銃後の戦場 その4
「……限界だな」
夜闇に紛れ、偵察から戻ってきたばかりのセントーは重い口を開いた。
「我々だけならともかく、負傷者が保たない。このままでは傷の重い者から死んでいくことになる。一刻も早く、きちんとした治療を受けられる場所に移さなくては……。重傷者を動かせなくなったらおしまいだ。助かる命も助けられないぞ」
きっと自分は今、酷くやつれた顔をしているのだろう。いや、なにもセントーだけではない。この部屋の誰もが浮かぬ顔をして、ありもしない解決策を探している。
「だけど、一体どこへ逃げるっていうんだい」
「とにかく町の外へ……。マイロ襲撃の報が王都に届けば、すぐに援軍が来るはずだ。それまで凌げる場所まで行ければ……」
眉をひそめたフィリー・フェンダートの言葉はこの場にいる全員の疑問を代弁していたし、セントーの答えもどこか力がない。
ネルガンの侵攻開始から、経過した時間は半日と少しが過ぎたあたり。王都にマイロ襲撃の報が伝わるには、あまりに時間が足りていない。そこから援軍を組織し、マイロに向かうまで一体どれだけかかることやら。
つまり、それまでは自分たちで何とかするしかないのだ。
襲撃を受けた直後、港湾警備隊は二か所に支援要請を送っていたらしい。
片方は最も近い騎士団の駐屯地、ここから半島沿いに少し下ったベルエール。かつて教会から接収した軍事施設をそのまま流用した形だったが、しかしどちらかと言えば今後運用が想定される海上戦力拡充のための拠点。つまり、通常の騎士隊がいる訳ではない。最低限、難民の避難場所として機能はしてくれるだろうが、所詮はそこまでだ。
もう一か所として選んだのは王都。援軍として来てもらう部隊はここから派遣してもらうしかない。だが、こちらは遠い。夜通し馬を走らせたとしても、伝令が知らせを届けるのは明日の昼以降になるだろう。もちろん、その後の準備もあるとなれば……。
いずれにせよ、まともな援軍が望めるのは最短で四日後。もしかしたらもっと長い期間、助けが来ることはない。口にはしなかったが、セントーはそう踏んでいた。
「さっきセントー隊長たちと偵察してきた感じだと、この裏町はもう、ネルガンの勢力圏内と見ていいはずだ。ただ、ちょっと変でさ」
ケトの隣で、マズそうに堅パンに歯を立てていたジェスが言う。彼はちゃっかり、無人の店から、包帯やら薬やら、挙句の果てには道端に捨てられていた剣まで持ち帰って来ていた。
肝が据わった少年だ、とセントーは内心舌を巻く。もっとも、それくらいでないと≪白猫≫の護衛は務まらないのかもしれないが。
そんなことを考えながら、セントーは説明の口を開く。
「敵は町の中心部を占拠した後、そこで進軍を止めたようだ。大きな通りはすべて押さえられているが、決して深入りしようとしない」
数回に渡って偵察した敵陣の様子を思い出してみた。
セントーとて異国の戦術など知る由もないが、戦に通じる者なら誰もが気付くであろう違和感を口にする。
「あれは侵攻じゃない。むしろ拠点防衛の布陣だ」
「そりゃまた、どういうことだい?」
「少なくとも、マイロの町全体は陥落していない。ここだってそうだ。周囲の主要な動線すべてに敵の兵がいるが、この裏町までは誰も進軍してこないだろう? その時点でおかしいんだ」
道に木柵を設置していた兵の様子を見て、セントーは隊の騎士たちと顔を見合わせたものだ。どうしてそんな、待ち受けるかのような陣の引き方をしているのだろう。上陸の足掛かりをつくるなら、町一つ押さえてしまった方が絶対にいいだろうに。
まるで、見せしめにされているみたいだ。口にはしなかったが、セントーはそう考えずにはいられない。
彼の元にだって、カーライルとネルガンとの交渉が決裂しつつあるという噂は伝わっていて、その果ての騒動ではないのかと勘ぐってしまうのだ。
「……つまり?」
「つまり、昼の襲撃はマイロ占拠を目的としたものじゃないってことだ。妙な均衡を作り上げて、戦線をわざと膠着させているように見て取れる。だがこの歪な状態がいつまで続くかも分からないし、それこそいつ進軍を再開するかも分からないんだ。……その前に、少しでも港から離れておくべきだと思う。現に少数であれば風見通りから北側へ抜けられることも確認できたしな」
その言葉に、リネットがバッと顔を上げた。
「なら、教会です! あそこは町の外れですし、大きな医務室があります。普段は町の診療所も兼ねているんで、下手なお医者様より設備は整っているはずです! そこまで行ければ……!」
「どうやって行くんだい?」
館中からかき集めた食料を確かめていた娼館の女主人が、リネットの言葉を遮った。
「いくら向こうさんの侵攻が止まったって言っても、今のあたしらは手負いもいいところさ。ここにいる半数弱が怪我人、自力で歩けない者だって多い。いくら向こうの兵隊がポンコツだとしても、周りの通りにはたくさんいるんだろう? なら武器を持った連中を相手に、この人数でこっそり移動なんてできっこないさね」
「その通りだな。……昼の襲撃で、敵は攻撃対象を絞らなかった。戦場が混乱していたこともあるが、あんな風に市民を巻き込む連中だ。怪我人だからって見逃してくれるような甘い相手だと思わない方がいい」
水筒を軽く傾け、軽く唇を湿らせたセントーは言う。本当は飲み干したいほど喉が渇いていたが、そうもいかない事情もある。
真水の残りが少ない。
表通りとの交差点の近所にある共同井戸まで向かうのも一苦労となれば、使うばかりで汲んでも来れない。水分としては娼館にある酒瓶が残ってはいるが、消毒代わりには出来ても、怪我人に飲ませれば毒にだってなりかねない。
とは言え季節は夏。じっと待っているだけで汗をかく季節。治水の整っているはずのこの国で、水不足に悩まされるなんて悪い冗談みたいだった。
「工夫が必要だな」
続けた声に、部屋中の視線がこちらを向く。
小隊長などという肩書はあるが、所詮自分は現場責任者程度の立場だ。これだけの人数を守り切れというのは明らかに荷が重い任務だが、泣き言は許されなかった。
「我々の隊で、風見通りに展開している敵に陽動をかける。その隙に、あなた方には怪我人を連れて逃げてもらいたい」
それぞれが思考を巡らせる数秒が流れた後、フィリーが確かめるように騎士の顔を伺った。
「……あんたの隊、全部で何人いるんだい?」
「三十人。うち七人戦死、五人重傷。戦えるのは十八名ってところだな」
部屋の空気が更に重くなる。半壊した小隊で一国の軍に対して行う陽動。それがどのようなものか、彼らの末路が想像できないような人間は、この場にいなかった。
「擬龍、とかいうのに目をつけられたらどうする。俺たちじゃ、銃でも魔法でも歯が立たないんだぜ……?」
「違うなジェス君。我々は目をつけられに行くんだ。我々だって地対空戦闘の基礎理論くらい構築している。≪白猫≫のお陰で、今の騎士団はそういう訓練も取り入れているからな」
強がりだった。
先程の戦闘を忘れた者なんて誰もいない。地に足つけた状態の擬龍一騎とっても、騎士との戦力差は歴然。それが何騎も飛ぶ空の元で、地上部隊ともやり合う。それが何を指すのか、分からないほど馬鹿じゃない。
視界の端に、フィリーが黙り込み、リネットが俯くのが映った。動かなければ怪我人が死に、動けば騎士が犠牲になる。そんな構図を理解したのだと分かり、セントーは知らず苦笑を漏らていることを自覚した。
彼らは何も言えないはずだ。ここでどんな答えを返したとしても、それはすべて盾となって死んでくれという意味にしかならない。そんなことを押し付けられる酷薄な人間ならば、怪我人など放置してとっくに逃げているはずで……。
「……敵のいる場所、それからみんなが逃げる道。全部教えて」
けれど、落ち着いた声が静寂を破った。
「……ケト?」
「陽動はわたしがやる」
驚きに目を見張ったセントーの向こう。ぎょっとした顔の少年に頷き返しながら、≪白猫≫がすっくと姿勢を正していた。
*
「……君はカーライルとは異なる意志で動く者だ」
「分かっています。わたしがわたしの意志でやるんです」
部屋の真ん中で、ケトはセントーを、そして周囲の大人の顔を順に見つめた。驚いたような顔をした騎士が、こちらに向けて一歩を踏み出す。
「聞け、ケト君。確かに君の申し出には感謝する。だが、仮に陽動に成功したとして、我々はその後の責任が負えなくなるんだ。……まだ若い君には理解しがたいことだろうが、君に救ってもらったとして、その後に我々は君を救えない。昼の応戦ならまだ緊急避難措置として言い訳がつくが、陽動は駄目だ。明確な意志を持ってこちらからネルガンに力を行使する以上、すべては君とネルガンの問題になる。君が全ての責を被るんだ」
「……それでも、人が死ぬのは嫌なの」
「気持ちは理解はする。だが、どうか早まった真似はしないでもらえないか。君が戦場に立つことによる影響は、計り知れないものになるかもしれない」
嫌なものは嫌。大人の理屈なんて分かりたくない。そう心が拒否する一方で、セントーの言葉を理解しようとする自分がいることにケトは気付いていた。
とかくこの世は複雑で、人と人の間で生きる以上、自分も無関係ではいられない。それを最近、自分は分かり始めてきたから。
「ケト様。私、先程お守りいただいたことには感謝しています。ですが、それでも言わせてください」
リネットがセントーの側から一歩を歩み出す。
「あなたが戦ってはいけない」
共感はできないけれど、無下にはできない重みを持っていた。
「あなたの力は人のそれを遥かに凌駕します。だからひょっとしたら、異国の軍隊相手でも善戦はできるかもしれない。ですがそれは、彼ら異国の人々に、私の持つ憎しみと同じ感情を抱かせるということ。彼らが意固地になれば、あなたとネルガンの間で戦争になり、その過程で戦火が広がることでしょう。……≪白猫≫を匿った町として、マイロは数日もしないうちに完全に滅ぼされることでしょう」
憎しみ。リネットはそう言う。
怨恨の色を宿した敵の兵士と、自分が戦争をすることになる。ケトにそんなつもりがなくとも、相手はそう受け取ってくれない。敵は敵、滅ぼせと。ただ力をぶつけてくる。
そんなつもりはない、そう答えようとして言葉に詰まった。ケトを諭す彼らは大人で、自分は我儘を言う子供。王都での襲撃以後に突き付けられた大人の屁理屈と、反抗を封じられている自分への不甲斐なさが、ケトを委縮させていた。
「……でも、このままじゃ」
結局、自分は駄目なのだ。こんなに力があったって、上手く使えず空回り。挙句の果てにどうにもできず、また大切なものには届かない。昔、シアおねえちゃんの背中に隠れて怯えていた頃から何も、何一つ変わってなんていないのだ。
守りたいのに守れないなんて。これだから自分は――。
「なあ、ケト」
鬱々とした思考を、暖かい手が止めた。
ケトの右手を握ったジェスが、顔を傾けてケトの瞳を覗き込む。いつもの仏頂面の中に、ふと柔らかい色を見て、ドキリと心臓が跳ねた。
「ケトは、どうしたい?」
「……え?」
「みんなの言うことは確かに正しいって思う。最近どうにも、馬鹿みたいな理屈でやりたいことができないことが多い。でもその一つ一つにちゃんと理由があって、場合によってはケトや俺を守ってくれている。そのことを、俺だって分かってるつもりだ」
でも、と続いた声は、声変わりを経て幾分低くなった、大人の男の落ち着きを感じさせた。
「それでも俺は、ケトも正しいと思う。複雑な事情ばかりを優先して、喜んだり悲しんだり、誰かを大切に思う心を見失ってばかりの人が多すぎてさ」
「……ジェス」
「俺だって、ずっとケトと同じものを見て来たんだ。できることならって……そう考えちまいたくなるし、自分の気持ちを押し殺して、そのことをずっと後悔するなんて、嫌だ」
彼が微笑む。
「俺、そんな風にはしたくない。だから、ケトがしたいことをできるように、俺がなんとかする」
「な、なんで……」
「最近、一人で抱え込みすぎなんだよ。少しは頼ってくれって、ケト」
驚きと、じんわり伝わる彼の優しさ。目元に熱がこみあげてきて、ケトは慌てて目を瞬いた。
泣きそうなのがバレちゃいそう。それはなんだか恥ずかしくて、でも、ジェスは変わらずジェスでいてくれているのだと安心を覚えた自分に戸惑って、無意識に握られた右手に力を込める。
「守りたいよ……」
「うん」
「わたし、守られてばっかりだから。ここは敵だけど、優しい町だから。わたしが昔、酷いことをしたんだって教えてくれたから」
「うん」
「でもね、わたしは頭が悪いから、守り方が分からないの」
彼の視線がケトの心をそっと撫でる感覚。それに促されて、縋るようにケトは言う。
こんなこと、彼に言ったって何にもならない。ちゃんと分かっているのに止まらなかった。ジェスを困らせるだけだと知っていてなお、言わずにはいられなかった。
「……よし。分かった」
周囲の大人たちが難しいことを考える中で、ジェスはいつだって努力している。剣の訓練も、魔法の訓練も、応急手当だって、そして正体の隠し方だってそうだ。
決して目立とうとはしないけれど。彼がいてくれなければ、ここにケトはいない。
「なんで、ジェスは……」
「ケトにはいつだって笑っていて欲しいから」
どうして。そんな少女の思考を読んだかのようかのような言葉に、目を丸くする。
どうしてジェスはそんな風に、何でもかっこよくできるんだろう。自然に、当たり前のことみたいにケトを守ってくれるんだろう。
ジェスはいつだって二歩も三歩も先を歩いていて、ケトは教えてもらってばっかり。そんな彼に、羨望を抱くのは当然で。
ケトはそれを改めて嚙みしめながら、それだけではない別種の熱がじんわりと体を温めるのを感じた。……胸が高鳴るのはどうして? ケトはまだ、それを言葉にできない。
ジェスがまっすぐに前を見つめる。大きく、吸って、吐いて。深呼吸を一つ。
「やりようはある」
「……ジェス君?」
「そう難しいことじゃない。大切なことが一つあります」
少女をずっと見守ってきた少年は、大人たちに向かって胸を張ってみせた。
「ケトは今、政治的に封殺されている。これをケトから崩さない限り、戦争にはならない」
「……何だと?」
政治的封殺。それは戦争を経た姉と国が作り上げた、互いに手を出せない均衡状態。でっちあげの言葉で、その実何が政治的で、何が封殺なのかよく分からない響き。
「建前をつくりましょう。大人たちがよくやるあれです。理由を……戦争にさせない理由をつくった上で、ケトにしかできないことをしてもらいます」
ケトの手を引いて、一歩前に出たジェス。幾度となく見つめて来た少年の横顔に、少女はしかし飽くことなく目を奪われ続けた。




