出会った。




