〘カエリカタ〙(後)
横断歩道を渡り、あの子と私はまた車通りの少ない道を進むことになった。この道は数多くの一軒家が軒を連ねているのだ。
私達はさきほどと変わって、静寂が多くなった。なるべく明るく楽しく話そうとしていたのが数分前であることが、自分でも疑わしく思えてくる。
「……ねえ、」
黙って歩くと早いらしく、道の中腹で再び信号待ちをしている時に、私は彼女に声をかけた。
「んう?」
隣に立って、私の左手を離さないように固く優しく握る彼女が、不機嫌そうに声を出した。
「いや、話すのが嫌なら」
「嫌じゃない」
彼女はきゅうっと、私の左手に絡みつくように力を込めて握った。まるで、私が離れないように守っているみたいだった。
「ただ、わたしにひとつ謝ってほしいの」
彼女は俯きがちに、夜の空気に混ざってしまいそうな小さな声で言った。
「謝る……」
私は左手を包む温もりに意識を傾けた。私が彼女に謝ること。
それは、――あなたを忘れていたこと?
「さっきは心臓が竦んだのだから」
彼女は泣きそうな声で、続けた。
「さっき……?」
いまだ呆然と呟く私に、彼女がぐいんと勢いよく振り向いた。
「さっきの横断歩道だよ!」
「ああ。あれか」
彼女の言いたいことが見えてきた。彼女はやっと分かったと、私に頬を膨らませてみせた。
「あんな所でぼーっとしちゃダメだよ。点滅してたし! こっちが青だからって、突っ込んでしまう車もいるんだよ!」
可愛いふくれっ面から、ガーッと小言の嵐が吹き荒れた。
待っていた信号機が青に変わり、彼女は膨れたまま渡っていく。私も自分の意思で足を動かす。
「うん、ごめんなさい」
横断歩道の白と黒の上を歩きながら、私は隣の彼女に謝った。彼女がちらりと私を横目に一瞥する。
「もうしないでよ?」
「……努力します」
「さっきの言葉の信用性が失われたよ〜」
私に呆れながらも、彼女がふふっと笑みをこぼした。白色の裾がふわりと広がり、彼女と私は横断歩道を渡り切る。そしてもう一度、信号機が変わるのを待つ。
「ねえ」
私は彼女に呼びかけた。
「なぁに? さーちゃん」
彼女の表情はもう不機嫌なものではなく、涼しい横顔が見えた。
「まだもうちょっと、手を繋いでいていい?」
私の提案に、彼女がふふんと澄ましたドヤ顔を浮かべる。
「もちろん! 付き合ってもらっているんだから、責任を持って一緒に帰らせてもらうよ」
彼女の頼りがいのある言葉に、私の頭の中にふと疑問が押し寄せた。
「それって、あなたの家に着いたら終了じゃない?」
私が家に帰る時はどうするのだろうか。しかし、彼女のドヤ顔は揺らがない。
「わたしが怒られるのを覚悟で、両親に送ってもらうよ」
「ドヤ顔する場面ではなくない?」
彼女の自慢げな表情が、途端にアホに見えてきた。彼女がそんなことないよ、と反論するも吹き出した。彼女の揺れるような笑い声に、私も頬が緩む。
そんなしょうもなくてくだらないことで笑いながら、私達は夜の気配が濃くなる道を進んでいった。
ここを曲がって少し行けばあの子の家に到着する、その距離まで私達は来ていた。
「久々だな、あなたの家」
懐かしい道路に、私はふとこぼした。彼女もそうだねと、頷いてくれる。
「一年振りかな」
「うん。それぐらいだね」
本当に懐かしい。たった一年しか経っていないのに。
たった一年しか経っていないのに、私は彼女のことを忘れてしまった。
「中学で仲良くなって、でも高校はバラバラになっちゃって」
彼女がしみじみと呟いた。
私の左手を包む彼女の右手の温もりが、棘のようにちくちくと心に刺さってくるようだった。彼女の白色の裾が歩くたびに揺れて、暗闇の中でちらちらと光っている。
「なかなか会えなくなったよね」
私がぽそりとこぼすと、彼女が仕方なさそうにだけど残念そうに微笑む。
「本当だよね。連絡は取れるけどさ」
そう言って彼女は、あはははと乾いた笑い声を上げる。
「ねえ」
私は左手に少しだけ力を込めた。
「うん? なぁに? さーちゃん」
隣を歩く彼女が器用にこちらを覗き込む。その無邪気で不思議そうな表情に、また心が痛みを訴えてくる。
なるべくその痛みを隠しながら、私は優しく口角を上げた。
「今でも、白い花は好き?」
私の唐突な質問に、彼女は目をぱちくりと開け閉じした。首を傾げる。
「急にどうしたの?」
「なんか気になっちゃった」
ごまかすように、だけど不自然にならないように、微笑みを崩さないように続けた。
「うーん、そうだね」
彼女は私の胸の内には気付かずに、純粋に私の質問の答えを考えている。左の人差し指を立てて、口元にとんとんとゆっくりと何度も当てる。
「好きだよ、ずっと」
左指の仕草が終わり、ワンピースの白色の裾が羽のようにゆるりとたなびく。
「ずっと、か」
なんだかとても、言葉の重みを生々しく感じた。彼女のずっとという言葉はまるで、私の心臓や肺あたりに突き刺さって溶けて全身に垂れ流れてくるみたいだった。
それでも私の足は前に前にと、彼女の家が建つところへと進んでしまう。
「あ」
私が重たい思考回路に沈んでいると、手を繋ぐ隣の彼女が声を漏らして立ち止まった。彼女はまっすぐに視線を上げている。それを追って顔を上げる。
「わたしの家だ」
私も見知っている二階建ての一軒家を、彼女は震える指で示した。
「あと少しだね、さーちゃん」
彼女がにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「うん。そう、だね……」
私はつっかえながら、彼女の言葉に頷いた。私の変な様子に、彼女は最初不思議そうに目をぱちぱちとさせた。だがすぐに何やら得心したように、一人でふむふむと頷く。
「さーちゃん」
彼女は私の名前を呼びながら、私の前にひょいと移り立った。
私はさぞかし不安そうな顔をしていたのだろう。彼女は今日一日の中で、とびっきりの優しくて楽しそうな笑顔を見せてくれた。さらに安心させるためか、左手だけでなく右手もそっと掬うように持ち上げられる。
「また、冒険しようね」
まっすぐに私を見つめて言ってくれるから、彼女の瞳の中に泣きそうな私の情けない顔がまざまざと映っていた。
「だから、泣かないで。ねえ」
なだめるように、彼女が微笑み続ける。私は『うん』とも『ムリ』とも言えなかった。
ただ、溢れそうになる涙を何度も何度もこらえて、何度も何度も飲み込むことしかできなかった。彼女は、私の内なる感情の整理を静かに待ってくれた。
「……そろそろ、歩ける?」
「……うん」
やっと彼女に返事ができた。
私は涙を必死に身体に抑え込み、激しく波打っていた感情を鎮めた。
彼女とはもう会えないだろうことにまた痛みを覚えていると、白い手が差し伸べられた。
「行こっか」
暗い夜道、ポツンと置かれた街灯の白熱灯の下、白いワンピースの裾を微かな風に乗せて立つ彼女は、到底生きているとは思えないほど幻想的だった。
「うん。待たせてごめんね」
私は冒険のタイムリミットの訪れを肌に感じながら、それでも悲しい顔にはしたくないとちぐはぐに笑って、彼女の柔らかな手を取った。
彼女の家まで、あとちょっと。
ーーーーー
ようやっと、あの子の家の玄関前に私達は立つことができた。
「着いたぁ」
彼女は万歳をして、疲労たっぷりの深いため息を吐き出した。無事到着できたことに安心できたのだろう。
「でも、ここからだよ」
私は、ここで彼女が玄関を開けて入ろうとしたらまた地下鉄に逆戻りする可能性があるのではないかと案じた。
彼女は私の心配をよそに、へらっと笑う。
「大丈夫、大丈夫」
一体、なんの根拠があってそう言えるのだろうか。そんな不安や焦りの反面、私も大丈夫そうな気がしてくるから不思議になる。
彼女の明るい言葉のおかげか、それとも――。
「じゃあ帰ろう、っと」
彼女は群青色のポシェットをさっと漁り、銀製の鍵を取り出した。そのまま玄関扉にすたすたと近付き、錠に差し込む。鍵はなんの抵抗もなく、すんなりと回った。
「さーちゃんもこっち来て」
彼女がこちらを振り向いて、手を振って私を招いた。私は数秒ためらってから、おそるおそる彼女の一歩後ろにまで近付く。
「それじゃ、オープン」
彼女は立派なドアノブを両の手で掴み、手前に引いた。家の中の明かりが夜闇に漏れ出し、私達を照らし出す。
「ねえ、さーちゃん」
家に入る直前、彼女が私に声をかけてきた。
「なに?」
彼女のほうを見ると、私を振り返ってはにかんでいた。
「今度、白い花を買ってよ。小さくて、かわいい花」
その儚げな表情に、私は涙を一筋だけ流した。雪解けのような自然さで、私の右目からこぼれていった。
「……分かっ、た」
それでも私は、笑おうと思って不格好ながらに笑ってみせる。
「絶対だよ?」
にっ、と目を細めてイタズラめいた笑みを残し、彼女は光の中に透けていった。
ーーーーー
彼女は、あの子は、一年前の六月二日に死んでしまった。事故だった。
彼女が私に言った、地下鉄から出ている家近くを通るバスを降りて、歩道側が青信号になってから横断歩道を渡っている時だった。赤信号を無視した乗用車がまっすぐに、彼女を真横からはねたそうだった。
私は母と一緒に彼女の葬儀に出席した。遺影はとても明るい笑顔で、彼女らしいなと思った。死に顔は見られなかった。相当、崩れてしまったらしい。花は葬儀前に、ご家族が詰めてしまったそうだ。白い花をたくさん、詰めたそうだ。
あの日、彼女と一緒に帰ったあの夜、私は一人で彼女のご家族と会った。一緒に帰ったはずの彼女は、空気のように綺麗さっぱりいなくなっていた。もしかしたら見えなくなっただけかもしれないけど。
私は頭のおかしい奴だと思われるかもしれなかったが、彼女のご家族に正直に直前までのことを話した。ご家族は優しく頷き、ただ「ありがとう」とお礼を言ってくださった。
夜も深まっていたのでご両親が送ると言ってくれたが、私は明るい大通りを帰るから大丈夫ですと、お気持ちだけを受け取り一人で帰った。
彼女との奇々怪々な再会を経て、数日後。彼女の一周忌の翌日に、私は彼女の家を訪問した。
白くて小さい、カスミソウの花束を携えて――。
おわり
*この物語はフィクションです。
*次話の更新日は未定です。のんびりとお待ちくださいませ。