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侍女は少女に負けられないっ!  作者: 有坂加紙
第七章 夜の向こうで会えたなら
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銃後の戦場 その5


 裏町の娼館が、にわかに騒がしくなった。

 もちろん、音も光も外には漏れないように、窓は分厚い布で覆ったままだ。間違っても怒鳴り声など上げることはないけれど、代わりに緊張した声が交わされる。


 部屋の扉という扉がどんどん外されていく。それらは入り口に集められ、即席の担架として積み上げられていた。今頃は、お店の女の子やセントー隊の人が、町の人や怪我人たちに作戦を説明していることだろう。


 応接室で、ケトは空になった魔導瓶を盥に浸した。そのまま引き上げて、たっぷりと満たされた瓶を見ながら、ケトは呟いた。


「……これで、どこまでやれるかな」

「使い古しの水だからねえ。一応綺麗そうなやつを選んだんだけど」

「フィリーさんも、魔法を使えるの?」

「はっ! 使えたら娼婦なぞ誰がやるかい!」


 娼館の女主人は目を細めた。ケトの姉とは違う意味で、自分がどう見られているのか理解している笑顔だった。

 コーティ・フェンダートの特徴的な黒髪は、ひょっとしたら父親譲りなのかもしれない。彼女の母親だという目の前の女性の髪は明るい色をしていて、失礼ながら驚いたものだ。けれどよく見ればその目尻やら口元やらがどうにも娘とそっくりで、そのことにさえ気付いてしまえば、コーティの母親がどんな人か気になるのも当然のことだった。


 不思議な人だと思う。この娼館に避難してきてまだ一日も経っていないのに、今や騎士も町の人も、フィリーさん、フィリーさん、と彼女を頼る。人の前に立つ才、そうとしか言いようのない力を持つ人物であると知り、それはやはりケトと異なる人の力と納得をしていた。

 露出の多いドレスから動きやすい普段着に着替えてなお醸し出される色気。それがこの人の武器なんだなと、それだけは確信できた。


「この仕事をしてると、客から面白いことを聞けたりする。魔法の話だってそうだ」


 娼婦、とは男の人と愛を育む仕事をする人を言うのだそうだ。いまいちピンとこないけれど、ケトだってもう、ちゅーで子供ができないことくらい知っているのだ。

 フィリー・フェンダートは娼館の主。昔は客を取っていたらしいが、今は店を経営する側。……そして、あのコーティ・フェンダートの産みの親。まさか、その人に助けられるなんてと、ケトはちらりと女主人の背中を伺う。


「浄水っていっても、お水をろ過するだけでいいんだけどね」

「それを知らない客に、高値で浄水を売りつける悪徳商人だったよ。そのガラス瓶も含めればとんでもない金額だったね。道理で羽振りがいい訳だ」

「うわあ……」

「この間、魔法がらみの税金が見直されたからねえ。あの人も今は商売あがったりだろうよ。いい気味さね」


 うへえとケトは呻きながら、三本目の瓶を水に浸した。この盥に入れてある水が濁って見えるのも当然で、何度も包帯を煮沸したお湯の残りだから。

 どうせ、ケトにとって魔導瓶は呼び水でしかない。海から離れなければそちらから大量に借りたほうが、大規模な魔法も使いやすいだろう。


 部屋の奥で戸棚を探っていたフィリーが、こちらに戻ってきた。


「これをもってお行きな」

「……時計、ですか?」

「あたしたちとの動きを合わせるのに必要だろう?」


 彼女の手にあるのは、古びた懐中時計だった。差し出された時計を受け取って、その蓋を開けてみる。盤面には、カーライルとも、ネルガンともまるで異なる文化の文字。画数が多い、流れるような形が特徴的だった。


「……外国の文字だ」

「昔、ある客からもらったものさ。……ここに戻ってこられるか分からないから、持ち出そうと思ったんだけどね。どうせなら、飾りのまま埃を被っているより、役に立った方がずっといい。……いいかい? ここの、てっぺんがゼロ、後の読み方は普通の時計と同じだ」

「大切なもの、なんですね」


 盤面の時刻を表すその文字はやはり理解できなかったけれど、十二に分かれたその盤面は、理解さえできれば読み解くのも簡単だった。


「ありがとう。次にマイロに来た時に、必ずお返しします」

「あたしにはもう過ぎた思い出さ。あんたにあげるよ」

「……でも」


 大切にしていたのではないのか、と見上げた少女に、フィリーは苦笑を浮かべてみせた。


「他に何もしてやれないあたしらの、せめてものお礼だ。本当はお金をあげようかとも思ったんだけどね。なんとなく、あんたはそういうのを喜ばないんじゃないかと思ってさ」

「……えっと、その、ありがとうございます」


 確かに、今のケトは幸運にもお金に困っていない。フィリーにはそれが筒抜けだったみたいで、そう言われてしまえば、返す言葉もなかった。

 ケトは上に飛び出た竜頭をつまんで回す。この時計になにがしかの思い入れがあることは、時計を見つめる彼女の視線で分かったものの、どうにも踏み込んで欲しくなさそうな雰囲気だ。ここで聞くのは野暮と言うものだろう。


 だから、散々迷った挙句に、少女は口を開いた。

 こんなことをしている場合じゃないとは分かっていたけれど、それでも同時に、聞けるのは今をのぞいて他にないような気がしたから。


「……コーティ」

「ん、なんか言ったかい?」


 時を刻み始めた懐中時計から目を離して、少女は女主人を見上げた。


「コルティナ・フェンダート。……フィリーさん、この名前に覚えはありますか?」


 この女性が悪い人ではないことを、ケトはもう知っている。怪我人をかかえて動けないケトたちを匿ってくれた人。命を救うために、場を貸し、手を貸し、財を投げ打ち尽力してくれた人。感謝だってしている。

 なぜ娘を捨てたのか、なんて理不尽な怒りをぶつけるだけの気力は、もうどこにもなかった。


 部屋に落ちた沈黙はあまりに深く、チクタクと規則正しく刻まれる針の音ばかりを聞く時間を過ごしてから、フィリーの落ち着いた答えに耳を澄ませる。


「……驚いたね。まさか、ケトちゃんからその名前を聞くとは思わなかったよ」

「……えっと、知り合いなんです。王都の方で会ったことがあって」


 少しだけ迷って、幾分ぼかした答えを返す。この町で過ごしたひと月の経験が、「襲われた」という言葉を封じていた。


「コルティナ……さんは教会で育ったと聞きました。わたしも、産んでくれた両親とは離れ離れなので……。その寂しさは分かるような気がしたから」

「……」

「……どうして、あの人を……」


 本当は問い詰めるつもりだった。死に別れた訳でもないのに子を手放す親なんて、ケトが一番嫌いな人種だ。碌でもないやつに決まっていると。

 けれど、今ここにいるケトは迷っている。こんなこと、本当に聞いてしまっていいのだろうか。騙すような聞き方をしたりして、匿ってくれた恩人相手なのに、と。


「理由なんて、大それたほどのものはないさ」

「え……?」


 娼館の女主人は、不思議な笑みを浮かべていた。

 つくった笑顔ではないのだと、一目で分かる顔だった。笑っているのに、泣いているような表情だった。


「……少し長い話になるけど、いいかい?」


 ケトは一つ頷いて、彼女が話し始めるのを待った。


「あたしがまだ客を取ってた頃の話さ。……娼婦にはいくつかの決まりごとがあってね。『恋をするのは辞める時。(よすが)なければ乞食のはじまり』……って子供に言っても分からないか」


 娼婦とは、男と愛を育む仕事。ケトにはそれがあまり良い響きに聞こえないのだけれど、そんな彼女の「恋」という響きは、全く違うように聞こえた。


 あたしは一人の男に恋をした。まるで吐息を漏らすかのように、彼女はそう言った。


「ある国の外交官のお付きでね。とにかく生真面目な人だったよ。……彼は仕事の付き合いでよく分からないまま連れて来られたらしくてね。あたしは向こうの言葉を知らないし、あの人はこっちの言葉を片言しか話せなかったから、最初はもう、話すのにそれは苦労したもんだ。彼は最初酒場に行くんだと聞かされていたみたいで、あたしが体に触れたら酷く驚いていたよ」


 女主人は何かを思い出すように目を閉じた。


「たった半年。その使節団がマイロに滞在した期間だ。彼はその間に随分と言葉がうまくなった。どこで聞いてきたのやら、口説き文句を仕入れてきては、この言い回しで合ってるかって聞いてきてね。あたしが頷くとそれはもう嬉しそうな顔をするもんだから、こっちまで嬉しくなったもんさ。……別に彼と何かあった訳じゃない。あの人がよくうちに来たのだって、上司にあたる人があたしの同僚に入れ込んじゃったってだけでさ、彼自身はずっと巻き込まれてたようなものだ」


 その声は、甘いと言うにはあまりに深かった。男への恋情の名残と、そんな自分を嘲る響き。その先に待つ現実を知り、飲み込んだ大人の声だった。


「変な人だったよ。抱かれる日もあれば、頼まれて本を読み聞かせるだけの日もあって」

「……」

「出航の前日。それまで妙な言い回しばっかり覚えて来たあの人は、突然あたしに時計をくれた。……そう、あんたに渡したそれさ。そんでもって『愛してる』って直球をぶつけて来た。まあ、この仕事をしていれば珍しくもない言葉だけどね……その時ばかりは駄目だったよ。最後の思い出のつもりで、馬鹿なあたしは箍を外した。せめて一度くらいって、彼には内緒で」


 龍の目で視た彼女の色は、まさしく一人の女の苦悩を表していて。ケトは息を詰めることしかできない。


「……堕ろせ、と何度も言われた。これでもあたしは当時の花形だったからね。そんな稼ぎ頭の醜聞……しかも父親は海の向こうで、腹の子の存在なんて知らないと来た。つわりも重いし、あたしが産むと意地を張る度に怒られたよ。……実際、産むときは地獄だった。一人で産んだよ、誰にも祝福されずに。もう疲れ切っちゃって、それでも必死に産湯につけて……用意したお湯が冷めててねえ、ごめんねえごめんねえって何度も謝ったよ」


 こちらを見た、母親の目。悲しい視線だった。この町で、他の人からも向けられたことのある色。彼女にとってのやるせなさに満ち溢れていた。


「『恋をするのは辞める時。(よすが)なければ乞食のはじまり』、あたしには他に選択肢なんてなかった。家の借金を片付ける算段はつけつつあったのに、仕事のできない時期に蓄えは食いつぶしちまって、それもおじゃん……。そんなんで乞食なんてできるもんじゃない、子持ちならなおさら。そう思って……。だからやっぱり、あたしは女を売り続けるしかなかった」


 一人の母親が持ちえる凄み。子のためを思う親の凄み。それはまるで波のように、ケトに打ち付けてくる。


「あの人の黒髪を受け継いだこの子に、狂おしいほど愛しいこの子に、どうか可能性をあげたい。このままあたしの手で育てたら、この子はあたしと同じ道しか歩めない。腐り切った男の欲望の捌け口にされて、自分もそれを利用するのが当然みたいな……こんな女にはなって欲しくない」

「……」

「だから教会に預けた。あの子が一歳になった日に」


 遠くを見ていた視線が、何も答えられないケト向く。こちらの存在を忘れていたのかもしれない。フィリーは何度か瞬きをしてから、少しだけはにかんでみせた。


「自分勝手だって、そう思うだろう? 実際その通りだ。あたしは頭の弱い、馬鹿な女だよ」

「……そんな、こと」

「もちろん、罰は受けると決めた。あたしはあの子に二度と会わない。どこでどうしているか、知る資格もない。今の立場に落ち着いてから、どこかで奇跡が起きて、あの子の糧になるかもしれないと思って、細々と教会に寄付はしていたけれどね。そんなもの罪滅ぼしにもなりゃしないさ」

「……」

「教会に預ける時に言ったよ。この子のことは好きなように呼んでくれと。あたしの手元を離れた時点で、コルティナという名にこだわらせるつもりはない。娼婦のフェンダートの名は捨ててくれて構わないって」


 確かに、彼女がコルティナと呼ばれることは少ない。それをケトはこの町で知った。

 かつて名前を奪われた少女。教会で育ち、枢機卿の手駒として≪百十四番≫目に使われた少女。そして今は……。

 名前すら宙に浮かんだまま、落ち着くことを拒まれている。そんな娘の顔を思い出し、ケトは気付けば口にしていた。


「……今は、コーティと。そう、呼ばれています」


 掠れた呟きは、親の授けた名前を愚弄するものだったはずだ。

 けれど、女主人はふうんと頷いただけ。切なさすらも残さず、ただ妖艶に微笑んでみせた。


「そりゃあ良い名前じゃないか」

「……」

「コルティナよりも、ずっと愛らしい響きだ」


 そんなことはない。そう思ったケトは、けれど何も言えない。口を出せることも何もなかった。


 それでも、腹は決まった。

 ここはかつての敵の町。悲しみを抱えて、藻掻き、迷い、そうしてつくり上げられた町。


 守りたい。心の底からそう思えるなら、今のケトには十分だった。


※次回は5/23(月)の更新になります。

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