潮風には血の香混じりて その4
「ごめんなさい、教皇様、教皇様……。私がすぐ逃げなかったばっかりに……!」
「いいえリネット……。あなたのせいではありませんよ……」
か細い声の元にケトがたどり着くまで、酷く時間がかかったような気がした。
「リネットさんっ!」
「ケト様、ジェス様……」
たった一瞬のうちに、リネットのローブは血と埃にまみれていた。飛び込まんばかりの勢いで瓦礫の間にひざまずきながら、ケトはアキリーズの顔を覗き込む。
「……耄碌するといけませんなあ。もう少し若ければ、この程度のこと……」
「喋らないで……!」
歳の問題でなんとかなるような傷でないことは、一目見ただけで十分に分かる。血を含んだローブを持ち上げて、ケトは息を飲む。
「出血は足からが大半なんですが……でもその……」
「どうにも口中血の味がしましてな……」
リネットとてかつては教会の≪付番隊≫だ、戦場に必要な知識も一通り身についているはず。なのにどうして応急処置も施さず、なんて思ったケトが馬鹿だった。
「……」
みぞおちに明らかな変色。これは内臓だ、内臓がやられている。それなのに、アキリーズはおどけた口調でしゃべったりして……。傷の状況を理解したケトは、ローブをそっと戻した。現状ではどうにも手の施しようがなかった。
「どこか近くで、休めるところを探そう。手持ちの道具じゃ手を付けられない」
ジェスが呟き、ケトも頷いた。今から教会まで戻るなんて考えはない。どう見ても、アキリーズの体がそこまで保つとは思えなかった。
「リネットさんは、歩ける?」
力なく頷くリネット。彼女とておいそれと手を出せる傷ではないと分かっているのだろう。
そしてケトだって、全くの無知ではない。これは背負ったり抱えたりしていい状態でない。担架の代わりになるものが必要だった。扉が外せればそれでいい、瓦礫の中に何かないか。
「待ってて、すぐに……」
「そこの娘!」
後ろからかけられた鋭い声に振り向く。隣でジェスがアキリーズの足にあてがっていた布から手を離し、代わりに剣の柄に手を回す。
「これを使え」
二本の木の棒に、しっかりとした布が張られている道具。それは正しく担架と思えるもので、ケトは持ち主を見上げた。
「あ、ありがとう」
「いや、君がいなければ我々は全滅していた。助力に感謝する」
この国の紋章入りの鎧に身を包んだ男。
魔導小銃を追い紐で背負い、腰元にはロングソード。すぐに先程共に戦った騎士の一人だと分かった。彼はつかつかと歩み寄ってくると、ケトの隣に膝をついた。
「俺が足を持つ、君は肩を持ってくれ」
「は、はい」
上げた視線で、兜の外れた顔を見る。蜂蜜色の髪に、同じ蜂蜜色の瞳。どこかふわふわと柔らかい空気を感じさせる顔つきだったが、表情はどこまでも厳しい騎士のそれだった。
「セントー・バッフェだ」
「……わたしは」
今更隠す必要もない、ケトが名乗り返そうとしたものの、セントーと名乗った騎士はそれを片手で押しとどめた。
「話はあとにしよう。面倒なことは安全な場所で」
「はい。……アキリーズさん、良いですか?」
「ええ。……ひと思いにやってくれますかな……」
その返し方はなんか違う、と無理やり口角を上げて見せながら、両手に力を込める。教皇が呻く隣で、へたり込んだままのリネットにジェスが手を貸していた。
「港の詰め所に医務室がある、ここからなら一番近いはずだが……」
「セントー隊長!」
「どうだった」
向こうから鎧をカチャカチャ鳴らして駆け寄ってきた騎士。部下なのだろうか、セントーが向き合う。
「偵察どころじゃありません。我々もすぐに移動が必要です、敵の歩兵隊がすぐそこまで来てる!」
「まさか!? 警備本隊は、港湾の詰め所は?」
「不明です、そこまでたどり着けない。どの通りもネルガンの部隊が侵攻を始めているのと、港の上に、あれが……」
その言葉に揃って見上げた空。建物の屋根に邪魔されながらも、ケトはそこに、いくつもの影を見た。
「なんてこった……」
上空に垣間見える影は覚えのある形をしていて、それが何か分からないような馬鹿はこの場にいなかった。あれはいずれもネルガンの航空隊。すぐそこで倒れ伏している、擬龍とかいう化け物と同じ姿。
「四騎もか……!」
そのうちの一つが、向こうで眼下に向かって光を吐いた。光軸となって降り注ぐブレスの着弾地点は、建物の影に隠れて伺い知れない。けれど確かにズシンという地響きが聞こえて、その場にいる全員が身を固くした。
「セントー隊長、どうしますか……!? 怪我人が多すぎて、我々だけでは……!」
「だが放っておくわけにもいかんだろう……! ラッセ、隊を集めろ。無事な市民に協力してもらって、怪我人をとにかく町の北側へ移動させる。我々で時間を稼ぐぞ!」
焦りを隠せない声。隊長に従って視線を巡らせ、ケトは唇を噛んだ。彼の部下の面々と思しき騎士が、あちこちで負傷した町の人の手当てをしている。向こうでは、先程ジェスが引きずっていた騎士が、仲間から応急処置を受けているのも見えた。
……傷ついた人は、アキリーズだけでないのだ。ケトのすぐ近くにも、動けない人が、命を失った人たちが沢山いる。
信じられない。先程まで活気ある繁華街だったはずの場所が、今は阿鼻叫喚の地獄絵図を見せていた。そして、騎士から漏れ聞こえる話から、この悪夢が現実で、しかもどんどん状況が悪化していく様子すらも察することができる。
どうする。まだ襲ってくる奴らがいるなら、盾になって時間稼ぎくらいはしなければならない。そこまで考えをまとめたケトだったが、ふと感知した接近する人影に、警戒の目を向けた。
「あんたたち、こっちだよ!」
人影は騎士でも兵士でもなかった。この場にはあまりに不釣り合いな、露出の多い、薄手の服に身を包む女性。踵の高い靴を履いているにも関わらず、不安定な足場をものともせず近づいて来る。一体どこから現れたのだろう。横道は沢山あるから、どこかの路地からだろうか。
セントー隊長が、近づく女性に銃を向けた部下を押しとどめていた。
「あなたは?」
「あたしが誰かなんて重要かい? いいから怪我人を運びな! できるだけ多くね!」
言うなり彼女は近くでうずくまる男に手を貸す。怪我をした町の人の一人だった。それを見るや否や、セントーが声を張り上げた。
「総員集合だ! できる限り怪我人を背負え。敵が近いぞ、一時退避する!」
了解、と方々から声が響き、騎士たちが一斉に動き出す。
「行くぞ、ケト! ほら、リネットさんも担架持って!」
「君、力に自信はあるか? こちらのご老体を頼む」
「……は、はい」
あちこちで動き出す人々の声が上がる中、ケトはもう一度だけ港の上空を睨みつける。
地べたを這いずり回って悪戦苦闘する人間などには一瞥もくれず、擬龍たちは悠々と空を楽しんでいるように見えた。




