the school in
一華は通帳を眺めて、今日が始まってから三度目の溜息をついた。
「ほんと、最悪」
苦々しげに呟いてみるが、一番その言葉をぶつけたい相手は未だ、学校に来ていない。
知り合いから頼まれた例のバイトを始めてから僅か二ヶ月、貯まったお金は7万円と少し。全然目標には届いていないが、また、教師に、しかも今度はより厳しい先生に見つかったらと思うと、同じことをやる気にはならない。
考えれば考えるほど、必然的にポケットに突っ込んだままの紙切れ、というよりその紙切れに書かれた電話番号に頼る以外の選択肢が無いように思えてくる。
「いや、無いわ・・・流石に」
「何が無いの?」
「うわっ・・・誰!?」
「ふふ、私」
やってきたのは見知った顔の少女だった。
生まれつきの、毛先に向かって黒から灰色へ変化していくグラデーションの鮮やかな髪を肩の辺りで揃えた、精緻な人形を思わせる顔立ちの美しい少女。
白瀬椿、一華の校内唯一と言ってもいい友人と呼べる人物だ。
「白瀬・・・何でここに?」
「こっちのセリフ、後五分で朝会始まるのに、何で一華は屋上なんかにいるの?」
「別に、どうせ今日もうちらの担任は遅刻だろうし、いいでしょ」
「あはは、確かに。でも、今日は滑り込みセーフかも」
椿が下の方を指差す。
どうやら、裏門駐車場に入ってきた一台の車を指しているようだった。
「白瀬、あいつの車種覚えてるの?」
「まあね」
「何故、自慢気に・・・」
「おーい、センセー!」
「うるさい」
椿が手を振ると、車から降りた男性教師、沢鷹夕陽も手を振り返す。
一華にとっては非常に面白くない事に、夕陽という男は生徒達からの人気が非常に高かった。
結局、2分ほど遅刻して朝会を始めた夕陽は必要最低限の連絡事項を伝えると、授業の準備をする為に教務室へ行った。
その後、一時間目の授業が始まるまでに呼び出しをされなかったという事は、どうやら、夕陽は本当に一華の事を報告しなかったらしい。
「そういえば、一華、本返すね。面白かったよ」
授業の準備をしていると、椿が貸していた本を持ってきた。
「あー、うん。続きはどうする?」
「借りようかな・・・あれ、次の持ってきてるの?」
「まあ」
「ふーん、一華ってそんな本好きだったっけ?」
「それなり以上にはね・・・白瀬は」
「ねえ、白瀬さん!こっち来て!」
椿を呼ぶのはクラスの女子だった。名前は覚えていないが、少なくとも一華は彼女の事が嫌いだし、恐らくは彼女もそうであるはずだ。
まあ、そもそもそうじゃない人間は殆ど居ないのだが。
「ん?ごめん、一華、後でね」
「うん」
椿が行ってしまった後は特にやることもない。授業が始まる直前にスマホを使う気にもならず、窓の外に視線をやった。
晴れていた空には、僅かに雲が増え始めていた。
授業が終わった頃には既に、外は土砂降りだった。終わりそうな梅雨の最後の足掻きとばかりに降り続ける雨は、暫く止む予定は無さそうだ。
下を見れば、一切予報に無かったゲリラ豪雨に、傘を忘れた多くの生徒達が鞄を頭に乗せて帰っていくのが見えた。
いつ止むのか分からない雨が上がるのを待つか、大勢の生徒達と共に走って帰るか。
一華が考えていると、誰かに肩を叩かれる。
そんな事をするのは、一人しかいない。
「何、白瀬」
「一華さ、暫く帰らないなら、私と一緒に部活行かない?2年になってから、一華は顔出していなかったし、部長も喜ぶと思う」
「・・・私」
用事がある、と。
いつも通りに言いかけて、昨日の夜に何の予約も取っていない事を思い出す。
「あー、分かった」
「本当?じゃ、すぐ行こう」
本ばかりが入った鞄を持ち上げる。
教室から出ると、既に多くの生徒達が去った廊下はやたらと雨の音がうるさい。
「凄い雨、今日帰れるかな?」
「最悪、濡れればいいんじゃない?」
「確かに、シャワーみたいでありかも」
「いや、それは引くけど・・・てか、白瀬は傘あるでしょ?」
「え、無いけど?」
「昨日、部室に傘忘れたとか言ってたじゃん」
「あ、そうだったっけ」
「忘れるの早すぎ・・・てか、三階から行くの?」
一華達の通う暮海高校は部活棟と教育棟とで建物が分かれている。そのせいで、最短で二年生の教室がある三階から、部活棟にまで行こうと思うと、棟間にかけられた渡り廊下を使う必要がある。
だが、今はその渡り廊下というのが問題だった。
「そういえば、屋根無いんだっけ?」
「まだ、ね。どうする?」
「下から行こう。態々、濡れるのもね」
遠回りをして部室に入ると、そこにはまだ部長しか居なかった。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「おつー・・・って、一華ちゃんじゃん!めっずらし〜」
「お久しぶりです。水月先輩」
そこに居たのは中学生、ともすれば小学生にもみえるような少女だった。
「水月、今年受験なのに良いの?」
椿が尋ねる。
「良いの、良いの。どうせ、この部活なんて大した事やってないし・・・最悪、ここで勉強すれば良いだけだしね」
「・・・最悪も何も、ここって勉学部じゃ無いんですか?」
「ふふ、甘いね、一華ちゃん!勉学とはそれ即ち、知識を得る事!つまり、高校の勉強なんて小さな事にこだわってはいけないんだよ!」
「はあ」
二人が座ると、水月が棚からいくつかのお菓子を取り出して小皿に取り分ける。彼女の私物が多く持ち込まれた室内は、もはや、彼女の自室と言っても差し支えない程だ。
「また、お菓子増えた?」
「おや、気付いてしまったようだね?椿ちゃん。これは、最近出た味噌ラーメン味のスナックで、こっちは枝豆風味のチョコ、どっちが食べたい?」
「うーん、チョコ食べてみたいな」
「・・・先輩は食べてみたんですか?それ」
「今日の朝買ってきたからまだだよ」
「白瀬、あれ絶対地雷だから、やめた方が良いって」
「え、そう?美味しそうだと思ったんだけど」
椿は瓶から取り出したチョコを口の中に放り込むと、顔をしかめた。
「畳みたいな味する・・・」
「だから言ったのに・・・先輩は食べないんですか?」
「んー、気が向いたらね」
水月の周りには彼女の好物である菓子が散乱している。四ヶ月ほど前に見た時より、その時から既に大量ではあったが、更にそのボリュームは増していた。
「それ食べないやつじゃないですか・・・賞味期限とか大丈夫なんですか?」
「え、そりゃあ大丈夫だよ。何しろ、ユウ君がいるしね」
「ユウ君?」
「あ、そっか!今年の四月からだから、一華ちゃんは知らないのか。ユウ君はね、待ち望んでいた、我が部の顧問だよ!」
「え、顧問いなかったんですか?」
入部して16ヶ月にしてようやく知った、衝撃の事実であった。
「・・・顧問ついてなかったってことは、うちの部って去年は非公認だったんですね」
「いやいや、顧問無しのお試し期間みたいな感じだっただけだよ。実際、許可はちゃんと取ってたしね」
そうじゃないと部室貰えないでしょ、と水月が締め括ると、丁度、誰かが扉をノックした。
「入ってもいいか?」
「おや、噂をすればってやつだね」
「あれ・・・この声」
何やら聴いた事のある声に一華が眉を潜める。
「どうぞ〜」
扉を開けて入ってきたのは案の定見知った顔だった。
「あれ?紅花もいるのか、珍しいな」
「どうも」
短く切りそろえた黒髪の下にあるそれなり以上に整った顔立ちに、180と少し程度の身長。
間違いなく、昨晩出会った沢鷹夕陽その人であった。
「珍しいも何も、ユウ君は一華ちゃんがいるとこ見た事無いでしょ」
「いや、去年見たよ。ほら、お前らが空いている部室を勝手に占拠した時、生活指導部の連中と一緒に来ただろ」
「あれ、そうだっけ?」
「お前・・・」
「来てたよ。先生は私達の担任だから呼び出されたって、愚痴ってた」
と、椿。
「あー、そういえばそんな事を言ってたような、言ってなかったような。よく覚えてたね?」
「まあね・・・それより、先生はどうしたの?」
「ん、ああ、そうだ忘れてた。雨がやばいから、お前ら今日はもう帰れ。てか、台風らしいな。ほれ」
夕陽のスマホを見ると、確かに台風が近づいて来ているのが分かる。
「本当だ・・・てことは、今より良くなる事は無さそうだね」
水月が外を見る。
一華も同じように見てみると、5メートル先すらも見通せない程の雨だった。もはや、滝と言ったほうが正しいかもしれない。
「ユウ君、車で送ってよ」
「いや、普通に嫌だよ。めんどいし」
「ええ!?じゃあ、君はこんなか弱い乙女三人を、豪雨の中、歩いて帰らせるというのかい!?」
「百歩譲って紅花と白瀬はそうかもしれんが、お前は違うだろ・・・ま、風邪引かれても困るし、6時まで待ってろ。他の先生が来たら、俺の名前出しとけ」
「ありがと〜、愛してる〜」
「俺もそれなりに愛してる〜。これ貰っていい?」
夕陽が手に取ったのは先程のチョコレートだった。そして、それを口に入れると、眉を潜めた。
「また、ゲテモノかよ・・・何これ、畳味?」
「枝豆味!」