〘カエリカタ〙(前)
「あのね。わたしと一緒に帰ってくれないかな?」
一年前と変わらない姿で、あの子は私の前に立っていた。
ーーーーー
高校三年生の初夏あたり。大体六月の初めあたりに、私はあの子と久々に再会した。高校の登下校に利用している、自宅から最寄りとなる駅の通り道にある公園で彼女は私を待っていた。
帰りの時間だったので、公園内は夕日に照らされていた。子どもたちの姿はもう見えず、公園の真ん中あたりにあるブランコの一つに、一つの人影がポツンと伸びていた。
私の気配に気付いたのか、ふいに人影は顔を上げた。
「さーちゃん!」
人影は公園のそばの道を歩いていた私に勢いよく駆けてきた。
「え。えあっ、うあっ?!」
突然の呼び声に私は立ち止まり、目の前から走り寄る人影を目に留め、その人影をあの子と認めてさらに驚いた。
あの子は驚き尽くす私の右腕にぎゅうっと掴まり、にへらと嬉しそうに笑った。その変わらない笑顔に、私は泣きそうなくらいホッとしてしまった。
「久し振りだね、さーちゃん」
会えて良かったー、と彼女は一安心したように息をついた。
「え、あ、うん、そうだ、ね」
私は彼女が突然現れた驚きと、彼女に再び会えた嬉しさ、彼女に会えた奇怪さで、感情がごちゃごちゃしてしまい、曖昧な頷きを返してしまった。
「最近はメールもできなかったから、本当に会えて良かった」
彼女は私のちょっとした様子のおかしさには気付かず、表情を再び強張らせると話を続けた。
「あのね、久々の再会でおかしなことを言うけどさ、わたしと一緒に帰ってくれないかな?」
「へ?」
まだ感情の混乱に惑わされているみたいで、うまく彼女の言葉を理解できなかったようだ。何かをお願いされているのは分かったが、一緒に帰ってほしいという迷子みたいなお願いをされたような……。
彼女は不服そうに顔をむくれさせる。
「子どもじみたお願いとは思うけど、わたしと一緒に帰ってほしいの」
「うんうん」
どうやら聞き間違いはしてないようだった。
「何があってそんなお願いをすることになったの?」
私の疑問に、彼女は顔をショボンと落ち込ませて答える。
「わたしね、いつも通りに帰ろうとしたの。地下鉄から出てるバスに乗れば、家近くに降りれるからさ。
だけど今日、バスを降りたら地下鉄の前に立っていたの。さっき後にした地下鉄にわたしは降りていたの。
ねえ、おかしいでしょう?」
彼女は同意を求めるように、困った顔を私にずいっと近付けた。私は片頬を爪先でぽりぽりと掻く。
「そのあともう一回、バスに乗って帰ったの?」
「うん。だけど、家近くのバス停に止まって降りようとしたけど、また地下鉄前に降りてたの!」
私は彼女の顔を見る。心底困ったような表情で、すがるように私を見つめ返す。
「それは、困った、ね」
私も別のことで現在進行形で戸惑っているが、彼女も帰れなくて困っているのは目に見えて分かった。
「それでね、さーちゃんならなんとかできるんじゃないかと思って」
彼女の私に対する期待値が謎だったが、頼られたのなら手助けしたい。
「私が一緒に帰ることで解決するかは分からないけど、いいよ」
「本当? ありがとう!」
不安そうだった彼女の顔がゆるゆると緩まって、安心したような笑みを浮かべた。
一年前と変わらない笑顔に、私の心はぎゅっと痛んだ。
ーーーーー
夕日色のオレンジに夜の藍色が混ざり始め、赤紫になってきた空の下、あの子と私は一緒に歩き始めた。
私は大きな通りの歩道に出ると、隣の彼女に話しかける。
「あのね、こっちの歩道橋から帰ってもいいかな?」
視界の右に架かる黄色の歩道橋を指差すと、彼女は異論なく頷いた。
「ゆっくりになるけど、いいかな?」
彼女は恥ずかしそうに言った。
「私も体力ないから、ゆっくりになるよ」
安心させるための嘘ではなく、事実なのが悲しいが、彼女はそれならいいと笑って歩道橋に向かって歩き出した。私も荷物を肩にかけ直してついていく。
「それにしても、頼ってくれたのは嬉しかったけど、他の人には助けを求めなかったの?」
ふとした疑問が浮かんだので、私は口にした。彼女が歩道橋の階段の一段目に片足を乗せる。
「うん。電話しようと思ったけど、こういう時に限って携帯電話忘れたんだよね」
彼女はアハハと、照れをごまかすように笑ってみせた。改めて彼女の衣装や小物を確認すると、とても身軽そうだった。白色の長丈長袖のワンピースに、群青色のこぢんまりとしたポシェットだけである。
「今日も学校、あったんだよね?」
あまりの荷物の無さに、私は思わず問うてしまう。彼女は歩道橋の階段の途中で立ち止まると、自身の装いを見回した。
「ああ。教科書やノートはロッカーに置いているからね。身軽に登校できるんだ」
「筆記用具は?」
「最低限のものはロッカーに置いてあるから大丈夫」
彼女は私に向けてピースサインを掲げると、風のように階段を上りきった。
「さーちゃんも! 行こ」
彼女を追って視線を上げると、歩道橋すぐそばの街灯の白熱灯の右上に赤みがかった黄色い月が見えた。
「さーちゃん?」
ぼんやりと月を眺めていたら、彼女が不思議そうに名前を呼んできた。
「今行くよ」
授業道具を詰めた重たい鞄を肩にかけ直し、私は階段を上っていく。
歩道橋の中盤は車道と平行の平らな道になるので、息を整えながらのんびりと歩ける。
「それとさ、よく私が電車使って登校してるって分かったよね」
「前にメールしてた時に教えてくれたよ」
白色のワンピースの裾をふわりふわりと踊らせながら、彼女は私に解説をしてくれた。
「そっか。それにしても、すごい偶然だよね。時間が少しでもズレていたら私達、すれ違っていたかもしれない」
私の想像話に、彼女はゾッとしたように頬を引きつらせ、白い姿を固まらせた。数秒ほど、解決策を思案するように彼女は歩道橋の汚れてきた地面を凝視する。
「そうなったら、警察に行くしかないね」
にこりと硬い笑みを浮かべ、彼女は言った。
「そうなる前に帰りたいのが心情か」
私はぽつりと呟いてから、ふとした疑問が脳裏で閃いた。
「そういえば、あなたのご両親は心配してないかしら?」
「あ」
下りの階段に差し掛かった私達は、そこで立ち止まって互いに顔を見合わせた。彼女の顔には、まずいの三文字がくっきりと浮かんでいた。
「……早く、帰らないと」
「……そう、だね」
彼女はふんわりと広がる長裾をものともせずに、階段を踊り場まで駆け下りた。
「ごめん、さーちゃん。だけどちょっと急がせて」
「うん、分かってるけど、足が」
運動をあまりしない体力なしの私の身体は、言うことを聞いてくれない。少々足をもつれさせながら下りると、彼女は一気に歩道橋の階段を下り終わった。
「おーい」
「くあっ」
遅れて、私も階段を下った。もう少しゆっくりと歩道橋を歩けると思っていただけに、予想よりも体力を奪われた気分になった。
「ごめん、さーちゃん」
彼女が申し訳なさそうに、眉を下げる。私は肩から鞄を下ろした。
「ごめん。ちょっとの間、持ってて」
「もちろん!」
彼女は私の鞄を持ち上げると、うっと短く呻いてからなんでもなさそうに笑った。だが、白袖の両腕がぷるぷるとしている。
「重いね。さーちゃんもしかして、」
「授業道具一式入ってる」
「全教科?!」
彼女は目を飛び出さん勢いで見開いて叫んだ。
「それはない。今日の授業に必要な教科だけ」
「そ、そうだよね」
彼女はほっとしたように頷いた。
「さあ、急いで帰ろう」
彼女とは反対に身軽になった私が呼びかけると、彼女は重たそうに返事をして歩き出した。
持ち方に悩んでいたようだが、鞄の底に両腕を差し入れて運ぶことにしたらしい。
ーーーーー
歩道橋を渡り、あの子と私はすぐに右に曲がった。暗い路地に入る。
「街灯、少ないね」
彼女が不安そうに、ぽつりとこぼした。だが、通い慣れた私には通常の光景である。
「ここらへん、変質者とかはいないから。田舎のありがたさだよね」
そう言って私は笑ったが、まだ彼女は不安そうである。
「そうだね」
首肯の言葉も弱々しい。
確かにこの路地の街灯は点々としか置かれていないが、遠くにあるその光に彼女の白色のワンピースが反射して、私としてはちょっと眩しいくらいだ。
空も夜の気配が強まって、赤紫から藍色に変わってきている。
「そういえば、私は電車で高校通っているけど、あなたは?」
「やだな、さーちゃん。さっきも言ったし、前にメールでも教えたよ。地下鉄だよ地下鉄」
彼女は夜の暗さに浮かび上がるように、少ない光源をもとに白く光っていた。重たい荷物を持っているせいか、呆れたように笑うその表情は儚げで、より幻想さを増している。
「そう、だね」
私は彼女が現状説明の時に、地下鉄のことを繰り返し話していたことを思い出し、頷いた。
確かに二年前の高校一年生の時に、彼女からもらったメールでそう書かれていたような気がしてきた。最近、彼女とのメールのやり取りを読み返していなかったから、忘れてしまっていたかもしれない。
「あ、ここにも公園あるんだ」
考え事をしながら歩いていると、彼女が突然話しかけてきた。
「え?」
「ほらここ。小さいけど」
彼女は塞がった両腕の代わりに、視線だけで右横の公園を指し示した。
すっかり暗闇に飲み込まれ、公園内の街灯がスポットライトのようにぽっかりと砂場と滑り台を照らしていた。
「ここで遊んだこと、ある?」
彼女が私の顔を覗き込みながら尋ねた。
「ん。まあ」
幼い頃の苦い思い出が甦り、その思い出から離れるように私はささっと公園前から歩き出した。彼女がおっと、と声を漏らしながらついてくる。
「ごめん。付き合ってもらってるのに、嫌なことに首を突っ込んで」
白い裾を萎む花びらのようにくしゃりと縮ませながら、彼女は私に謝る。しょぼしょぼとした歩き姿に、私は申し訳なくなってくる。
「大丈夫。そろそろ私の荷物も重くなってきたんじゃない?」
私は白い花に落ちる影を少しでも取り払おうと、明るい口調で冗談を言うような軽やかさで彼女に笑いかけた。
「うん、そうかも」
彼女も私に合わせて、笑ってくれた。一年前と変わらないはずの笑顔だが、やはり儚さが印象強い。
私はそんな思いは微塵も態度に出さずに、じゃあと言って前を指差した。街灯はこの路地とそう変わらない少なさだが、車の通りが格段に増える道路がある。
「あそこまで歩いたら私が持つよ。あなたのおかげで、だいぶ身体も休まったし」
「分かった。それまでわたしも頑張っちゃうよ」
よっと、と彼女は両腕に抱えている私の鞄を持ち直した。
ーーーーー
あの子と私は暗い路地を歩き抜き、さきほどよりは比較的車の通行量が増えた道に出た。
少ない街灯の下、白い光に照らされながら私達は荷物の受け渡しをした。
「うーん! すっごい軽い!」
白色のワンピースの裾を羽のように舞い上がらせながら、彼女は解き放たれたように軽々と跳ね回った。
「うーん、重いわやっぱり……」
再び自分の鞄を持った私は、改めてその重さに肩を落とした。せめてと、自分の肩をこれ以上落とさないために、私は肩にかけ直し前を向く。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
彼女はすっかり重たさなんてなかったかのように、元気に返事をしてくれた。
「でもさ、こう言っちゃなんだけど、私本当にお荷物になってない?」
「え?」
鼻歌混じりに歩き出そうとした彼女は、踏み出した格好でこちらを振り返った。
「だって急いでいるのに、私に合わせて歩いていたらますます遅くなるよ」
「確かに」
彼女は私の考えに同意を示すが、私が思っているよりはそこまで焦っていないらしい。
「まあ、怒られるのは私だけだし」
違う。楽天的なだけだった。
「私も遅くなると、両親に怒られるよ?」
「は!!」
彼女は少女漫画で昔よく見かけた、白目に顔面蒼白の驚き顔を見せてくれた。その表現方法に、古いなと心の中でツッコみつつ、私は変な格好で立ち止まる彼女を追い越して先を歩く。
「まあ、遅くなることはこの年になるとよくあることだし、連絡してないのが少しマズイけど」
「さーちゃん今すぐ連絡して!」
追いついた彼女は私の先に回ると、両肩をがしりと掴んで訴えてきた。その気迫迫る顔に、私は息を呑む。
「……分かった。すぐ電話する」
「うん、お願い」
彼女から解放された私は少し離れると、鞄から携帯電話を取り出して電話帳を起動する。『母』と表示されたページに記された電話番号を選択し、発信する。耳に当てるとすぐに母が出てくれた。
「あ、お母さん? 私だけど、ちょっと帰り遅くなりそうなの。……家で食べる。……うん、ありがと。じゃあ、あとで。……はーい」
母との電話が終わると同時に、分かりやすい合図と思って、腕で大きな丸をつくってみせる。彼女はほっとしたように表情を緩ませると、私に手招きをしてゆっくりと歩き出す。
私は早歩きで彼女の隣に並ぶ。
「ありがとう」
私がお礼を言うと、彼女はふるふると首を振った。
「わたしのほうだよ。付き合ってもらってありがとうと、ごめんね」
彼女は苦そうに笑った。私も首を振って、笑う。
「大丈夫だよ。夜に歩くのドキドキして楽しいし、あなたに会えたし……」
私は涙が目に溜まりそうになるのを抑えて、目を閉じて笑う。
「え。さーちゃん、もしかして淋しがり屋さん?」
彼女は意外そうに訊いた。意外も何も、私は淋しがり屋さんですよ。
「うん、そうだよ。意外だった?」
私はどうやら、久々の彼女との会話が楽しいらしい。少しおどけた響きをさせつつも、私は素直に答えて彼女に質問を返した。
彼女はうーんと悩みつつ、また首を振る。
「でも、みんな淋しがりだよね」
彼女のはにかみながらの回答に、私は少しためらいながら口を開く。
「……あなたも?」
「そりゃそうだよ。帰ろうと思ったら変な現象に巻き込まれて、淋しくてたまらないよ」
彼女は唇を尖らせて、ぶうぶうと不満そうに鳴いてみせた。
一瞬、彼女も気付いているのだろうかと私は思った。白色のワンピースが人間離れしたような光をまとい、彼女の笑顔が白く透き通るように見えてしまった。
不意に黙り込んだ私を、彼女が不思議そうに見つめる。私達の沈黙を車の走行音が埋めていく。
「……あ。あの横断歩道、渡るよね?」
ブォンという耳障りで聞き心地の良い音がいなくなると、彼女が代わりに埋めようと私に話しかけてくれた。歩きながら前を指差し、車道の青信号と横断歩道の赤信号が無機質に灯っている。
「うん、そうだね。渡らないと、あなたの家を通り過ぎて遠回りになるよ」
夜の忍び寄るような暗さと、私達の周りにある無機質さを払拭しようと、私は明るく言った。
「あの横断歩道を渡ったら、荷物また持つ?」
彼女の心配そうな顔が、ひょこりと隣から覗き込んでくる。
「大丈夫」
私が笑って答えて数歩で、横断歩道に到着した。ここは確かに車の通りは多いが、裏道であることは変わりないので信号機が交互に変わることはない。歩道側の信号機が押しボタン式になっているのだ。
「えい」
彼女は可愛らしい掛け声とともに、押しボタンの赤丸を指先で突いた。途端、車道の青信号が黄色に変わり、赤に止まる。歩道側の信号機が青になり、歩行者のマークも浮かびあがる。
「れっつらゴー」
風が可視化されたように、彼女の白いワンピースの裾がふわりと膨らんで揺れた。彼女はピアノの鍵盤を撫でるように、横断歩道の白と黒を渡る。街灯の白熱灯がスポットライトのように彼女を優しく照らし出し、神秘的な光景を切り抜いてくれた。
向こうの歩道に渡りきった彼女が振り向いて、私に声をかける。
「さーちゃん! 青信号点滅!」
「え? ああ」
重たい鞄も不思議と軽くなったように、私は駆け抜けた。私が彼女の隣に立つと同じく、歩道側の信号機に赤色が灯り、待ち人のマークが白く抜かれる。
「もう! さーちゃん、ぼんやりしすぎ! 轢かれたらどうするの?!」
「……ごめん」
まだぼんやりとする頭を振り絞って、私はその一言を捻り出した。
「もうわたし、さーちゃんが心配になってきたから、わたしが家に帰るまで手繋ごう!」
そう言い放って彼女は、私の返事なしに私の左手をきゅっと掴んだ。
「行こう!」
そう意気込んで、彼女はずんずんと歩き出した。私も引っ張られる形で、足を前に踏み出す。
左手を包む彼女の温もりに、私は必死で涙を目の奥に飲み込んだ。
つづく