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侍女は少女に負けられないっ!  作者: 有坂加紙
第七章 夜の向こうで会えたなら
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銃後の戦場 その1


 剣を振るい、魔法を撃つだけが戦争じゃない。そんな現実をつきつけられるのは、ケトにとって二度目のことだった。


「消毒薬は!?」

「もうとっくに在庫切れさ、なんとかするしかないよ!」

「ちくしょう、無茶苦茶だ……!」

「せめてこいつをもってお行きな! 消毒ならこいつが使えるはずさね」


 部屋の外から漏れ聞こえる悲痛な声に、いくつもの呻き声が重なる。普段は甘い香を焚いているという娼館の中も、今ばかりは血の生臭さで溢れていた。

 慣れているつもりだった。これまでの、お世辞にも平穏とは言えない人生で、怪我人を見る機会はいくらでもあった。血を見たところで、触れたところで、体がすくむほど自分は柔じゃない。そのはずだった。


 ケトは盥の中の水を見下ろした。手を洗うために用意したその水も、今はもう赤く染まっている。これではいくら洗ったところで、独特のぬめりと匂いは消しようがないだろう。

 匂い。これが厄介だった。鼻腔にこびりつき慣れ始めているそれは、きっと死臭と呼べるもの。ケトにうすら寒さを感じさせる、それでも手を動かし続けるしかないもの。この悪夢が、紛れもなく現実であると否応なく突き付けるもの。


「準備できました!」

「分かった。……ちょっと痛むけど、耐えてね」


 リネットの声に頷きつつ、ケトは目の前の怪我人を見た。覚悟を決めろ。怯んでいる暇なんてない。


「……やってくれ」

「これを噛んでおいてください」


 広めのベッドに横たわるのは日に焼けた肌の男。聞けば船乗りだと言う。少し前にマイロへ戻って来て、次の出航に備えている中で、戦闘に巻き込まれたのだと。


 歯を食いしばりすぎて割らないようにと、リネットが布を幾重にも巻いたものを男へと差し出す。引き付った顔をした男が、諦めたように口に咥えるのを見届けて、ケトは震える手を伸ばした。

 ケトの手の平くらい大きさだろうか。金属片が右の大腿部に半分ほど埋もれている。どうやら先端が微妙に湾曲しているらしく、血にまみれた肉にがっちり食い込んでいるその端を、そっと掴んだ。


 布の下から漏れる濁った声がどんどん大きくなる。傷口からどんどん血が染み出して、洗ったばかりのケトの手を血に染めていく。


「頑張って……!」


 じたばた暴れる男の両足を押さえるリネットが必死の声を出した。少女の手の中でずるりと動いた金属片に神経を凝らし、少しずつ抜け始めたそれを、できる限り揺らさないように細心の注意を払った。


「ケト様!」

「もう少し……、もう少しだから……!」


 どうやら足の太い血管が傷ついているようだった。途中から一気に量を増した出血に肝を冷やしながら、ケトは一気に力を込める。

 苦悶の声。噴き出た血が、ケトのシャツとリネットの修道服を濡らす。抜き取った金属片を放り捨て、ケトはすかさず手をかざす。集中。浄水の残り少ない魔導瓶が光を放ち、熱が両手を温める。

 あまり体の深くをいじってはいけない。手を出していいのはあくまで表面だけ。これ以上余計な血を失わなければ、今はそれで構わない。少しずつ、だが目に見える速度で変質する傷口を見守る隣で、包帯を握ったリネットが緊張に息を揺らしていた。


「……お願い」

「はい」


 リネットが酒瓶を取り上げる。度数の強いそれは、本来娼館で大人たちが嗜むために準備されているものらしい。

 ケトはお酒を飲んだことがないけれど、酔っぱらった大人たちなら何度も見たことがある。自分がああなるのはなんだか嫌だなあ、なんて思っていたけれど、こういう時に消毒ができるというならそこまで悪い物でもなさそうだ。血を幾度も拭い、消毒を終えたリネットが包帯を巻き始めるのを見届けて、顔を土気色にした男は、力なく布切れから口を離した。


「気分はどうですか……? 寒かったり気持ち悪かったりしたら声をあげて」

「……最悪だよ」


 ぐったりと体を弛緩させた男が、しかし唇をかすかに動かす。どうやら笑いかけてくれたみたいだった。


「死ぬかと思った……。あんがとな、嬢ちゃん……」

「……いえ」


 ケトは首を横に振る。

 本来であれば、ケトが手を出すべきではない負傷だった。けれど医師はもちろんここにおらず、血が止まらぬこの傷ではおいそれと動かせない。挙句いつまでこの状況が続くか分からないというのなら、じわじわと続く出血で弱っていくのを見ている訳にはいかなかった。

 ついでに言えば、包帯を巻くのではなく縫合をすべき傷だとも分かっていたけれど、それもできない。ケトは布と布を縫い合わせるのは慣れているけれど、肉体に糸を通す技術なんて持っていないのだから。

 これで後遺症が残ったら……いや、十中八九、元のように脚は動かせないだろう。これはケトのせいだ。


 こちらも少しだけ笑顔を作ってみせてから、ケトは先程まで刺さっていた金属片を取り上げる。飾り窓の装飾部品の一部だろうか。あまり自信はないけれど、湾曲した曲面を見て思いつくのはそれくらいだった。


「嬢ちゃんはすげえなあ……。うちの新入りにも見せてやりたかった」

「新入りさん、ですか」


 怪我人の声は震えているけれど、思考ははっきりしているし、自分の状態も把握できている。大丈夫、この人は死なないはず。

 でも、そんな男の言葉が強がりだってことは分かっていた。現にぐったりとベッドに体を沈めた男は、酷く重い声を吐く。


「……ああ。入ったばかりの若手でな」


 男の声が震えた。


「今も、あの表通りにいるだろうよ」

「……そう、ですか」

「なんなんだ、あのクソトカゲ……。あいつようやく海に慣れて来たところだったんだぞ? うちのひよっこどもを何だと思ってやがる」


 戦闘のあった大通りから、全ての人を逃がすだけの時間はなかった。偵察した騎士の報告は残念ながら正確で、ケトたちがとにかく怪我人を担ぎ上げて裏通りに逃げ込む頃には、道の先にこちらへ進軍する兵士たちの姿すらも見ることができる程だったのだから。

 だから、亡くなった人は、今もまだあの石畳の上に伏しているはずだ。この男の人が言う、「ひよっこ」もまたその一人なのだろう。


 呻いた男にかけられる慰めなどあるはずもない。

 ここでは応急処置ができる人間すら貴重ともなれば、ずっと彼の側にいる訳にもいかず。様子を見に来てくれた娼館勤めの女性に後を任せて、ケトはリネットと部屋を出た。


     *


 娼館。それは男の人と女の人が一階の酒場で出会い、二階で一夜限りの愛を紡ぐ場所……もはやケトには何を言っているのかさっぱり分からないけれど。


 それでも、今この状況において言うのであれば。

 ここは、決して悪い逃げ場所じゃなかったのかもしれない。患者を寝かせるベッドはそれなり以上の質で、消毒のために使える酒瓶もまだ残っているのだから。


 ただし、そんな娼館に、今ばかりは愛の欠片も見えない。

 代わりに届くのは、悲痛な叫び。そして誰かの名前を呼ぶ、慟哭の声。


「……」


 ほら、また聞こえた。女の人の泣き声だ。誰かの名前を呼んでいる。

 ……ああ、ああ。この狭い廊下を歩く間に、また近くで誰かが死んだんだ。


「……ケト様」

「なあに、リネットさん」

「私たち、どうすればよかったんでしょう」


 あまりに頼りないリネットの声。それに答えられるほどの余裕は、ケトにもなかった。


「……分かるもんか」


 今はとにかく、一人でも多くの人の死を先延ばしにする。人を超えた力を持つはずの少女にしても、それが精一杯だった。


「誰か! 誰か来て! 誰か……!」

「近くです。どこの部屋でしょう、ケト様!」

「分かってる!」


 ケトは耳をそばだててから、狭苦しい通路を走り出した。


 ああ。このままじゃ、また誰かが命を落とす。


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